2007年6月17日日曜日

必要不必要


 語学教育で、一番学習効果を上げられるのは、軍隊の学校だと言えるでしょうか。日本理解者として著名であるドナルド・キーンは、コロンビア大学の学生の時に、カリフォルニアにあった、アメリカ海軍の日本語学校に入学して、短期の徹底教育を受けます。この学校では、半年もたたないうちに、そこで学ぶ者全員が、きわめて難解だとされている日本語を話せるようになり、しかも日本語新聞を判読できるようになったそうです。

 そういえば、5年ほど前に、カリフォルニアのサン・ホゼに行きましたときに、まだ十代のアメリカの兵隊さんが、実に流暢な日本語を話していました。『どれくらい学んだの?』と聴きましたら、『軍の学校で半年学んでいます!』と言っていましたが、後ろを向いていたら、『日本人が話している!』と思わせるほどでした。軍隊内では、それだけの学習効果を挙げることが可能なことに驚かされたのです。

 アメリカ社会が、日本社会と全く違っていたのは、敵性語の捉え方でした。わが国は、野球用語の中にある米英語を使うことを禁じて、「ストライク」を『よし!』と言い換えてしまうほどに、米英語を嫌悪したようです。『剃刀の刃のようだった!』と評されるほどに鋭い頭脳明晰な人物でさえも、通訳者の声をレシーバーで聞いて、裁判に臨んでいたのが、印象的でした。ところが同じような戦時下で、アメリカは、戦後処理を考えたのでしょうか、徹底的な特訓を青年たちにさせて、日本語を教え込んだのです。

 中学に入った時に、英語の先生が気に喰わなかった生意気な私は、英語学習への関心を全くなくしてしまいました。それでも、試験の点数だけはよかったのですが、英語が身につかないままで終わってしまったのです。あの時から合計しますと、少なくとも8年間も学んだのに、英語理解の乏しさに、実にさびしいものを感じてならないのです。その上、私はアメリカ人ビジネスマンと、7年も一緒に働く機会がありました。それなのに下手なのです。彼があまりにも日本語が上手だったこともありますが。

 『中国では、4歳の子どもが英語を学んでいます!』と聞きます。若者の英語熱は非常に高く熱いものがあり、多くの青年たちが流暢に英語をしゃべるのを耳にします。好き嫌いの問題ではなく、「必要不必要の問題」からの学習なのです。駅前に英語塾なんて無いのにです。

 日本の学校では、あんなに時間をかけて来ましたし、小学校から英語教育をしようとする動きがあるのに、学校教育の学習効果が上がっていないわけです。結局は、ハングリーかどうかの違いのようですね。こちらのラジオ放送では、英語放送の時間が決まっていて、軽妙な語り口の英語を誰でも聞くことが出来ます。今、中国語を学んでいますが、なかなか進まない自分に、腹立たしい思いがしてならないのです。効果的な方法などありません。あるのは一歩一歩、一句一句の前進のみなのでしょう。

2007年6月8日金曜日

パチンコ


 25になる前まで、私はパチンコ屋によく出入りしました。あの玉が、釘とガラスとに触れながら落ちてくる音と、玉の出てくる金属音とに誘われたからです。田舎町の駅前にたった一軒のパチンコ屋があって、そこに出入りしては、落ちていた玉を拾ってやったのが始まりでした。小学生でした。

 その時以来、必ず、どこの店でも店内に流れていたのが、「軍艦マーチ」でした。あのリズムが、台の右下の穴の中に、左手の親指で玉を入れ、打って行くタイミングと共鳴し、共動していたのです。若かった私は、あのマーチを耳にして、愛国心が煽られているような錯覚に陥ったこともありました。

 もともと愛国少年の志に燃えていましたから、鉄砲を担いで出て行きたい気持ちにさせられてしまったのです。『行け行けドンドン!』のテンポでした。憲法に保障された平和な日本の巷間で、そんな気持ちにされたのですが、今日日は、改正されて行く「教育基本法」や「憲法改正論議」の中で、『行け行けドンドン!』の扇動的な動きが感じられてならないのです。もちろん「軍艦マーチ」は聞こえませんが、もうすぐすると、パチンコ屋からではなく、どこかなお街角から、大音響で聞こえてきたら聞こえてくるかも知れません。

 私たちの祖父や父の世代に、多くの青年たちが、鼓舞され、「愛国心」を作為的に注ぎ込まれて、戦場に駆り立てられたことを、歴史から知らされるのですが。

 その「愛国心」に訴えた国造りは危険です。もし正しい歴史観、正直に歴史の中にあった事実を認めて、そこにあった多くの過誤を認め、国として個人として心から反省した上に立つのでなければ、私たち日本人は、声高に『愛国心を!』と叫んではいけない民族なのではないでしょうか。『二度と誤らない様に!』と願って、平和憲法を、「天」から頂いたのですから。

 日の丸を振って、街角で千人針を、戦勝を祈願して、子や夫や父を戦地に見送った国民が、どんなに悲しい思いをしたかを知らない人たちが、今日日、愛国心を煽り立てているのです。生まれた国を愛する青年は、侵略した国の中にもいたのです。独りよがりの「愛国心」は、間違っています。愛国心と愛国心は、戦うのではなく、友好と協力で支え合い刺激し合って、それぞれの国の先祖伝来の風土と文化と歴史と習慣を尊び、それらの中に生きている父母や兄弟姉妹や親族や友人が、平和で安寧を保障されて生きて行くことが出来るように努めることこそが、国造りであり、交際協調に違いありません。

 ところで、今でもパチンコ屋では「軍艦マーチ」が流れているのでしょうか?

2007年6月4日月曜日

「ことば」


 NHKのラジオ第二放送で、日曜日の朝に「講演会」の内容が再放送されていて、よく聴きました。十人十色というのでしょうか、その興味は内容はともかく、話術の巧みさだけではないのです。その話者の来し方、在り方、生き様がどうであったかが、見えない分、何となく聴こえてしまうのが楽しみの1つでした。遠く離れている今、聴きたい番組の1つです。


 遠来の本と講演テープと会報が、友から届きました。こう言った彼の話の展開が好きなのです。知識を誇ろうとするのではない、読んできた本の数を誇るのでもない、余計なことを省いて、それで話の筋が一貫し、適用が上手で、結論がしっかりと導かれているのです。ちょっと声の音調が高いのは、若い日と変わらないのですが。

 また、書かれた本には、活字と活字、行と行の間に余韻が残されているのです。正直なのでしょうね、思想が高邁なのです。若い者たちにも老いた者にも、男にも女にも、教育のある者にも無い者にも、訴える思想があるのです。人の正直な生き方や考え方が紹介されています。共通の知人たちの事も触れられていて、知らなかったことが、『そうだったのか!』と読んで納得させられます。何よりも知識欲を駆り立ててくれるのがいいのです。

 中学の3年間担任だったK先生も、高校のN先生も、それぞれ社会科と英語科の教師でしたが、学級では、よく話しをしてくれました。ちょっと難しかったのですが、「大人」と認めて話しをしてくれたのです。『読んだらいい!』と本を紹介してくれたこともしばしばでした。『こうしたらいいじゃないか!』と、個人的に進言してくれたりもしました。『オジさんは・・・』と、N先生が、映画制作の裏話をしたことがあったのですが、『小津(安二郎)さんは・・』と言いたかったのです。だいぶ年をとられていたので発音がはっきりしなかったのですが、《慶応ボーイ》でした。

 若かった分、両先生の物の考え方の影響を受けたのですが、決定的に影響されたのは、母国語の違うアメリカ人のKさんでした。彼のもとに7年間いて、個人的に学ぶ機会が与えられたのです。ところが日本語が上手で、実に難しいことばを知っておられたのです。ですから、英語を学ぶ機会を逸してしまったのが、実に残念でたまらないのです。でも彼から、欧米的な思想の原点を、そして普遍的な考え方を、「ことば」の大切さを、「世界的古典」から学べたことは、素晴らしい年月だったと思い返して、感謝しています。日本精神に凝り固まった井の中の蛙然としていた私が、大海に泳ぎ出せるような願いを、心の中に培ってくださったことに、深い感謝を覚える六月、これまでの年月とは趣きの違った、天津での初夏であります。


2007年6月3日日曜日

「三つ撚りの糸は・・切れない!」


 私の好きな格言は、『一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ご馳走と争いに満ちた家に勝る。』と言うものです。そこには、小さな感謝の積み上げがありますし、平和を希求する意識が満ちています。奢侈贅沢を嫌っていますし、競争社会の問題点を突いているのです。

 嫌いなのは、『生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ。』と言う言葉です。これは、格言とは言えないかも知れませんが、天皇の兵士が守るようにと訓示された「戦陣訓」の一節です。時の陸軍大臣東条英機が、中国を侵略した兵士たちによる、中国の婦女への陵辱や物品の盗みが横行する中で、帝国軍人の有り方をまとめ上げた道徳訓示であったのです。「破戒」で有名な島崎藤村が中心になって作ったと言われています。そこには体裁とか、建前とかが表に出ていて、『生きたい!』と言う他の国の人々の人間本来の切なる願いを認めていないのです。生命軽視が溢れていますから、他者の命の重さを認めることが出来ないので、平気で人を殺してしまうことができたわけです。

 人の生き方に大きな影響を与えるものの1つは、「ことば」です。人は「ことば」に出会って発奮し、方向が与えられ、どう生きて行くべきかの導きを得ます。39歳の時に大きな手術をしました。『死ぬかもしれない!』と思った私は、妻と4人の子に宛てて、初めての遺書を記したのです。子どもたちに、『もしお父さんが亡くなったら・・』と言って、「三つ撚りの糸は簡単に切れない」と言う、親爺の日記帳からの引用の「ことば」を書き残しました。これは、毛利元就が三人の子に託した「三本の矢」のたとえ話が酷似しているのですが、『お父さんがいなくなっても、お母さんを助けて、4人で仲良く助け合って生きて行って欲しい!』と勧めたのです。彼らは、一本多いので、より協力の度合いが堅固になるのですが、長男が小学校6年生、一番下の次男が3歳だったのです。

 ところが、死ぬこともなく、生き延びて、一人一人が自立して行く様を見ることの出来た今、もう遺書を残す必要も無いと思いますが、この「ブログ」で、『みんなの父親は、どんな考えや生き方をして来て、どこに向かって生き、ゴールをどこに定めているたのか?』を書き残したいのであります。彼らも、それぞれに「ことば」と出会い、その「ことば」を語った人の思想と人格とに触れ、励まされ、または叱責されて生きて行くのでしょう。

 地味でいい、有名にならなくてもいい、審判の場に立つときに、『よくやった!』とほめられる生き方が出来るために、火で精錬され試された本物の「ことば」と出会って、その励ましで生きて欲しいだけであります。

2007年6月1日金曜日

昔日のような友情を培って行きたい!


 学校に行く時に、時々下駄で行ったことがあります。ただの下駄ではなく、高下駄でした。弟が少林寺拳法をするバンカラの学生でしたので、彼のを借りては穿いていたのです。新宿の地下道に響いていたあの『カラン、コロン!』という音がなんとも言えなく気持ちよく、背がだいぶ高くなった気分もして、爽快だったのを思い出します。でもそんな私を見て、奇妙に思われた方が『ケタケタ』と笑っていたに違いありません。

 横浜の港から、「赤い靴」を履いて、異人さんに連れて行ってもらった女の子の歌は有名ですが、「下駄」を履いて、玄界灘を渡って、中国に来た物があります。日本の文化や製品や影響力のことです。こちらでも「カラオケ」が流行っているそうで、週末には友達と行くと知人が言われています。「アニメ(漫画)」も子どもたちは大好きなのだそうです。私たちを教えてくれている一人の先生は、子どもの頃に、「一休さん」が大好きで、内容を暗記してしまうほどに観たことがあるそうです。

 今日日、中国のみなさんの日本人と日本製品に対する関心はずいぶんと高いように感じます。聞くところによりますと、女優の中野良子と元歌手の山口百恵、俳優の高倉健は、映画で紹介されて、熱烈なフアン層を作ったそうで、いまだに人気があると言われています。

 時々、街の中で、高級車の中に日本車を見ることがあります。また中国国産のように言われていますが、先日、上海南駅-杭州駅(171キロ)、上海駅-南京駅(303キロ)間に開業した、どちらかの「中国新幹線」には、日本の技術が導入されているのです。

 また、こちらに参りまして、中国の食材を買って調理して食べ、時には外食をして来たのですが、食べ物の調理法は別として、『ア、これと同じ物を日本で食べたことがある!』という物に、よくめぐり合います。今日の昼に、笹の葉に包まれたもち米とあんこの食べ物を、蒸かしてもらって食べたのですが、それは、幼い日に母の故郷から送られて来た「ちまき」に瓜二つでした。まさに日本の食の原点は、ここ中国にあることを疑う余地はありません。味が違うのですが、ほとんど同じだと言えます。米作や野菜作りの種も、ほとんどは朝鮮半島を経由して日本にやって来たものです。味付けは、気候の違いによって変わってしまったのでしょうけど、日本では売られなくなったような物を見つけて懐かしく感じたりしています。長女が来た時に、古文化街に行ったとき、「綿アメ」が、露天で売っていて、彼女が家内に買って上げていました。

 地理的にも文化的にも、また人類学的にも、その距離の近さは、まさに至近であります。その距離を全く遠くしてしてしまった、過去の過失を埋めて、その至近の距離を回復して、昔日のような友情を培って行きたいものです。そんなことを思っていますと、外から物売りの通る声が響いて聞こえて参りました。
(写真は、新華社撮影の「中国新幹線」です)

2007年5月31日木曜日

大海原を越えて


 玄界灘を越えて来るものがあります。昔は「遣唐使船」や「遣隋使船」ですが、この船は、大和朝廷からの親書を、献上品に添えて携えて来たのです。もしかしたら、いえきっと長安の都に学ぶ留学生たちへの家族からの手紙や、お母さんや愛妻や子からの日常用品などもあったに違いありません。

 「北国の春」と言う歌の歌詞の中に、都会に出た息子に、ふるさとの母親から送られた小包の一節がありますが、私たちにも、友人や弟や義妹や子どもたちから「小包」が、時々送られてきます。その中身を見て、一人一人の気持ちと思いとが、手にとるように、よく分かります。特に、4人の子供たちの贈り物の中身を見ると、4人四様の思いが込められていて実に興味深いものがあります。既婚者は既婚者のように、独身者は独身者のように、男の子は男の子のように、女の子は女の子のようにしてです。また、一人一人の性格が豊かに現わされているのには驚かされるのです。

 そういえば、留学中の子どもたちに、お金を振り込んだ記憶はあるのですが、あまり小包を送った覚えが無いのです。とくに、ポートランドの近くに、納豆でもやきんぴらごぼうでも、ほとんどの日本食材や製品を売る「宇和島屋」という店がありましたから、いつでも行く事ができて、日本よりも安く買えると思ったので、そんな理由から、小包の高い郵送料を考えてしまって、送らなったのだと思うのです。今、逆の立場になってみて、送られてくる小包が、こんなに心をときめかせて嬉しい物だと言う事が分かりましたので、『もっと送って上げればよかった!』と思うことしきりです。いえ、こう言って、みなさんに小包の催促をしているのではないのでご心配なさらないでください。

 昨年の9月に、天津の「伊勢丹」が、新装開店しました。この地下に食料品売り場がありまして、刺身とかこんにゃくとか納豆とか、ほとんどの物の品揃えがしてあります。ただ、とても高いのです。先日、どうしても招いた友人に、豚カツを揚げようとして、ソースを買ってきたのですが、1瓶51元でした。日本円に換算すると800円ほどになるでしょうか。日本で売っている物の5倍はするでしょうか。学校の食堂で、うどんを食べると3元もしませんから、驚きの値段です。でも、『美味しいです!』と喜んで食べてくれたので、値段には代えられないと思った次第です。

 私は、25の時に、天来の「贈り物(小包)」を受け取りました。まだ無くならないで、心の中で暖められております。思い出だけで残されているのではない、この「贈り物」を、ぜひ、中国の朋友のみなさんにも分けて上げたい思いで一杯なのであります。
(写真は、「玄界灘」、HP「acoustic touring」からです) 
 

冷たい水のような消息


 海を渡って行くのが、渡り鳥や黄砂ですが、海を渡ってくるものもあります。「うわさ」です。私の父の日記帳には、「遠い国からの良い消息は、疲れた人への冷たい水のようだ。」とあります。愛する家族や懐かしく親しかった友の「良い消息」を聞くと、喜びが心を満たしてくれます。『娘が生まれました!』、『孫ができました!』とか言ってきてくださると、どんなに喜びで満たされているだろうかと思って、こちらも喜ぶことが出来ます。それらが励みや鼓舞となるのは感謝なことです。それはまるで、灼熱の太陽の下で渇いた旅人が、オアシスのこんこんと湧き出る泉に口をして、渇きが癒されるかのようです。

 また、「その人は悪い知らせを恐れず、○に信頼して、その心は揺るがない。」と、父の日記帳にあります。これは「悲しい知らせ」や「辛いニュース」のことでもあるのでしょうか。ご自分や姪御さんが、『病気になりました!』と、心を開いて知らせてくださるのです。その日記帳の中に、「河の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は、諸国の民をいやした」とあります。病と対峙して、全く平常心で生活をしていることを知って、その強さにかえって励まされます。祝福を願うばかりです。『愛する母を亡くしました!』と言う知らせもあります。心からの同情を覚えるのみです。

 悲喜こもごも、私たちの人生には、願うことも願わないことも起こりえます。何が起こっても、すべてを知られるお方の許しの中に起こるのです。良い知らせを聞いたら共に喜び、悲しい知らせを聞いたら共に嘆き、涙を流し、慰めたり励ましたりさせていただきたいのです。

 また、聞くべきでない「うわさ」を耳にしたら、耳をふさいだらいいのです。そう噂する方の心を思って、分かってあげたらいいのです。耳が2つあるのは、聞いた耳の反対側から、放り出したらいいように造られているに違いありません。

 ある人が故郷の荒廃を耳にしました。「美の極み」と言われた故郷の現実に涙した彼は、切々として故郷に思いを馳せたのです。それは城壁や建物が崩れ落ちただけではなく、人々の心の荒廃の酷さを知らされたのです。彼には分かっていました。それで彼は「故郷の罪」を自らの罪として告白して、「赦し」を懇願したのです。

 「故郷は遠くにありて思うもの」と室生犀星が詠みましたが、21世紀の私は、海を隔てた故郷の知らせを、インターネットのニュースやメールで知らされています。その荒廃は驚愕の至りです。社会が病んでいるというよりは、人の心が病んでしまっているのでしょうか。癒され治るのでしょうか。

 故郷や愛する家族や友や友人や知人の「喜び」と「悲しみ」の知らせに耳して、私はただ、切に恩恵を願うのみであります。故郷の初夏の空を思い出しながら。

2007年5月28日月曜日

『日本よ、男よ、松岡よ!』


 日本では、山本勘助や竹中半兵衛、中国では諸葛孔明、このような人たちは、忠実に仕えた、いわば「名参謀」として名を成した人たちです。《次席(ナンバー2》に甘んじて、彼らはその時代を駆け抜けて生き、その生来の力量を発揮して、主君に仕えたわけです。

 こういった超級的な秀逸な人材を参謀、内閣の一員、「メンター(物心両面にわたる支援者)」として持つことが出来たのですから、信玄や秀吉や蜀の国は、どれほど力強かった事でしょうか。イスラエル民族の中に、そう言った序列に入れることの出来る名脇役がいました。彼の進言を聞いた者が、こう言ったと記録されています。『当時、彼の進言する助言は、人が神のことばを伺って得ることばのようであった。彼の助言はみな、王にも王の息子にもそのように思われた。』ほどだったのです。

 中央政府で活躍する彼こそは、郷土の誇りだったに違いありません。ところが彼は郷里に帰って、家を整理して、あっけなく自死してしまったのです。その理由は、「自分の(進言した)はかりごとが行なわれないのを見て」だったとあります。神童の誉れ高く幼少期を過ごし、大人になっても、遺憾なく能力を発揮した誇り高い彼の名誉心が、いまだかつて味わったことが無い拒絶によって傷つけられてしまったのです。窮地に立たされた時に、彼にも「メンター」が必要だったのです。完全無欠の人間などいないからです。人の強さは、弱さの裏返しなのですから、脆弱で、ひ弱な欠陥部分を、人は誰もが併せ持つているのです。

 彼は、神のことばのような助言を与える事が出来ても、自分の人生上の問題に対して、助言してくれ、叱責してくれる《友》を持たなかったことが原因だったのでしょう。そう言った友が故郷にいなかったと言うのは致命的なことでした。もしかすると人の助言など聞くことの出来る謙りが無かったからなのでしょうか。正直に自分の弱さを隠さずに認め、恥を晒してでも、人は生きなければなりません。

 『男よ、恥を友として、生き恥をかきながら、生き抜いて、何時かきっと、その恥を漱げ!』、これこそ、限りある人の生きるべき道なのです。生きていたら、何時か、恥な経験を逆手にとって、起死回生、誉れを得ることだって出来る道がいありません。

 『死に急ぐな!』と言いたいのです。『日本よ、男よ、松岡よ、なぜ、生きる義務を放棄し、死んでしまったのだ。生き恥をかいてでも、どうして、しぶとく生きなかったのだ!勘助や半兵衛や孔明がいなくとも、お前の最善の友、「メンター」である妻や息子や娘に、なぜ心を明かさなかったのだ!死んだって恥を漱げないのに、生きて恥を漱ぐべきだったのに!』
(写真は、2006年秋に撮影した天津郊外の農村の「男性」です)

2007年5月26日土曜日

出藍の誉れ


 春の風に、木々の葉が表になったり裏返ったり、薄い緑と濃い緑が交互して踊っています。文房具屋さんでは、春になると、緑の絵の具の需要が増えていき、売れ筋の絵の具の緑色が徐々に濃差を増して行くのだそうです。私と20才違いで、誕生日を同じくする、私を励まして優しい声とまなざしを向け続けてくれたアメリカ人の方が、『緑は、天に向かってほめたたえる賛歌の色なのです!』と言われたことがあります。

 そういえば、風が揺らす緑の葉は、天に向かって、ザワザワでしょうか、サワサワでしょうか、歌を歌っているように聴こえるかのようです。また、風に揺れる様々な緑色の葉は、まるで天に向かって、両手を挙げて感謝しているように見えてなりません。

 家を出て、住居棟郡の中を抜けると、紫金山路につながる西園道の並木道に出ます。冬の間、枯れていた木々に芽が出たと思ったら、瞬く間に葉を出して、葉が幾重にも重なるほどの勢いを増して大きくなっていっていくのが分かります。
 
 中学の国語の時間に、お寺の坊さんで一級上の学級担任の先生が、「出藍の誉れ」と言うことばを教えてくれました。中国の戦国時代末の思想家(紀元前四世紀末)、趙に生まれ、斉の襄王に仕えた荀子が、「青は藍より出でて、藍よりもなお青し(『青出于蓝而胜于蓝』)」と言ったことばです。藍色の染料から、青い布が染め出されるのですが、その白布を染めた青は、元の藍よりもさらに青く鮮やかなのだそうです。
 
 そう教えてくれたS先生が、ちょうど相撲の番付に書くような、また寄席にある噺家の名を書くような、曲がりくねった字を書いていた私に、『剛、こんな字を書いてると出世しないぞ!』と言って注意してくれたのです。ひねくれた性格が直らないと同時進行に、字のひねくれも直らないで、今日になってしまいました。この先生の予言のことば(?)のように、出世もしませんでしたが。

 私に7年間生きる道を説いて教えてくれた師も、アフリカに行く途中に、時々訪ねて来ては、『何をするかではなく、どういった心の態度で生きるかが大切なのだ!』と、諭すように教えてくれたくれたちょっと斜視な方も、すでに召されてしまいました。彼らの藍色は、黄色がかった青い私よりも、数段青いままで召されて逝くきました。日本に来なければ、大リーグの野球選手になっていたり、大実業家になっていたのでしょうか、彼らも出世しないで人生の幕を下ろしたのです。私も彼らを超える「出藍」などありえませんので、彼らに倣って残りを生きて行きたいと願っているところです。
 
 実った稲穂の黄金色の黄色ならいいのですが、まだ未熟で黄色い私に、彼らの鮮明な「青」を加えると、「緑」が出来上がるに違いありません。彼らの教えを反芻しながら、初夏の風に揺れる木々の葉のように、天に向かって手を上げて生きて行きたいと願う、38度の酷暑の日の夕べであります。
(写真は、「緑の地球ネットワーク(GEN)」が緑化運動を推し進める中国・山西省のもの) 

「万里の長城」


 現代の科学技術の進歩は、宇宙衛星に搭載したカメラが、地表を鮮明に撮影した映像を、宇宙空間から送ってくることが出来るようになっています。「Google Earth」というサイトがインターネットにあります。時々、子どもたちの生活圏の辺りを眺めては、『元気に暮らしているのかな!』と感謝することが出来ますし、生まれた村や、住んだことのある町や村を見ては、思い出に浸ることもあります。

 間宮林蔵が12年の才月をかけて徒歩で日本中を歩いて、「日本全図」を作成したのですが、その絵図が、どれだけ正確であったかを、この衛星写真が立証してくれたわけです。聞くところによりますと、自動車のナンバー・プレートでさえも読み取ることも出来るほどの精密さを持っていると言われていますから、親爺の財布からくすねたお金を、埋めたあの場所さえも見つけ出されてしまうことになります。うかうかしてはいられない時代になったものです。

 平和のために利用されるなら素晴らしいのですが、軍事目的のために使われたり、犯罪のために用いられますと、個人の秘匿権を侵されることにもなりかねないわけで、これまた、うかうかしてはいられないことになります。

 10年ほど前に中国を訪ねました時に、一日観光がありまして、北京の「万里の長城」に行ったことがあります。衛星が映し出す世界遺産の1つであります。険しい階段を上って、兵士たちが歩いた長城の上を、私も歩いてみたのですが、息切れがするほどでした。そこを歩みながら、現代の土木建築家が、正当な賃金を払って作ったとしたら、どれほどの人件費を負担しなければならないだろうかと思ったりしてみたのですが。1時間1000円の日給として、1日8時間、人数と日数を計算し日数をかけてみますと、天文学的な数字の人件費になるのに驚かされたのです。資産家のビル・ゲイツでさえも無理で、あの始皇帝にしか出来なかった事業だったことになります。

 さて私は、自分の「心の城壁」のことを、このところ考えさせられるのです。目や耳に、はしごをかかけては、「魂の敵」が隙を狙って入り込んできますし、また様々にして負った傷が心にあって、そこを足がかりにして、様々な誘惑者が、心の城壁をよじ登ってくるのです。石や鉄で、高くて堅固な城壁を築き上げたり、兵隊を雇って寝ずの番をしてもらっても、優秀な弾頭ミサイルを買い入れてもだめです。
 
 必要なのは、「高い志」や「高尚な心」、罪や汚れを憎む「決意」が、心の防備のためにはどうしても必要に違いないのです。そのためには、過去の心の傷が修復されることです。治った傷跡が、足がかりにならないように、無くなる必要があります。

 私の親爺の日記帳に、「求你叫我转眼不看虚假,又叫我在你的道中生活。」とありました。「むなしいものを見ないように私の目をそらせ、あなたの道に私を生かしてください。」、そう自分で決断し、願い求めること、これこそが心の防衛の秘訣に違いありません。
(写真は、中国政府刊行の「えはがき」です)

2007年5月23日水曜日

悪戯小僧の襟首


 小学校の担任に、襟をつかまれて、教室の外に出された事が、何度もありました。いたずらの度が過ぎたからです。廊下や校長室に立たされて、人の目に晒されると言うのはいやなものでした。それが、たび重なるに連れ、恥ずかしさはどこかに飛んで消えてしまい、立たされながら、次のいたずらを考えていました。してはいけない事を繰り返すと言うのは、それが習慣化されて、罪意識が薄れて無感覚になるからなのでしょう。

 ある方がこう言いました。『私は、自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっている・・・本当にみじめな人間です。』とです。実に私の体験談を言い当てているようです。それで、この方に共感してやまないのです。彼は、石川五右衛門やアル・カポネのような極悪犯罪者ではなく、自分の心の思いや動機でさえも、内省して正しく生きようとしていた人でしたが。

 あるとき、愛媛県のある町に一人の方を訪ねました。母と同じ年に生まれた方で、彼の書かれた本を読んで、大変感動した私は、上の二人の子を連れて表敬訪問したのです。泊めていただいて、夜更けまでお話をさせていただきました。この方が、『私は、この年になっても、女性を犯そうとしてやまない思いに駆られるのです!』と言われたのです。彼は、血気盛んな30代や40代ではなく、70に近い方でした。実に柔和で、弱い人たちのお世話をされ、病人を良く見舞っておられたのです。そんな彼が、人には見えない心の内を、若い私に語ってくれたのです。

 それを聞いた時に、1つの話を思い出しました。退職間近かな校長先生が、ある店で万引きをして、警察に捕まりました。教え子からは尊敬され、退職金ももらえ、恩給もつくのに、なんて事をしたのでしょうか、一瞬にして、すべてが水泡に帰してしまったのです。そこには1つの伏線が潜んでいました。彼女は若いときに、たびたび万引きをしたことがありました。でも一度も捕まりませんでした。そうこうしている間に、教員試験に合格して、教師になるのです。社会的な責任のある間は、問題なく生きることができました。ところが、退職と言う人生の節目に差し掛かって、心が乱れたのでしょうか、昔の習慣化していた盗癖、《処置されていなかった罪性》が露呈されてしまったのです。

 こういった話を聞きまして、自分の心の中を覗き込んで、『ワー、処置されていない数々の過ちが山のようにあるな!』と思わされるのです。旧国鉄にも、6年も学んだ中高にも、京王帝都にも小田急電鉄にも、返さなければならない負債があるのを思い出すのです。『生きている間に、何とかしないと!』、そう思うこの頃です。あの担任のように、襟首をつかんで、罪や思いや過去から、連れ出して欲しいのですが、もうおいでになりません。今度は、自分で自分の襟をつかんで、意思して『出よ!』と言わなければならないのでしょうか。


2007年5月21日月曜日

「おまけ」を生きる


 今日日の子どもは、何に夢中になっているのでしょうか。何時でしたか、我が家の子どもたちが小学生の頃に、「たまごごっち」というのが大流行していましたが。私の小学校時代には、「こうばい」とか「カバヤ」と言う菓子会社があって、小遣いを貰うと駄菓子屋に跳んで行って、この箱入りのキャラメルを買うのが常でした。ざらざらした砂っぽい食感がして、お世辞にも美味しいとは言えませんでした。今もあるのでしょうか。

 その箱の中に、「小鶴」、「山下」、「千葉」、「川上」と言った野球選手の名の書かれたカードが入っていたのです。それが欲しくて買い集めていました。そのカードを、机のような平たい板の上において、掌の平出ひっくり返したり、遠くに飛ばしたりして、カードの取りっこする遊びに夢中になっていたのです。塾もゲーム機も無かった時代だったからでしょうか。それが「おまけ」だったのです。

 私の親爺が召されてもう35年余りにもなります。その親爺の召された年齢を、去年越えてしまったのですが、親爺が自分の弟のような気がして、妙にくすぐったいような感覚に襲われるのですが、実に不思議なものです。可愛がられたり、拳骨を貰ったり、こっぴどく怒られたので、どう見ても逆転はしないのですが、それでも、『親爺を追い越したんだ!』と言うのは事実なのです。早死にするような気がし、『親爺ほど生きればいい!』と思っていましたが、しぶといのでしょうか、準備が出来ていないのでしょうか、またはすべき仕事が残されているのでしょうか、まだ生き続けています。

 肺炎に罹ったり、あわや落雷に打たれそうなったり、台風の最中に多摩川で泳いで流されそうになり、台風襲来の湯河原で遊泳禁止の中を海に入って引き潮にさらわれそうになり、喧嘩して丸太で殴られ、交通事故にあい、大手術を受けたり、何度も死に損なって、今日まで生きて来ました。まさに、「こうばい」とか「カバヤ」のカードのような、「おまけ」を生きているように感じがしてならないのです。

 それなのに、この頃は、『もう10年か15年生きてみたい!』といった欲が出てきているのです。でも、長く生きれば、生きるだけ罪が増しますので、召されたい気持ちとの間で、心の思いが左右に揺れている、これが正直な気持ちであります。 

 先日、日本人の寿命の推移を記した公文書を読んだのですが、1880年(明治13年)には男36歳、女38歳でした。1920年には男42歳、女43歳となり、寿命が50歳を越えるのは、第二次世界大戦の後からなのだそうです。ところが、アフリカなどでは、わが国の明治や大正期の寿命(平均余命)ほどなのだそうです。それには社会的・衛生学的な理由があるのでしょうか。

 人の寿命は、いのちの付与者の掌の中にあります。しっかりと生きて、後悔しない人生でありたいものです。『おまけだけど、総仕上げをしなければ!』と思うからなのでしょうか。

2007年5月15日火曜日

「改憲」に反対する!


 『無礼者。そこになおれ!』と言って、武士が人を切ることが当然とされた時代がありました。ある時、島津斉彬の参勤交代の大名行列が、横浜と神奈川の間にあった小さな村を通りかかりました。その行列に無礼を働いたと言って島津藩士が、イギリス商人の4人の一行に向かって、有無を言わさないで抜刀して切りかかり、殺傷してしまったのです。殺されたリチャードソンは、立派な青年だったそうです。それは、大きな国際問題となりました。日本史で学んだ、あの「生麦事件」のことです。

 中学の歴史の時間に、私の担任が、「日本人の特質」を語ってくれたことがあります。『日本人は、兵隊になるのに一番ふさわしい民族です。自分が死ぬことを恐れないこと、野蛮な心を宿していること、上司の命令への服従心に長けてること。それで、世界のどの民族よりも、兵隊に向いているのです!』とです。きっとご自分の軍隊経験から、正しい歴史観にたたれて語られたのです。これからの国を支えて行くであろう、私たち中学生に、戒めを与えて、教えたかったのでしょう。

 教えられたからではなく、私自身が、そうだと思ったことがあります。ケンカが好きで、殴られても立ち向かうことができ、血が流れても恐れず、相手が大きくても闘争心を燃え立たせ、死を恐れない野蛮性が自分の中にあることが分かるのです。そのような私が、この40年ほど、ケンカをしないで生きてくる事が出来ました。なぜかと言いますと、『剣を取る者はみな剣で滅びます。』との戒めを聞いて、身を律して守ってきたから、いえ、そう言った怒りを爆発させないで耐える力を付与された、と言うべきでしょうか。

 日本は、明治以降、国として何度も戦争をしてきました。富国強兵政策の下にでした。ところが敗戦以来、この60数年の間、私たちは、剣を取ることなく、他の国を侵略することなく、自国と他国の平和を守って、生きて来たのです。これこそ奇跡ではないでしょうか。

 この奇跡に大きく貢献したのが、「平和憲法」だったのです。『二度と戦争はしない!』との戒めを、辛い失敗体験を通して、身にしみて諭されたから出来上がったものなのです。私は、憲兵や特高警察に会ったことがありません。彼らが何をしていたかは知っています。また、私の職場に、陸軍中野学校出の上司がいました。暗い過去を背負っているように見え、それを忘れたくてでしょうか大酒飲みで、心の奥をのぞきき込むような鋭い眼光をしていました。怖かった!

 私は懸念しています。とても心配です。大変危惧しています。この「平和憲法」が改憲されたら、また、あの時代がよみがえるからです。『ノー!』と言えない時代がやって来て、国家権力を守護者としてではなく、強権発動者・支配者として見ることになる、きっと、そうなるからです。

 中国や韓国のみなさんは、『またやるだろう!』と思うに違いありません。孫たちを、戦場に侵略者として駆り立て、泣く親やジジババを作って行くことでしょう。『阿部さん、あなたの孫を戦場に、しかも最前線に征かせて戦わせますか?』

2007年5月6日日曜日

菖蒲湯


 昨日、「子どもの日」に残念だったことがひとつあります。それは「菖蒲(しょうぶ)湯」に入ることが出来なかったことです。親爺が生きていた頃、我が家では、季節に合わせて、「柚子湯」とか、「菖蒲(しょうぶ)湯」などが沸かされ、季節感を味あわせてもらえたのです。日本のような気候の国では、入浴が習慣的に行われ、隣近所でもらい湯に行ったり、来たり、大きな家のおきな風呂に招待されると言った風習が残っていました。町には、「銭湯」が何軒もあって、家に内風呂あるのですが、わざわざ近所の遊び仲間と申し合わせて出掛けて行っては入ったものでした。

 いつも行く銭湯に、同級生の女の子がお父さんと一緒に入ってきて、目を見合わせて、お互いに何とはなしに自然に下の方に目をやって、恥ずかしかったことを思い出します。男ばかりの兄弟の中で育ったので、珍しかったのですが、恥ずかしいのが先でした。もう彼女も、何人もの孫に囲まれたおばあちゃんをしているのでしょう。

 束ねた菖蒲が、お湯の中に浮いていました。この葉が、刀に似ているのと、語呂合わせが、「勝負」や「尚武」であることから、「鯉幟」を五月の青空に上げて、子どもの無事と成長とを願うのと同じように、「勝負に勝てる子どの成長」を、入浴を通して願ったようです。親爺も母も、私たちにそれを願い、銭湯の叔父さんも、贔屓の子に、そう願ったからなのでしょうね。情緒があり、風情が豊かだった時代が、とても懐かしく感じられます。

 お風呂と言えば、母の育った家の本家が、出雲市郊外にありました。その家に行った時に、いわゆる「五右衛門風呂」に入らせてもらったのです。すのこが浮いていて、その上にのって沈むのですが、上手にのれないで苦労したのを思い出します。もうああいった手間のかかる風呂は無くなってしまったのでしょうか。また層雲峡の大きなホテルに、修学旅行で泊まった時に、生まれて初めて、プールの様な大きな風呂に入りました。16の時でした。ところが、そこに同世代の女子高生の一群が入っ来たではありませんか。なんと混浴だったのです。男女交際のうるさかった学校としては、実に粋なホテル選定をしてくれたものでした。

 賢きお方は、男と女とに「人」を創造されたのですね。小学生の私にも、高校生の私にも、その創造の神秘への理解は足りませんでしたが、お互いが、かけがいの無い被造物であることだけは事実なのです。このお方を畏れるなら、健全な異性観に立つことが出来るのです。

 それでも今日日の子どもたちが、「菖蒲湯」によってだけではなく、堅実で健全な心を宿した人とならんことを願って。

2007年5月5日土曜日

「子どもの日」

 
 今日は、「子どもの日」、昔の「端午の節句」です。出雲の祖母から「ちまき」が、毎年この時期に送られてきました。母がふかしてくれた時、笹の葉のにおいが家中に立ち込め、食べた時、母の故郷を感じました。孫たちの成長を願って励ましてくれる祖母が、遠くにいてくれることを意識させられたのです。

 私の父の日記帳には、「子どもたちは・・賜物・・報酬」と書き残されてあります。ところが、今朝の「毎日新聞」の余禄欄に、次のようにありました。
 『・・だが、昔の話ではない、今この地球上にはそんな親の保護から引き離され、実際の戦場で戦わされている子供がいる▲新たに子供向けビジュアル版の出た「世界を見る目が変わる50の事実」(草思社)は「世界の紛争地帯で戦う子ども兵は30万人」と見積もっている。33カ国の政府軍とゲリラで子供が兵士として使われ、戦闘はもちろん、地雷原を歩かされたり、自爆兵として訓練されたりしているのだ▲6年の戦闘経験をもつ15歳の兵士は自分が犯した残虐行為を思い出しては夜眠れないと訴え、「一番つらいのは将来を考える時」と語る。子供兵士の数だけ地上から希望が消えていく。それを呼び戻すのは世界中の大人の責任だ。』とです。

 この記事を読んでいた時、窓の下から子どもはしゃぐ黄色い声が聞こえてきました。一人っ子たちの無邪気な呼び声です。ところが、世界の現実は、全く違った子どもたちの姿を伝えているのです。耐えられないほどの悲しい思いがこみ上げてきます。大人の始めた紛争や戦争に、多くの子どもたちが駆り出されて、異常体験を積み上げているのです。何時かテレビの映像の中に、大人の目をした子どもを見たときに、心が震えたことがあります。

 貧困、飢餓、紛争は、子どもたちから夢や意欲や家庭を奪ってしまっています。大人の異常な欲望が、幼い性を商品化しています。いつでしたか、ある授業で、『北上川の蛇行した岸辺に、いくつもの地蔵があるのです。そこは貧困のゆえに、育てることが出来ずに、間引きされた幼い命が打ち上げられている箇所なのです。』と言う話を聞きました。

 自分は、戦火や欠乏の中を潜り抜けて、父母の愛を受けて生き延び、高等教育を受けられたのですが、同じ世代に、陽の目を見ることなく処分されてしまったいのちのあることを知って、改めて生きる意味、生かされている目的を深く考えさせられたのです。

 子どもたちが、屈託無く、胸を膨らませて明日に夢をつないで、天真爛漫に生きて行くことの出来る世界であることを、切に願うこの日であります。命の付与者からの「賜物」であり、「報酬」としての尊い命なのですから。

硬軟両面の均衡


 「隠れ・・・・」と言うことばがあるのですが、一時、私は身を潜めて、「隠れジャイアンツ・フアン」をしていました。なぜかと言いますと、巨人軍の選手獲得が、あまりにも金にものを言わせたものであったからなのです。そして、どこのチームでも、三番や四番を打てるバッターを並べ上げるに至っては、もう辟易とさせられました。 『巨人は金ではない。野球愛にあふれたチームなんだ!』と信じていたからです。

 ところが、私の眠っていた獅子を起こしたのは、好きだった藤田さんの告別式で読まれた1つの弔辞を知った時でした。『四番、バッター川上!』とアナウンスがあると、怒涛のような拍手が聞こえたのが、川上哲治元一塁手でした。苦楽を分け合った球友を送る、その川上さんのことばの中に、藤田さんが真の野球人で、妻子を愛する家庭の人で、ユニホームを着ても脱いでも「紳士」であったことを、『ありがとう!』の思いを込めて明かされたのです。改めて、そのことを思い出させられて、意気に感じた私は、「巨人軍フアン」であることを公言しようと決心したのです。

 阪神タイガースが、関西人の血を沸かすのはよく理解できます。でもジャイアンツ・フアンの血を沸かすのは、全く違うのです。沢村やスタルヒンや千葉や内藤や与那嶺や川上や藤田や長嶋に、連綿と引き継がれている、「巨人軍魂」なのではないでしょうか。それが何であったかをまとめ上げててくれたのが、川上元監督の藤田元投手への弔辞だったのではないでしょうか。

 テレビの試合中継が終わると、携帯ラジオに耳をつけて、試合の成り行きに一喜一憂していた親爺の寝姿を思い出すのです。それほどまでに惹きつけさせていたものが、何であったかも、改めて分かったことになります。

 あるとき、ニューヨークの学校から講師が来られて、研修会がもたれました。その謹厳実直そうな講師が、講義の合間にこう言いました。『英字新聞を読みたいので、買ってきて欲しいのですが!』とです。何か重大な事件がアメリカで起こったのかと思っていましたら、贔屓の「ヤンキース」の試合結果を知りたかったのです。彼の講義内容とヤンキースと、どの様な脈略があるかを考えたのですが、ありました。そう言った自由と言うのでしょうか、趣味の分野で開かれた心が、興味ある話を紡ぎ出すのだということが分かったのです。
 『硬軟両面の均衡が人には必要だ!』これが、彼の講義で学んだ、もう1つのことでした。
 あの中国の温家宝総理が野球好きだと知って、彼と握手したくなりました!
 (写真は、「XINHUA 新華社」によります)

2007年5月4日金曜日

野球小僧への惜別のことば


  2006年2月9日死去した藤田元司元巨人軍監督への弔辞

           ▽川上哲治・元読売巨人軍監督の弔辞

 藤田君……。「今までよく頑張ってくれたね。きみは自分のことは忘れて、いつも人のことばかりに気をつかって、本当に大変だったね。ごくろうさん。いまはもう楽になったことだろう。ありがとう。長いあいだ、本当にありがとう」  

 きみが亡くなった翌日の朝、用賀の自宅をたずねると、きみは応接間に眠るように静かに横になっていた。訃報をきいてから、気持ちが乱れてどうしようもなかったが、きみにこう話しかけたら、心が少し静まった。 

 去年の十一月二日、正力賞の選考会で会ったとき、杖をついていたので、「大丈夫か」と声をかけると、「大丈夫ですよ。おやじさんこそ気をつけてくださいよ」と逆に気づかってくれた。何年か前から透析をする体になって、入院することも何度かあったが、この日は会議のあとの食事もちゃんととっていたのですっかり安心していた。翌月に入院していたことは知らなかった。まさか、あの日が最後の日になるとは……。思いもしなかった。  

 このショックは、今日になってもまだおさまらない。この何十年のあいだ、公私にわたり、一緒に過ごしてきた、あまりにも多くの思い出が、次から次と甦ってきて尽きることがない。 

 選手のころ、水原監督から「藤田頼む」と言われたら、肩が少々重くても、また、完投した翌日でも、チームの勝利のために、「行きましょう」ときみは黙って投げ続けた。投手生命を縮めてしまったが、愚痴ひとつ聞いたことはなかった。 

 V9時代、すぐにピッチャーを代えたがる僕に、コーチのきみは「まだ大丈夫です」と投手をかばい、僕のズボンのベルトを握り締めて、マウンドへ行かせなかった。鬼のような顔つきのきみを忘れられない。 また、宮田投手の個性を活かすため、リリーフにつかい「八時半の男」に仕上げて、プロ野球でのリリーフ専門投手の基礎を築いた。それもきみの功績だ。  

 そして長嶋くんの後を受けて、大逆風のなかで監督になると、みごと日本一となって巨人軍の大ピンチを救ってくれた。戦力もどん底、火中の栗を拾う損な役回りはきみにしかできないことだった。さらに王監督の後のチームのピンチのときも、再建をひきうけた。長嶋監督のときと同じで、人気監督のあとは、誰が見ても腰のひける損な役割だった。だが、このときも、「友達がちょっと疲れたので、その代わりを務めるだけです」と逆に王くんを気づかう爽やかなコメントをしていた。  

 きみには以前から心臓の持病があった。このころは腎臓も悪くなっていて、医者から「今度監督をやったら命を縮めますよ」と言われている、と聞いていた。「でもね、おやじさん、あのおじいさんの務台さんから、『藤田くん頼む。きみしかいないんだ』と言われたら、断れませんでした」ときみは笑って言っていた。 自分を捨て、務台光雄会長の心にこたえた。愛する巨人軍へ笑って命を差し出す男気。この男は、いつでも死ねる、勇気のある本物の日本男子だ、と改めて感じたことを覚えている。  
 
 話は変わるけど、みんなで仲良く、よく遊んだよね。釣りにゴルフ。釣りでは武宮くんや、牧野くん、グラウンドキーパーの務台さんたちと……。釣りは君が先輩で、糸の結び方やリールの扱い方まで、何も知らない僕に親切に教えてくれたね。いつだったか、伊豆のみこもと島で、石鯛を二十数匹釣って、船宿で褒められたことがあったよね。あのときは、楽しかったなあ……。 

 ゴルフでは僕のほうが先輩で、牧野くんや僕と回ると、きみはいつもカモだった。飛ぶのは無茶苦茶に飛ぶが、ときどきOBも打ってくれるので、可愛かった。しかしきみはいつも淡々として、「どうせ遊びのゴルフ。みんなと楽しく過ごせればよし」とする持ち前のおおらかさで、誰からも愛され慕われていたね。  
 
 しかし、そういうきみは、いまはもういないのだ。どんなに辛く悲しくとも、その現実を受け入れるしかない。  

 いつだったか、きみが大好きだ、という言葉を聞いたことがある。「あたりまえのことを、あたりまえにすれば、あたりまえのことが、あたりまえにできる」 慶応高校野球部長、故、長尾先生から教わった、ときみは言っていた。若いころから、球界の紳士、と呼ばれていた、いかにもきみらしい人生観だった。いつかそれを褒めたら、「いやいや、学生のころは喧嘩っ早くて、不良だったんですよ」と言っていたのを思い出す。「紳士たれ」という言葉こそ、かつて正力松太郎さんが巨人軍の指針として示された言葉だ。紳士とはやせ我慢ができて、人に手柄を譲れること。そして誰にでも愛情をもって接することができること。きみはその全部を持っていた。  

 言うまでもないが、きみは優しい夫で良き父親。あたたかく素晴らしい家庭を築いていた。本当にきみは情にあつく優しい人だった。しかしそれだけではなかった、と僕は思う。きみほど厳しさに徹底した男は少ない。 愛情とは、ただ仲良く、甘く優しくすることではない。厳しく相手と向き合ったうえで、人を活かすことだ。どんな人間にもその人なりに素晴らしい持ち味がある。失敗を受け入れ、弱さを認めてチャンスを与え、力を引き出してやる。それがきみが命を削ってまでも、後輩たちに伝えたかったことだ、と僕は思っている。  

 そういうきみだから、運にも恵まれた。ドラフトで、原くんを引き当てた。教え、育てて、いまやきみの立派な後継者となって、今年の巨人軍を率いてくれている。心配はいらない。かならず大きな花を咲かせてくれるに違いない。  

 いろいろ言ってきたが、今頃は先に行った仲良しの牧野くんと再会しているかもしれないな。約束を破って、僕より先にいってしまったが、もうすぐ僕もいくだろう。そうしたら、そちらでまた楽しくやりましょう。  

 今日は辛くて寂しい。悲しいけれど、涙を見せずにきみを送ることにする。どんなに辛いときでも、笑顔を忘れなかったきみへの、それが一番の供養だと思うからだ。 

 ありがとう。ありがとう。本当にありがとう……。
 
 藤田くん、さようなら。               平成十八年二月十五日川上哲治


○ 藤田元司氏(1931年8月7日 - 2006年2月9日)は、愛媛県新居浜市で生まれる。慶応大学出身。昭和32年,26歳で巨人に入団し,その年17勝をあげて新人王を獲得。33,34年には2年連続でセ・リーグ最優秀選手に選ばれた。8年間投手として活躍し,リーグ優勝5回,日本一2回に貢献。また,昭和56年からは計7年間巨人の監督を務め,リーグ優勝4回,日本一2回。
○ 写真上は、藤田元司投手の投球フォーム(スポーツ報知より)、写真下は、監督時代の物(ジャイアンツ所蔵)

一切れの乾いたパン


 「一切れの乾いたパンがあって愛し合うのは、ご馳走と争いの満ちた家に勝る」と、私の父の日記帳に記されてあります。これは、私の家庭建設のための指針のことばでもありました。 

 私の父も母も、恵まれた家庭環境の中で育ちませんでした。「時代の子」だったのでしょうか。かつて私たちの国には、「足入れ婚」と言う風習があったのですが、いわば「試験結婚」と言ったらよいかも知れません。嫁ぎ先で、舅や姑や祖父母と一緒に生活をしてみて、彼らのテストに合格しなければ認めてもらえない、封建的な家中心の考えがあったのでしょう。それで、『家の格に合わない!』と言う理由で、父を残して生母が出されてしまいます。その家に、正妻が迎えられるのですが、その方に男の子が生まれます。父は嫡男ではなく「庶子」で、母違いの弟が家督相続権を継ぐことになるわけです。 

 疎んぜられた父と、喜ばれ期待され叔父との関係の構図が、旧海軍の軍港を見下ろす、海軍一家にはあったのです。旧制の県立中学校に入学するのですが、途中で、親戚のいる東京の私立校に転校してしまいます。何か難しい問題があったのでしょう、十代の前半にあった父は、親元を離れることになったわけです。旧制の中学校に進学させてもらったのですから、経済的には恵まれていたのでしょう。 

 ところが、父の弁によりますと、『俺の弁当は、弟や妹たちとは桁違いだった。おかずがほとんど入っていなかった!』と、結婚してから、私の母に愚痴を言ったことがあるのだそうです。それだけ母に心を開いていたからでしょうか。叔父は、南方で戦死し、名門家庭の期待に沿うことが出来なかったのです。   

 愚痴を聞かされた母も、婚外子として生まれ、生後間もなく養女に出されてしまいます。養父母には愛されて育つのですが、自分の生まれを母に告げる者がいて、まさに思春期の只中で、それを知るのです。18になった時、生母の嫁ぎ先の奈良に会いに行くのですが、『帰って欲しいの!』と言われて、泣く泣く帰ったのだそうです。負けず嫌いの母が、それでもチラッと見せる《かげり》の理由が、この辺にあるのだと分かったのです。 

 そんな両親に、男の子が4人与えられたのです。家庭の暖かさを知らない両親でしたが、実によく、私たちを育て上げてくれたのです。今日日、養育責任放棄の親のことが話題になりますが、私の父と母は、自分が受けないものを与えてくれたのです。父は会社帰りに、ケーキやあんみつセットやソフトクリームやカツサンドを、東京から持ち帰ってくれたのです。あの味こそが、非行の抑止力だったのではないかと思うのです。『父に愛されているのだ!』と言う、何ともいえない確信が、胃袋で感知できたからでした。母は料理が上手でした。ハンバーグなど、まだ流行らない時期に、わざわざ挽いてもらった牛肉で手作りを、よく造ってくれたのです。母は胃袋だけに訴えたのではなく、4人のために、叫びながら育ててくれたのです。 

 父は、自分の継母の葬儀に私を連れて行きました。『○○さんは、料理が上手だった。よく西洋料理を作って食べさせてくれたんだ!』と継母を自慢していました。だから弁当の件は、少年期の父のひがみだったかも知れませんね。そう言って赦したのは、父が召される数週間前だったのです。 

 もう1つ、小説のような物語があるのです。母の生母が亡くなった時、その枕の下から、一葉の写真が出てきたのだそうです。小・中・高・大の4人の息子の記念にと、父が街の写真屋で撮ってくれたものでした。どのように祖母の手に入ったのか分かりませんが、出しては眺め、出しては眺めたのでしょうか。自分が産んだ子たちを、孫と認知してくれたことを知った母は、どんなにか慰められたことでしょうか。すごい! 

 私と家内は、三男と三女で、それなりに育てられて、「わが道を行く」を生きて来て、4人の子の親をさせていただき、孫も抱くことが出来ました。彼らが富まなくても、持たなくてもいいから、「一切れの乾いたパン」を食べて、穏やかに、愛し赦し合いながら生きて行って欲しいと願う、初夏の陽気の五月であります。

2007年5月3日木曜日

力道山


 力道山と言う名のプロレスラーがいました。相撲上がりの彼が、たちまち日本の大人気者になったのです。それは、大男の白人系外国人選手との対戦で、見事に勝ってしまうからです。戦争に負けて、敗戦国の惨めな戦後を生きてきたには、溜飲の下がる思いだったのです。テレビの放映が始まって間もない頃の話なのですから、テレビ普及の大貢献者だった事になります。街の銭湯の帰りに、燃料屋の庭先のござの上に座って見せて貰った覚えがあります。もともと「弱い者いじめ」を嫌う気風が日本人の心の中にあったのではないでしょうか、小男が大男を倒すとか、「弱い者いじめ」に天罰を下すと言う物語を、日本人は好んできたのですから、力道山を拍手喝さいで応援したわけです。   

 当時、柔道界に無敵の常勝選手がいました。熊本出身の木村正彦で、日本選手権で4連覇の猛者でした。柔道をやめた彼はハワイに渡って、プロレス選手として活躍していたのです。この木村と力道山とが、リングの上で対決して、「プロレス日本一」を決めようとの話が持ち上がり、雌雄を決する試合が行われることになったのです。1954年の事でした。どうも二人の間では、引き分けや交互に勝ち負けをして、興業を長引かせて行こうとの密約があったようです。ところが、禁じ手を使った木村に怒った力道山が、張り手を使って散々な流血試合になって、『勝負あった!』で終わります。結局、木村は故郷に帰り、力道山がプロレスの興業を続けて行ったというのが、通説のようです。

 そう言った経緯から、プロレスとか大相撲と言った、お金のかかった職業人同士の勝負には、「八百長」がつき物で、我々は、これを「ショウ(見世物)」として見ていたのです。もちろん強い選手が出てきて、チャンピオンになったり、横綱を張ったりしていたのですが、所詮は「興業」でした。相撲では、八番勝ちますと給金を直すと言って、現状維持か、数段の番付の昇格が約束されるので、八番勝った者と、八番勝ちたい相撲取りとの間には、裏取引が暗黙のうちにある、これも定説でした。

 それなのに、大相撲を「国技」だと言うのには、合点が行かないないのですが。楽しみの少なかった戦後の時期には、全国民が大変興奮して観ていましたが、いまや人気にかげりが見え、斜陽化してしまっているようです。外国人選手が幅をきかせるいる相撲界は、衰退の一途をたどっているようですが、使命は十分に果たしてきたのではないでしょうか。

 それにしても琴ヶ浜の内掛けは小気味がよかったし、栃錦の盛り上がった両肩の筋肉には驚かされたものです。「朝、何がし」とか言う相撲取りなどが及びもつかないほどの相撲に、欣喜雀躍した、少年の日の懐かしい思い出が鮮明であります。ああ言った、少年の心を奮い立たせるようなスポーツがなくなってしまったのか、スポーツが多様化してきたのか、今日日のスポーツ界が、今ひとつ盛り上がらないのは、お金が絡んで、純粋さが失せてしまうからなのでしょうか。

 私の父の日記帳の中には、「お金」が罠であることについて触れた箇所があるのですが。                                 

2007年5月2日水曜日

阿倍仲麻呂


 唐の時代、留学する道が開かれた阿部仲麻呂は、717年、第8次の遣唐使の遣唐船に乗って大陸に渡り、長安の都に到着しました。大和の国に生まれた19歳の秀才でした。
 
 文明開化の明治のご時世に、ロンドンに留学した青年たち以上の機会だったのではないでしょうか。彼は長安で、当時の高等教育を受け、日本人でありながら「科挙(任官試験)」に合格するのです。6代目皇帝・玄宗の寵愛と信任を得ます。高位高官の機会を得て、彼は大抜擢をされるのです。当時の唐には、世界中から留学生がやって来て学んでいたのですが、外国人に対して、そう言った機会が開かれていたと言うことに驚かされるのです。大変、開かれた国であったことになります。

 
長安の都で36年を過ごした彼は、帰国が許されて、753年の冬に、長安を出て江蘇省鹿苑から帰国の途に着いたのです。ところが嵐にあって、船は安南(現在のベトナム)に漂着してしまいます。多くの人が殺されてしまう中を生き延びた彼は、奇跡的に755年6月に長安に戻ったのです。その後も多くの官職を歴任したのですが、ついに73歳で、故国の土を踏むことなく、望郷の念を抱きながら、長安で客死してしまうのです。

 先日、来日され国会で演説をされた温家宝総理は、演説の冒頭、『友情と協力のために貴国に来ました!』と言って、日中戦略的互恵関係の構築の重要性をアピールされました。彼は、奈良時代の遣隋使・阿倍仲麻呂や鑑真和上を取り上げて、『両国の友好往来は時間の長さ、規模の大きさと影響の深さは、世界文明発展の歴史に類をみません』と言われたのです。

 この中国は、文字も、米も農機具も、着る物も機織機も、何も持たなかったわが国に、それらを教え伝えてくれた恩義ある国なのです。その恩恵を忘れて、軍靴で踏みにじり、多くの命を奪った国を、赦して受け容れるために「友好の手」を伸べてくださったわけです。その懐の深さに驚かされるのです。彼は、わが国との間に、これから将来に向かって、回復され構築されて行く友好関係の深さや長さを強調されたわけです。

 仲麻呂は二十歳前に留学したのですが、私と家内は60を過ぎて、ここ天津に参りました。老いを生きるためではなく、人生の総仕上げのために、この地に生きて、温総理の差し伸べた手に、私の小さな手を添えて、中日の和解と友好の構築のために過ごしたいと願うのであります。

 昨晩、天津の五月の月が、実に綺麗でした。「天の原」を見上げて、目を東に向けたのです。しばらく我が故郷のことどもに思い巡らせていました。健在な母や兄弟や子や孫や友を思い、健やかで平安であるようにと願うことのできた春の宵であります。
(写真は、天津の友誼路の道端の初春の緑です)

2007年4月29日日曜日

南十字星に憧れて


 『一度南十字星を見たい!』と、幼い日から、南半球の世界に、私は憧れていました。それで、『船に乗るなら何時か行ける!』と思って、船乗りになろうと本気で考えたのです。あの戦争中には、今のように、コンピューターや携帯電話がありませんでしたから、軍関係の仕事に携わっていた父は、仕事の極秘事項を受け取り、また報告する必要があったのでしょうか、「打電機(モールス信号を送るための機器)」が父の机の上に、チョコンと置かれてありました。戦争に負けて、無用の長物となってしまった物でしたが、何か思い入れがあったのでしょう。それに興味津々の私は、目をまん丸にして、船乗り(船には、当時、無線技師が通信士として乗船していました)になる「夢」を見ながら、日柄、それをおもちゃにして遊んでいたのです。

 北半球の小さな島に生まれて、しかも辺地の山の中で育ったのですから、県庁所在地の町だって知らない、北半球の99.99パーセントは皆目分からなかったのにです。でも、赤道のむこうにある「未知の世界」への関心は、子どもの「浪漫(ロマン)」とでも言えるでしょう。ところが、だれもが憧れるのかと言うと、そうでもないようで、私のように短絡的な早とちりの子どもは、簡単に動機付けられてしまい、思いを外に向けてしまうのです。

 いつでしたか、『知らない街を歩いてみたい・・どこか遠くへ行きたい・・』と言う歌詞の歌が流行っていた事がありますが、その歌詞こそ私の心境そのものでした。そう言った夢を17の私は、蒸し返したのです。「日本アルゼンチン協会」に手紙を書いて、移民の可能性について聞き、案内書を送ってもらったのです。その案内書には、アンデス山脈のふもとの町メンドサが紹介されていて、今まで見たことのない綺麗な女性の写真が目に飛び込んできたのです。鼻の低い日本人の女性しか知らなかった私(私も低いのですが)に、「クレオパトラ」のように妙齢なその女性が、『おいで、おいで!』をしていたのです。『行かなけれが男がすたる!』、そう思った私は、『どうしてもアルゼンチンに行くぞ!』と強く決心をしたのです。単純なんです。ところがハシカのように、その写真への恋に冷めてしまった私は、こじんまりした学校に進路を、簡単に選び変えてしまったのです。

 ところが、今から10年前ほど前に、ブエノスアイレスに行く機会が与えられたのです。その飛行場に降り立った瞬間、それは実に感動的でした。青年期に叶えられなかった夢が実現したのですから。『俺って、ここ移民していたら、何をしているのだろうか?』と思いました。まるでタイムスリップしたように、17歳の頃の思いがよみがえってきたのです。ところが、この国はヨーロッパからの移民社会で、白人世界で、日本から移民した人たちの、ほとんどが洗濯屋か花屋をして生活をしてきたという事を聞いたのです。南十字星や女性に憧れて来たって、「ガウチョ(カウボーイのこと)」になるくらいで、何も具体的な願いを持っていなかったわけです。

 そこで過ごした1週間ほどの間に、夜空を何度も見上げたのですが、南十字星を見付けることはできませんでした。また街の中をきょろきょろしたのですが、メンドサのあの女性にはお目にかかることが出来ませんでした。ハシカのような恋だったのですから当然でしょうね。

 しかし昨年の9月に、日本をたたんで、ここ中国に来ることが出来ました。妻と共にです。「恋」をしたからではなく、『来い!』との声を聞いたからであります。

2007年4月24日火曜日

店屋物


 子どもを喜ばせることも、怒らせることも、上手な親爺でした。一方、母は、親爺と4人の息子たちのために、一人一人が独立して家を離れする日まで、毎日、様々な工夫をして食事の支度をし、家事をこなしてくれました。きっと、大変なことだったに違いありません。

 『する!』とか『しない!』と言ったことではなく、『しなければならない!』と言った母としての使命感が、そうさせたのでしょうか。もちろん、代は、『男は外!』、専業主婦の時代でしたから、家事一切が母親の仕事であったわけです。今のように洗濯機も、ガスコンロも、電子レンジも、水道だって無い時代でした。一本筋が通っていたのでしょうか、いやな顔一つすること無く、黙々として励んでいた姿を思い出します。

 その母が、1週間に一度は、新宿に出ては息抜きの買い物をしていたのだそうです。揚げ物は、コロッケくらいの時代に、ハンバーグを作ってくれたり、カツを揚げてくれたり、結構豊かな食卓だったのを思い出します。そんな母の背後で、親爺が家にいるときは、店屋物の丼や握り寿司や中華そばを注文しては食べさせてくれました。お袋への優しい配慮だったのです。そんな親爺とおふくろの共同戦線が、家でも外でもケンカに明け暮れる息子たちの非行化防止の妙薬だったに違いないと、今、述懐しつつ思うのですが。それが功を奏して、一人も極道の世界に入ることはありませんでした。

 私の妻も同じ町に住んでいたのですが、私との結婚が決まった時に、彼女の職場の同僚が、『あの人と結婚をされると聞いたのですが、大丈夫ですか?』と聞いてきたのだそうです。この人は、私たちが育ってきた様子を、見聞きして知っていたのです。荒くれ4人兄弟の三男坊との結婚を危惧して、そう心配されたのだそうです。余計なお世話でした。私には、カツ丼や天丼を食べさせてくれた親爺がいて、一生懸命に養い育ててくれた母親がいたのです。井戸端で人の悪口を言うような場に決して顔を出さない母親でした。家事万端を済ますと、毎晩、駅裏のアメリカ人の家に出かけて行きました。英語の勉強のためではありませんでした。「読書会」に行っていたのです。それは娘時代からの、ただ1つの母の楽しみだったようです。

 兄たちや弟と、『お袋が、並みの親だったら、みんなぐれていたよね!』と言って、並みで無かった母に感謝したものです。私の父の日記帳の中に、「あなたの父と母を喜ばせ、あなたを産んだ母を楽しませよ」と記されてあります。

 母よ、健やかであれ!

2007年4月23日月曜日

鶴田浩二


 「ニヒル」、辞書を引きますと、「虚無」とありますが、私の理解とは、少し違うのです。私は独断的に、『スクリーンの中に観る、鶴田浩二のような陰影のある男を言い当てるのを《ニヒル》と言う!』と定義しているのですが。

 私は、青年期に、一人の映画スターに憧れました。立川や新宿の映画館で観た、裕次郎とか赤木圭一郎ではなく、もう少し古い、お袋の弟の世代といったらいいでしょうか、その世代の俳優で歌手だった、この鶴田浩二が大好きだったのです。髭もはえていない中学生にしては、少々ませた憧れだったかも知れません。無口で、言い訳をしないで、黙ってすべきことをする男気のある人間に、彼が見えたのです。そう言った理想の男性像を、心の中に思い描いて、『そんな大人になりたい!』と願ったのです。

 
 後に大人になって知るのですが、実際は、彼が女好きで浮名を流し、奥さんやお嬢さんたちを泣かした男だったようですが。それでも、戦時下に青春を過ごし、応召し、旧軍隊の中で生きたことのある人でした。神風特攻隊で亡くなって逝った、いのちを分け合った戦友たちへの彼の思い入れの深さに、『古い奴!』を感じて、それが好きでした。何しろ、気の多い時代錯誤の私は、戦後育ちの子なのに、予科練や特攻隊に憧れる、鶴田に似た変な『古い奴!』だったのです。彼の演じた映画の「スクリーン」の仕種や舞台やテレビで歌った歌い振りに、大きく印象付けられたのです。青年期に、誰かを英雄視し、誰かに憧れると言うのは正常なことのようです。女性が好きになる前に、「親友」を求める事とに似ているのかも知れません。

 そんな私が、自分の人生観も死生観も価値観も職業観も、さらには女性観も憧れも、まったく変えられてしまう出会いによって、一大転機を迎えることが出来たのです。25の時でした。目では見ることは出来なかったのですが、心の奥底で捉え、いえ捉えられたと言うべきでしょうか、私の心の深部に触れてくださった「至高者」との出会いでした。

 表面的には、好青年に見えたかも知れませんが、裏がありました。憧れていた鶴田に似たのでしょうか、女好きで、親や世間の目に上手く隠れては、酒を飲んで酔っては出鱈目を生きていました。もういっぱしの駄目男が出来上がろうとしていたのです。

 ある場末のストリップ劇場の舞台に、酔った私は呼び上げられたことがありました。なぜ、そんなところにいたのか覚えていません。でも習慣になっていたのでしょうから、おのずと足や手や目は、そちらに向いて行ってしまうのですね。ブレーキは全く利かないのです。そのキラキラと点滅する照明が当てられ、強いビートのきいたレコード音楽の流れる舞台の上で、20代半ばの私は、おじさんたちをよそに、請われて踊り子の衣装の紐を解いていました。酔いが醒めたときに、『こんなことまでするように堕ちてしまったんだ!』と心底悔いました。でも抑止力は、全く無かったのです。柳ヶ瀬とか浜松とか天神とか川崎とか伊勢佐木町とかの歓楽街を、ニヒルにも闊歩していました。もう一歩で死ぬか殺されるか、地獄へのドン詰まりにいたのかも知れません。 

 そんな時に、女子高の教師になる機会が降って湧いてきたのです。それで私は、『生徒を俺の欲情の対象にしない!これが出来るなら続けよう!』と決心して始めたのです。ところが、あの時代の東京の三流校の女の子たちは、すでに真正の「女」でした。鼻の下を長くしていたら、いっぺんに堕落でした。一方、同僚たちも、聖職意識などもっていなかったのです。一回りほど年長の音楽科主任が、『雅仁君、可愛い小さな恋人を作ってもいいんだよ!』と勧めてくれました。男性教員のほとんどに、『何々先生の可愛い子!』がいると言うのです。あきれた学校でした。何時かテレビでやっていた、学園物にも似たような話があったようですが。

 ある時、アメリカ旅行から帰って来た理科主任が、『今日、放課後に、視聴覚教室で映画会をするから、雅仁先生もぜひ来て観ませんか!』と誘ってくれたのです。なんと、生徒に隠れたブルー・フィルムの秘密上映会でした。また教員の間で、猥褻写真が回覧されていました。『雅仁先生もどうですか、ご覧になられますか?』と言われたとき、反吐が出そうでした。そのように三度もカウンター・パンチを見回された私は、『おい、俺を、もう一度あの世界に戻してくれるな!』と転倒寸前のロープ際で叫んでいました。

 『教職は天職だ!一生やっていこう!』と言う夢は微塵に崩れて砕かれてしまったのです。その学校には、短大がありました。私を招聘してくださった方が、そこの教務部長で教授でした。彼の恩師は、ある
私立大学の文学科の科長でした。このお二人に、なぜか可愛がられていた私は、数年したら短大に行くようにしてくださっていたのです。ところが、夢は無残にも砕かれてしまいました。教えてはいるのですが、充足感がまったく無かったのです。
 
 夢を無くしたら、諦めて、罪の中で言い訳をしながら、とっぷり浸かって生きるはずの人間でした。ところが、『そんな生き方に、また舞い戻ったら、もうお仕舞いだ!』との思いが、ふと湧き上がって来たのです。何者かに、背中を押されるようにして、集まりに導かれたのです。母がそこの会員で、上の兄が副責任者でした。ちょうどその頃、アメリカからアフリカに行こうとしていた方が、途中、東京に寄って行きました。彼の講演会で、私は涙を流して泣いて、方向転換を果たしたのです。自分の意思によってではなく、大きな圧倒されるような力の強圧と支配とを感じたようにしてでした。まったく瞬間でした、長年習慣化されていた喫煙や飲酒や盛り場徘徊や女性交友から自由にされたのです。赦されたことが分かったのは、その時でした。

 すんでのところで、地獄に背を向けて、陽の燦燦と降り注ぐ希望の国に生き始めることが出来たのです。その2ヵ月後、今の家内と婚約することができました(別に家内がいたのでありませんので念のため)。

 それにしても、鶴田浩二は、私にとって強烈に印象深い男です。今、彼が亡くなった年齢になったのですが、もはや彼の様にではなく、あの「保羅」の百分の一ほどを生きて行きたいと、切にそう願う早春の週末であります。

2007年4月22日日曜日

『野の花のごと生きなむ』


 春の季語に「踏青(とうせい)」と言うことばがあるのだそうです。俳句を詠む心のゆとりなど、ついぞなかった私ですが、春の野辺に萌え出た青草を踏んで、嬉々として走り回った、幼い日の光景を思い出させてくれます。あの日のうきうきした早春の気分を、今も同じように感じさせられて感謝で一杯です。まだ幼かった子どもたちが、春を感じて、『お母さん、春を見つけに行ってきま・・・す!』と出かけて行き、野花や名も無い雑草を摘んで帰って来た日の事が、昨日のことのように懐かしく思い出されてなりません。

 昨日、紫金山路の道端の土の中に、蒲公英(タンポポ)を見つけました。《春告花》の1つなのでしょうか。住居棟郡の谷間にあった一本の桜の花が咲いていたのは、もう1月も前のことでしたが。

 私の恩師が、戦時中、治安維持法違反の嫌疑で捕えられて、獄舎につながれている時、獄窓の隙間から、青い空と白い雲、雑草の中に咲いている野の花を見て、『生きているんだ!』と言う実感を覚えさせられたと述懐されていたことがありました。この恩師が、卒業して行く私たちに、『野の花のごとく生きなむ。』と色紙に書いて下さったのです。長く牢につながれて、体罰を受けたのでしょうか、足を引きずって歩いておられたのが印象的でした。自由が与えられて、学校に復職して、学部長までもされていました。聞くところによると、この方は大学教育を受ける機会を奪われたのだそうですが、いわゆる無資格の学者で、その道では権威だったようです。

 真冬のような塀の中で、『ここを出たら、自由の身になって、好きな学問をしよう!』と願ったり、『思いっきり幼い日に駆け回った野山で、また春を感じてみたい!』とでも思ったのでしょうか、実に穏やかな人柄の方でした。

 踏まれても、なじられても、野の草や花は強いのですね。時代を憎んで、人を憎まないで生きることが出来た方でした。この方の奥様が、内村鑑三の弟子の妹さんであったことは、卒業して何年もたって知ったことでした。

 人を強くさせ、支えているものがいくつかあるようです。幼い日の懐かしい思い出や人の激励のことば、感動した話などです。でも人を真に強くさせるのは、創造者を知ることに違いありません。自分が、どこから来て、今していることの意味を知り、やがてどこに行くかを知っている人は、自分を知る人なのです。

 それにしても、毎年毎年、忠実に訪れてくる春は、いくつになっても、生きているいのちの躍動を感じさせてくれるものです。

 こぶしも桐も桜も名を知らない花も、一緒に咲いて百花繚乱の天津の「踏青の春」であります。

2007年4月21日土曜日

思春期の入り口で


 バスケット・ボールの練習を終えると、駅前にあった食堂で、高等部の先輩にラーメンやカレー・ライスを、よくおごってもらいました。お父さんを都議会議員に持つ先輩がいて、この方が一番よくおごってくれたのです。あるとき、注文して待っている間に、隣のテーブルに座っていた20代の男性が、背のすらっとしたウエートレスのコップを置いた手を、ギュッと握ったのを見てしまいました。本当にびっくりしたのです。他人事なのですが、思春期の入り口にいて、まだ純情な中1でしたから、ちょっと刺激が強かったようです。『大人になると、こんな風にして女に近づくんだ!』と思わされたのです。ものすごい社会学習の機会でした。

 その運動部では、高校生が一緒に練習し、大学生が顔を出していて、社会人になった先輩も来ていました。中2の上級生の中に、どこで仕入れてきたのか、得意になって大人の世界の話を聞かせる先輩がいました。何だか怪しい雑誌を持って来ては、見せるのです。無垢な中1は、彼のおかげで、すっかり大人の世界を覗き込んでしまったのです。何しろ男子校でしたから、そのへんはお構いなしでした。男子校とは、そんなものだったのでしょうか。
 
 実は、男子部の隣には、女子部があったのです。一緒に勉強させたら、もっと教育効果が健全な形で上がったのだろうと思いますが、在学中にはまったく可能性はありませんでした。ところが数年前に、共学になったとの情報が耳に入って来ました。我々の時代に見た夢が、やっと実現した事になります。

 高校生の都の大会には、日比谷や新宿や九段といった高校に、ボール持ちで付合わされました。帰りには決まって新宿で下車して、西口の駅裏に何十軒とあった汚い横丁の食堂街で、ご飯をご馳走になりました。美味しかったのですが、何を食べさせられていたか分からないような、ごちゃごちゃした食堂街でした。この学校の高等部には、3つ違いの兄がいて、野球をしていました。あの先輩は兄の友達で、よく可愛がってくれたのです。

 もう何年かたつと、孫たちが中学生になるのですが、ああいったことが、繰り返されて行くのでしょうか。でもマイナス面だけではなく、プラスの面も運動部にはありましたから、良い感化がある事を切に願うのですが、ただ懐かしい思い出がよみがえって来ます。それにしても、まだ一度も、あんな風に、女性の手を握った事がないのですが、映画の世界の映像のように、今も鮮明です。

斉藤隆夫と広田弘毅


 政治家になりたいと思ったとはありませんでしたし、もちろん、そんな力量が自分には無い事を百も承知していましたから。でも、痛快な政治家がいたことだけは知っています。

 一人は、昭和15年に「粛軍演説」、17年に「反軍演説」をされた、兵庫県出身の斉藤隆夫です。公の場で、軍部の暴走に何も言えないでいた時代、彼は、演説の原稿を持たないまま、衆議院の議場で、軍部の中国侵略の暴挙を糾弾する演説を滔々としたのです。『小柄でもの静かな村夫子の風貌ながら、その演説は暗夜の雷明のごとくであった(「クリック20世紀」より)』と、斉藤の演説を評しています。国家と国民とが統制されつつあった時代に、いけないことを『いけない!』と言える政治家がいたことになります。

 昨今、首相をおおせつかった方たちが、自分の内閣で『何をしたか!』にこだわりすぎて、歴史に残る事業、後の人に、『だれだれはこれをした!』と言わせるためなのでしょうか、そのための政治に狂奔しているかのように感じられてなりません。平和憲法だって、教育基本法だって、どこに間違いや不足があるのでしょうか。『日本国憲法を世界遺産にしたい!』と真剣に運動されている方だっておいでです。「今の必要」にではなく、名を残し、功を遂げるための政治など欲しいとは思いません。

 もう一人は、広田弘毅です。東京裁判で死刑を宣告されて処刑された元首相でした。軍部の犯した「南京虐殺事件」の処理が間違っていたことが、死刑求刑の理由だったと言われていますが。彼は、その法廷で、弁明を全くしなかったと伝えらています。自分に有利になる証言をすることによって、共に関与した件で裁かれている人が不利になる事を、極力避けるためだったのです。「潔し」とは、この広田の生き方であります。発狂したり、病んだり、死刑を逃れるために自己弁護に死に物狂いになり、他の非をあからさまにする法廷の醜さの中で、広田は、孤高の人のごとく泰然自若として構えていたのです。

 彼の愛した夫人は、夫に先立って、湘南鵠沼で自決をして果てるのです。自死を賞賛しませんが、生きるためには、道理も人情も立場も全く意に介さない人たちのいる中で、死ぬべき時を、自ら定められたと言うことには、驚かされます。

 福岡の石屋の倅なのですが、真に「武士(もののふ)の志」を宿した逸材でした。また国の行く方を、鳥瞰的(ちょうかんてき)に観ることの出来た人だったのです。

 彼のような政治家こそ、混迷の現在に必要なのです。安部首相に、そのような指導者になって欲しいと願うのですが。

2007年4月17日火曜日

神秘の世界の中の「性」



 ある作家が、猥雑な本を著した時、『ぼくは、医者の頃に、死を見すぎたせいか、虚無感があって、死んだら終わり、魂や来世なんか無い。確実にうせると考えている。だから、今を懸命に生きないと損、今を精一杯生きなさいという意味で、・・・かりそめ(この世にあるものはすべて消える)・・・とつけた』と言いました。このような虚無感に満たされ、「損得」で人の一生を計ろうとする人は、医者を続けなくてよかったと思うのです。医者を辞めて後、こんな「死生観」や「人間観」を持つ彼が、物書きに専念して、たびたび、世の中を騒がせる本を出版し、映画化されていることに、私は危惧を感じてならないのです。

 以前、情痴小説を書き続けた作家がいました。芥川賞候補にも上ったことがあったのですが、その願いを頓挫させてしまったのです。『どうして、こう言った小説を書かれるのですか?』と問われた時に、『金のためです!』と、彼は平然として答えました。魂を売ってしまった物書きに、人を雀躍とさせ、生きて行く勇気を与える物を書くことは到底できないのです。
              
 山田風太郎が、『実に人間は、母の血潮の中に最初の叫びを上げるのである。』と言いました。彼が医学生であったとき、出産に立ち会ったときの驚きを、そう言葉にしたのです。「いのちへの畏敬」が、この言葉に満ちています。すべての人が、例外なく、そのようにして誕生するのです。これは、いのちの付与者の賢い知恵によったのですから、「聖」とすべきであります。ただ、そこを「神秘の世界」とするか、「淫靡な世界」とするか、どのように用いるかは、各自が問われていることなのです。

 ある国では、『年間150万もの命が、堕胎によって闇に葬られています!』と聞きました。実数は如何ほどなのでしょうか。どこの国も、生命軽視で満ち、性への愚弄が進んでいます。「生」の中にある「性」は、母の血の中にある、神秘で畏敬にあふれた荘厳さの只中にこそ、「基調」があるのです。残念ながら、多くの青年たちが踏み違った歩みの中で、自らの命をたち、宿したいのちを葬っているのです。あの悪名高いポンペイもソドムも、性の頽廃の末に滅びてしまったのです。

 すべての自由が与えられている現在、「性」が玩ばれている風潮の中で、「生」と「性」とが、どれほど厳粛な事かを、この時代を生きる青年たちには、ぜひとも知って欲しいと願う初春であります。
(絵画は加藤水城作「早春の前穂高」)

2007年4月8日日曜日

高倉健


 同級生に誘われて、「網走番外地」や「唐獅子牡丹」の映画を観たことがあります。高倉健の主演で、博徒の世界の刃傷や報復の物語でした。自分の血の中に、ヤクザの血が流れているのではないかと錯覚するほどに、『格好いい!』と思いました。大学紛争の時代、東京大学の全共闘のパンフレットに、背に唐獅子牡丹の刺青を入れた健さんの背中を模した挿絵(イラスト)が載っていましたが。東大生がそうだったのなら、私たちが、健さんに憧れても当然だったと言えるでしょうか。単純明快な物語で、スカッとさせてくれました。どちらかの映画は、オリンピックが東京で行われた年だったのです。
 
 その健さんを、久しぶりに銀幕に見たのが、「鉄道員(ポッポヤ)」と「単騎千里を走る」でした。初老になっていて、背中の唐獅子牡丹も元気がなくなってきているだろう彼が、まったく違った堅気の世界に生きる男を演じていたのです。その違いを埋めるのに少し時間がかかったのですが、無口な男っぽいところや渋さは、まったく変わっていませんでした。もう彼の手には、ドスや鎧通しはなかったので、なぜかとても安心したのです。

 中国でダントツ人気の日本の映画俳優が、この高倉健なのだそうです。いまだにそうなのです。博徒を演じた彼ではなく、あの「文革」の終わった1970年代の終わりに製作された、「君よ憤怒の河を渉れ」と言う映画の元検事の主人公を演じた彼が、中国の人々の心を捉えたのです。現代の50代前後の人たちには特別なのでしょうか。 

 私たちを教え下さる先生が、この健さんを知っていたのです。彼女のお父さんが50代でしょうから、お父さんに聞いてのことなのでしょう。健さんとしてではなく、演じた主人公の名を知っておられたのです。 

 混乱し経済の立ち遅れていた中国が、外国映画の上映を許した初期のものでした。銀幕に映し出された、近代的な都市の様子、乗る車、走っている電車、着ている衣服、何もかも珍しかったのです。開放政策が始まって、目標を必要としていた中国の人々に、この映画が、その目標を提供したのだそうです。億という単位の人が観たといわれています。学校の校庭に張られた銀幕の前と裏から、何千と言う人が、中国中で観たとのことです。

 侵略した日本が、本当に憎いではないのです。日本と日本人とを赦して、受け入れようとする寛大な心があるからなのです。阿部首相には、「慰安婦問題」などで、こちらの人々の感情を逆なでするような言動を慎んでいただきたいと心から願うのです。真正な友情で、敬意を十二分に払って関係の回復と構築に当たって頂きたいと、切に願うのです。 刺青や鎧通しで脅したりしませんから。

 今週、温家宝首相が訪日され、国会で、中国の首脳として始めて演説をされるようです。旅の無事を願いつつ。 
(写真は、松竹映画「単騎千里を走る」の一場面)

2007年4月5日木曜日

『妻を娶らば才たけて・・。』


 『君のこれまでの、ぼくに対する忍耐に心から感謝しているよ!』と、今日、糟糠の妻に言いました。今日は、二人の結婚36周年の記念日だったからです。短気で激しやすく喧嘩ぱやいけど、単純で浪花節のような私を、これまで支えて、耐えてくれたのです。

 与謝野鉄幹が詠んだ、『妻を娶らば才たけて、みめうるしく、情けある・・・』を、酒を飲むたびに、独身の私は高吟していました。歌っていても、深い意味など分からなかったのですが、「才長けた妻」とか「みめ麗しい妻」とか「情けある妻」こそが、理想の妻なのだろうと思っていました。私が酔って、この歌うのを聞いていた、これまた酔っていた隣り合わせのおじさんが、『君、そんな理想の妻はいないんだ!』と、諭してくれたことがありました。鉄幹を信じたらよいのか、このおじさんのことばを信じていいのか、若かった私は迷ったのです。

 それでも、何時か、そう言った女性に会えると思って、好きになってはあきらめ、愛をささやかれては逃げて、26まで落ち着きませんでした。その頃、東京の女子高で働いていて、年頃の少女たちの淡い恋の対象となっていたのです。男のいない社会ですから、こんな私でも、その対象とされていたのでしょうか。下駄箱には花模様の封筒や小さな包みが、いつも入っていました。下宿先まで追いかけても来ました。しまいには同僚や短大の教師や卒業生までもが言い寄ってきたのです。この恋愛攻勢を避けなければなりませんでしたから、逃げの戦法以外には無かったのです。

 ところが、26を目前にしていた私の人生に、大きな変化が起きたのです。それと同時に、一人の女性との出会があったのです。彼女は、ちあきなおみの様にハスキーではありませんでしたし、初恋の人のようにはときめかなかったのですが、『この女(ひと)こそ俺の妻だ!』との言い知れない確信が心の内に与えられたのです。また鉄幹が言うような才や美や情を、彼女のうちに見つけてはいませんでした。

 ところが36年、共に生きてきた彼女は、あの結婚の理想に負けたおじさんのことばが、間違いであったことを証明するのです。私は理想を掲げて、彼女を見てきませんでしたが、確かなのは、もっとも相応しい最善の妻であったことなのです。もちろん彼女にも、私は理想には程遠かったのでしょうけれど、出会わせてくださった大きな意思を、彼女が認めたからなのでしょう。

 私のもとに処女として来て妻となってくれた彼女との間に、4人の子供が与えられました。また、幸いにも3人の孫もあります。これから後、何年、共に過ごす事が出来るのでしょうか。どの様なことが待ち受けているのでしょうか。その日々を、彼女と手を取り合いながら、共に歩んで行こうと、新たに決心させられた、記念日でありました。

  ●「糟糠の妻」・・・・若い頃から、苦労をともにしてきた妻を言います。酒かすと米ぬかのこと。

2007年3月25日日曜日

90歳、おめでとう!



 「90歳のお誕生日おめでとうございます。
 心からお祝いを申し上げます!

 長寿は、忠実なお方からの祝福ですね。ただただ長生きできたことを、心から感謝されたら素晴らしいと思っています。体調が、若い頃のように優れないのは、長寿者の「おつり」のようなものかも知れませんね。そのことを嫌がらないで、また戦わないで、ただ感謝していて欲しいと願っています。ぼくも60過ぎで、若いと言われますが、矢張り年相応ですから。

 お母さん。ぼくが高校2年の時に、連絡があって、病院に駆けつけた時に、治療室だったと思うのですが、ベッドで顔をしかめて劇痛と戦っていたお母さんの顔を覚えています。後で傷跡を見たときのひどさに驚かされて、『痛かったんだろうな!』と思いました。その後、1年近くの入院生活で、転院先の病院にお見舞いに、たびたび行かせてもらった日々を思い出します。同室の女性患者の皆さんの事も良く覚えています。ちょっと好色な東北出身の方がいましたね。入院生活が長かったですね。その間、親爺が野菜スープを作ると、『剛、これを持ってお母さんのところに行ってくれ!』と何度も言われて、バスで駆けつけたことがありました。切断の危機を超えて、癒されて、あれから50年近くも歩き続けられたのですね。すごい上からの癒しでした。お母さんの強さと粘りとには驚かされっぱなしです。ただただ感謝です。

 また、○○の職場にいたときに、婦人科の治療で日本赤十字病院で、お母さんが入院手術をされました。その術後に家族が呼ばれたのですが、親爺が、『剛、行って聞いてきてくれ!』と言って、親爺の代行で、先生から摘出した卵巣の事を聞かされたことがありました。○○先生が、『お母様は、残念ですが良くて半年くらいです!』と厳しい表情で言われて、家に帰って親爺に報告しました。その時、親爺は、『剛、覚悟しような!』と言っていました。その頃、△ちゃんは、ちょうど九州にいて、そのことを知って、『お母さんに、本当の事を知らせたらいい!』と、たいへん強く言ったのですが、『信念があっても、万が一にも気を動転させるかも知れないから言ってはだめだ!』と言って、ぼくは頑なに反対したのです。これに親爺も賛成でした。お母さんには分かっていたのでしょうね。

 そのようなお母さんが、40年も生き続けて来られたのは、まさに奇跡でしたね。あの日赤の病室に、「病室名主」がいて,その取り巻きたちが、意地悪な顔を向けていたのを覚えています。内科患者の病室の暗い一面でしたね。洗面器に水を汲んで、ベッドのところで、お母さんの体を拭く手伝いをしたのを思い出します。ああいった事をしてくれる家族の見舞いが少なくなっていた長期入院患者さんの心理としては、妬ましく思えたのも仕方が無かったのかも知れませんね。でも。あそこにい続けないで癒されて退院できたのですからすごいですね。

 お母さんの死を覚悟した親爺が61で召されてしまって、そのあと35年もお母さんは、独りで生きてきたのですね。強いと思います。人の一生とは不思議ですね。『俺は日蓮宗!』と言っていた親爺が、最後には、お母さんの信仰の感化を受けてでしょう、信じて召されて逝ったのだから、これもすごいことですね。親爺も実母の愛を知らない人だったけど、お母さんと共感できたのだから幸せだったのではないかと思います。さびしい少女時代の他人に言えない葛藤を経て、お母さんに人生の強力なバネが出来たのですね。恵まれない環境を跳ね返して、よく強く生きてきたものです。上からの恵みですね。また幼馴染に誘われて、カナダ人のご家族との出会いは、上からの配剤だったに違いありません。彼らを通して戴いた素晴らしい贈り物を守り通して75年が過ぎたのですね。ただ賢きお方の溢れるような恵みですね。

 いつでしたか、テレビを見ていた親爺が、悲しい場面で、涙を流して、その涙を何度もぬぐっていたのを覚えています。意外と純情だったのですね。実母の愛を受けなかった男の特徴は、女性に母の暖かさ、特に乳房と抱擁を求める心理が、行動をとらせるのだそうですから、そんな親爺に、お母さんもたびたび苦しんだのですね。どうにもならない男の性に耐えたわけです。そんな親爺に、よく似たぼくが、女道楽に走らないで、今日まで生きて来られたのも、お母さんの支えが会ったからだと思います。ただただ感謝です。

 お母さんが、人の悪口を言わないで生きていた女性だった事、じっと我慢の母や妻だった事に心から感謝し、拍手します。上なるお方の祝福の実りですね。学校を出て、○○の職場で、上司の悪意やいい加減さにつまずいて、逡巡していたぼくに、何度か、忠告のことばを、お母さんが語ってくれた事がありました。それは大きな助けでした。感謝です。

 また、ぼくの子供たちに産湯をつかわしてくれたり、孫も抱いてくださって、心から感謝です。今は遠く離れたところで生活を始めたぼくと家内のために、何時も支えていてくださる事を心から感謝しています。「全世界に出て行って・・・」との御声に迫られて、従わざるを得なかったのです。これから、何が出来るかわかりませんが、心の思いを整え、ことばを覚え、幻をいだいて前に向かって進んで行こうと願っています。お母さんの幼馴染が、『熱河』に来られて働かれた事を聞いて、きっと若かったお母さんの思いの中にも、『私も!』と言った思いがあったのではないかなと感じています。特に、○ちゃんが協力的に支えてくれて、物心両面で助けていてくれる事を心から感謝しています。本当に彼は優しいですね。子供の頃に、親爺に怒られたぼくに同情して、一緒に泣いてくれたり、外に出された時に、一緒に出てくれた事が何度もありました。彼の心根がほんとうに優しいのですね。大変励まされています。彼の心配りが、一番嬉しいことで、大きな支えです。

 ただ△ちゃんが、心や顔を、ぼくたちの方に向けてくれないのは残念なのですが、彼のような冷たさも、○ちゃんの暖かさの半面に、ぼくたちに必要な事なのかも知れませんね。いやだとは思いませんが、矢張り残念です。賢きお方の前では、勝利しています。何時か分かってくれると信じていますが。○○の皆さんも、△ちゃんと同じ気持ちなのでしょうか。自分の出てきたところなので、矢張り一人の「人の子」としては、理解してもらえないことはさびしいものです。でも励まされていますので大丈夫です。ご心配なさらないでください。

 孫たちも元気に健やかに成長しています。次男と長女が、先月、ここに来て、ぼくたちを問安してくれました。親子逆転劇で、いろいろと足りない物を買ってそろえてくれ、美味しい日本料理やアメリカ料理を食べさせてくれました。

 お母さんにも来て欲しいなと思っています。日本の港から船が出ているのですが、船だと体を横にすることが出来たりですから、楽なのですが。玄界灘を渡って来てくださったら嬉しいのですが。○ちゃんとだったら来れるのかなと思っています。考えてみてください。◇ちゃんが退職しているから、ふたりで来たらいいのですが。

 お母さんのお世話を◇ちゃんと○子さんに任せっぱなしにしていまして申し訳ありません。良くしてくれている○子さんと◇ちゃんには感謝で一杯です。したい気持ちは、ものすごくあるのですがお赦しください。△ちゃんと△△代さんは、お母さんをいたわって優しくしていてくれますか。お母さんが、我慢だけしているのではないのでしょうか。でも、お母さんは強いから問題ないと思います。

 お母さんの誕生祝いが出来なくて残念です。気持ちだけ、ここから贈らせていただきます。まだまだお元気でいてください。お母さんの支えをいつも覚えています。
 祝福を願っております。
                                  2007年3月19日
                                 三男 雅仁、妻○子から
(写真は、母の母校「出雲市立今市小学校(昭和52年当時)」 今市小学校のHPから)

筑後川の水で産湯につかった義母


 敗戦後の食糧難の時代の子育ては大変だったようです。家内の家族は、東京都下に住んでいたのですが、嫁入りに九州から持参してきた和服を、たんすから1つ1つと出しては、義母は幼い家内の手を引いて西武線に乗って埼玉の田舎に行っては、米や味噌や野菜と物々交換して食べ物を工面していたそうです。子供たちを死なせるわけに行かなかった苦肉の策でした。そう家内が話してくれました。飽食の時代の今では考えられないことですが。

 ある時、その自分の着物を着ている婦人を、義母が偶然見かけて、複雑な表情をしていたのを、家内は覚えているそうです。丈夫だった義母は、栄養不良で肋膜を病み、通院しながら治療に当たりました。通院の待合室には、同じように病んだ女子大生が多くいたそうです。医者も空腹で不機嫌だったリ、自暴自棄だったのでしょうか、『あなたの病状は最悪で、そう長くは生きられないよ!』と病友の学生に言うのを聞くのです。そういわれた彼女は、通院して来なくなり、亡くなったのです。その病友のに激した義母は、『人の生死を握る医者の不用意なことばが人を死なせてしまうのだから、注意してください!』と、その医者に大抗議をしたのです。


 「ことば」が人を死なせるほどに力あるものであることを知らされた母が、その後、出会ったのが、一冊の小冊子でした。その巻頭に、「初めにことばがあった・・」と書いてありました。その意味を知りたくて訪ねた方が、実に丁寧に解説してくれたのだそうです。その様にして義母は、人を生かすことの出来る「ことば」に出会ったわけです。

 その「ことば」に励まされ、勇気付けられて、肋膜もすっかり癒され、6人の子育てを無事に果たし、明治、大正、昭和、平成を生き抜いて、今週96歳になります。人の悪口を言ったり、噂話を決してしない女(ひと)なのです。結婚生活や子育てで悩んでいる多くの女性の相談にの
って、義母は彼女たちの激励者として相談員として生きて来たのです。

 筑後川の水で産湯につかり、昭和の初期に、上京して学んだ女学生だったのですが、下宿で襲われそうになって、二階の窓から飛び降りて難を逃れるような危機もあったようです。今、義妹が介護しているのですが、体のどこも悪くないのです。ただ二階から飛び降りた時に痛めたのでしょうか腰だけが悪くて、ベッドに寝ているのですが。

 『お義母さん。心からのお祝いを申し上げ、残された日々に倍旧の祝福を、異国の地から申し上げます。』
(写真は、「久留米城址」 久留米市HPTより)
*筑後川のライブ映像http://220.99.116.203/programs/camera/camera.cfmです

2007年3月21日水曜日

父と兄とサーカス


 「美しき天然(武島羽衣・作詞、田中穂積・作曲)」の曲がスピーカーから流れて、観客を誘うサーカスが街にやって来たのです。拳骨親爺でしたが、子どもを喜ばすのが好きだった父が、われわれを連れ出して、山の中から、大挙して見物に行きました。

 旅回りで、面白いピエロの寸劇や、綱渡りや、ライオンの曲芸もあったようです。思い出が余り鮮明ではないのは、サーカス見物に集中していなかったからかも知れません。私のすぐ上の兄が、大変な悪戯小僧でした。父に一番叱られた子で、学校でもどこでもガキ大将で、何時も喧嘩をしたり、落ち着かない兄だったのです。ところが大変優しい兄で、彼からは殴られた記憶が、まったくないのです。その兄が、サーカスを見ないで、サーカスを見ている人たちを振り帰って見て、彼らの食べている物に関心を寄せていたのです。その兄に、父は、『よそ見をしてないでしっかり見ろ!』と言っていたのを、昨日のことのように覚えています。

 1800年代中期だったと思いますが、ドイツ敬虔主義の流れを汲む人が、自分の子たちを、町に下宿させて勉強をさせていました。ある時、その町にも、サーカスがやって来たのです。初めての経験だったのでしょうか、親から離れている事をよいことに、初めての見物を決め込んだのです。ところが、その日、彼らのお父さんが田舎から出て来て、下宿を訪ねたではありませんか。その下宿先の主人に尋ねると、『坊ちゃんたちは、町に来たサーカスを観に行っておられます!』と告げたのです。するとお父さんは、そのサーカスの行われた仮設天幕に、入場券を買って入りました。きっと大変なことになるに違いありません。

 敬虔主義の背景の家庭の子が、サーカスを見学するなどと言う事は、ほとんど許されないことだったからです。ところが、夢中になって観ている子どもたちの上の方に席をとって座ったお父さんが、サーカスに集中している彼らに向かって、『クリストフ、お父さんもここで観ているからね!』と声をかけました。怒られて当然なのに、自分たちと同じよう、サーカスを楽しんでくれた父親を、後になって、『そう言った父でした!』と、クリストフ・ブルームハルトが述懐しているのです。 

 そう言った父の感化を受けて、彼は、父親と同じ道を歩むのです。バート・ボルという村には、ヨーロッパ中の人たちが彼の話を聴きたくて集まって来たのです。心も体も、すっかり癒された人々で溢れていたと記録されています。子供時代の体験、特に父親との体験は、その人の一生を大きく左右するようです。

 生きていれば97歳の誕生日を迎えたであろう父を、懐かしく思い出している「立春」間近かの夕べであります。

2007年3月20日火曜日

『ギブ・ミー・チョコレート!』


 中学1年から10年間、電車通学をしました。その下車駅の近くに「名画座」があり、いつも2本立ての洋画が上映されていたのです。何度も学校をサボっては、ポケットの中にタバコを忍ばせて、この映画館に入って時間をつぶしていたのです。ところが一向に英会話の勉強にはなりませんでした。便所で隠れて吸ったタバコにむせていたのを思い出します。中2でした。

 鼻がもう少し高くなることや、青い目には憧れませんでしたが、銀幕に映し出されている、アメリカ社会の物量の多さに圧倒されたのです。日本は、やっと経済的に高揚しつつあり、景気もよくなりつつあった時代でしたが、山のように詰まれた自動車の残骸が映し出されているのを見て、『すごい!』と思わされました。アメリカ社会の豊かさを、廃品の多さが、それを裏付けていたのです。経済力の違いの大きさに圧倒されたのを鮮明に覚えています。

 戦争が終わって10数年経っていたのですが、『こんな国と戦争したのか!』と思わされたのです。山の中から出てきて、東京に移り住んだ頃、進駐軍の兵隊が、道路わきで、兄にまねてベーゴマを磨いたりして遊んでいたわれわれに、ガムやチョコレートやバラ銭を投げていました。競ってそれを拾いました。家近くの鉄道の引込み線に停車していた列車からも、同じようにお菓子やお金が投げられ、被占領国の子供たちが、『ギブ・ミー・チョコレート!』を叫んで拾う必死な姿を眺めて、彼らは嬉嬉として喜んでいたわけです。

 敗戦国民の惨めさを、いやと言うほど味わされたのです。ところが、母が出会ったアメリカ人は彼らとはまったく違っていました。物を投げて喜ぶ人たちではなく、戦時下で野蛮な行為を平然として生きて来た我が国を、正しく教化したいと願った、マッカーサーの招聘に応えてやって来た人たちの一人でした。優しい目、柔和な人格、高尚な生き方は一目瞭然でした。だからと言って、母は「洋かぶれ」したのではなかったのです。

 同じ頃、家内の家族も、アメリカ人と出会っていました。「ララ」と呼ばれた衣服や食べ物や乳製品が、敗戦国の、これから国を担って行くであろう子どもたちの体躯の健全な成長のために送られてきたのです。その1つが、「脱脂粉乳」でした。日本のすべての学校に配られていたのです。家内は、古着をもらって着たのを覚えているのです。かつての敵を赦すだけではなく、愛して行為をしている彼らに圧倒されたのです。そのような恩恵を受けて、日本は経済大国になりました。決して忘れてはいけないことです。家内は、貰い下げのスカートを穿いたのを鮮明に覚えています。

 今度は、隣国から本当の意味で赦されて、友好関係を深めて、アジア諸国の物心両面での豊かさに貢献して行くべきだと、日本のこれからの使命を確信するのです。

2007年3月17日土曜日

「蟻の兵隊」の総隊長


 九州の温泉町からやって来た同級生がいました。お母さんが働いて、彼に仕送りをしていたのでしょうか。この彼が遊びに来た時に、有名な陸軍の上級将官の甥だったのを、父に聞いて知ったのです。彼のお父さんも、ベルリンのオリンピックの馬術で優勝した西選手の補欠だったのだそうです。戦後のどさくさの中を、彼はお母さんとお姉さんと、別府の町でひっそりと生活をしていたのでしょうか。『親爺の軍帽をかぶってチャンバラをして遊んだことがあった!』と彼が言っていました。

 最近、インターネットのサイトで調べていましたら、彼のお父さんのことが分かったのです。戦後、中国に残留した日本軍全部隊が統合されて「暫編独立第十総隊」が編成されました。その総指揮をとったのが彼のお父さんでした。上官命令で中国の山西省に残って、残留邦人の保護のために、将介石の率いる国民軍の傘下で戦ったのです。しかし戦いの後に破れて投降します。部下の命の保障を取り付けた後に、彼のお父さんは自害をして果てたのです。

 ところが、残留は「軍命」ではなく、司令官らが帰国するための責任逃れの画策だったことが、お父さんの部下たちの証言によって、後になって判明するのです。自らの生き残りのために狂奔する上官に対して、邦人保護や生き残った部下の安全のために、奔走した彼のお父さんの潔さに、残忍だとされる日本軍の汚名がすすがれる思いがいたします。

 この残留部隊の顛末は、奥村和一著「私は『蟻の兵隊』だった(岩波ジュニア新書)」、さらには、映画「蟻の兵隊(
http://www.arinoheitai.com/about/index.html)」に詳しいのです。

 明治以降、成績優秀で身体壮健な農村の若者の多くが、活路を軍人になることに見出したことを、「昭和の動乱」の著者で、敗戦時の外務大臣の重光葵が記しています。その友人のお父さんが宮城県の出身だのですから、きっとそうだったに違いありませ
ん。その彼が、苦みばしった好青年でした。まるで昭和の動乱の中を生きて死んで逝った「昭和の武士」のお父さんを思い起こさせるほどでした。空手をやっていて、高倉健が好きで、よく一緒に映画を観たり、飲み歩いたことがありました。

 もう何十年も音信が途絶えてしまっていますが、きっと元気で過ごしているのだと思います。この映画を観、その本を読んで、どんな気持ちで亡き父を思っているのだろうかと、遠く日本に思いを馳せている週末です。
(写真は、「山西省の街風景(新華社所蔵)」です)

わが手にある将来!

 『過去は変えられないが、将来は私たちの手の中にある。無関心ではいけない。無関心が常に加害者を助ける。』と、エリ・エーゼル(ノーベル平和賞受賞者)が言っています。ホロコースト(大虐殺)の生き残りで、ユダヤ民族として悲惨な過去の体験を持ちながら生きて来た人のことばです。

 先日、娘が訪ねてくれました。『どんな風に生きているのだろう?』と思ってでした。久しぶりの寛いだ会話の中で、『お父さんは、よく怒っていたよね!』と言っていました。本当にそうでした。血筋のせいにしては、兄たちや弟に申し訳ないのですが、「親爺譲り」の単細胞で「短気」な人間だったのでしょうか。それでも加害者であった4人の子どもたちは、『よく育ったな!』と思うのです。家内が、しっかりと補ってくれたからなのですが。若いころは、道で肩をぶっつけられると、振り向きざま相手を殴っていました。売られた喧嘩はいつも買っていました。兄たちにしごかれて強かったからです。

 そういった過去は変えられないのですね。恥じ入るばかりです。殴った人には、お詫びをしたい気持ちで一杯です。もう年をとってしまって、喘息気味で喧嘩どころではありませんが、「不正」に対しては、いまだに血気盛んなのに、驚かされます。こういった「短気」な国民性が、あの侵略戦争を起こしたのに違いありません。父の世代の罪に対して、自分は同罪だと思って恥じ入るのです。

 でも、私の手の中には、まだ「将来」が残されてあります。『なるようにしかならない!』のではなくて、過去の過失を踏まえて、『そうでない平和な明日の建設をして行く責任が、私にも私の国にもあるのだ!』ということが、エーゼルのことばで分かります。

 同胞600万人もの命を奪われた彼が、変えられない「過去」にではなく、関わることの出来る「将来」に、思いを向けていることに教えられます。きっと私の娘は、「変えられれている父親」を見に来たのではないでしょうか。さてさて、がっかりして帰って行ったのでしょうか、感謝して帰って行ったのでしょうか。

 喧嘩ではなく「和解」のために、残された日を生きて行きたいと心から願うこのごろです。

2007年3月13日火曜日

平成の鎌倉武士


 私の父は、『我が家は、頼朝から拝領した土地に生き続けてきた鎌倉武士の末裔なのだ!』と言っていました。何も残さないで逝った父の唯一、立つところだったのでしょうか。そのせいでしょうか、父が、よく「高楊枝」をくわえていたのを思い出します。でも、武士の出と言っても、それは遥かに昔の話で、この間まで畑を掘り起こして、土のにおいのする百姓武士(郷士)だったに違いないのです。それでも「一分」の武士の魂・心意気を受け継いでいたのだろうと思うのですが、平成の御世には、いかほどの事なのでしょうか。 

 3年ほど前のことですが、娘に誘われて、南信州の大鹿村に残る、田舎歌舞伎を見たことがあります。徳川幕府の禁制をかいくぐって伝承されて来た、本格的な歌舞伎でした。その時の演目は、「菅原伝授手習鑑」で、自分の子を主君・道真の子の身代わりに殺してしまうと言う話です。しかも、その子は承知で進んで犠牲になるのです。何時かご覧になられることを願って、詳しい話を省略します。悲しい話ですが、何となく分かるのです。イスラエル民族に伝わる話しの中に、似たような話があります。父に殺されそうとする子は、分っていて祭壇に自らを横たえるのです。「父への従順」と「父への飽くことの無い信頼」を示すのです。

 事の是非は論じませんが、こういった精神こそが、武士の魂なのでしょうか。下克上で、主君を裏切る者、実父を実子を殺してしまい、娘を政略結婚の犠牲にしてしまう時代の只中で、「潔さ」が、そこに示されているのです。

 私の叔父は、大学在学中に学徒出陣で、戦地に赴き、南洋で帰らぬ人となりました。学問を好んでいた叔父は、兄弟姉妹を思い、故郷をしのび、恋する人を心に抱えながら戦死したのではないでしょうか。学徒兵たちが、遺書には『天皇陛下万歳!』と書いても、死に際には、母を父を弟妹を呼んだのだと言われています。無謀な戦争でしたが、父や母を守ろうと、命をささげた方々の大きな犠牲によって、尊い「平和」を得たわけです。真の武士は、無茶苦茶には生きないのです。しっかりと歴史を認識して、過去の何が間違っていたのかを見極めて、はっきりと謝罪し、潔く認めることです。

 百姓武士の末裔ですが、アジアの人と土とを愛して、平和と和解とに役立てたらと、心から願う春待望の今日この頃です。

2007年3月11日日曜日

叱り上手

 就学直前に、私は肺炎にかかって、町にあった国立病院に入院してしまいました。それで、父が用意してくれた制服や靴を着用して、小学校の入学式に出ることが出来なかったのです。それ以来、3つの小学校に学んだのですが、4年生ころまで、風邪と肺炎をくりかえしていました。医者に、『今度肺炎になったら命の保証はありませんよ!』と言われたほどでした。ですから出席日数は極端に少なかったのです。たまに学校に行きますと、病弱なのだからじっと座っているかと思うと、授業中に立ち歩くし、悪戯はするし、してはいけないことをしてしまうし、廊下だけではなく校長室にまで立たされる日々でした。

 ですから担任に、よく怒られたのです。どの学期、どの学年の通信簿にも、『まったく落ち着きがありません・・・生活態度が・・・』と記されていました。怒られても、自分が悪いことが分っていましたので、殊勝な気持ちで立たされていたのを覚えています。でも反抗的であったこともあります。でも先生から叱られた事を、今になって心から感謝しているのです。お元気かどうか分かりませんが、みなさんにお会いして感謝を言いたい気持ちで一杯です。

 慶応義塾の名物塾長だった小泉信三の逸話が残っています。電車に乗っていた時、座っていた慶応の学生に向かって、『立って、この方に席を譲って上げなさい。』と言ったのだそうです。叱ったのではないのですが。言う人に勇気が必要ですし、聞く人にも従順が要求されます。私は、人としての在り方を塾生に教えた小泉信三に本物の教師像を見るのです。

 私を教えてくれた先生の中に、おばあちゃんの内山先生がいました。よく叱ってくれたのです。でも叱っただけではありませんでした。ほめてもくれたのです。「学習障害児」の小学2年生の私を、諦めなかったのです。もう一人、中学の3年間、担任をしてくださったK先生がいます。彼は、決まって教壇の上から降りて、始礼と終礼をされました。どうってこと無いのですが、必ず、私たちの立っている床に降りられて、『私はあなたたちと同じ所に立っていますよ!』と言ってくれていたのだと思うのです。

 そのほめられた事と、教壇を降りられた先生のあり方が原因したのでしょうか、「学習障害児」だった私は、しばらくの間でしたが教員をさせていただいたのです。

 交番のおまわりさんもおじさんも、アルバイト先でも、仕事先でも、必ず叱ったり、注意してくれた方たちがいたのです。 「叱り上手の大人」が、この時代に、もっといたらいいのですが。

2007年3月9日金曜日

『あなたは大丈夫!』


 『あなたの様な方は決して精神病にはならないでしょうね!』とよく言われてきました。悩んで考え込むようなことが無かったからです。加害者であっても、被害者であっても、何があっても、一日の終わりになると、すぐに眠りについて、一晩たつと、すっかり忘れてしまう性分でした。これも大いびきをかいて寝てしまう父譲りだったのです。その父と男の子4人の「5人の子ども(!?)」を、私の母は育てたのです。小柄でしたが、ガンバリ屋でした。父は、兄弟の中で私だけを、私立の中学校に行かせてくれました。

 ちょっとえこ贔屓だったようです。同級生には、医者や社長や中央競馬会の調教師の子がいました。父兄会の時に、そんな彼らのお母さんに、『負けたくなかった!』のだそうです。大人になって、母がそんなことを、ふともらしていました。ですから、週に一度は都心の有名なデパートに行っては、食材やおしゃれ着を買い込んでいたようです。そういった母の負けん気を、どうも受け継いで育ったようです


 家内との間に、男の子二人と女の子二人が与えられました。その養育のために、一生懸命に働きました。本業のほかに、1つの会社を持っていて、夜昼働いたのです。

 子育てが終わって、子どもたちが結婚して孫が出来た頃のことでした。転倒して利き腕を怪我してしまったのです。どう力を入れても腕が上がらないです。生まれて初めてのことでした。検査の結果、「右肩腱板断裂」だったのです。すぐ手術をして、丸二日間、ベッドに固定されて牽引されてしまいました。寝返り1つ出来ない不自由さが、こんなに辛いことかと知らされ、手術前に、『実は、この病院で手術後に自殺した人がいるんです!』と聞かされました。その気持ちに誘惑されたのも事実です。
 
 でも回復は奇跡的でした。と言ってもして、回復には8ヶ月ほどもかかりましたが。機能回復の途中の事でしたが、遠い山を見つめていましたら、ポロリと涙が落ちたのです。がんばって生きて来たのに、『腕が利かない!』、過去と将来とが断絶してしまったように感じたのです。この涙を見た家内が『ヤバイ!』と思ったのでしょうか、子どもたちに緊急連絡をとりました。長女はシンがポールにいましたので来られませんでしたが、3人の子が入れ替わり立ち代りやって来て、私を外に連れ出そうとしたのですが、『左腕をまた断裂したらどうしよう!』との恐れで外出できないのです。完全な鬱状態でした。

 そんな状態が2~3週続いたのでしょうか、子供たちの訪問、そして初孫誕生の知らせで、完全に回復したのです。『孫を抱ける!』と言う希望が湧き上がって来たからです。

 精神疾患は、風邪のようです。誰でもいつでもかかるのです。『大丈夫!』と過信していると、ひきますよ。ご注意を。

2007年3月6日火曜日

大好き!天津人


 昨年の秋の週末、天津市の「水上公園」の一角にある、「周恩来記念館」を見学しました。そこには、令夫人も一緒に記念されていました。お二人の夫婦仲が大変よかったことで有名で、これから結婚を考えている男女にとっての素晴らしいモデルなのだそうです。それで何組もの若い男女の姿がありました。

 これまで、国際報道の映像や写真を見ました時に、主席の脇で穏やかな表情を見せていた周恩来元首相のお顔を、よく覚えています。

 戦国の武将に、武田信玄がいましたが、彼の脇に山本勘助と言う参謀がいて、信玄の知恵袋だったと言われています。勘助は、自分を「二列目」における人だったのです。決して能力が無かったからではありません。かえって、信玄以上のものを持っていたとも言われています。それでも、自分を「第二」の位置に置くことの出来た人で、補佐役に徹して生きることが、彼には出来たのです。「下克上」の時代に、そのように生きることは大変難しかったのですが。

 そういった意味で、私は、周恩来に勘助の心意気を重ねて見てしまうのです。もちろん主席亡き後は、彼が、この国の舵取りをなさったのですが。

 1976年1月8日、彼が亡くなったときに、ニューヨークの「国際連合」の前庭に掲出されてある中華人民共和国の国旗が、「半旗」で掲げられました。時の国連事務総長ワルトハイムの独断だったそうです。その理由を彼が次のように語っています。『2つの理由があります。1つは、この国の通貨の量は大変多いのですが、周総理は一元の貯蓄も残しませんでした。2つは、この国は、全世界の4分の1の人口10億人がいますが、周総理には一人の子もいませんでした。』とです。堅実に、忠実に、難しい国情の中にあって生き、秀でた政治家・指導者に、格別な敬意を示したからでした。実にそうされるに値する人物だったわけです。

 周元首相は、現在の南開大学の前身の学校で学んだことがあって、天津人からの人気はいまだに衰えていないようです。その記念館ですが、人間崇拝は見られません。彼の業績に対しての感謝や賞賛が溢れていました。この街でお育ちになられた、温家宝現首相もまた、さらに素晴らしくこの国を舵取りして行かれることを、心から願うのです。

 私は、この国から多大な恩恵を受けた民の一人なのですから、感謝と敬意を込めて。



(写真は、天津の五大道の風景です)

2007年3月4日日曜日

「アリランの歌」から「北国の春」まで


 朝鮮民族の望郷の歌である「アリランの歌」を、目を閉じた父が懐かしそうに歌っているのを何度も聞いたことがあります。戦前、京城に住んで、仕事をしていたことがあった若き日の父には、彼の地での出来事を思い起こさせる歌だったのでしょう。ところが、この歌の替え歌を、上の兄が歌っていました。それは朝鮮半島から、無謀にも強制連行して酷使したみなさんを侮辱した歌詞でした。運動部の仲間から聞き覚えで披露していたのです。 悪意はなかったのですが。

 なぜ日本人は、隣国の朝鮮半島や大陸のみなさんを侮辱するのでしょうか。インスタント・カメラのことを「バカ○○○カメラ」と言うのですが、『バカでも○○○でも写せるカメラ!』との意味なのですが、多くの人は知らないで、このことばを使っています。侮蔑用語ですから、決して使ってはいけません。


 記録を残すための文字が無い、着る物も持たないで裸、食べ物を栽培する術も知らなく空腹だった我々の祖先に、文字も、糸をつむいで織って布を作る技術も、穀物や蔬菜の栽培法も、錬金術も、みんな教えてくださった国の方々なのにです。しかも、多くの方々は日本に帰化して下さったのです。ですから、私たちの体には、朝鮮民族や中国民族の血が、色濃く流れているのです。我々日本人が「純血種」だと言うのは、民族的にはありえないのです。能力も容姿も肌の色もまったく変わりがありません。もちろん能力も資質もですが。


 それなのに豊臣秀吉は、「朝鮮征伐」と銘打って朝鮮半島に派兵して、この国を蹂躙しました。まったくの暴挙でした。また日清戦争に勝ったと錯覚して以来、この中国の資源や市場を奪おうと、軍隊を駐屯させ、物資の運送の鉄路を敷き、工場を建設し、石炭やさまざまの資源を略取し、ついには、侵略戦争までしでかしたのです。朝鮮半島も東南アジアも同じように侵略したわけです。

 私たちの愛唱する演歌だって、その始まりは、大陸や朝鮮半島にあります。いつでしたか、私たちの町にある大学の大学院に留学していた方が、「北国の春」を、きれいな中国語で歌ってくださったことがあります。これは逆輸入でしたが、悪びれずに喜んで聴かせてくれたのです。

 かつての侵略国においで下さって、謙遜にも日本の教師から工学を学んでくださって、流行歌も覚えてくださり、冷ややかな目を向ける人たちの目を気にしないで、何年も学んで学位を得て帰国された方でした。この方とは、まだ交信が続いております。

 それで今度は、私が家内の手を引いて、この国で、この国の言語と文化を学ぼうと願ってやって来たのです。中日の友好の一環となろうとしてです!
(写真は、100年ほど前の中国の旧家の「消火器」です)

2007年3月2日金曜日

愚直の反骨精神


 時代の流れに逆行して生きるのは、確かに大変なことです。『その時代の正しさは、多数の人がよしとする多数決原理が決めることだ!』と、以前、ある新聞のコラム欄に読んだことがあります。そうしますと、少数者は常に間違っていると言う事になってしまうのですが、本当に、そうなのでしょうか。いつでしたか、『赤信号みんなで渡れば怖くない!』と言うことばが流行ったことがありました。「みんな」の中に紛れ込んでしまうことを言い当てています。信号を守る私は、なぜか独りでさびしそうで、行動を共に出来ない、はみ出し人間になってしまっています。赤信号を渡っている人が正しくて、守っている私が誤っているのでしょうか。そんなことはありません。

 そういったこととは真反対に、「反骨主義」を貫いて生きている人もいるのです。内村鑑三が、「教育勅語」を読むときに、天皇皇后の写真への拝礼の角度が足りなく、「不敬行為」だとされて、結果的に一高の教壇を追われる事件がありました。また、元東京帝大教授で貴族院議員・美濃部達吉が「天皇機関説」を著して、不敬罪で告訴されて議員を辞職しています。最近ですと、亀井静香らが、「郵政法案」に反対して自民党を追われました。さらに高校の先生が、「国歌」の唱和を拒み、「国旗」への拝礼を拒んで裁判沙汰になっています。先生にも、しない自由があるのだと思っていましたら、そうではないのですね。しない人は罰せられるわけです。その時、決まって言われるのは、『みんながしている事を、どうして出来ないのか!』と言うことなのです。

 信条や思想が原因して、出来ない人がいてもよいのが、「自由主義社会」のはずです。韓国の京城(現在のソウル)にあった女学校で、「宮城遥拝」をしなかった女学生がいました。「しない自由」の無い時代のことだったのです。けれど、彼女は、人に過ぎない天皇や天皇の住む東京に向かって、拝礼する事が、どうしても信条上出来なかったのです。ところが、敗戦した日本で、天皇は、自ら「人間宣言」をしたのではないでしょうか。昭和天皇は正しく人でした。直腸癌に侵されて病死する人だったのです。あの時代の「みんな」が神に祀り上げただけです。 

 「多数決原理」は確かに公平の原理ですが、少数者を無視し、ないがしろにしたら、多数者の過ちを犯してしまうのです。その過ちで、どれだけの有為な青年が死んでいったことでしょうか。私の叔父も戦争で逝きました。

 何だか、軍靴の靴音が遠くから聞こえてきそうでなりません。

2007年3月1日木曜日

「上海帰りのリル」


  幼い頃、ラジオから流行歌が流れていました。意味は分かりませんでいたが、覚えた歌が数多くあったのです。ある歌を、高校を卒業して何年も経って、再会した同級生が、しみじみと歌っていたのです。新宿の酒場ででした。私は25で酒をやめましたから、飲み屋に出入りする事はまったくなかったのですが、仲良しだった彼の誘いで、久しぶりに入ったのです。その時、彼が歌ったのが、『上海帰りのリル』でした。

 何かを思い出そうとしながら、哀調に満ちて歌っていたのが印象的でした。その晩、彼の家に泊めてもらったのですが、多分一番良い部屋だと思うのですが、海軍の軍服を着、軍帽をかぶった20代後半ほどの青年の写真が掲げられてありました。彼のお父さんの遺影でした。彼の家には、お父さんがいなかったのを知っていましたし、遊びに行きますと一生懸命に働いて彼を育ててきたお母さんがご馳走してくれたのです。きっと、お母さんの部屋にあった写真を、結婚した彼が引き取ったのでしょう。彼は、お父さんを思い出し、お父さんのいない子供の頃に流行った歌を思い出して歌う、そういったパターンで酒を飲むのだろうと思わされました。

 この彼が無類の悪戯小僧で、何時も担任に怒られていました。同じように悪戯をしても、彼が見つかって彼だけが叱られていました。そんな彼をいつも連れ歩いた仲良しでした。父親のいない寂しさがあったのでしょけど、父に愛されて育った私には、彼を理解してあげる能力はありませんでした。大人になってがんばったのでしょうか、ある会社の社長をしていました。
  
 父親のいない同級生、小学校からずっと、どのクラスにも何人もいたのです。やはり、戦争の被害を受けた最後の世代が我々なのだと思うのです。そういえば寂しそうでした。彼の世田谷の家に行くと、リトル・パティやコニー・フランシスの歌う歌が、いつも流れていました。

 もしかしたら、彼のお父さんが海軍でしたら、飛行機に乗っていた可能性もあるわけです。そうしますと、私の父は軍用飛行機の製造に関わっていましたから、父の手の入った飛行機に乗って出撃したかも知れません。想像ですが。 攻撃して死なせても戦死して亡くなっても、人の人生を戦争は狂わせた事は確かです。

 父親の無事の帰還を信じて待っていた幼い彼の耳に、聞こえて来た流行歌の歌詞の「上海帰りのリル」が、強烈に彼の父への思慕の念と重なるのでしょうか。

 子の世代にも、孫の世代にも、同じ過ちが繰り返されないことを切に願ってやみません。 それにしても彼はほんとうに悪戯小僧でした!
(写真は、上海観光局による「明朱電視台」)

2007年2月26日月曜日

「武士道」


 昨年の秋に、久しぶりに札幌を訪ねました。青年期に、この町に憧れたのですが、ここで学んだり住んだりする機会を得ませんでした。

 私は、時の北海道開拓使長官・黒田清隆に請われて、1876年(明治9年)札幌農学校の教頭に就任したクラークが好きだったのです。彼の『少年よ、大志をいだけ!』を聞いて、『少年の私は、大きな志をもって生きるべきなのだ!』と言う挑戦を受けたからです。そして彼の間接的な薫陶を受けた、内村鑑三や新渡戸稲造に強烈な関心を寄せたのです。明治期に、アメリカに渡って学問をし、西洋のものの考え方を身につけて帰って来て、それなりの主張を、この二人が日本の社会の中でしたからです。

 とくに、稲造の著した「武士道」は、実に興味ある本です。私の次男が送ってくれて、改めで読み返しました。
彼は、人斬りを容認し礼賛しているのではありません。中国の思想家の孔子や孟子の教えた、「徳」、「仁」、「義」、「孝」、「忠」などを、武士は生きたのだと、彼は記しています。ヨーロッパの「騎士道」にも通じるものがあるのです。何よりも彼自身、武家の出で、武士としての振る舞いを身に着けた人だったのです。その武士の生き方は、女子にも庶民にも影響を与えて、日本全体が、「武士道」の精神的感化を受けていたと言うのです。私たちは、日本人としての「自意識(アイデンティティ)」を知るために、この稲造の著した本は、読むべき一冊かと思うのです。

 その彼が、中国の春秋時代の思想、そして西洋思想に触れて、日本人を見つめ直したことに意味があります。彼は、『われ太平洋の橋とならん!』との志を持って学び、後に国際連盟の事務局次長に就任し、また教育事業に従事して行くのです。偏屈な亡霊のような侍にではなく、彼が国際社会に通用した人となったことに意味があるのだと思うのです。

 その彼が札幌で学んだ1つの事は、『紳士たれ!』と言う事でした。彼の学んだ学校の学則が、この一言だったのです。その稲造や鑑三の薫陶を受けた、田中耕太郎が、「教育基本法」の草案者の一人でした。文部大臣だったのです。私が受けた戦後教育は、ここに基本があったのです。その前文に「真理と平和を希求する人間の育成を期する」とあります。ところが、新しい基本法からは、「平和」が除かれ、「正義」が加えられているのです。国の正義のために、「平和」が犠牲になるのでしょうか。

 国の行き先が誤らないことを切に願う、春待望の今日この頃であります。

2007年2月25日日曜日

終の棲家



 「終の棲家」として住んでみたいのは、南信州の駒ヶ根です。この町を車で初めて通ったときに、そのような気持ちにさせられてしまいました。町並みが整然としている、自然が美しい、信州人気質が好きだとかいった理由ではありません。第一印象がよかったのです。次女の家族が、飯田に3年間住んで、その滞在期間の間に孫が生まれました。その孫に会いたくて何度も訪ねた帰りを、高速道路に乗らないで、国道を通るたびに、駒ヶ根の町並みに入ると、何時もそう思わされたのです。

 これまで、たくさんの街を訪ね、通過し、泊まったりしてきましたが、そういった気持ちを持たせてくれたのは、この駒ヶ根だけでした。そんなに豊かには見えませんし、歴史があるのでもないと思います。そう願わさせたのは、年齢的なこともあるのでしょうか。境遇的なものもあるのだと思います。残された生涯を、海を渡って過ごそうと決意し、準備し始めてから、その思いはさらに強くなりました。持ち物や財産を処分して、わずかな衣服と書籍を持って、こちらに来ました。そして父から経済的に独立してから、初めて無収入の日々を生き始めたのです。

 餞別に頂いたり蓄えたものを持つて、寄留者のようのように生き始めました。2年間の経費には、十分ではないと思いますが、備えられると信じております。結婚してから借家住まいを、ずっとして来ましたが、その最後の借家をお返しして、そこにあった35年間のほとんどの物を、思い出を除いて処分してしまいました。何かが残っていたら、挫折した時に、そこに戻る事になるのだと思いましたから、すべての物を捨ててしまったのです。

 今は、外国人宿舎に住ませていただいています。『お父さんとお母さんはどんな風に生きているのだろうか?』と、心配した長女と次男が、先週と先々週、交互に訪ねてくれました。一緒に時を過ごして、必要な物いろいろと買い備えてくれました。育てた子から、厚意を受けて本当に感謝で一杯でした。『一人っ子っていいな。なんでももら一人でもらえるんだから!』と4人兄弟で、何でも分け合わなければならないのを友人と比べて、そんなことばをふと、小学生の時に漏らした長女でしたが、わざわざ来てくれたのです。次男は、『僕が面倒見るから、帰って来なよ!』と言っていました。

 父が青年期のある時期を過ごした国の一角で生き始めて、中国語を学んで、日本人を正しく理解していただくために、何かをさせていただきたいからであります。
  
 駒ヶ根ではなく、この国のどこかが、私と家内の「終の棲家」となるのかも知れません。

(写真は、「駒ヶ根観光協会」のHPからの転載)

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自己紹介

 次男に勧められて始めた「ブログ」ですが、2007年7月から1年間休刊しました。その間、他の「ブログ」を開設したのですが、2008年7月に、名前を変えて再開しました。  父として子どもたちに、爺として孫たちに、また母や兄弟や友人たちにも、何かを語り残したいと願って、続けています。