2007年4月29日日曜日

南十字星に憧れて


 『一度南十字星を見たい!』と、幼い日から、南半球の世界に、私は憧れていました。それで、『船に乗るなら何時か行ける!』と思って、船乗りになろうと本気で考えたのです。あの戦争中には、今のように、コンピューターや携帯電話がありませんでしたから、軍関係の仕事に携わっていた父は、仕事の極秘事項を受け取り、また報告する必要があったのでしょうか、「打電機(モールス信号を送るための機器)」が父の机の上に、チョコンと置かれてありました。戦争に負けて、無用の長物となってしまった物でしたが、何か思い入れがあったのでしょう。それに興味津々の私は、目をまん丸にして、船乗り(船には、当時、無線技師が通信士として乗船していました)になる「夢」を見ながら、日柄、それをおもちゃにして遊んでいたのです。

 北半球の小さな島に生まれて、しかも辺地の山の中で育ったのですから、県庁所在地の町だって知らない、北半球の99.99パーセントは皆目分からなかったのにです。でも、赤道のむこうにある「未知の世界」への関心は、子どもの「浪漫(ロマン)」とでも言えるでしょう。ところが、だれもが憧れるのかと言うと、そうでもないようで、私のように短絡的な早とちりの子どもは、簡単に動機付けられてしまい、思いを外に向けてしまうのです。

 いつでしたか、『知らない街を歩いてみたい・・どこか遠くへ行きたい・・』と言う歌詞の歌が流行っていた事がありますが、その歌詞こそ私の心境そのものでした。そう言った夢を17の私は、蒸し返したのです。「日本アルゼンチン協会」に手紙を書いて、移民の可能性について聞き、案内書を送ってもらったのです。その案内書には、アンデス山脈のふもとの町メンドサが紹介されていて、今まで見たことのない綺麗な女性の写真が目に飛び込んできたのです。鼻の低い日本人の女性しか知らなかった私(私も低いのですが)に、「クレオパトラ」のように妙齢なその女性が、『おいで、おいで!』をしていたのです。『行かなけれが男がすたる!』、そう思った私は、『どうしてもアルゼンチンに行くぞ!』と強く決心をしたのです。単純なんです。ところがハシカのように、その写真への恋に冷めてしまった私は、こじんまりした学校に進路を、簡単に選び変えてしまったのです。

 ところが、今から10年前ほど前に、ブエノスアイレスに行く機会が与えられたのです。その飛行場に降り立った瞬間、それは実に感動的でした。青年期に叶えられなかった夢が実現したのですから。『俺って、ここ移民していたら、何をしているのだろうか?』と思いました。まるでタイムスリップしたように、17歳の頃の思いがよみがえってきたのです。ところが、この国はヨーロッパからの移民社会で、白人世界で、日本から移民した人たちの、ほとんどが洗濯屋か花屋をして生活をしてきたという事を聞いたのです。南十字星や女性に憧れて来たって、「ガウチョ(カウボーイのこと)」になるくらいで、何も具体的な願いを持っていなかったわけです。

 そこで過ごした1週間ほどの間に、夜空を何度も見上げたのですが、南十字星を見付けることはできませんでした。また街の中をきょろきょろしたのですが、メンドサのあの女性にはお目にかかることが出来ませんでした。ハシカのような恋だったのですから当然でしょうね。

 しかし昨年の9月に、日本をたたんで、ここ中国に来ることが出来ました。妻と共にです。「恋」をしたからではなく、『来い!』との声を聞いたからであります。

2007年4月24日火曜日

店屋物


 子どもを喜ばせることも、怒らせることも、上手な親爺でした。一方、母は、親爺と4人の息子たちのために、一人一人が独立して家を離れする日まで、毎日、様々な工夫をして食事の支度をし、家事をこなしてくれました。きっと、大変なことだったに違いありません。

 『する!』とか『しない!』と言ったことではなく、『しなければならない!』と言った母としての使命感が、そうさせたのでしょうか。もちろん、代は、『男は外!』、専業主婦の時代でしたから、家事一切が母親の仕事であったわけです。今のように洗濯機も、ガスコンロも、電子レンジも、水道だって無い時代でした。一本筋が通っていたのでしょうか、いやな顔一つすること無く、黙々として励んでいた姿を思い出します。

 その母が、1週間に一度は、新宿に出ては息抜きの買い物をしていたのだそうです。揚げ物は、コロッケくらいの時代に、ハンバーグを作ってくれたり、カツを揚げてくれたり、結構豊かな食卓だったのを思い出します。そんな母の背後で、親爺が家にいるときは、店屋物の丼や握り寿司や中華そばを注文しては食べさせてくれました。お袋への優しい配慮だったのです。そんな親爺とおふくろの共同戦線が、家でも外でもケンカに明け暮れる息子たちの非行化防止の妙薬だったに違いないと、今、述懐しつつ思うのですが。それが功を奏して、一人も極道の世界に入ることはありませんでした。

 私の妻も同じ町に住んでいたのですが、私との結婚が決まった時に、彼女の職場の同僚が、『あの人と結婚をされると聞いたのですが、大丈夫ですか?』と聞いてきたのだそうです。この人は、私たちが育ってきた様子を、見聞きして知っていたのです。荒くれ4人兄弟の三男坊との結婚を危惧して、そう心配されたのだそうです。余計なお世話でした。私には、カツ丼や天丼を食べさせてくれた親爺がいて、一生懸命に養い育ててくれた母親がいたのです。井戸端で人の悪口を言うような場に決して顔を出さない母親でした。家事万端を済ますと、毎晩、駅裏のアメリカ人の家に出かけて行きました。英語の勉強のためではありませんでした。「読書会」に行っていたのです。それは娘時代からの、ただ1つの母の楽しみだったようです。

 兄たちや弟と、『お袋が、並みの親だったら、みんなぐれていたよね!』と言って、並みで無かった母に感謝したものです。私の父の日記帳の中に、「あなたの父と母を喜ばせ、あなたを産んだ母を楽しませよ」と記されてあります。

 母よ、健やかであれ!

2007年4月23日月曜日

鶴田浩二


 「ニヒル」、辞書を引きますと、「虚無」とありますが、私の理解とは、少し違うのです。私は独断的に、『スクリーンの中に観る、鶴田浩二のような陰影のある男を言い当てるのを《ニヒル》と言う!』と定義しているのですが。

 私は、青年期に、一人の映画スターに憧れました。立川や新宿の映画館で観た、裕次郎とか赤木圭一郎ではなく、もう少し古い、お袋の弟の世代といったらいいでしょうか、その世代の俳優で歌手だった、この鶴田浩二が大好きだったのです。髭もはえていない中学生にしては、少々ませた憧れだったかも知れません。無口で、言い訳をしないで、黙ってすべきことをする男気のある人間に、彼が見えたのです。そう言った理想の男性像を、心の中に思い描いて、『そんな大人になりたい!』と願ったのです。

 
 後に大人になって知るのですが、実際は、彼が女好きで浮名を流し、奥さんやお嬢さんたちを泣かした男だったようですが。それでも、戦時下に青春を過ごし、応召し、旧軍隊の中で生きたことのある人でした。神風特攻隊で亡くなって逝った、いのちを分け合った戦友たちへの彼の思い入れの深さに、『古い奴!』を感じて、それが好きでした。何しろ、気の多い時代錯誤の私は、戦後育ちの子なのに、予科練や特攻隊に憧れる、鶴田に似た変な『古い奴!』だったのです。彼の演じた映画の「スクリーン」の仕種や舞台やテレビで歌った歌い振りに、大きく印象付けられたのです。青年期に、誰かを英雄視し、誰かに憧れると言うのは正常なことのようです。女性が好きになる前に、「親友」を求める事とに似ているのかも知れません。

 そんな私が、自分の人生観も死生観も価値観も職業観も、さらには女性観も憧れも、まったく変えられてしまう出会いによって、一大転機を迎えることが出来たのです。25の時でした。目では見ることは出来なかったのですが、心の奥底で捉え、いえ捉えられたと言うべきでしょうか、私の心の深部に触れてくださった「至高者」との出会いでした。

 表面的には、好青年に見えたかも知れませんが、裏がありました。憧れていた鶴田に似たのでしょうか、女好きで、親や世間の目に上手く隠れては、酒を飲んで酔っては出鱈目を生きていました。もういっぱしの駄目男が出来上がろうとしていたのです。

 ある場末のストリップ劇場の舞台に、酔った私は呼び上げられたことがありました。なぜ、そんなところにいたのか覚えていません。でも習慣になっていたのでしょうから、おのずと足や手や目は、そちらに向いて行ってしまうのですね。ブレーキは全く利かないのです。そのキラキラと点滅する照明が当てられ、強いビートのきいたレコード音楽の流れる舞台の上で、20代半ばの私は、おじさんたちをよそに、請われて踊り子の衣装の紐を解いていました。酔いが醒めたときに、『こんなことまでするように堕ちてしまったんだ!』と心底悔いました。でも抑止力は、全く無かったのです。柳ヶ瀬とか浜松とか天神とか川崎とか伊勢佐木町とかの歓楽街を、ニヒルにも闊歩していました。もう一歩で死ぬか殺されるか、地獄へのドン詰まりにいたのかも知れません。 

 そんな時に、女子高の教師になる機会が降って湧いてきたのです。それで私は、『生徒を俺の欲情の対象にしない!これが出来るなら続けよう!』と決心して始めたのです。ところが、あの時代の東京の三流校の女の子たちは、すでに真正の「女」でした。鼻の下を長くしていたら、いっぺんに堕落でした。一方、同僚たちも、聖職意識などもっていなかったのです。一回りほど年長の音楽科主任が、『雅仁君、可愛い小さな恋人を作ってもいいんだよ!』と勧めてくれました。男性教員のほとんどに、『何々先生の可愛い子!』がいると言うのです。あきれた学校でした。何時かテレビでやっていた、学園物にも似たような話があったようですが。

 ある時、アメリカ旅行から帰って来た理科主任が、『今日、放課後に、視聴覚教室で映画会をするから、雅仁先生もぜひ来て観ませんか!』と誘ってくれたのです。なんと、生徒に隠れたブルー・フィルムの秘密上映会でした。また教員の間で、猥褻写真が回覧されていました。『雅仁先生もどうですか、ご覧になられますか?』と言われたとき、反吐が出そうでした。そのように三度もカウンター・パンチを見回された私は、『おい、俺を、もう一度あの世界に戻してくれるな!』と転倒寸前のロープ際で叫んでいました。

 『教職は天職だ!一生やっていこう!』と言う夢は微塵に崩れて砕かれてしまったのです。その学校には、短大がありました。私を招聘してくださった方が、そこの教務部長で教授でした。彼の恩師は、ある
私立大学の文学科の科長でした。このお二人に、なぜか可愛がられていた私は、数年したら短大に行くようにしてくださっていたのです。ところが、夢は無残にも砕かれてしまいました。教えてはいるのですが、充足感がまったく無かったのです。
 
 夢を無くしたら、諦めて、罪の中で言い訳をしながら、とっぷり浸かって生きるはずの人間でした。ところが、『そんな生き方に、また舞い戻ったら、もうお仕舞いだ!』との思いが、ふと湧き上がって来たのです。何者かに、背中を押されるようにして、集まりに導かれたのです。母がそこの会員で、上の兄が副責任者でした。ちょうどその頃、アメリカからアフリカに行こうとしていた方が、途中、東京に寄って行きました。彼の講演会で、私は涙を流して泣いて、方向転換を果たしたのです。自分の意思によってではなく、大きな圧倒されるような力の強圧と支配とを感じたようにしてでした。まったく瞬間でした、長年習慣化されていた喫煙や飲酒や盛り場徘徊や女性交友から自由にされたのです。赦されたことが分かったのは、その時でした。

 すんでのところで、地獄に背を向けて、陽の燦燦と降り注ぐ希望の国に生き始めることが出来たのです。その2ヵ月後、今の家内と婚約することができました(別に家内がいたのでありませんので念のため)。

 それにしても、鶴田浩二は、私にとって強烈に印象深い男です。今、彼が亡くなった年齢になったのですが、もはや彼の様にではなく、あの「保羅」の百分の一ほどを生きて行きたいと、切にそう願う早春の週末であります。

2007年4月22日日曜日

『野の花のごと生きなむ』


 春の季語に「踏青(とうせい)」と言うことばがあるのだそうです。俳句を詠む心のゆとりなど、ついぞなかった私ですが、春の野辺に萌え出た青草を踏んで、嬉々として走り回った、幼い日の光景を思い出させてくれます。あの日のうきうきした早春の気分を、今も同じように感じさせられて感謝で一杯です。まだ幼かった子どもたちが、春を感じて、『お母さん、春を見つけに行ってきま・・・す!』と出かけて行き、野花や名も無い雑草を摘んで帰って来た日の事が、昨日のことのように懐かしく思い出されてなりません。

 昨日、紫金山路の道端の土の中に、蒲公英(タンポポ)を見つけました。《春告花》の1つなのでしょうか。住居棟郡の谷間にあった一本の桜の花が咲いていたのは、もう1月も前のことでしたが。

 私の恩師が、戦時中、治安維持法違反の嫌疑で捕えられて、獄舎につながれている時、獄窓の隙間から、青い空と白い雲、雑草の中に咲いている野の花を見て、『生きているんだ!』と言う実感を覚えさせられたと述懐されていたことがありました。この恩師が、卒業して行く私たちに、『野の花のごとく生きなむ。』と色紙に書いて下さったのです。長く牢につながれて、体罰を受けたのでしょうか、足を引きずって歩いておられたのが印象的でした。自由が与えられて、学校に復職して、学部長までもされていました。聞くところによると、この方は大学教育を受ける機会を奪われたのだそうですが、いわゆる無資格の学者で、その道では権威だったようです。

 真冬のような塀の中で、『ここを出たら、自由の身になって、好きな学問をしよう!』と願ったり、『思いっきり幼い日に駆け回った野山で、また春を感じてみたい!』とでも思ったのでしょうか、実に穏やかな人柄の方でした。

 踏まれても、なじられても、野の草や花は強いのですね。時代を憎んで、人を憎まないで生きることが出来た方でした。この方の奥様が、内村鑑三の弟子の妹さんであったことは、卒業して何年もたって知ったことでした。

 人を強くさせ、支えているものがいくつかあるようです。幼い日の懐かしい思い出や人の激励のことば、感動した話などです。でも人を真に強くさせるのは、創造者を知ることに違いありません。自分が、どこから来て、今していることの意味を知り、やがてどこに行くかを知っている人は、自分を知る人なのです。

 それにしても、毎年毎年、忠実に訪れてくる春は、いくつになっても、生きているいのちの躍動を感じさせてくれるものです。

 こぶしも桐も桜も名を知らない花も、一緒に咲いて百花繚乱の天津の「踏青の春」であります。

2007年4月21日土曜日

思春期の入り口で


 バスケット・ボールの練習を終えると、駅前にあった食堂で、高等部の先輩にラーメンやカレー・ライスを、よくおごってもらいました。お父さんを都議会議員に持つ先輩がいて、この方が一番よくおごってくれたのです。あるとき、注文して待っている間に、隣のテーブルに座っていた20代の男性が、背のすらっとしたウエートレスのコップを置いた手を、ギュッと握ったのを見てしまいました。本当にびっくりしたのです。他人事なのですが、思春期の入り口にいて、まだ純情な中1でしたから、ちょっと刺激が強かったようです。『大人になると、こんな風にして女に近づくんだ!』と思わされたのです。ものすごい社会学習の機会でした。

 その運動部では、高校生が一緒に練習し、大学生が顔を出していて、社会人になった先輩も来ていました。中2の上級生の中に、どこで仕入れてきたのか、得意になって大人の世界の話を聞かせる先輩がいました。何だか怪しい雑誌を持って来ては、見せるのです。無垢な中1は、彼のおかげで、すっかり大人の世界を覗き込んでしまったのです。何しろ男子校でしたから、そのへんはお構いなしでした。男子校とは、そんなものだったのでしょうか。
 
 実は、男子部の隣には、女子部があったのです。一緒に勉強させたら、もっと教育効果が健全な形で上がったのだろうと思いますが、在学中にはまったく可能性はありませんでした。ところが数年前に、共学になったとの情報が耳に入って来ました。我々の時代に見た夢が、やっと実現した事になります。

 高校生の都の大会には、日比谷や新宿や九段といった高校に、ボール持ちで付合わされました。帰りには決まって新宿で下車して、西口の駅裏に何十軒とあった汚い横丁の食堂街で、ご飯をご馳走になりました。美味しかったのですが、何を食べさせられていたか分からないような、ごちゃごちゃした食堂街でした。この学校の高等部には、3つ違いの兄がいて、野球をしていました。あの先輩は兄の友達で、よく可愛がってくれたのです。

 もう何年かたつと、孫たちが中学生になるのですが、ああいったことが、繰り返されて行くのでしょうか。でもマイナス面だけではなく、プラスの面も運動部にはありましたから、良い感化がある事を切に願うのですが、ただ懐かしい思い出がよみがえって来ます。それにしても、まだ一度も、あんな風に、女性の手を握った事がないのですが、映画の世界の映像のように、今も鮮明です。

斉藤隆夫と広田弘毅


 政治家になりたいと思ったとはありませんでしたし、もちろん、そんな力量が自分には無い事を百も承知していましたから。でも、痛快な政治家がいたことだけは知っています。

 一人は、昭和15年に「粛軍演説」、17年に「反軍演説」をされた、兵庫県出身の斉藤隆夫です。公の場で、軍部の暴走に何も言えないでいた時代、彼は、演説の原稿を持たないまま、衆議院の議場で、軍部の中国侵略の暴挙を糾弾する演説を滔々としたのです。『小柄でもの静かな村夫子の風貌ながら、その演説は暗夜の雷明のごとくであった(「クリック20世紀」より)』と、斉藤の演説を評しています。国家と国民とが統制されつつあった時代に、いけないことを『いけない!』と言える政治家がいたことになります。

 昨今、首相をおおせつかった方たちが、自分の内閣で『何をしたか!』にこだわりすぎて、歴史に残る事業、後の人に、『だれだれはこれをした!』と言わせるためなのでしょうか、そのための政治に狂奔しているかのように感じられてなりません。平和憲法だって、教育基本法だって、どこに間違いや不足があるのでしょうか。『日本国憲法を世界遺産にしたい!』と真剣に運動されている方だっておいでです。「今の必要」にではなく、名を残し、功を遂げるための政治など欲しいとは思いません。

 もう一人は、広田弘毅です。東京裁判で死刑を宣告されて処刑された元首相でした。軍部の犯した「南京虐殺事件」の処理が間違っていたことが、死刑求刑の理由だったと言われていますが。彼は、その法廷で、弁明を全くしなかったと伝えらています。自分に有利になる証言をすることによって、共に関与した件で裁かれている人が不利になる事を、極力避けるためだったのです。「潔し」とは、この広田の生き方であります。発狂したり、病んだり、死刑を逃れるために自己弁護に死に物狂いになり、他の非をあからさまにする法廷の醜さの中で、広田は、孤高の人のごとく泰然自若として構えていたのです。

 彼の愛した夫人は、夫に先立って、湘南鵠沼で自決をして果てるのです。自死を賞賛しませんが、生きるためには、道理も人情も立場も全く意に介さない人たちのいる中で、死ぬべき時を、自ら定められたと言うことには、驚かされます。

 福岡の石屋の倅なのですが、真に「武士(もののふ)の志」を宿した逸材でした。また国の行く方を、鳥瞰的(ちょうかんてき)に観ることの出来た人だったのです。

 彼のような政治家こそ、混迷の現在に必要なのです。安部首相に、そのような指導者になって欲しいと願うのですが。

2007年4月17日火曜日

神秘の世界の中の「性」



 ある作家が、猥雑な本を著した時、『ぼくは、医者の頃に、死を見すぎたせいか、虚無感があって、死んだら終わり、魂や来世なんか無い。確実にうせると考えている。だから、今を懸命に生きないと損、今を精一杯生きなさいという意味で、・・・かりそめ(この世にあるものはすべて消える)・・・とつけた』と言いました。このような虚無感に満たされ、「損得」で人の一生を計ろうとする人は、医者を続けなくてよかったと思うのです。医者を辞めて後、こんな「死生観」や「人間観」を持つ彼が、物書きに専念して、たびたび、世の中を騒がせる本を出版し、映画化されていることに、私は危惧を感じてならないのです。

 以前、情痴小説を書き続けた作家がいました。芥川賞候補にも上ったことがあったのですが、その願いを頓挫させてしまったのです。『どうして、こう言った小説を書かれるのですか?』と問われた時に、『金のためです!』と、彼は平然として答えました。魂を売ってしまった物書きに、人を雀躍とさせ、生きて行く勇気を与える物を書くことは到底できないのです。
              
 山田風太郎が、『実に人間は、母の血潮の中に最初の叫びを上げるのである。』と言いました。彼が医学生であったとき、出産に立ち会ったときの驚きを、そう言葉にしたのです。「いのちへの畏敬」が、この言葉に満ちています。すべての人が、例外なく、そのようにして誕生するのです。これは、いのちの付与者の賢い知恵によったのですから、「聖」とすべきであります。ただ、そこを「神秘の世界」とするか、「淫靡な世界」とするか、どのように用いるかは、各自が問われていることなのです。

 ある国では、『年間150万もの命が、堕胎によって闇に葬られています!』と聞きました。実数は如何ほどなのでしょうか。どこの国も、生命軽視で満ち、性への愚弄が進んでいます。「生」の中にある「性」は、母の血の中にある、神秘で畏敬にあふれた荘厳さの只中にこそ、「基調」があるのです。残念ながら、多くの青年たちが踏み違った歩みの中で、自らの命をたち、宿したいのちを葬っているのです。あの悪名高いポンペイもソドムも、性の頽廃の末に滅びてしまったのです。

 すべての自由が与えられている現在、「性」が玩ばれている風潮の中で、「生」と「性」とが、どれほど厳粛な事かを、この時代を生きる青年たちには、ぜひとも知って欲しいと願う初春であります。
(絵画は加藤水城作「早春の前穂高」)

2007年4月8日日曜日

高倉健


 同級生に誘われて、「網走番外地」や「唐獅子牡丹」の映画を観たことがあります。高倉健の主演で、博徒の世界の刃傷や報復の物語でした。自分の血の中に、ヤクザの血が流れているのではないかと錯覚するほどに、『格好いい!』と思いました。大学紛争の時代、東京大学の全共闘のパンフレットに、背に唐獅子牡丹の刺青を入れた健さんの背中を模した挿絵(イラスト)が載っていましたが。東大生がそうだったのなら、私たちが、健さんに憧れても当然だったと言えるでしょうか。単純明快な物語で、スカッとさせてくれました。どちらかの映画は、オリンピックが東京で行われた年だったのです。
 
 その健さんを、久しぶりに銀幕に見たのが、「鉄道員(ポッポヤ)」と「単騎千里を走る」でした。初老になっていて、背中の唐獅子牡丹も元気がなくなってきているだろう彼が、まったく違った堅気の世界に生きる男を演じていたのです。その違いを埋めるのに少し時間がかかったのですが、無口な男っぽいところや渋さは、まったく変わっていませんでした。もう彼の手には、ドスや鎧通しはなかったので、なぜかとても安心したのです。

 中国でダントツ人気の日本の映画俳優が、この高倉健なのだそうです。いまだにそうなのです。博徒を演じた彼ではなく、あの「文革」の終わった1970年代の終わりに製作された、「君よ憤怒の河を渉れ」と言う映画の元検事の主人公を演じた彼が、中国の人々の心を捉えたのです。現代の50代前後の人たちには特別なのでしょうか。 

 私たちを教え下さる先生が、この健さんを知っていたのです。彼女のお父さんが50代でしょうから、お父さんに聞いてのことなのでしょう。健さんとしてではなく、演じた主人公の名を知っておられたのです。 

 混乱し経済の立ち遅れていた中国が、外国映画の上映を許した初期のものでした。銀幕に映し出された、近代的な都市の様子、乗る車、走っている電車、着ている衣服、何もかも珍しかったのです。開放政策が始まって、目標を必要としていた中国の人々に、この映画が、その目標を提供したのだそうです。億という単位の人が観たといわれています。学校の校庭に張られた銀幕の前と裏から、何千と言う人が、中国中で観たとのことです。

 侵略した日本が、本当に憎いではないのです。日本と日本人とを赦して、受け入れようとする寛大な心があるからなのです。阿部首相には、「慰安婦問題」などで、こちらの人々の感情を逆なでするような言動を慎んでいただきたいと心から願うのです。真正な友情で、敬意を十二分に払って関係の回復と構築に当たって頂きたいと、切に願うのです。 刺青や鎧通しで脅したりしませんから。

 今週、温家宝首相が訪日され、国会で、中国の首脳として始めて演説をされるようです。旅の無事を願いつつ。 
(写真は、松竹映画「単騎千里を走る」の一場面)

2007年4月5日木曜日

『妻を娶らば才たけて・・。』


 『君のこれまでの、ぼくに対する忍耐に心から感謝しているよ!』と、今日、糟糠の妻に言いました。今日は、二人の結婚36周年の記念日だったからです。短気で激しやすく喧嘩ぱやいけど、単純で浪花節のような私を、これまで支えて、耐えてくれたのです。

 与謝野鉄幹が詠んだ、『妻を娶らば才たけて、みめうるしく、情けある・・・』を、酒を飲むたびに、独身の私は高吟していました。歌っていても、深い意味など分からなかったのですが、「才長けた妻」とか「みめ麗しい妻」とか「情けある妻」こそが、理想の妻なのだろうと思っていました。私が酔って、この歌うのを聞いていた、これまた酔っていた隣り合わせのおじさんが、『君、そんな理想の妻はいないんだ!』と、諭してくれたことがありました。鉄幹を信じたらよいのか、このおじさんのことばを信じていいのか、若かった私は迷ったのです。

 それでも、何時か、そう言った女性に会えると思って、好きになってはあきらめ、愛をささやかれては逃げて、26まで落ち着きませんでした。その頃、東京の女子高で働いていて、年頃の少女たちの淡い恋の対象となっていたのです。男のいない社会ですから、こんな私でも、その対象とされていたのでしょうか。下駄箱には花模様の封筒や小さな包みが、いつも入っていました。下宿先まで追いかけても来ました。しまいには同僚や短大の教師や卒業生までもが言い寄ってきたのです。この恋愛攻勢を避けなければなりませんでしたから、逃げの戦法以外には無かったのです。

 ところが、26を目前にしていた私の人生に、大きな変化が起きたのです。それと同時に、一人の女性との出会があったのです。彼女は、ちあきなおみの様にハスキーではありませんでしたし、初恋の人のようにはときめかなかったのですが、『この女(ひと)こそ俺の妻だ!』との言い知れない確信が心の内に与えられたのです。また鉄幹が言うような才や美や情を、彼女のうちに見つけてはいませんでした。

 ところが36年、共に生きてきた彼女は、あの結婚の理想に負けたおじさんのことばが、間違いであったことを証明するのです。私は理想を掲げて、彼女を見てきませんでしたが、確かなのは、もっとも相応しい最善の妻であったことなのです。もちろん彼女にも、私は理想には程遠かったのでしょうけれど、出会わせてくださった大きな意思を、彼女が認めたからなのでしょう。

 私のもとに処女として来て妻となってくれた彼女との間に、4人の子供が与えられました。また、幸いにも3人の孫もあります。これから後、何年、共に過ごす事が出来るのでしょうか。どの様なことが待ち受けているのでしょうか。その日々を、彼女と手を取り合いながら、共に歩んで行こうと、新たに決心させられた、記念日でありました。

  ●「糟糠の妻」・・・・若い頃から、苦労をともにしてきた妻を言います。酒かすと米ぬかのこと。

Powered By Blogger

自己紹介

 次男に勧められて始めた「ブログ」ですが、2007年7月から1年間休刊しました。その間、他の「ブログ」を開設したのですが、2008年7月に、名前を変えて再開しました。  父として子どもたちに、爺として孫たちに、また母や兄弟や友人たちにも、何かを語り残したいと願って、続けています。