店屋物
子どもを喜ばせることも、怒らせることも、上手な親爺でした。一方、母は、親爺と4人の息子たちのために、一人一人が独立して家を離れする日まで、毎日、様々な工夫をして食事の支度をし、家事をこなしてくれました。きっと、大変なことだったに違いありません。
『する!』とか『しない!』と言ったことではなく、『しなければならない!』と言った母としての使命感が、そうさせたのでしょうか。もちろん、代は、『男は外!』、専業主婦の時代でしたから、家事一切が母親の仕事であったわけです。今のように洗濯機も、ガスコンロも、電子レンジも、水道だって無い時代でした。一本筋が通っていたのでしょうか、いやな顔一つすること無く、黙々として励んでいた姿を思い出します。
その母が、1週間に一度は、新宿に出ては息抜きの買い物をしていたのだそうです。揚げ物は、コロッケくらいの時代に、ハンバーグを作ってくれたり、カツを揚げてくれたり、結構豊かな食卓だったのを思い出します。そんな母の背後で、親爺が家にいるときは、店屋物の丼や握り寿司や中華そばを注文しては食べさせてくれました。お袋への優しい配慮だったのです。そんな親爺とおふくろの共同戦線が、家でも外でもケンカに明け暮れる息子たちの非行化防止の妙薬だったに違いないと、今、述懐しつつ思うのですが。それが功を奏して、一人も極道の世界に入ることはありませんでした。
私の妻も同じ町に住んでいたのですが、私との結婚が決まった時に、彼女の職場の同僚が、『あの人と結婚をされると聞いたのですが、大丈夫ですか?』と聞いてきたのだそうです。この人は、私たちが育ってきた様子を、見聞きして知っていたのです。荒くれ4人兄弟の三男坊との結婚を危惧して、そう心配されたのだそうです。余計なお世話でした。私には、カツ丼や天丼を食べさせてくれた親爺がいて、一生懸命に養い育ててくれた母親がいたのです。井戸端で人の悪口を言うような場に決して顔を出さない母親でした。家事万端を済ますと、毎晩、駅裏のアメリカ人の家に出かけて行きました。英語の勉強のためではありませんでした。「読書会」に行っていたのです。それは娘時代からの、ただ1つの母の楽しみだったようです。
兄たちや弟と、『お袋が、並みの親だったら、みんなぐれていたよね!』と言って、並みで無かった母に感謝したものです。私の父の日記帳の中に、「あなたの父と母を喜ばせ、あなたを産んだ母を楽しませよ」と記されてあります。
母よ、健やかであれ!
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