2007年3月25日日曜日

90歳、おめでとう!



 「90歳のお誕生日おめでとうございます。
 心からお祝いを申し上げます!

 長寿は、忠実なお方からの祝福ですね。ただただ長生きできたことを、心から感謝されたら素晴らしいと思っています。体調が、若い頃のように優れないのは、長寿者の「おつり」のようなものかも知れませんね。そのことを嫌がらないで、また戦わないで、ただ感謝していて欲しいと願っています。ぼくも60過ぎで、若いと言われますが、矢張り年相応ですから。

 お母さん。ぼくが高校2年の時に、連絡があって、病院に駆けつけた時に、治療室だったと思うのですが、ベッドで顔をしかめて劇痛と戦っていたお母さんの顔を覚えています。後で傷跡を見たときのひどさに驚かされて、『痛かったんだろうな!』と思いました。その後、1年近くの入院生活で、転院先の病院にお見舞いに、たびたび行かせてもらった日々を思い出します。同室の女性患者の皆さんの事も良く覚えています。ちょっと好色な東北出身の方がいましたね。入院生活が長かったですね。その間、親爺が野菜スープを作ると、『剛、これを持ってお母さんのところに行ってくれ!』と何度も言われて、バスで駆けつけたことがありました。切断の危機を超えて、癒されて、あれから50年近くも歩き続けられたのですね。すごい上からの癒しでした。お母さんの強さと粘りとには驚かされっぱなしです。ただただ感謝です。

 また、○○の職場にいたときに、婦人科の治療で日本赤十字病院で、お母さんが入院手術をされました。その術後に家族が呼ばれたのですが、親爺が、『剛、行って聞いてきてくれ!』と言って、親爺の代行で、先生から摘出した卵巣の事を聞かされたことがありました。○○先生が、『お母様は、残念ですが良くて半年くらいです!』と厳しい表情で言われて、家に帰って親爺に報告しました。その時、親爺は、『剛、覚悟しような!』と言っていました。その頃、△ちゃんは、ちょうど九州にいて、そのことを知って、『お母さんに、本当の事を知らせたらいい!』と、たいへん強く言ったのですが、『信念があっても、万が一にも気を動転させるかも知れないから言ってはだめだ!』と言って、ぼくは頑なに反対したのです。これに親爺も賛成でした。お母さんには分かっていたのでしょうね。

 そのようなお母さんが、40年も生き続けて来られたのは、まさに奇跡でしたね。あの日赤の病室に、「病室名主」がいて,その取り巻きたちが、意地悪な顔を向けていたのを覚えています。内科患者の病室の暗い一面でしたね。洗面器に水を汲んで、ベッドのところで、お母さんの体を拭く手伝いをしたのを思い出します。ああいった事をしてくれる家族の見舞いが少なくなっていた長期入院患者さんの心理としては、妬ましく思えたのも仕方が無かったのかも知れませんね。でも。あそこにい続けないで癒されて退院できたのですからすごいですね。

 お母さんの死を覚悟した親爺が61で召されてしまって、そのあと35年もお母さんは、独りで生きてきたのですね。強いと思います。人の一生とは不思議ですね。『俺は日蓮宗!』と言っていた親爺が、最後には、お母さんの信仰の感化を受けてでしょう、信じて召されて逝ったのだから、これもすごいことですね。親爺も実母の愛を知らない人だったけど、お母さんと共感できたのだから幸せだったのではないかと思います。さびしい少女時代の他人に言えない葛藤を経て、お母さんに人生の強力なバネが出来たのですね。恵まれない環境を跳ね返して、よく強く生きてきたものです。上からの恵みですね。また幼馴染に誘われて、カナダ人のご家族との出会いは、上からの配剤だったに違いありません。彼らを通して戴いた素晴らしい贈り物を守り通して75年が過ぎたのですね。ただ賢きお方の溢れるような恵みですね。

 いつでしたか、テレビを見ていた親爺が、悲しい場面で、涙を流して、その涙を何度もぬぐっていたのを覚えています。意外と純情だったのですね。実母の愛を受けなかった男の特徴は、女性に母の暖かさ、特に乳房と抱擁を求める心理が、行動をとらせるのだそうですから、そんな親爺に、お母さんもたびたび苦しんだのですね。どうにもならない男の性に耐えたわけです。そんな親爺に、よく似たぼくが、女道楽に走らないで、今日まで生きて来られたのも、お母さんの支えが会ったからだと思います。ただただ感謝です。

 お母さんが、人の悪口を言わないで生きていた女性だった事、じっと我慢の母や妻だった事に心から感謝し、拍手します。上なるお方の祝福の実りですね。学校を出て、○○の職場で、上司の悪意やいい加減さにつまずいて、逡巡していたぼくに、何度か、忠告のことばを、お母さんが語ってくれた事がありました。それは大きな助けでした。感謝です。

 また、ぼくの子供たちに産湯をつかわしてくれたり、孫も抱いてくださって、心から感謝です。今は遠く離れたところで生活を始めたぼくと家内のために、何時も支えていてくださる事を心から感謝しています。「全世界に出て行って・・・」との御声に迫られて、従わざるを得なかったのです。これから、何が出来るかわかりませんが、心の思いを整え、ことばを覚え、幻をいだいて前に向かって進んで行こうと願っています。お母さんの幼馴染が、『熱河』に来られて働かれた事を聞いて、きっと若かったお母さんの思いの中にも、『私も!』と言った思いがあったのではないかなと感じています。特に、○ちゃんが協力的に支えてくれて、物心両面で助けていてくれる事を心から感謝しています。本当に彼は優しいですね。子供の頃に、親爺に怒られたぼくに同情して、一緒に泣いてくれたり、外に出された時に、一緒に出てくれた事が何度もありました。彼の心根がほんとうに優しいのですね。大変励まされています。彼の心配りが、一番嬉しいことで、大きな支えです。

 ただ△ちゃんが、心や顔を、ぼくたちの方に向けてくれないのは残念なのですが、彼のような冷たさも、○ちゃんの暖かさの半面に、ぼくたちに必要な事なのかも知れませんね。いやだとは思いませんが、矢張り残念です。賢きお方の前では、勝利しています。何時か分かってくれると信じていますが。○○の皆さんも、△ちゃんと同じ気持ちなのでしょうか。自分の出てきたところなので、矢張り一人の「人の子」としては、理解してもらえないことはさびしいものです。でも励まされていますので大丈夫です。ご心配なさらないでください。

 孫たちも元気に健やかに成長しています。次男と長女が、先月、ここに来て、ぼくたちを問安してくれました。親子逆転劇で、いろいろと足りない物を買ってそろえてくれ、美味しい日本料理やアメリカ料理を食べさせてくれました。

 お母さんにも来て欲しいなと思っています。日本の港から船が出ているのですが、船だと体を横にすることが出来たりですから、楽なのですが。玄界灘を渡って来てくださったら嬉しいのですが。○ちゃんとだったら来れるのかなと思っています。考えてみてください。◇ちゃんが退職しているから、ふたりで来たらいいのですが。

 お母さんのお世話を◇ちゃんと○子さんに任せっぱなしにしていまして申し訳ありません。良くしてくれている○子さんと◇ちゃんには感謝で一杯です。したい気持ちは、ものすごくあるのですがお赦しください。△ちゃんと△△代さんは、お母さんをいたわって優しくしていてくれますか。お母さんが、我慢だけしているのではないのでしょうか。でも、お母さんは強いから問題ないと思います。

 お母さんの誕生祝いが出来なくて残念です。気持ちだけ、ここから贈らせていただきます。まだまだお元気でいてください。お母さんの支えをいつも覚えています。
 祝福を願っております。
                                  2007年3月19日
                                 三男 雅仁、妻○子から
(写真は、母の母校「出雲市立今市小学校(昭和52年当時)」 今市小学校のHPから)

筑後川の水で産湯につかった義母


 敗戦後の食糧難の時代の子育ては大変だったようです。家内の家族は、東京都下に住んでいたのですが、嫁入りに九州から持参してきた和服を、たんすから1つ1つと出しては、義母は幼い家内の手を引いて西武線に乗って埼玉の田舎に行っては、米や味噌や野菜と物々交換して食べ物を工面していたそうです。子供たちを死なせるわけに行かなかった苦肉の策でした。そう家内が話してくれました。飽食の時代の今では考えられないことですが。

 ある時、その自分の着物を着ている婦人を、義母が偶然見かけて、複雑な表情をしていたのを、家内は覚えているそうです。丈夫だった義母は、栄養不良で肋膜を病み、通院しながら治療に当たりました。通院の待合室には、同じように病んだ女子大生が多くいたそうです。医者も空腹で不機嫌だったリ、自暴自棄だったのでしょうか、『あなたの病状は最悪で、そう長くは生きられないよ!』と病友の学生に言うのを聞くのです。そういわれた彼女は、通院して来なくなり、亡くなったのです。その病友のに激した義母は、『人の生死を握る医者の不用意なことばが人を死なせてしまうのだから、注意してください!』と、その医者に大抗議をしたのです。


 「ことば」が人を死なせるほどに力あるものであることを知らされた母が、その後、出会ったのが、一冊の小冊子でした。その巻頭に、「初めにことばがあった・・」と書いてありました。その意味を知りたくて訪ねた方が、実に丁寧に解説してくれたのだそうです。その様にして義母は、人を生かすことの出来る「ことば」に出会ったわけです。

 その「ことば」に励まされ、勇気付けられて、肋膜もすっかり癒され、6人の子育てを無事に果たし、明治、大正、昭和、平成を生き抜いて、今週96歳になります。人の悪口を言ったり、噂話を決してしない女(ひと)なのです。結婚生活や子育てで悩んでいる多くの女性の相談にの
って、義母は彼女たちの激励者として相談員として生きて来たのです。

 筑後川の水で産湯につかり、昭和の初期に、上京して学んだ女学生だったのですが、下宿で襲われそうになって、二階の窓から飛び降りて難を逃れるような危機もあったようです。今、義妹が介護しているのですが、体のどこも悪くないのです。ただ二階から飛び降りた時に痛めたのでしょうか腰だけが悪くて、ベッドに寝ているのですが。

 『お義母さん。心からのお祝いを申し上げ、残された日々に倍旧の祝福を、異国の地から申し上げます。』
(写真は、「久留米城址」 久留米市HPTより)
*筑後川のライブ映像http://220.99.116.203/programs/camera/camera.cfmです

2007年3月21日水曜日

父と兄とサーカス


 「美しき天然(武島羽衣・作詞、田中穂積・作曲)」の曲がスピーカーから流れて、観客を誘うサーカスが街にやって来たのです。拳骨親爺でしたが、子どもを喜ばすのが好きだった父が、われわれを連れ出して、山の中から、大挙して見物に行きました。

 旅回りで、面白いピエロの寸劇や、綱渡りや、ライオンの曲芸もあったようです。思い出が余り鮮明ではないのは、サーカス見物に集中していなかったからかも知れません。私のすぐ上の兄が、大変な悪戯小僧でした。父に一番叱られた子で、学校でもどこでもガキ大将で、何時も喧嘩をしたり、落ち着かない兄だったのです。ところが大変優しい兄で、彼からは殴られた記憶が、まったくないのです。その兄が、サーカスを見ないで、サーカスを見ている人たちを振り帰って見て、彼らの食べている物に関心を寄せていたのです。その兄に、父は、『よそ見をしてないでしっかり見ろ!』と言っていたのを、昨日のことのように覚えています。

 1800年代中期だったと思いますが、ドイツ敬虔主義の流れを汲む人が、自分の子たちを、町に下宿させて勉強をさせていました。ある時、その町にも、サーカスがやって来たのです。初めての経験だったのでしょうか、親から離れている事をよいことに、初めての見物を決め込んだのです。ところが、その日、彼らのお父さんが田舎から出て来て、下宿を訪ねたではありませんか。その下宿先の主人に尋ねると、『坊ちゃんたちは、町に来たサーカスを観に行っておられます!』と告げたのです。するとお父さんは、そのサーカスの行われた仮設天幕に、入場券を買って入りました。きっと大変なことになるに違いありません。

 敬虔主義の背景の家庭の子が、サーカスを見学するなどと言う事は、ほとんど許されないことだったからです。ところが、夢中になって観ている子どもたちの上の方に席をとって座ったお父さんが、サーカスに集中している彼らに向かって、『クリストフ、お父さんもここで観ているからね!』と声をかけました。怒られて当然なのに、自分たちと同じよう、サーカスを楽しんでくれた父親を、後になって、『そう言った父でした!』と、クリストフ・ブルームハルトが述懐しているのです。 

 そう言った父の感化を受けて、彼は、父親と同じ道を歩むのです。バート・ボルという村には、ヨーロッパ中の人たちが彼の話を聴きたくて集まって来たのです。心も体も、すっかり癒された人々で溢れていたと記録されています。子供時代の体験、特に父親との体験は、その人の一生を大きく左右するようです。

 生きていれば97歳の誕生日を迎えたであろう父を、懐かしく思い出している「立春」間近かの夕べであります。

2007年3月20日火曜日

『ギブ・ミー・チョコレート!』


 中学1年から10年間、電車通学をしました。その下車駅の近くに「名画座」があり、いつも2本立ての洋画が上映されていたのです。何度も学校をサボっては、ポケットの中にタバコを忍ばせて、この映画館に入って時間をつぶしていたのです。ところが一向に英会話の勉強にはなりませんでした。便所で隠れて吸ったタバコにむせていたのを思い出します。中2でした。

 鼻がもう少し高くなることや、青い目には憧れませんでしたが、銀幕に映し出されている、アメリカ社会の物量の多さに圧倒されたのです。日本は、やっと経済的に高揚しつつあり、景気もよくなりつつあった時代でしたが、山のように詰まれた自動車の残骸が映し出されているのを見て、『すごい!』と思わされました。アメリカ社会の豊かさを、廃品の多さが、それを裏付けていたのです。経済力の違いの大きさに圧倒されたのを鮮明に覚えています。

 戦争が終わって10数年経っていたのですが、『こんな国と戦争したのか!』と思わされたのです。山の中から出てきて、東京に移り住んだ頃、進駐軍の兵隊が、道路わきで、兄にまねてベーゴマを磨いたりして遊んでいたわれわれに、ガムやチョコレートやバラ銭を投げていました。競ってそれを拾いました。家近くの鉄道の引込み線に停車していた列車からも、同じようにお菓子やお金が投げられ、被占領国の子供たちが、『ギブ・ミー・チョコレート!』を叫んで拾う必死な姿を眺めて、彼らは嬉嬉として喜んでいたわけです。

 敗戦国民の惨めさを、いやと言うほど味わされたのです。ところが、母が出会ったアメリカ人は彼らとはまったく違っていました。物を投げて喜ぶ人たちではなく、戦時下で野蛮な行為を平然として生きて来た我が国を、正しく教化したいと願った、マッカーサーの招聘に応えてやって来た人たちの一人でした。優しい目、柔和な人格、高尚な生き方は一目瞭然でした。だからと言って、母は「洋かぶれ」したのではなかったのです。

 同じ頃、家内の家族も、アメリカ人と出会っていました。「ララ」と呼ばれた衣服や食べ物や乳製品が、敗戦国の、これから国を担って行くであろう子どもたちの体躯の健全な成長のために送られてきたのです。その1つが、「脱脂粉乳」でした。日本のすべての学校に配られていたのです。家内は、古着をもらって着たのを覚えているのです。かつての敵を赦すだけではなく、愛して行為をしている彼らに圧倒されたのです。そのような恩恵を受けて、日本は経済大国になりました。決して忘れてはいけないことです。家内は、貰い下げのスカートを穿いたのを鮮明に覚えています。

 今度は、隣国から本当の意味で赦されて、友好関係を深めて、アジア諸国の物心両面での豊かさに貢献して行くべきだと、日本のこれからの使命を確信するのです。

2007年3月17日土曜日

「蟻の兵隊」の総隊長


 九州の温泉町からやって来た同級生がいました。お母さんが働いて、彼に仕送りをしていたのでしょうか。この彼が遊びに来た時に、有名な陸軍の上級将官の甥だったのを、父に聞いて知ったのです。彼のお父さんも、ベルリンのオリンピックの馬術で優勝した西選手の補欠だったのだそうです。戦後のどさくさの中を、彼はお母さんとお姉さんと、別府の町でひっそりと生活をしていたのでしょうか。『親爺の軍帽をかぶってチャンバラをして遊んだことがあった!』と彼が言っていました。

 最近、インターネットのサイトで調べていましたら、彼のお父さんのことが分かったのです。戦後、中国に残留した日本軍全部隊が統合されて「暫編独立第十総隊」が編成されました。その総指揮をとったのが彼のお父さんでした。上官命令で中国の山西省に残って、残留邦人の保護のために、将介石の率いる国民軍の傘下で戦ったのです。しかし戦いの後に破れて投降します。部下の命の保障を取り付けた後に、彼のお父さんは自害をして果てたのです。

 ところが、残留は「軍命」ではなく、司令官らが帰国するための責任逃れの画策だったことが、お父さんの部下たちの証言によって、後になって判明するのです。自らの生き残りのために狂奔する上官に対して、邦人保護や生き残った部下の安全のために、奔走した彼のお父さんの潔さに、残忍だとされる日本軍の汚名がすすがれる思いがいたします。

 この残留部隊の顛末は、奥村和一著「私は『蟻の兵隊』だった(岩波ジュニア新書)」、さらには、映画「蟻の兵隊(
http://www.arinoheitai.com/about/index.html)」に詳しいのです。

 明治以降、成績優秀で身体壮健な農村の若者の多くが、活路を軍人になることに見出したことを、「昭和の動乱」の著者で、敗戦時の外務大臣の重光葵が記しています。その友人のお父さんが宮城県の出身だのですから、きっとそうだったに違いありませ
ん。その彼が、苦みばしった好青年でした。まるで昭和の動乱の中を生きて死んで逝った「昭和の武士」のお父さんを思い起こさせるほどでした。空手をやっていて、高倉健が好きで、よく一緒に映画を観たり、飲み歩いたことがありました。

 もう何十年も音信が途絶えてしまっていますが、きっと元気で過ごしているのだと思います。この映画を観、その本を読んで、どんな気持ちで亡き父を思っているのだろうかと、遠く日本に思いを馳せている週末です。
(写真は、「山西省の街風景(新華社所蔵)」です)

わが手にある将来!

 『過去は変えられないが、将来は私たちの手の中にある。無関心ではいけない。無関心が常に加害者を助ける。』と、エリ・エーゼル(ノーベル平和賞受賞者)が言っています。ホロコースト(大虐殺)の生き残りで、ユダヤ民族として悲惨な過去の体験を持ちながら生きて来た人のことばです。

 先日、娘が訪ねてくれました。『どんな風に生きているのだろう?』と思ってでした。久しぶりの寛いだ会話の中で、『お父さんは、よく怒っていたよね!』と言っていました。本当にそうでした。血筋のせいにしては、兄たちや弟に申し訳ないのですが、「親爺譲り」の単細胞で「短気」な人間だったのでしょうか。それでも加害者であった4人の子どもたちは、『よく育ったな!』と思うのです。家内が、しっかりと補ってくれたからなのですが。若いころは、道で肩をぶっつけられると、振り向きざま相手を殴っていました。売られた喧嘩はいつも買っていました。兄たちにしごかれて強かったからです。

 そういった過去は変えられないのですね。恥じ入るばかりです。殴った人には、お詫びをしたい気持ちで一杯です。もう年をとってしまって、喘息気味で喧嘩どころではありませんが、「不正」に対しては、いまだに血気盛んなのに、驚かされます。こういった「短気」な国民性が、あの侵略戦争を起こしたのに違いありません。父の世代の罪に対して、自分は同罪だと思って恥じ入るのです。

 でも、私の手の中には、まだ「将来」が残されてあります。『なるようにしかならない!』のではなくて、過去の過失を踏まえて、『そうでない平和な明日の建設をして行く責任が、私にも私の国にもあるのだ!』ということが、エーゼルのことばで分かります。

 同胞600万人もの命を奪われた彼が、変えられない「過去」にではなく、関わることの出来る「将来」に、思いを向けていることに教えられます。きっと私の娘は、「変えられれている父親」を見に来たのではないでしょうか。さてさて、がっかりして帰って行ったのでしょうか、感謝して帰って行ったのでしょうか。

 喧嘩ではなく「和解」のために、残された日を生きて行きたいと心から願うこのごろです。

2007年3月13日火曜日

平成の鎌倉武士


 私の父は、『我が家は、頼朝から拝領した土地に生き続けてきた鎌倉武士の末裔なのだ!』と言っていました。何も残さないで逝った父の唯一、立つところだったのでしょうか。そのせいでしょうか、父が、よく「高楊枝」をくわえていたのを思い出します。でも、武士の出と言っても、それは遥かに昔の話で、この間まで畑を掘り起こして、土のにおいのする百姓武士(郷士)だったに違いないのです。それでも「一分」の武士の魂・心意気を受け継いでいたのだろうと思うのですが、平成の御世には、いかほどの事なのでしょうか。 

 3年ほど前のことですが、娘に誘われて、南信州の大鹿村に残る、田舎歌舞伎を見たことがあります。徳川幕府の禁制をかいくぐって伝承されて来た、本格的な歌舞伎でした。その時の演目は、「菅原伝授手習鑑」で、自分の子を主君・道真の子の身代わりに殺してしまうと言う話です。しかも、その子は承知で進んで犠牲になるのです。何時かご覧になられることを願って、詳しい話を省略します。悲しい話ですが、何となく分かるのです。イスラエル民族に伝わる話しの中に、似たような話があります。父に殺されそうとする子は、分っていて祭壇に自らを横たえるのです。「父への従順」と「父への飽くことの無い信頼」を示すのです。

 事の是非は論じませんが、こういった精神こそが、武士の魂なのでしょうか。下克上で、主君を裏切る者、実父を実子を殺してしまい、娘を政略結婚の犠牲にしてしまう時代の只中で、「潔さ」が、そこに示されているのです。

 私の叔父は、大学在学中に学徒出陣で、戦地に赴き、南洋で帰らぬ人となりました。学問を好んでいた叔父は、兄弟姉妹を思い、故郷をしのび、恋する人を心に抱えながら戦死したのではないでしょうか。学徒兵たちが、遺書には『天皇陛下万歳!』と書いても、死に際には、母を父を弟妹を呼んだのだと言われています。無謀な戦争でしたが、父や母を守ろうと、命をささげた方々の大きな犠牲によって、尊い「平和」を得たわけです。真の武士は、無茶苦茶には生きないのです。しっかりと歴史を認識して、過去の何が間違っていたのかを見極めて、はっきりと謝罪し、潔く認めることです。

 百姓武士の末裔ですが、アジアの人と土とを愛して、平和と和解とに役立てたらと、心から願う春待望の今日この頃です。

2007年3月11日日曜日

叱り上手

 就学直前に、私は肺炎にかかって、町にあった国立病院に入院してしまいました。それで、父が用意してくれた制服や靴を着用して、小学校の入学式に出ることが出来なかったのです。それ以来、3つの小学校に学んだのですが、4年生ころまで、風邪と肺炎をくりかえしていました。医者に、『今度肺炎になったら命の保証はありませんよ!』と言われたほどでした。ですから出席日数は極端に少なかったのです。たまに学校に行きますと、病弱なのだからじっと座っているかと思うと、授業中に立ち歩くし、悪戯はするし、してはいけないことをしてしまうし、廊下だけではなく校長室にまで立たされる日々でした。

 ですから担任に、よく怒られたのです。どの学期、どの学年の通信簿にも、『まったく落ち着きがありません・・・生活態度が・・・』と記されていました。怒られても、自分が悪いことが分っていましたので、殊勝な気持ちで立たされていたのを覚えています。でも反抗的であったこともあります。でも先生から叱られた事を、今になって心から感謝しているのです。お元気かどうか分かりませんが、みなさんにお会いして感謝を言いたい気持ちで一杯です。

 慶応義塾の名物塾長だった小泉信三の逸話が残っています。電車に乗っていた時、座っていた慶応の学生に向かって、『立って、この方に席を譲って上げなさい。』と言ったのだそうです。叱ったのではないのですが。言う人に勇気が必要ですし、聞く人にも従順が要求されます。私は、人としての在り方を塾生に教えた小泉信三に本物の教師像を見るのです。

 私を教えてくれた先生の中に、おばあちゃんの内山先生がいました。よく叱ってくれたのです。でも叱っただけではありませんでした。ほめてもくれたのです。「学習障害児」の小学2年生の私を、諦めなかったのです。もう一人、中学の3年間、担任をしてくださったK先生がいます。彼は、決まって教壇の上から降りて、始礼と終礼をされました。どうってこと無いのですが、必ず、私たちの立っている床に降りられて、『私はあなたたちと同じ所に立っていますよ!』と言ってくれていたのだと思うのです。

 そのほめられた事と、教壇を降りられた先生のあり方が原因したのでしょうか、「学習障害児」だった私は、しばらくの間でしたが教員をさせていただいたのです。

 交番のおまわりさんもおじさんも、アルバイト先でも、仕事先でも、必ず叱ったり、注意してくれた方たちがいたのです。 「叱り上手の大人」が、この時代に、もっといたらいいのですが。

2007年3月9日金曜日

『あなたは大丈夫!』


 『あなたの様な方は決して精神病にはならないでしょうね!』とよく言われてきました。悩んで考え込むようなことが無かったからです。加害者であっても、被害者であっても、何があっても、一日の終わりになると、すぐに眠りについて、一晩たつと、すっかり忘れてしまう性分でした。これも大いびきをかいて寝てしまう父譲りだったのです。その父と男の子4人の「5人の子ども(!?)」を、私の母は育てたのです。小柄でしたが、ガンバリ屋でした。父は、兄弟の中で私だけを、私立の中学校に行かせてくれました。

 ちょっとえこ贔屓だったようです。同級生には、医者や社長や中央競馬会の調教師の子がいました。父兄会の時に、そんな彼らのお母さんに、『負けたくなかった!』のだそうです。大人になって、母がそんなことを、ふともらしていました。ですから、週に一度は都心の有名なデパートに行っては、食材やおしゃれ着を買い込んでいたようです。そういった母の負けん気を、どうも受け継いで育ったようです


 家内との間に、男の子二人と女の子二人が与えられました。その養育のために、一生懸命に働きました。本業のほかに、1つの会社を持っていて、夜昼働いたのです。

 子育てが終わって、子どもたちが結婚して孫が出来た頃のことでした。転倒して利き腕を怪我してしまったのです。どう力を入れても腕が上がらないです。生まれて初めてのことでした。検査の結果、「右肩腱板断裂」だったのです。すぐ手術をして、丸二日間、ベッドに固定されて牽引されてしまいました。寝返り1つ出来ない不自由さが、こんなに辛いことかと知らされ、手術前に、『実は、この病院で手術後に自殺した人がいるんです!』と聞かされました。その気持ちに誘惑されたのも事実です。
 
 でも回復は奇跡的でした。と言ってもして、回復には8ヶ月ほどもかかりましたが。機能回復の途中の事でしたが、遠い山を見つめていましたら、ポロリと涙が落ちたのです。がんばって生きて来たのに、『腕が利かない!』、過去と将来とが断絶してしまったように感じたのです。この涙を見た家内が『ヤバイ!』と思ったのでしょうか、子どもたちに緊急連絡をとりました。長女はシンがポールにいましたので来られませんでしたが、3人の子が入れ替わり立ち代りやって来て、私を外に連れ出そうとしたのですが、『左腕をまた断裂したらどうしよう!』との恐れで外出できないのです。完全な鬱状態でした。

 そんな状態が2~3週続いたのでしょうか、子供たちの訪問、そして初孫誕生の知らせで、完全に回復したのです。『孫を抱ける!』と言う希望が湧き上がって来たからです。

 精神疾患は、風邪のようです。誰でもいつでもかかるのです。『大丈夫!』と過信していると、ひきますよ。ご注意を。

2007年3月6日火曜日

大好き!天津人


 昨年の秋の週末、天津市の「水上公園」の一角にある、「周恩来記念館」を見学しました。そこには、令夫人も一緒に記念されていました。お二人の夫婦仲が大変よかったことで有名で、これから結婚を考えている男女にとっての素晴らしいモデルなのだそうです。それで何組もの若い男女の姿がありました。

 これまで、国際報道の映像や写真を見ました時に、主席の脇で穏やかな表情を見せていた周恩来元首相のお顔を、よく覚えています。

 戦国の武将に、武田信玄がいましたが、彼の脇に山本勘助と言う参謀がいて、信玄の知恵袋だったと言われています。勘助は、自分を「二列目」における人だったのです。決して能力が無かったからではありません。かえって、信玄以上のものを持っていたとも言われています。それでも、自分を「第二」の位置に置くことの出来た人で、補佐役に徹して生きることが、彼には出来たのです。「下克上」の時代に、そのように生きることは大変難しかったのですが。

 そういった意味で、私は、周恩来に勘助の心意気を重ねて見てしまうのです。もちろん主席亡き後は、彼が、この国の舵取りをなさったのですが。

 1976年1月8日、彼が亡くなったときに、ニューヨークの「国際連合」の前庭に掲出されてある中華人民共和国の国旗が、「半旗」で掲げられました。時の国連事務総長ワルトハイムの独断だったそうです。その理由を彼が次のように語っています。『2つの理由があります。1つは、この国の通貨の量は大変多いのですが、周総理は一元の貯蓄も残しませんでした。2つは、この国は、全世界の4分の1の人口10億人がいますが、周総理には一人の子もいませんでした。』とです。堅実に、忠実に、難しい国情の中にあって生き、秀でた政治家・指導者に、格別な敬意を示したからでした。実にそうされるに値する人物だったわけです。

 周元首相は、現在の南開大学の前身の学校で学んだことがあって、天津人からの人気はいまだに衰えていないようです。その記念館ですが、人間崇拝は見られません。彼の業績に対しての感謝や賞賛が溢れていました。この街でお育ちになられた、温家宝現首相もまた、さらに素晴らしくこの国を舵取りして行かれることを、心から願うのです。

 私は、この国から多大な恩恵を受けた民の一人なのですから、感謝と敬意を込めて。



(写真は、天津の五大道の風景です)

2007年3月4日日曜日

「アリランの歌」から「北国の春」まで


 朝鮮民族の望郷の歌である「アリランの歌」を、目を閉じた父が懐かしそうに歌っているのを何度も聞いたことがあります。戦前、京城に住んで、仕事をしていたことがあった若き日の父には、彼の地での出来事を思い起こさせる歌だったのでしょう。ところが、この歌の替え歌を、上の兄が歌っていました。それは朝鮮半島から、無謀にも強制連行して酷使したみなさんを侮辱した歌詞でした。運動部の仲間から聞き覚えで披露していたのです。 悪意はなかったのですが。

 なぜ日本人は、隣国の朝鮮半島や大陸のみなさんを侮辱するのでしょうか。インスタント・カメラのことを「バカ○○○カメラ」と言うのですが、『バカでも○○○でも写せるカメラ!』との意味なのですが、多くの人は知らないで、このことばを使っています。侮蔑用語ですから、決して使ってはいけません。


 記録を残すための文字が無い、着る物も持たないで裸、食べ物を栽培する術も知らなく空腹だった我々の祖先に、文字も、糸をつむいで織って布を作る技術も、穀物や蔬菜の栽培法も、錬金術も、みんな教えてくださった国の方々なのにです。しかも、多くの方々は日本に帰化して下さったのです。ですから、私たちの体には、朝鮮民族や中国民族の血が、色濃く流れているのです。我々日本人が「純血種」だと言うのは、民族的にはありえないのです。能力も容姿も肌の色もまったく変わりがありません。もちろん能力も資質もですが。


 それなのに豊臣秀吉は、「朝鮮征伐」と銘打って朝鮮半島に派兵して、この国を蹂躙しました。まったくの暴挙でした。また日清戦争に勝ったと錯覚して以来、この中国の資源や市場を奪おうと、軍隊を駐屯させ、物資の運送の鉄路を敷き、工場を建設し、石炭やさまざまの資源を略取し、ついには、侵略戦争までしでかしたのです。朝鮮半島も東南アジアも同じように侵略したわけです。

 私たちの愛唱する演歌だって、その始まりは、大陸や朝鮮半島にあります。いつでしたか、私たちの町にある大学の大学院に留学していた方が、「北国の春」を、きれいな中国語で歌ってくださったことがあります。これは逆輸入でしたが、悪びれずに喜んで聴かせてくれたのです。

 かつての侵略国においで下さって、謙遜にも日本の教師から工学を学んでくださって、流行歌も覚えてくださり、冷ややかな目を向ける人たちの目を気にしないで、何年も学んで学位を得て帰国された方でした。この方とは、まだ交信が続いております。

 それで今度は、私が家内の手を引いて、この国で、この国の言語と文化を学ぼうと願ってやって来たのです。中日の友好の一環となろうとしてです!
(写真は、100年ほど前の中国の旧家の「消火器」です)

2007年3月2日金曜日

愚直の反骨精神


 時代の流れに逆行して生きるのは、確かに大変なことです。『その時代の正しさは、多数の人がよしとする多数決原理が決めることだ!』と、以前、ある新聞のコラム欄に読んだことがあります。そうしますと、少数者は常に間違っていると言う事になってしまうのですが、本当に、そうなのでしょうか。いつでしたか、『赤信号みんなで渡れば怖くない!』と言うことばが流行ったことがありました。「みんな」の中に紛れ込んでしまうことを言い当てています。信号を守る私は、なぜか独りでさびしそうで、行動を共に出来ない、はみ出し人間になってしまっています。赤信号を渡っている人が正しくて、守っている私が誤っているのでしょうか。そんなことはありません。

 そういったこととは真反対に、「反骨主義」を貫いて生きている人もいるのです。内村鑑三が、「教育勅語」を読むときに、天皇皇后の写真への拝礼の角度が足りなく、「不敬行為」だとされて、結果的に一高の教壇を追われる事件がありました。また、元東京帝大教授で貴族院議員・美濃部達吉が「天皇機関説」を著して、不敬罪で告訴されて議員を辞職しています。最近ですと、亀井静香らが、「郵政法案」に反対して自民党を追われました。さらに高校の先生が、「国歌」の唱和を拒み、「国旗」への拝礼を拒んで裁判沙汰になっています。先生にも、しない自由があるのだと思っていましたら、そうではないのですね。しない人は罰せられるわけです。その時、決まって言われるのは、『みんながしている事を、どうして出来ないのか!』と言うことなのです。

 信条や思想が原因して、出来ない人がいてもよいのが、「自由主義社会」のはずです。韓国の京城(現在のソウル)にあった女学校で、「宮城遥拝」をしなかった女学生がいました。「しない自由」の無い時代のことだったのです。けれど、彼女は、人に過ぎない天皇や天皇の住む東京に向かって、拝礼する事が、どうしても信条上出来なかったのです。ところが、敗戦した日本で、天皇は、自ら「人間宣言」をしたのではないでしょうか。昭和天皇は正しく人でした。直腸癌に侵されて病死する人だったのです。あの時代の「みんな」が神に祀り上げただけです。 

 「多数決原理」は確かに公平の原理ですが、少数者を無視し、ないがしろにしたら、多数者の過ちを犯してしまうのです。その過ちで、どれだけの有為な青年が死んでいったことでしょうか。私の叔父も戦争で逝きました。

 何だか、軍靴の靴音が遠くから聞こえてきそうでなりません。

2007年3月1日木曜日

「上海帰りのリル」


  幼い頃、ラジオから流行歌が流れていました。意味は分かりませんでいたが、覚えた歌が数多くあったのです。ある歌を、高校を卒業して何年も経って、再会した同級生が、しみじみと歌っていたのです。新宿の酒場ででした。私は25で酒をやめましたから、飲み屋に出入りする事はまったくなかったのですが、仲良しだった彼の誘いで、久しぶりに入ったのです。その時、彼が歌ったのが、『上海帰りのリル』でした。

 何かを思い出そうとしながら、哀調に満ちて歌っていたのが印象的でした。その晩、彼の家に泊めてもらったのですが、多分一番良い部屋だと思うのですが、海軍の軍服を着、軍帽をかぶった20代後半ほどの青年の写真が掲げられてありました。彼のお父さんの遺影でした。彼の家には、お父さんがいなかったのを知っていましたし、遊びに行きますと一生懸命に働いて彼を育ててきたお母さんがご馳走してくれたのです。きっと、お母さんの部屋にあった写真を、結婚した彼が引き取ったのでしょう。彼は、お父さんを思い出し、お父さんのいない子供の頃に流行った歌を思い出して歌う、そういったパターンで酒を飲むのだろうと思わされました。

 この彼が無類の悪戯小僧で、何時も担任に怒られていました。同じように悪戯をしても、彼が見つかって彼だけが叱られていました。そんな彼をいつも連れ歩いた仲良しでした。父親のいない寂しさがあったのでしょけど、父に愛されて育った私には、彼を理解してあげる能力はありませんでした。大人になってがんばったのでしょうか、ある会社の社長をしていました。
  
 父親のいない同級生、小学校からずっと、どのクラスにも何人もいたのです。やはり、戦争の被害を受けた最後の世代が我々なのだと思うのです。そういえば寂しそうでした。彼の世田谷の家に行くと、リトル・パティやコニー・フランシスの歌う歌が、いつも流れていました。

 もしかしたら、彼のお父さんが海軍でしたら、飛行機に乗っていた可能性もあるわけです。そうしますと、私の父は軍用飛行機の製造に関わっていましたから、父の手の入った飛行機に乗って出撃したかも知れません。想像ですが。 攻撃して死なせても戦死して亡くなっても、人の人生を戦争は狂わせた事は確かです。

 父親の無事の帰還を信じて待っていた幼い彼の耳に、聞こえて来た流行歌の歌詞の「上海帰りのリル」が、強烈に彼の父への思慕の念と重なるのでしょうか。

 子の世代にも、孫の世代にも、同じ過ちが繰り返されないことを切に願ってやみません。 それにしても彼はほんとうに悪戯小僧でした!
(写真は、上海観光局による「明朱電視台」)

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自己紹介

 次男に勧められて始めた「ブログ」ですが、2007年7月から1年間休刊しました。その間、他の「ブログ」を開設したのですが、2008年7月に、名前を変えて再開しました。  父として子どもたちに、爺として孫たちに、また母や兄弟や友人たちにも、何かを語り残したいと願って、続けています。