2007年3月6日火曜日

大好き!天津人


 昨年の秋の週末、天津市の「水上公園」の一角にある、「周恩来記念館」を見学しました。そこには、令夫人も一緒に記念されていました。お二人の夫婦仲が大変よかったことで有名で、これから結婚を考えている男女にとっての素晴らしいモデルなのだそうです。それで何組もの若い男女の姿がありました。

 これまで、国際報道の映像や写真を見ました時に、主席の脇で穏やかな表情を見せていた周恩来元首相のお顔を、よく覚えています。

 戦国の武将に、武田信玄がいましたが、彼の脇に山本勘助と言う参謀がいて、信玄の知恵袋だったと言われています。勘助は、自分を「二列目」における人だったのです。決して能力が無かったからではありません。かえって、信玄以上のものを持っていたとも言われています。それでも、自分を「第二」の位置に置くことの出来た人で、補佐役に徹して生きることが、彼には出来たのです。「下克上」の時代に、そのように生きることは大変難しかったのですが。

 そういった意味で、私は、周恩来に勘助の心意気を重ねて見てしまうのです。もちろん主席亡き後は、彼が、この国の舵取りをなさったのですが。

 1976年1月8日、彼が亡くなったときに、ニューヨークの「国際連合」の前庭に掲出されてある中華人民共和国の国旗が、「半旗」で掲げられました。時の国連事務総長ワルトハイムの独断だったそうです。その理由を彼が次のように語っています。『2つの理由があります。1つは、この国の通貨の量は大変多いのですが、周総理は一元の貯蓄も残しませんでした。2つは、この国は、全世界の4分の1の人口10億人がいますが、周総理には一人の子もいませんでした。』とです。堅実に、忠実に、難しい国情の中にあって生き、秀でた政治家・指導者に、格別な敬意を示したからでした。実にそうされるに値する人物だったわけです。

 周元首相は、現在の南開大学の前身の学校で学んだことがあって、天津人からの人気はいまだに衰えていないようです。その記念館ですが、人間崇拝は見られません。彼の業績に対しての感謝や賞賛が溢れていました。この街でお育ちになられた、温家宝現首相もまた、さらに素晴らしくこの国を舵取りして行かれることを、心から願うのです。

 私は、この国から多大な恩恵を受けた民の一人なのですから、感謝と敬意を込めて。



(写真は、天津の五大道の風景です)

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自己紹介

 次男に勧められて始めた「ブログ」ですが、2007年7月から1年間休刊しました。その間、他の「ブログ」を開設したのですが、2008年7月に、名前を変えて再開しました。  父として子どもたちに、爺として孫たちに、また母や兄弟や友人たちにも、何かを語り残したいと願って、続けています。