2007年3月20日火曜日

『ギブ・ミー・チョコレート!』


 中学1年から10年間、電車通学をしました。その下車駅の近くに「名画座」があり、いつも2本立ての洋画が上映されていたのです。何度も学校をサボっては、ポケットの中にタバコを忍ばせて、この映画館に入って時間をつぶしていたのです。ところが一向に英会話の勉強にはなりませんでした。便所で隠れて吸ったタバコにむせていたのを思い出します。中2でした。

 鼻がもう少し高くなることや、青い目には憧れませんでしたが、銀幕に映し出されている、アメリカ社会の物量の多さに圧倒されたのです。日本は、やっと経済的に高揚しつつあり、景気もよくなりつつあった時代でしたが、山のように詰まれた自動車の残骸が映し出されているのを見て、『すごい!』と思わされました。アメリカ社会の豊かさを、廃品の多さが、それを裏付けていたのです。経済力の違いの大きさに圧倒されたのを鮮明に覚えています。

 戦争が終わって10数年経っていたのですが、『こんな国と戦争したのか!』と思わされたのです。山の中から出てきて、東京に移り住んだ頃、進駐軍の兵隊が、道路わきで、兄にまねてベーゴマを磨いたりして遊んでいたわれわれに、ガムやチョコレートやバラ銭を投げていました。競ってそれを拾いました。家近くの鉄道の引込み線に停車していた列車からも、同じようにお菓子やお金が投げられ、被占領国の子供たちが、『ギブ・ミー・チョコレート!』を叫んで拾う必死な姿を眺めて、彼らは嬉嬉として喜んでいたわけです。

 敗戦国民の惨めさを、いやと言うほど味わされたのです。ところが、母が出会ったアメリカ人は彼らとはまったく違っていました。物を投げて喜ぶ人たちではなく、戦時下で野蛮な行為を平然として生きて来た我が国を、正しく教化したいと願った、マッカーサーの招聘に応えてやって来た人たちの一人でした。優しい目、柔和な人格、高尚な生き方は一目瞭然でした。だからと言って、母は「洋かぶれ」したのではなかったのです。

 同じ頃、家内の家族も、アメリカ人と出会っていました。「ララ」と呼ばれた衣服や食べ物や乳製品が、敗戦国の、これから国を担って行くであろう子どもたちの体躯の健全な成長のために送られてきたのです。その1つが、「脱脂粉乳」でした。日本のすべての学校に配られていたのです。家内は、古着をもらって着たのを覚えているのです。かつての敵を赦すだけではなく、愛して行為をしている彼らに圧倒されたのです。そのような恩恵を受けて、日本は経済大国になりました。決して忘れてはいけないことです。家内は、貰い下げのスカートを穿いたのを鮮明に覚えています。

 今度は、隣国から本当の意味で赦されて、友好関係を深めて、アジア諸国の物心両面での豊かさに貢献して行くべきだと、日本のこれからの使命を確信するのです。

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自己紹介

 次男に勧められて始めた「ブログ」ですが、2007年7月から1年間休刊しました。その間、他の「ブログ」を開設したのですが、2008年7月に、名前を変えて再開しました。  父として子どもたちに、爺として孫たちに、また母や兄弟や友人たちにも、何かを語り残したいと願って、続けています。