2007年3月17日土曜日

「蟻の兵隊」の総隊長


 九州の温泉町からやって来た同級生がいました。お母さんが働いて、彼に仕送りをしていたのでしょうか。この彼が遊びに来た時に、有名な陸軍の上級将官の甥だったのを、父に聞いて知ったのです。彼のお父さんも、ベルリンのオリンピックの馬術で優勝した西選手の補欠だったのだそうです。戦後のどさくさの中を、彼はお母さんとお姉さんと、別府の町でひっそりと生活をしていたのでしょうか。『親爺の軍帽をかぶってチャンバラをして遊んだことがあった!』と彼が言っていました。

 最近、インターネットのサイトで調べていましたら、彼のお父さんのことが分かったのです。戦後、中国に残留した日本軍全部隊が統合されて「暫編独立第十総隊」が編成されました。その総指揮をとったのが彼のお父さんでした。上官命令で中国の山西省に残って、残留邦人の保護のために、将介石の率いる国民軍の傘下で戦ったのです。しかし戦いの後に破れて投降します。部下の命の保障を取り付けた後に、彼のお父さんは自害をして果てたのです。

 ところが、残留は「軍命」ではなく、司令官らが帰国するための責任逃れの画策だったことが、お父さんの部下たちの証言によって、後になって判明するのです。自らの生き残りのために狂奔する上官に対して、邦人保護や生き残った部下の安全のために、奔走した彼のお父さんの潔さに、残忍だとされる日本軍の汚名がすすがれる思いがいたします。

 この残留部隊の顛末は、奥村和一著「私は『蟻の兵隊』だった(岩波ジュニア新書)」、さらには、映画「蟻の兵隊(
http://www.arinoheitai.com/about/index.html)」に詳しいのです。

 明治以降、成績優秀で身体壮健な農村の若者の多くが、活路を軍人になることに見出したことを、「昭和の動乱」の著者で、敗戦時の外務大臣の重光葵が記しています。その友人のお父さんが宮城県の出身だのですから、きっとそうだったに違いありませ
ん。その彼が、苦みばしった好青年でした。まるで昭和の動乱の中を生きて死んで逝った「昭和の武士」のお父さんを思い起こさせるほどでした。空手をやっていて、高倉健が好きで、よく一緒に映画を観たり、飲み歩いたことがありました。

 もう何十年も音信が途絶えてしまっていますが、きっと元気で過ごしているのだと思います。この映画を観、その本を読んで、どんな気持ちで亡き父を思っているのだろうかと、遠く日本に思いを馳せている週末です。
(写真は、「山西省の街風景(新華社所蔵)」です)

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自己紹介

 次男に勧められて始めた「ブログ」ですが、2007年7月から1年間休刊しました。その間、他の「ブログ」を開設したのですが、2008年7月に、名前を変えて再開しました。  父として子どもたちに、爺として孫たちに、また母や兄弟や友人たちにも、何かを語り残したいと願って、続けています。