2008年11月30日日曜日

母の忠告のことば


 アメリカ合衆国は、1776年に東部13の植民地が、英国の支配から独立して建国された、230年ほどの浅い歴史の国です。何度か訪問させていただいて見たアメリカは、「アメリカン・ドリーム」を感じさせてくれる、素晴らしい国だと思わされたのです。次女の卒業式に出席した後、次女と共に学んでいた長女と3人で旅行をしたことがありました。オレゴンからワシントン州、アイダホ州、モンタナ州、ワイオミング州と車を走らせて、イエローストーンまで行き、帰りも同じ道順で戻りました。実は、アメリカ映画”River runs through it ”の舞台になっていたのが、モンタナのミズーラという街でした。映像に描かれた風景の美しさに魅せられた私は、『一度でいいからモンタナに行ってみたい!』と思っていたのです。その映画は、ミズーラを舞台にし、シカゴの大学の教授であった兄が、職を辞した後に、故郷での家庭生活、弟や仲間たちとの交わりを回顧する物語でした。厳しく育てる父親の背後で、いたずらを働く兄弟が面白く描かれていました。彼らのお父さんは釣りが大好きで、その趣味を息子たちもつぎ、どうも弟が一番上手だったようです。「古き良きアメリカ」がそこの描かれていて、とても印象的でした。



 私たちは、街に着くと食糧を買って、公園などで自炊しながら、旅行者用のホテルに泊まっての1週間の旅でした。どの州も微妙に違っていて、美しい景観に魅了されたのです。道筋に見える農村風景の規模の大きさには圧倒されました。『こんなに大規模な農業が大都会や工業地帯の生活を支えているんだ。こんな国と、父の時代に戦争をしたのか!』と思わされたのです。こういった農村部で生産された《粉ミルク》が、戦後の日本の学童の栄養補給にと送り出されたのです。あの味は忘れることが出来ません。かつての敵軍の子弟に、ミルクや衣服を提供した度量の深さには驚かされ、感謝を覚えるのです。そういえば、これまで私の出会ってきたアメリカ人はみんな素晴らしい人格者だったのを思い出します。民間のある団体が、「LALA」と呼ばれる物資を何年も何年も送り続けてくれたのです。そんな旅の途上、田舎町のスーパーで出会った人たちの中に、メキシコ人の姿を見受けたのは、彼らが農場で働いているからなのだそうです。労働力を外国に頼る経済や社会の構造に考えさせられました。


 

 さて、このアメリカで来年、 2009年1月に、次期アメリカ大統領に選任されたオバマ氏の就任式が行われるのですが、どのような就任演説をされるのでしょうか、興味が尽きません。今から31年前、1977年1月20日、ジミー・カーターの第39代大統領への就任式が行われました。その就任演説で語った言葉の中に、三つの点が上げられていました。それは「公義を行うこと」、「あわれみ(誠実)を愛すること」、「謙遜であること」でした。就任の3年ほど前に、お母さんから受け取った忠告のことばの中に、『何がよいことなのか?』という問いかけがされて、この三点があったのだそうです。まさに、それらの忠告のことばこそ、アメリカの建国の父たちの願いでありました。メイフラワー号に乗って、新大陸に渡った彼らは、幾多の困難を経て、理想的な国家を建設しようとしたのです。

 さあ、どの様にアメリカが変わっていくのでしょうか。「変化」を強調した新大統領ですが、あまりにも大きくカーブさせてしまわないように願っております。なぜなら、そこには次女と夫と二人の孫が住んでいるからなのです。ちょっと利己的な理由でしょうか、それとも家族愛からでしょうか。とにかく肺炎の癒えた私の体に、栄養を補給してくれたLALAの粉乳に感謝を覚える私ですから、そうも願ってしまうのす。

(写真は、「メイフラワー号」、ビッグスカイ・ステイトの「モンタナ/フリー素材屋Hoshino、「ジミー・カーター大統領」です)

2008年11月29日土曜日

肩を組みながら行く



  『糟糠の妻は、堂より下さず(「貧しいころから、苦労を共にした妻は、立身出世の後も、離縁するわけにはいかない」との意)』と、「後漢書」にあります。この「糟糠(そうこう)」ということばには、妻に対する、夫の心からの感謝が込められているにちがいありません。糟(かす)や糠(ぬか)を食べるほどの貧しい時代を、共に励まし合い、いたわり合って過ごし、耐えて忍んでくれた妻に、心からの『ありがとう!』の気持ちがこめられているのだろうと思われます。

 父特愛の三男の私は、私立の中学に、いくつもの駅を越えて電車通学をさせてもらいました。百二十人ほどの小学校の同級生の中で、同じ町で大きな町工場を経営していた社長の娘と私だけだけが、私立に進学したのです。大正デモクラシーの息吹の感じられる時代に建てられた、伝統ある中学・高校で、六年間学ばせてもらったのです。父の期待を背に感じたのですが、誰からも駆り立てられることなく、自由気ままに過ごすことができました。中学ではバスケットボール部に、高校ではハンドボール部に入って、実に恵まれた少年期から青年期を過ごすことができたのです。ですから、私はお金に苦労したことがありませんでしたし、父に似たのでしょうか、お金を貯めると言うことをしませんでした。五人に一人の進学の時代に、大学にも行かせてもらい、まあまあの職場に就職することもできたのです。

 


 そんな男と結婚したのですから、家内の苦労は、想像がつくと思います。『何時までもあると思うな!』と言われる《お金》が、『何時までもある!』と思う私でしたから大変でした。結婚したとき、家内のほうが給与もボーナスも、はるかに多かったのですが、彼女は、私の収入で生活をすることを決めて、勤めていた職場を、結婚を機に退職していました。すぐに長男が与えられましたから、食べていくだけでも大変だったのでしょう。苦労させました。そんな家内を、『戦友!』と呼んだことがあります。平和を取り戻した昭和の40年代から平成の代に亘って、苦楽を共にした家内を、そう呼ぶことが一番いいのではないかと思ってでしたそんな呼びかけに、家内はただ苦笑いをしていましたが。


  
 この
中国で、一番強い絆が、「戦友」だと聞きました。生まれ育った国と親兄弟姉妹とを愛するがゆえに、軍務に着いた彼らは、死の危険を厭うことなく国防に従事するのです。ですから、その仲間とは兄弟以上の関係が培われるのに違いありません天津でも福州の街でも、街中を通っていて1つ気付くのは、手を繋いだり、肩を抱き合って談笑しながら歩いている二人をたびたび見かけるのです。恋人同士ではなく、女性同士だけでもなく、男性同士が、肩を組んで談笑しながら道を行くのです。『青年なのかな?』と思うと、そうではなく「壮年」のがっちりした大人なのです。子どもの頃に仲良しとは、よく肩を組んで歩いたのを思い出すのですが、大人になってからはしたことはありません。それなのに、中国ではしばしば見受けるのです。これが文化や慣習に違いありません。『ちょっと出来ないな!』と思うのですが、家内とでしたら、この頃足元が危なくなった二人ですので、を繋いだり、組んだりして歩くのですが。きっと日本に帰って、向うから知人がやって来たら、そっと解いてしまうのだろうと思うのですが、こちらで見て学習していますので、繋いだままかも知れません。「ソウコウ」している間に、どちらかが乗せられて、一人が押して行く「姥車(爺車!?)」の光景が見られるに違いないのですが。

(写真は、「中央線の電車模型」http://photozou.jp/photo/show/184380/12883203、「五千円札」http://www.asahi-net.or.jp/~ue6s-kzk/sub15.htm、「肩を組む」http://www.jajapro.com/fan.html、です)

冬支度


 築三十年の教員用住宅に住み始めたのが、酷暑の7月でした。引越し先が、緑の木の茂る川辺の高台ですので、クーラーを数度しか使わないですむほどで、夏を越えることが出来ました。さしもの暑さもいつの間にか峠を越して、気づくと赤とんぼが飛び始め、ススキが雑草の中から背伸びをしてきていました。暦の通りに季節が移り変わって、毛布を出し、布団をかけなければならない晩の到来となりました。それでも、『半そでで大丈夫かな?』と思うほどの日中が時々あるのは、やはり亜熱帯気候を感じさせられております。道路の路側帯には、ブーゲンビリアやハイビスカスや名を知らない黄色い花が、山茶花に似た花が庭先に咲き、裏庭の出口の角の金木犀の木には、まだ小さな花が咲いて、目を楽しませてくれます。そんな目を楽しませてくれ初冬を迎えております。

 

 先日、寒い日があって、身をかがめたのですが、『そうだ、冬支度をしないと!』と感じて、建て付けの悪い窓を修理を頼みましたら、大工さんが奥さんをお伴にやって来て、閉まらない窓を修理し、隙間を埋めてくれました。四ヶ所の木製の窓も冬支度完了ですが、まだ隙間があって、息子の送ってくれた補修用テープで埋め始めています。それでも、以前住んでいました天津に比べたら寒さは比べられません。もう11月の下旬ですから、天津のアパートの全戸には、温水の配管が完備されていて、暖房が始まっている頃でしょう。私たちの住んでいたアパートのすぐそばに、大きな煙突があって、24時間石炭が燃されて循環用の温水を沸かせているのです。いつでしたか漏水して、部屋が水浸しになってしまったことがありました。すぐに修理してもらいましたことがありました。その暖房のせいで、津河の流れが氷結するほどの寒さの中でも、室内は、Tシャツでも過ごせるほどだった野毛、実に羨ましい限りです



 そういった暖房設備のない福州では、凍ったり雪が降ったりしない代わり、寒いのです。それで自前で暖房を備えなければならないのです。ですから、部屋の中ではコートを着て、毛糸の帽子をかぶって、ふとんの中に足を入れて、昨年の冬は過ごしたほどです。夜間は、ベッドが温まらなかったのです。それで、寒がりの私用に日本から持参した毛布を出して使い始めたのです。ところが、100ボルト仕様なのに、220ボルトのコンセントに差し込んでしまったら、瞬間的に加熱で壊れてしまいました。それで寒さをしのびながら、昨年の福州の冬を過ごしたのですが。今年は準備万端整っていますので大丈夫です。すでに日本仕様ですが、新しい電気毛布を入手してあります。よくよく変圧器を使うことを心していかないといけませんが。

 近いうちに、室内用の暖房器具を調達しないといけないようです。窓の隙間はふさがれたのですが、こちらの天井は日本に比べて40センチほど高いのです。暖房能力の高いものが必要かも知れません。次男とチャットをしたときに、『暖房はどう?』と心配をしてくれたのはうれしいことでした。それでも、東京のほうが寒いに違いありません。霜は降りるし、霜柱も張りますし、窓は結露ができ、水は凍り、雪だって4度ほどは降るからです。

 さあ、冬が近づきました。インフルエンザを恐れないで、うがい手洗いを励行して、風邪の予防線を強固にしていきましょう。こちらの正月、125日から始まる「春節」の休みには、子どもたちや孫たちに会えることを願いつつ。 


 
                              

(写真は、住み始めたアパートの窓、ブーゲンビリア、天津の五大道にある租界時代のの建物です)


2008年11月28日金曜日

下馬


 『どこの馬の骨か分からない者に・・・』と、自分の息子が、その結婚相手のお父さんに言われたのが、家内の父親でした。義父は怒る代わりに、『それでは!』と言って、自分の家系を調べ直したのです。そうしましたら、聞いて知っていた以上に、名門の家系であることを突き止めて、『俺も俺の息子も馬の骨の出ではない!』ことが分かって、溜飲を下げたのだそうです。

 日本人の家系は、どのようにたどっていったらいいのでしょうか。よほどの名門でないと、家系図を残していることはないようです。農民や手工業者や商人たちに、苗字をつけることが一般化したのは、明治になってからでした。1875年(明治8年)213日、明治政府が出した平民苗字必称義務令(へいみんみょうじひっしょうぎむれい)」の布告以降のことでした。川の上のほうに住んでいたので「上川」とか「川上」、田んぼの中に家があったので「田中」、橋の下に住んでいたので「橋下」とか「橋元」と過、そう言っていって苗字が付けられたのだそうです。 私の父の唯一の誇りだったのですが、頼朝の家臣で、名を上げ功を遂げて、拝領した土地に住み着いた一族の末裔であることを話してくれたことがあります。でも、現代に至って、『わが〇〇家は、だれだれの家系で、名門の出なのです!』といっても、『それがどうしたの?』といわれるのが落ちなのだそうです。


 

 ところが、家内の祖先の家の前には、「下馬(げば)」という一冊が掲げられていたのだそうです。馬に乗るのですから、まあまあの身分の位の人だったのですが、そういった馬上の人が、この家の前では、馬を下りなければならなかったのは、そういとうな身分だったことになります。としますと、代が代であれば、私は家内のことを、『姫君、ご機嫌はいかがと存じ上げます!』と言わなければならないわけです。

 さて、聞くところによりますと、ここ中国では、何代も何代も書き残した家系の記録を持っておられる方が、とても多いのだそうです。海外に出て行った華人でも華僑でも、子が生まれ孫が生まれると、そのl記録に名を連ねるために故郷に戻って、その作業をされるようです。私たちの友人の女性は、山東省の出で、何代も前に、福建省の長楽に移り住んだことを話してくれました。父親の苗字を子が受け継ぎますから、その男の子は、自分の子どもたちに受け継がせていくのです。夫婦別称の中国では、結婚した女性は、お父さんの苗字を受け継ぎますが、結婚して産んだ子どもたちは、父親の姓をもらうので、そこで消えてしまいます。中国で、一番有名なのは「李」、次いで「王」、「張(张)」で、他の十傑に入るのが「呉(吴)」、「趙(赵)」、「周」、「陳(阵)」、「楊(杨)」、「黄」、「劉()」だそうです(「百家姓」より)。ここ福建省で、知り合いになった方の中一番多いのが、「陳」さん、次いで「林」さん、「黄」さんです。日本では「佐藤」、「鈴木、「高橋」だそうですね。私のペンネームの「広田」は、シュークリームと広田弘毅(第代内閣総理大臣)で有名ですが、広田のお菓子と、政治家としも人としても潔かった広田弘毅が好きで、お借りしています。「雅仁(まさひと)」は、二人の男の孫の名前を使っています。


 

 私の父は、自分の苗字を使わないで、母の姓を使いました。その母も幼女として育ちましたので、本来の姓を名乗ったのではないのです。いつでしたか、父の苗字が断絶してしまうので、4人の父の子の誰かが、『家名を継いで欲しい!』と、叔母たち(父の妹)から願いの声が上がったのですが、どうも断ち切れてしまうようです。鎌倉武士の末裔といっても、北条氏に打たれて亡びたのですし、徳川が天下を取ったのですから、一時期、歴史に名を刻んで消えた一族の子孫ということになりますから、世の中には、星の数ほどいることになるわけです。

 父の生家の名を残すより、人の前に恥じない生涯を生きることが肝要なのかも知れません。一人の日本人として、一人の人として、精一杯に感謝して、追ってきた夢をなおも追って、生きて行きたいと思う、中国華南の11月の終わりです。

(写真は、乗馬する幼い友人、鎌倉の辻に立つ「下馬」の表札、2月の伊豆「川奈桜」です)


 『どこの馬の骨か分からない者に・・・』と、自分の息子が、その結婚相手のお父さんに言われたのです。それは家内の父親でした。義父は怒る代わりに、『それでは!』と言って、自分の家系を調べ直したのです。そうしましたら、聞いて知っていた以上に、名門の家系であることを突き止めて、『俺も俺の息子も馬の骨の出ではない!』ことを分かって、溜飲を下げたのだそうです。

 日本人の家系は、どのようにたどっていったらいいのでしょうか。よほどの名門でないと、家系図を残していることはないようです。農民や手工業者や商人たちに、苗字をつけることが一般化したのは、明治になってからでした。1875年(明治8年)213日、明治政府が出した平民苗字必称義務令(へいみんみょうじひっしょうぎむれい)」の布告以降のことでした。川の上のほうに住んでいたので「上川」とか「川上」、田んぼの中に家があったので「田中」、橋の下に住んでいたので「橋下」とか「橋元」と過、そう言っていって苗字が付けられたのだそうです。 私の父の唯一の誇りだったのですが、頼朝の家臣で、名を上げ功を遂げて、拝領した土地に住み着いた一族の末裔であることを話してくれたことがあります。でも、現代に至って、『わが〇〇家は、だれだれの家系で、名門の出なのです!』といっても、『それがどうしたの?』とわれるのが落ちなのだそうです

 ところが、家内の祖先の家の前には、「下馬」という一冊が掲げられていたのだそうです。馬に乗るのですから、まあまあの身分の位の人だったのですが、そういった馬上の人が、この家の前では、馬を下りなければならなかったのは、そういとうな身分だったことになります。としますと、代が代であれば、私は内のことを、『姫君、ご機嫌はいかがと存じ上げます!』と言わなければならないわけです。

 さて、聞くところによりますと、ここ中国では、何代も何代も書き残した家系の記録を持っておられる方が、とても多いのだそうです。海外に出て行った華人でも華僑でも、子が生まれ孫が生まれると、そのl記録に名を連ねるために故郷に戻って、その作業をされるようです。私たちの友人の女性は、山東省の出で、何代も前に、福建省の長楽に移り住んだことを話してくれました。父親の苗字を子が受け継ぎますから、その男の子は、自分の子どもたちに受け継がせていくのです。夫婦別称の中国では、結婚した女性は、お父さんの苗字を受け継ぎますが、結婚して産んだ子どもたちは、父親の姓をもらうので、そこで消えてしまいます。中国で、一番有名なのは「李」、次いで「王」、「張(张)」で、他の十傑に入るのが「呉(吴)」、「趙(赵)」、「周」、「陳(阵)」、「楊(杨)」、「黄」、「劉()」だそうです(「百家姓」より)。ここ福建省で、知り合いになった方の中一番多いのが、「陳」さん、次いで「林」さん、「黄」さんです。日本では「佐藤」、「鈴木、「高橋」だそうですね。私のペンネームの「広田」は、シュークリームと広田弘毅(第代内閣総理大臣)で有名ですが、広田のお菓子と、政治家としも人としても潔かった広田弘毅が好きで、お借りしています。「雅仁(まさひと)」は、二人の男の孫の名前を使っています。

 私の父は、自分の苗字を使わないで、母の姓を使いました。その母も幼女として育ちましたので、本来の姓を名乗ったのではないのです。いつでしたか、父の苗字が断絶してしまうので、4人の父の子の誰かが、『家名を継いで欲しい!』と、叔母たち(父の妹)から願いの声が上がったのですが、どうも断ち切れてしまうようです。鎌倉武士の末裔といっても、北条氏に打たれて亡びたのですし、徳川が天下を取ったのですから、一時期、歴史に名を刻んで消えた一族の子孫ということになりますから、世の中には、星の数ほどいることになるわけです。

  父の生家の名を残すより、人の前に恥じない生涯を生きることが肝要なのかも知れません。一人の日本人として、一人の人として、精一杯の感謝を持って、追ってきた夢をさらに追いながら、生きてみたいいと思う、11月の終わりです。

2008年11月27日木曜日

『时间过了很快!』


 『月日は百代の過客にして、ゆきこう年もまた、旅人なり。』、と読んだ中学1年の時に、月日が旅人に比喩されることは、自分とは無関係でした。また、『少年老い易く学成りがたし。一寸の光陰軽んずべからず。未だ覚めず池塘春草の夢、楷前の梧葉既に秋声。』、を漢文で学んだ時も、時間の大切さを感じることもありませんでした。自分に与えられた時間は、「永遠」のように感じていて、人生は前途洋洋に思えたのです。ですから芭蕉や朱熹が、何を言ってるのかの理解は全くなかったわけです。

 ところが、瞬きの間のように、年月が過ぎていきました。あるとき、生まれて間もない長男を乳母車に乗せて散歩していました。向うからやって来た小学生の女の子たちに、『おじちゃん!』と呼びかけられたのです。傍に、おじさんがいるのだと思っていましたら、こちらに向かって、また呼びかけたのです。初めて、そう呼ばれて、青年だとばかり思っていた私は、『どうしておじちゃんなの?』と聞きなおしましたら、『だって、赤ちゃんがいるじゃあない!』と答えていました。もう、すっかり、おじさんだったわけです。



いつも年よりも若く見られてきました。とうに成人式を終えていたのですが、駅前の交番をタバコをくわえて歩いていましたら、お巡りさんに呼び止められたのです。未成年者の喫煙容疑でした。どうしても高校生にしか見えなかったのです。それで定期券を見せて納得してもらいました。その実年齢と見かけ年齢には5才ほどのギャップがあって、今日まで続いています。私には兄が二人、弟がひとりいるのですが、あるとき、次兄が、『誰が一番上に見えますか。順番を当ててみてください!』と、ある方に尋ねたのです。一番年上が弟、二番が次兄、三番が長兄、そして私でした。弟はひげを生やしていますので、ふけて見えるのでしょうか。成人の年齢というのは、7歳若く見える人と、7歳ふけて見える人がいるそうです。同級生も14歳の開きがあるわけです。髪の毛がなくて禿げていた旧友のお父さんを知っていますが、40過ぎた頃、私たちのクラス会がありました。彼は、お父さんとまったく同じような頭髪で、顔かたちもそっくりになっていました。JRAでは有名になっている彼ですが。




 最近では、『おじいさん!』と言われます。今度は、辺りを見回しません。自分の事だと、しっかりと分かっているからです。孫が4人いて、自慢しては彼らの写真を見せるのですから、そう呼ばれて当然ですし、いやな思いがしないのが不思議です。髪の毛が多すぎて、寝起きには鳥の巣を突っついたようにぼさぼさになっていました。それで、婦人用のネットをかぶって寝るほどでした。ところが、ある日、鳥羽のホテルで講演会があって出かけましたとき、朝起きて、洗面していましたら、『いったい、ここに写って見えるのはなんだろう?』と思っていましたら、それは、自分の頭皮だったのです。『・・と言うことは、髪の毛が少なくなってきたことなのか!』と始めて気付かされたわけです。

 何キロも何キロも走っても、高尾山を走って上がっても、夜通しアルバイトをしても、疲れなど感じたことがなかったのに、今日では、ものの十分も歩くと、一休みしたくなってしまいます。『时间过了很快!』、つまり『時間の過ぎ行くのはなんと早いことか!』、痛切に感じていこの頃、実に、「マゴマゴ」しているところです。

多くを教えられ、席まで譲られて


 中国に来ましてから、多くの面で日本との違いに気づかされております。相違点があれば、近似点も多くあるということにもなります。たとえば、数の数え方ですが、昔、日本ではどのように数えていたのかの記録は残っていませんが。唐の時代に、長安の都の近くでは、『ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ・・・』と言って数えていたそうです。その数え方を教えられて、私たちの先人たちは、物を数え始めたようです。福州の南の厦门(xia meng)近辺の方言は、「闽南話」と呼ばれ、台湾語と同じなのですが、この辺では、『いち、に、さん、し・・・・』と語っているうです。また、『ひふみよいむなやこと・・・・』と言う表音文字ですが、これも朝鮮半島のハングルを真似て作られようです。


 

 何も持たなかった私たちの先人たち(「倭人」呼ばれたのですがは、大陸からの渡来人に、様々なことを教えてもらっことを思い返して、現代を生きる私たちは、深い感謝を覚えなければいけないのではないでしょうか。それは、文字だけではなく、生活様式や技術の多くを、中国や朝鮮半島の人々に負っているのです。奈良に、「金剛組」という会社があって、聖徳太子(AD574~622年)の時代から続く老舗の企業なのだそうです。法隆寺を建造したとき、その建築を請け負ったのが、この金剛組でした。彼らは朝鮮半島から呼ばれて、奈良に来たのです。この老舗が、最近倒産の危機に瀕していたと聞きましたが、こういった1400年も存続している会社は、世界中、他に類を見ないのだそうです。

 ですから、中国と朝鮮半島は、日本の歴史、日本の民族や文化を考える上で、不可欠な国々で、どれほど近い関係にあり続けたかを思い返してみなければならないようです民族的に血統的に、日本人は決して純血種の大和民族ではなく、この二つの国の民族の血を引きつぎ、南や北からやって来らた方々も含めて、混血民族であります。道を歩いていて見かける、中国のみなさんの表情や仕草や習慣などは、以前、日本の街角で見たのと寸分も変わらないので、まるで日本にでもいるかのように錯覚させられることがしばしばあります。



 さて、こちらで生活をし続けて、素晴らしいと感じる1つのことは、公共バスに乗ると、青年たちがすっと立って席を譲ってくれることです。昔、日本でよく見かけた光景ですが。外国人だからではなく、外見を見て、『老人だ!』と分かると、そうしてくれるのです。正直言って、『わー、もう席を譲ってもらう年齢になったの!』と思わされて、自分の年齢を考えさせられもしますが。立ったままでもかまわないのですが、いつも、その好意を喜んで受けることにしています。いつでしたか、席を譲られて座ったのですが、次のバス停で小さな子どもを抱いたお母さんが乗ってこられたので、今度は私がすっと立って、席を譲ったのです。譲ってくれた方には申し訳なかったのですが、周りの人がビックリしたして微笑んでおられました。家内も同じような体験を、そこかしこでしているのですが、こういった中国の敬老の思いやりは、今日日、ついぞ日本では見られなくなっている光景なのではないでしょうか。 

 義父が、『雅ちゃん、古い日本がブラジルに残っていますよ!』と言っては、何度もはがきを送ってくれたことがありましたが、サンパウロに行かなくても、ここ中国には、「昔日の日本」が色濃く残されているのです。欧米化する以前の日本が観たいなら、どうぞお出でください。   (081122記)

(写真は、中国の街角で見かけた1コマです。農機具は、「泉州」の博物館に展示されてあったもので、子どもの頃に農家で遣っていたのを見たのと同種類の物です)

2008年11月25日火曜日

佃煮と羊羹に里心を呼び覚まされて


 私たちが住んでいる福州市倉山区は地図を見ますと、闽江(ミン・ジアング)の流れが二股に分けれている、ちょうど中州のような地形になっています。長い年月の間に、水かさを増した激流がこういった、倉山区の地形を作ったのだろうと思うのです。めぐりが川の流れに囲まれていますので、島のようにも思われます。ただ、多くの橋が南北の地域と繋がっているのも1つの特徴でしょうか、北にある中心街にも、南の郊外にも、必ず、どれかの橋を渡って行き来をすることになります。聞くところによりますと、その橋を最初にかけたのは、日本の企業だったそうです。それまで渡し舟で結ばれていましたから、この地域のみなさんにとっては、画期的なことで、その貢献が大変感謝されたのだそうです。その感謝の反面、倉山区の一角の「白湖亭」には、旧日本軍の飛行場があって、爆撃機が離着陸していたのだそうです。そんな昔のことを、聞かせてくれる友人に、申し訳ない気持ちで耳を傾けたのですが、責めるのではなく、ただ歴史の事実として、教えてくれるのは感謝なことと思っております。


 

 さて、「夏の花火」で有名な隅田川が、東京湾に流れ込む手前に、や波の作用により土砂が堆積した、「寄洲(よせす)」と言う所があります。グーグル・アースの写真で見ますと、まるで「中州」のように見え、倉山区の地形を思わさせるのですが。これも自然が長い年月にわたって作り上げた地形なのでしょう。その寄洲に、佃島(つくだじま)があります。江戸に幕府を開いた徳川家康が、その町作りをした時に、摂津国の「佃村(現大阪市西淀川区佃町)から漁師を招いて住まわせたのです。江戸市民に魚を供給するためでした。移り住んだ彼らは、天気の加減で、漁に出られないときもありましたから、そんなときに「煮物」をしたのです。不ときや漁船での食料として、保存のきくように醤油煮込んだのです。それが後ほど、「佃煮」と呼ばれ、全国的になって行ったのです。


 

 先週、次男が、その「佃煮」を送ってくれました。「佃島」製ではなく、「京佃煮」でした。父が好きでしたから、我が家の食卓には常に佃煮がありました。父の嗜好を受け継いだ私たちも好物となっていたのです。しきりに食べたくなって、彼にメールをしましたら、早速送ってくれたのです。実に美味しかったのです。炊き上げたホカホカの「東北米(トン・ベイ・ミイ 日本で食されるのと同じ種類)」の上に乗せて、一緒に送ってくれた梅干を乗せて食べた味は、表現のしようがありません。決して飢えているのではなく、懐かしい味に体が自然に喜んだ次第です。

 こちらには、「大福」、「羊羹」、「どら焼き」など売られていて、時々買うのですが、微妙に味が違うのは、日本の本物を食べるたときに感じてしまうのです。食後に、これも彼が一緒に送ってくれた羊羹、何と「虎屋」の製造、それを食べたのです。義妹の送ってくれた緑茶を入れてです。「きんつば」が大好きだった父に似て、餡子(あんこ)党の私にとっては、願ったり叶ったりでした。


 

 晩秋の異国の空の下で、久しぶりに食べた懐かしい味に、里心を呼び覚まされてしまうのですが、食べ物の原点も、ここ中国にあるのを知らされます。秋刀魚も鯵もしじみもあります。昆布も油揚げもこんにゃくもあるのです。昨晩は、「安徽(アン・フイ)省」の郷土料理を、お招きくださったお宅の主人が調理してくださって、ご馳走になりました。その豪華な食卓には、肉と魚と中国風サラダと豆料理に、何と「春菊」が添えら、もう一つ、「友愛」も添えられていたのです。友があり、子があり、故国の懐かしいい味があり、住んでいる中国の味覚もあって、とにかく、とても励まされているこの頃です。生きているって、素晴らしいことですね!  (081122記)


 (写真は、昔の「闽江の流れと中州」、1988年1月の「佃島風景・ぼくの近代建築コレクション」、「隅田川・http://namicos.exblog.jp/7855965/」、佃島の「佃煮屋・http://4travel.jp/traveler/na1430/album/10253895」


2008年11月15日土曜日

カレー・ライスが美味しいと


 この2ヶ月、週末の土曜日、我が家に10数名の客人が見えています。家内が日本語を教えていた学生を、毎週人ほどお招きして、日本人の誰もが大好きな「カレー・ライス」を振舞っているのです。ただ食べるだけではなく、日本からの留学生や日本語教師をされている人の方々にも加わっていただいて、「日本語で交わる会」をもっているところです。最初の日には、緊張していたのか遠慮していたのでしょうか、中国人の学生たちは残していましたが、次回の第二陣からは、要領を得たのか、お替わりするようになりました。もちろん、日本からの留 学生も、大喜びをしてくれて、遠慮がちにお替りをしてくれている、そんな週末を過ごしているところです。

 数週間前は、『実家に帰って書類を作る必要があって行けません!』との連絡が入って、来ることができなかったのですが、その代わりに大学で教壇に立っておられる私たちの友人が二人見えて、同じように「カレー・ライス」を一緒に食べる機会がありました。わが家の4人の子どもたちも、《親爺の作ってくれたカレー》を喜んで食べてくれたのですが、こちらでは子どもたちの代わりに、若い友人たちに振舞うことが出来て、とても喜んでいるところです。

  その食事の間に、『中国人とイスラエル民族には共通点があるんです!』と、友人が話してくれました。中国人もイスラエル人も、自分自らなので しょうか、強いられてでしょうか、「外向性」と言う共通点を持っているようです。全世界に活躍の舞台を求めて出掛けて行く、外向的な民族なのです。冒険心に富んいるのでしょうか、ど こに行かれても、強く生きていける力を持っておいでです。ですから、勇躍出かけて行く民族なのです。これまで私は、ハワイ、サンフランシスコ、ロスアンゼ ルス、ポートランド、インディアナ、サン・パウロ、ブエノスアイレス、トロントなどの街を訪問する機会がありましたが、どこにも「中華レストラン」があり、中国人のみなさんが一生懸命に働 いている姿を見受けたのです。彼らは、しっかりと自分たちの文化を保ち続けて生活して来ている のです。ですから、まさに横浜の「中華街」は、その典型的な例なのかも知れません。あの朱に塗られた門を入った一角は異国であって、中国そのものではないでしょう か。自分たちの民族性を決して捨てていないのです。




 自分の生まれ育った国を愛し、その文化を尊んで継承することは、素晴らしいことではないでしょうか。数年前にシンガポールに参りましたときに、町の一角に、中国人 の初期の入植者のみなさんの生活ぶりを再現した「記念館」がありました。その多くの方々は、ここ中国の福建省から行かれたようです。特に福清市は、「華僑 の故郷」と呼ばれるほど、多くの人たちが国外に出かけて行かれ、今日も多くの方々が諸外国で活躍されておいでなのです。異国におられても、強固な同朋意識が あって、お互いに助け合い支え合って生きてきている姿は、憧憬の至りであります。私が日本でお会いした中国からの留学生のみなさんも、学問を愛し、鷹揚な心で私たちに接してくれ、過去と今とをはっきりと区別しながら溝を埋める努力をされておられました。私たちが過去に囚われているのとは違って、私のお会 いした方たちは、自由で開放的で友愛に満ちていました。自分たちの国や民族性や歴史性に対する誇りを、確かに持っておられる様子は、実に羨ましいほどでし た。私たちも、しっかりと自分の国に対する愛と誇りとを持たなければならないのだと思わされた、いくつもの出会いだったのです。



 

 私たちも、自分の国を愛するのは当然ではないでしょうか。さあ真直ぐに頭をあげて、背筋を伸ばそうではありませんか。今、そ して将来、アジア諸国に対して、世界に対して、すべき責務を覚えながら、「誇れる日本」を再建して行きたいものです。次の次代を担い行く子どもたちに、受け継いでもらえる「夢」や「幻」や「理想」を掲げたいものです。人の言葉の端を針小棒大に取り上げて、揚げ足取りのように振舞う、狸や「井の中の 蛙」のようにではなく、大海原を縦横に回遊する鰹や飛魚のように、また大空を翔けわたる若鷲のように、闊達で、元気で、溌剌な「日本人」になって欲しいからです。

  日本人の私が作った、日本の定番の「カレー・ライス」を、『美味しいです!』と言いなが食べてくれる中国の若い友人たちの横顔を眺めていたら、中国 と日本との「明日」は、キラキラと輝くような明るさに満ちていることを確信させられてならないのです。

(写真は、日本を訪問された時、日本の学生たちと野球を楽しまれた国務院の温家宝首相です)


2008年11月13日木曜日

彼の”Dream・・・夢”その実現か!


 中学生の時に、国分寺名画座で幾度となく観たのが、アメリカ映画、「エデンの東」でした。兄が二人いて弟が一人の男ばかリの四人兄弟の私にとって、映画の中の父や母や兄弟との関係が、『こんなに複雑な家族もあるのか!』と思わせられてなりませんでした。新聞の映画案内を眺めて、もう一度観たくなって再上演されている映画館まで足を運んだこともありました。それだけ強烈に印象深かった映画だったのです。映画の中で、病に倒れた父を、精一杯の愛情を込めて世話をするキャルが、父の愛情を取り戻すくだりには、何度も涙ぐんだものでした。ちろん、主人公を演じた、ジェームス・ディーンに憧れたこともありましたが。この映画の原作者は、ジョン・スタインベックでした。その彼が、『われわれが今、道で話しかけた人間が黒人だったか白人だったか思い出せないようになるまでは、奴隷制度がわれわれの社会に残した傷痕は克服されないだろう!』と言っています。




 今日日、圧倒的な得票差で次期大統領に選出されたオバマ氏の話題で持ちきりですが、あのスタインベックの言葉のように、オバマ勝利で、『今度選ばれた大統領は、白人だった黒人だったか、どっちだったかなあ?』と言う人は、どれだけいるのでしょうか。まだまだ、アメリカ社会から「奴隷制度の傷痕」が消えてなくなってしまったとはいえないようです。

 アメリカ合衆国には、連邦政府が定めた祭日が十日あリ、その一日が、一月の第3月曜日です。この日は、非暴力公民権運動を展開したキング牧師の誕生日(1月15日)を記念して、祭日に定められているのです。アフリカ系アメリカ人である彼の運動は、お母さんの働きを継いで始まったのですが、1963年8月28日に行われた、「ワシントン大行進」によって最高潮に達したと言われています。キング牧師らの呼びかけで、人種差別や人種隔離の撤廃を求める20万人以上の人々が、「ワシントン記念塔広場」に集まりました。この大群衆を前に、キング牧師が行った演説が、有名な"Do you have a dream?" でした。



『私は夢見ている。
ある日、ジョージアのレッドヒルの上で、
以前の奴隷の息子たちと以前の奴隷所有者の息子たちが、
兄弟愛というテーブルにともにつけることを。
私は夢見ている。
ある日、不正と抑圧という熱で苦しんでいる不毛の州、ミシシッピーでさえ、
自由と正義というオアシスに変わることを。
私は夢見ている。
私の4人の子どもたちがある日、肌の色ではなく、人物の内容によって判断される国に住むことを。』  
 今回の公正な選挙で選出されたオバマ氏が、スタインベックの願いとキング牧師の夢を、1つ叶えたことになりますが、ただまだゴールに達したわけではありません。彼の背景や政治信条や強調点には、さまざまな問題点があるかも知れませんが、選ばれた以上は、世界の超大国の指導者として、自国と世界の難問題に、手腕を働かせていただきたいと願ってやみません。建国の父たちの「アメリカ建国の精神」と、現代のアメリカ人の「アメリカの良心」とが、彼とスタッフを通して貫かれていくことを切に願うものです。
(写真は、「ジェームス・ディーン」、筑紫直弘氏のイラストの「オバマ次期大統領」、"Do you have a dream?"を演説した時の「キング牧師」です)

2008年11月3日月曜日

悪たれが褒められて!


 ゲーテは、『子供を愛し褒めるのは、子供がそれに値するからではなく、そうであって欲しいからなのです!』と言いました。また、ある本に、『もう一度、父親をやり直すことが出来るなら、子どもたちの母親を愛そう!』と、家庭での父親のあり方や家庭教育の真髄を、一人のお父さんがそう結論していました。「褒めること」と「愛すること(愛されること、も含めて)」とは、人がもっとも必要としていることに違いありません。結婚して38年が経とうとしているのですが、『心から子どもたちのお母さんを愛してきただろうか?』、また、子どもたちが与えられて、育てる機会を得たのですが、今、それぞれに独立して行った彼らとの年月を思い返して、『彼らを、どれだけ褒めただろうか?』と自分に問いかけてみました。『うーん、不十分!』、これが実感であります

 褒められた子とそうでない子との違いは、歴然だと思うのです。私と一緒に5年ほどでしょうか、近くに住んでいて家族ぐるみで交わりをしたアメリカ人の家族がありました。私たちには、人の子どもがあり、彼らにも人いました。子どもたちが、ほぼ同じほどの年令でしたから、行き来をしながら、しばらくの時期、子どもたちは一緒に遊んで育ったのです。このお父さんは、アメリカ版の「団塊の世代」、いわゆるベビー・ブーマーとヒッピーの世代で、彼もまたそこを通過してきたのです。一流大学を卒業しており、瞬く間に日本語を習得してしまいましたから、きわめて優秀な方でした。その彼のお父さんも、アメリカでは名だたる大学の教授で、博士号を持っておられる方だったのです。優れた学者の父親を持ったことは、彼には素晴らしいことだったのだろうと思ったのですが。彼が、自分の生育暦を語ってくれたところによりますと、実は、そうではなかったのです。優秀なるがゆえに、自分の息子には実に厳しい態度で接したのだそうです。『お前はなんて愚かでグズで馬鹿なんだ!』と言われ続けて大きくなったたのだそうです。YMCAで英語を教えていましたが、5年ほどたってから、アメリカの東海岸の町に越して行かれました。



 そういった父親からの言動で、彼の心は傷ついていました。頭脳明晰なのですが、自分に自信がなかったのですね。もし彼のお父さんが、彼を褒めて育てたら、彼のようなジレンマを持つことはなかったのではないかな、と思ったのです。『僕は友達は欲しくなんだ!』と、なんどか言っていた彼は、帰国されたアメリカでも、なかなか社会の中に溶け込めなかったようでした。その後、音信がないのですが、今頃何をしていることでしょうか。

 一方、学習障害児のような私は、小学校の教室で席を暖めることができなく、いつも立ち歩いていました。2年生の国語の時間に、担任のうちやま先生に褒められたことがありました。教科書に記されていた『ゴトゴト、ゴットン!』という擬音を、『この音は、線路の切り替え線を越えて行くときに、車輪とレールによって出る音です!』と答えたのです。授業に集中することが出来ない私でしたが、珍しく聞いていたのでしょうか、積極的に発言をしたのです。そうしましたら、『よく分ったわね。すごい!』と、細か な観察力を評価してくれて、褒めてくれたのです。『今は落ち着きがなくても、いつかは落ち着くでしょう!』と将来の可能性も、先生は見てくれたのではない でしょうか。叱られ立たされるばかりに私が、学校で初めて褒められたのです。それは「千金に値する言葉」だったと思います。それから学習意欲が出てきて、学校が楽しくなったのを思い出すのです。




 褒められた悪たれで劣等生の私と褒められなかった優等生の彼と、それぞれの道を生きて、『お爺ちゃん!』と孫たちに呼ばれる年齢に、もうなってしまったわけです。それで、彼にも彼の日本人の奥様にも、四人の子や孫たちにも会ってみたいなと思うのです。お互いに27、8年も経って、やり直しが効かない年齢になってしまったのですが、きっと彼は好々爺になって、孫を抱きながら満面に笑みを浮かべていることでしょう。

(写真は、「ゲーテ像」旅行のクチコミ投稿ポータル「CoRichトラベル!」beta版より、かつてみんなで見上げた「山」と「花」です)

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自己紹介

 次男に勧められて始めた「ブログ」ですが、2007年7月から1年間休刊しました。その間、他の「ブログ」を開設したのですが、2008年7月に、名前を変えて再開しました。  父として子どもたちに、爺として孫たちに、また母や兄弟や友人たちにも、何かを語り残したいと願って、続けています。