2008年11月25日火曜日

佃煮と羊羹に里心を呼び覚まされて


 私たちが住んでいる福州市倉山区は地図を見ますと、闽江(ミン・ジアング)の流れが二股に分けれている、ちょうど中州のような地形になっています。長い年月の間に、水かさを増した激流がこういった、倉山区の地形を作ったのだろうと思うのです。めぐりが川の流れに囲まれていますので、島のようにも思われます。ただ、多くの橋が南北の地域と繋がっているのも1つの特徴でしょうか、北にある中心街にも、南の郊外にも、必ず、どれかの橋を渡って行き来をすることになります。聞くところによりますと、その橋を最初にかけたのは、日本の企業だったそうです。それまで渡し舟で結ばれていましたから、この地域のみなさんにとっては、画期的なことで、その貢献が大変感謝されたのだそうです。その感謝の反面、倉山区の一角の「白湖亭」には、旧日本軍の飛行場があって、爆撃機が離着陸していたのだそうです。そんな昔のことを、聞かせてくれる友人に、申し訳ない気持ちで耳を傾けたのですが、責めるのではなく、ただ歴史の事実として、教えてくれるのは感謝なことと思っております。


 

 さて、「夏の花火」で有名な隅田川が、東京湾に流れ込む手前に、や波の作用により土砂が堆積した、「寄洲(よせす)」と言う所があります。グーグル・アースの写真で見ますと、まるで「中州」のように見え、倉山区の地形を思わさせるのですが。これも自然が長い年月にわたって作り上げた地形なのでしょう。その寄洲に、佃島(つくだじま)があります。江戸に幕府を開いた徳川家康が、その町作りをした時に、摂津国の「佃村(現大阪市西淀川区佃町)から漁師を招いて住まわせたのです。江戸市民に魚を供給するためでした。移り住んだ彼らは、天気の加減で、漁に出られないときもありましたから、そんなときに「煮物」をしたのです。不ときや漁船での食料として、保存のきくように醤油煮込んだのです。それが後ほど、「佃煮」と呼ばれ、全国的になって行ったのです。


 

 先週、次男が、その「佃煮」を送ってくれました。「佃島」製ではなく、「京佃煮」でした。父が好きでしたから、我が家の食卓には常に佃煮がありました。父の嗜好を受け継いだ私たちも好物となっていたのです。しきりに食べたくなって、彼にメールをしましたら、早速送ってくれたのです。実に美味しかったのです。炊き上げたホカホカの「東北米(トン・ベイ・ミイ 日本で食されるのと同じ種類)」の上に乗せて、一緒に送ってくれた梅干を乗せて食べた味は、表現のしようがありません。決して飢えているのではなく、懐かしい味に体が自然に喜んだ次第です。

 こちらには、「大福」、「羊羹」、「どら焼き」など売られていて、時々買うのですが、微妙に味が違うのは、日本の本物を食べるたときに感じてしまうのです。食後に、これも彼が一緒に送ってくれた羊羹、何と「虎屋」の製造、それを食べたのです。義妹の送ってくれた緑茶を入れてです。「きんつば」が大好きだった父に似て、餡子(あんこ)党の私にとっては、願ったり叶ったりでした。


 

 晩秋の異国の空の下で、久しぶりに食べた懐かしい味に、里心を呼び覚まされてしまうのですが、食べ物の原点も、ここ中国にあるのを知らされます。秋刀魚も鯵もしじみもあります。昆布も油揚げもこんにゃくもあるのです。昨晩は、「安徽(アン・フイ)省」の郷土料理を、お招きくださったお宅の主人が調理してくださって、ご馳走になりました。その豪華な食卓には、肉と魚と中国風サラダと豆料理に、何と「春菊」が添えら、もう一つ、「友愛」も添えられていたのです。友があり、子があり、故国の懐かしいい味があり、住んでいる中国の味覚もあって、とにかく、とても励まされているこの頃です。生きているって、素晴らしいことですね!  (081122記)


 (写真は、昔の「闽江の流れと中州」、1988年1月の「佃島風景・ぼくの近代建築コレクション」、「隅田川・http://namicos.exblog.jp/7855965/」、佃島の「佃煮屋・http://4travel.jp/traveler/na1430/album/10253895」


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自己紹介

 次男に勧められて始めた「ブログ」ですが、2007年7月から1年間休刊しました。その間、他の「ブログ」を開設したのですが、2008年7月に、名前を変えて再開しました。  父として子どもたちに、爺として孫たちに、また母や兄弟や友人たちにも、何かを語り残したいと願って、続けています。