2008年11月27日木曜日

多くを教えられ、席まで譲られて


 中国に来ましてから、多くの面で日本との違いに気づかされております。相違点があれば、近似点も多くあるということにもなります。たとえば、数の数え方ですが、昔、日本ではどのように数えていたのかの記録は残っていませんが。唐の時代に、長安の都の近くでは、『ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ・・・』と言って数えていたそうです。その数え方を教えられて、私たちの先人たちは、物を数え始めたようです。福州の南の厦门(xia meng)近辺の方言は、「闽南話」と呼ばれ、台湾語と同じなのですが、この辺では、『いち、に、さん、し・・・・』と語っているうです。また、『ひふみよいむなやこと・・・・』と言う表音文字ですが、これも朝鮮半島のハングルを真似て作られようです。


 

 何も持たなかった私たちの先人たち(「倭人」呼ばれたのですがは、大陸からの渡来人に、様々なことを教えてもらっことを思い返して、現代を生きる私たちは、深い感謝を覚えなければいけないのではないでしょうか。それは、文字だけではなく、生活様式や技術の多くを、中国や朝鮮半島の人々に負っているのです。奈良に、「金剛組」という会社があって、聖徳太子(AD574~622年)の時代から続く老舗の企業なのだそうです。法隆寺を建造したとき、その建築を請け負ったのが、この金剛組でした。彼らは朝鮮半島から呼ばれて、奈良に来たのです。この老舗が、最近倒産の危機に瀕していたと聞きましたが、こういった1400年も存続している会社は、世界中、他に類を見ないのだそうです。

 ですから、中国と朝鮮半島は、日本の歴史、日本の民族や文化を考える上で、不可欠な国々で、どれほど近い関係にあり続けたかを思い返してみなければならないようです民族的に血統的に、日本人は決して純血種の大和民族ではなく、この二つの国の民族の血を引きつぎ、南や北からやって来らた方々も含めて、混血民族であります。道を歩いていて見かける、中国のみなさんの表情や仕草や習慣などは、以前、日本の街角で見たのと寸分も変わらないので、まるで日本にでもいるかのように錯覚させられることがしばしばあります。



 さて、こちらで生活をし続けて、素晴らしいと感じる1つのことは、公共バスに乗ると、青年たちがすっと立って席を譲ってくれることです。昔、日本でよく見かけた光景ですが。外国人だからではなく、外見を見て、『老人だ!』と分かると、そうしてくれるのです。正直言って、『わー、もう席を譲ってもらう年齢になったの!』と思わされて、自分の年齢を考えさせられもしますが。立ったままでもかまわないのですが、いつも、その好意を喜んで受けることにしています。いつでしたか、席を譲られて座ったのですが、次のバス停で小さな子どもを抱いたお母さんが乗ってこられたので、今度は私がすっと立って、席を譲ったのです。譲ってくれた方には申し訳なかったのですが、周りの人がビックリしたして微笑んでおられました。家内も同じような体験を、そこかしこでしているのですが、こういった中国の敬老の思いやりは、今日日、ついぞ日本では見られなくなっている光景なのではないでしょうか。 

 義父が、『雅ちゃん、古い日本がブラジルに残っていますよ!』と言っては、何度もはがきを送ってくれたことがありましたが、サンパウロに行かなくても、ここ中国には、「昔日の日本」が色濃く残されているのです。欧米化する以前の日本が観たいなら、どうぞお出でください。   (081122記)

(写真は、中国の街角で見かけた1コマです。農機具は、「泉州」の博物館に展示されてあったもので、子どもの頃に農家で遣っていたのを見たのと同種類の物です)

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自己紹介

 次男に勧められて始めた「ブログ」ですが、2007年7月から1年間休刊しました。その間、他の「ブログ」を開設したのですが、2008年7月に、名前を変えて再開しました。  父として子どもたちに、爺として孫たちに、また母や兄弟や友人たちにも、何かを語り残したいと願って、続けています。