2008年11月28日金曜日

 『どこの馬の骨か分からない者に・・・』と、自分の息子が、その結婚相手のお父さんに言われたのです。それは家内の父親でした。義父は怒る代わりに、『それでは!』と言って、自分の家系を調べ直したのです。そうしましたら、聞いて知っていた以上に、名門の家系であることを突き止めて、『俺も俺の息子も馬の骨の出ではない!』ことを分かって、溜飲を下げたのだそうです。

 日本人の家系は、どのようにたどっていったらいいのでしょうか。よほどの名門でないと、家系図を残していることはないようです。農民や手工業者や商人たちに、苗字をつけることが一般化したのは、明治になってからでした。1875年(明治8年)213日、明治政府が出した平民苗字必称義務令(へいみんみょうじひっしょうぎむれい)」の布告以降のことでした。川の上のほうに住んでいたので「上川」とか「川上」、田んぼの中に家があったので「田中」、橋の下に住んでいたので「橋下」とか「橋元」と過、そう言っていって苗字が付けられたのだそうです。 私の父の唯一の誇りだったのですが、頼朝の家臣で、名を上げ功を遂げて、拝領した土地に住み着いた一族の末裔であることを話してくれたことがあります。でも、現代に至って、『わが〇〇家は、だれだれの家系で、名門の出なのです!』といっても、『それがどうしたの?』とわれるのが落ちなのだそうです

 ところが、家内の祖先の家の前には、「下馬」という一冊が掲げられていたのだそうです。馬に乗るのですから、まあまあの身分の位の人だったのですが、そういった馬上の人が、この家の前では、馬を下りなければならなかったのは、そういとうな身分だったことになります。としますと、代が代であれば、私は内のことを、『姫君、ご機嫌はいかがと存じ上げます!』と言わなければならないわけです。

 さて、聞くところによりますと、ここ中国では、何代も何代も書き残した家系の記録を持っておられる方が、とても多いのだそうです。海外に出て行った華人でも華僑でも、子が生まれ孫が生まれると、そのl記録に名を連ねるために故郷に戻って、その作業をされるようです。私たちの友人の女性は、山東省の出で、何代も前に、福建省の長楽に移り住んだことを話してくれました。父親の苗字を子が受け継ぎますから、その男の子は、自分の子どもたちに受け継がせていくのです。夫婦別称の中国では、結婚した女性は、お父さんの苗字を受け継ぎますが、結婚して産んだ子どもたちは、父親の姓をもらうので、そこで消えてしまいます。中国で、一番有名なのは「李」、次いで「王」、「張(张)」で、他の十傑に入るのが「呉(吴)」、「趙(赵)」、「周」、「陳(阵)」、「楊(杨)」、「黄」、「劉()」だそうです(「百家姓」より)。ここ福建省で、知り合いになった方の中一番多いのが、「陳」さん、次いで「林」さん、「黄」さんです。日本では「佐藤」、「鈴木、「高橋」だそうですね。私のペンネームの「広田」は、シュークリームと広田弘毅(第代内閣総理大臣)で有名ですが、広田のお菓子と、政治家としも人としても潔かった広田弘毅が好きで、お借りしています。「雅仁(まさひと)」は、二人の男の孫の名前を使っています。

 私の父は、自分の苗字を使わないで、母の姓を使いました。その母も幼女として育ちましたので、本来の姓を名乗ったのではないのです。いつでしたか、父の苗字が断絶してしまうので、4人の父の子の誰かが、『家名を継いで欲しい!』と、叔母たち(父の妹)から願いの声が上がったのですが、どうも断ち切れてしまうようです。鎌倉武士の末裔といっても、北条氏に打たれて亡びたのですし、徳川が天下を取ったのですから、一時期、歴史に名を刻んで消えた一族の子孫ということになりますから、世の中には、星の数ほどいることになるわけです。

  父の生家の名を残すより、人の前に恥じない生涯を生きることが肝要なのかも知れません。一人の日本人として、一人の人として、精一杯の感謝を持って、追ってきた夢をさらに追いながら、生きてみたいいと思う、11月の終わりです。

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自己紹介

 次男に勧められて始めた「ブログ」ですが、2007年7月から1年間休刊しました。その間、他の「ブログ」を開設したのですが、2008年7月に、名前を変えて再開しました。  父として子どもたちに、爺として孫たちに、また母や兄弟や友人たちにも、何かを語り残したいと願って、続けています。