2009年9月17日木曜日

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2009年5月14日木曜日

四満点の弁論大会


 先週の土曜日、午後2時から、「中華人民共和国六十周年紀念・福州大学日本語弁論大会」が、新校区の設備の整った講堂で開かれました。外国語学部、至誠学院、武夷学院から選抜された、2年生、3年生の19名の学生たちによる弁論がなされたのです。甲乙つけがたいスピーチに、中国の学生たちの意気を感じさせてもらうことができました。彼らの国や社会や家族、そしてご自分の人生に対しての見方、その視座の高さと確かさを感じさせてもらうことが出来、大いに励まされ、感動させられたのです。次代を担って行く、この国の、この時代の青年たちの主張には、やはり「熱さ」や「確かさ」があふれていました。日本の学生たちも同じように、高い志を持って、後継者としての責務を感じながら、学び備えていてくれるのだろうと確信させられたのです。時節がら、未曾有の経済危機の真っ只中で、将来が見えてこない閉塞感や不安を敏感に感じながらも、明日の夢をつないでいこうとしている彼らに、心からの拍手を送りました。ひ弱なもやしのようにではなく、踏まれ強い野の草のような逞しさを、目の輝きの中に見つけることができましたから、《満点》でした。うーん、明日の中国が楽しみです。日本も!

 いつも感じることですが、《一人》を選ぶと言うのは大変に難しいことではないでしょうか。判官贔屓(ほうがんびいき)で、実際に教えている学生たちへの私情はないことはないのですが、一人一人の熱弁を聞いていますと、私情など挟む余地のないことを思わされるのです。今回の大会に出場する二名を選ぶ役割をおおせつかったのですが、これとて同じく難しかったのですから、本選は格別だったことでしょう。それでも弁論の途中で「絶句」してしまって、『ごめんなさい!』と何人かの学生が言っていましたが、大勢の前で話をする、しかも2年、3年に満たない学びで他国語で自分の思想を表現すると言うのは、大変なのですから、出場するだけで《満点》ではないでしょうか。人前で話すことを職業にして、40年も私は働いてきましたが、テクニックはともかく、やはり最終的には「態度」が問われるのだろうと思うのです。そうしまうと、これもまた全員が《満点》でした。『よくやったよ!』と労をねぎらいたい思いでいっぱいです。

 大会終了後、審査員や来賓者の「懇親会」が、鳳凰ホテルでもたれ、出席させていただきました。日本企業で働いていらっしゃる一組のご夫妻、単身赴任されている企業人3人、福州大学・日本語学科の日本留学経験のある先生2人、日本人教師1人、私と家内、そして友人1人の10名で、テーブルを囲んで会食をしました(他にも2つのテーブルがあったそうです)。この大会は、日本の企業が出資した合弁会社の後押しがあって、5年も続いているそうです。大会の裏方として、準備運営をした学生のみなさんへのねぎらいの言葉もありました。し遂げた《達成感》が、一人一人のうちから感じられて、これもまた《満点》だったと思うのです。みなさんが、それぞれに励まされた週末の夕べでした。来年は、さらに多くの挑戦者を得て、この大会が開かれ、全学生のみなさんが励まされますように! 好好儿挑战吧!

(写真は、ブログ「りゅうけいみの福建日記」から借用した「福州大学・正門」です)

2009年5月7日木曜日

拘泥


 7年間、忍耐して私を教えてくださったアメリカ人のKさんは、私にとっては「恩師」であります。彼は、名門ジョージア工科大学を卒業したアメリカ空軍の将校でしたが、その職を辞して来日され、いくつもの事業を興し、日本で召されました。彼は、文学や歴史や心理学や論理学など、多岐にわたって、私に教えてくださったのです。学究的なことのほかにも、妻の愛し方、子育ての方法、体と心のエクササイズといった実践的なことまで教えてくれたました。

 この方には、強い願い、頑固なこだわりがありました。『わたしを先生と呼ばないでください!』と言われたのです。それではなんと呼んだかと言いますと、” Mr.○○ ”でした。『○○さん!』と、彼が召されるまでお呼びしました。独特なヤンキー気質を持たない方で、決して威張ることのない、実に謙遜な方でした。そういえば、私が学ばせていただいたのも、アメリカの長老派から派遣され、「ローマ字」で有名なヘボンという名の宣教師が建学された学校でした。この学校の1つの伝統は、先生も学生も、” Mr.”で呼び合ったのだそうです。先生は、教壇から降りて学生たちと同じ床の上に立って、共に学びあったのでしょうか。また、私の中学校3年間の担任は、社会科を教えてくださった教師で、ほかの教科のどの先生とも違っていたのです。彼は、私の学んだ学校の卒業生ではなく、東京大学を卒業された方でしたが、朝礼・終礼、授業開始時と終了時に 、教壇の上から降りられて、髭もまだ生えていない私たちに、禿げ上がった頭を下げて挨拶をしておられました。母と同世代だったでしょうか。

 最近、『主語を殺した男』と称される、街の語学者・「三上章」という方の評伝を読みました。講談社から2006年11月に刊行された「主語を殺した男 評伝三上章(モントリオール大学・東アジア研究所日本語科長・金谷武洋著)」です。この三上は、明治36年(1903年)に、広島県の過疎地で生まれ、東京大学で建築学を学ばれ、卒業後、旧制の中学校、新制の高校で数学を教えておられた方です。ところが、数学よりも、「日本語文法」に強い関心もを持った三上は、後に国語学で博士号を取られ、大学教授をなさっておられました。ご自分を「街の語学者」と言われて、市井の一研究者として生きたのです。その研究成果は、何冊もの本として刊行されています。国立大学の正統派(!?)の国文学者たちから、無視されながらも一心腐乱に学んで、国文学界、文法学界に一石を投じられたのです。この方もまた、自分が先生と呼ばれることを嫌われたのだそうです。

 「博士呼ばわり」、「先生呼ばわり」されることを嫌い、『三上さん!』と呼ばれることを好んだのです。教え子が、『先生!』と呼ぶことは容認されたようですが。口髭を生やした学者然とした風貌を、ことのほか好まなかったようです。面白いのは、三上の死後に建て上げられた、「三上文法会」と言う研究会がありますが、その唯一の会則が、『席上、同席者にたいして先生の呼称を禁じる。』と言うものだったそうです。代議士も弁護士も「先生」、マージャンや花札やパチンコの指導者も「先生」と呼ばれる、麻酔的な効能のある呼称を、彼もまた嫌って生きたわけです。

 何故か、私の周りには、そういうこだわりをされる方が多かったのです。『先生と呼ばれるほどの○○でなし!』と言われますから、『先生!』と呼ばれていい気持ちにならない生き方・在り方は、やはり大切なものではないでしょうか。孔孟の教えで、教師に対しては格別な敬意を表す中国の社会で、「先生呼ばわり」されないですむのは難しいことなのでしょうか。こちらでは先生を、「老师・lao shi」と呼んでいます。「先生」は、「xian sheng」と呼び、『○○さん!』ですが。うーん、中国語と日本語とではニュアンスがだいぶ違いますよね。それで私も、拘泥(こうでい)するのでしょうか!

(写真は、三上章著「象は鼻が長い(くろしお出版刊)」です)

2009年5月6日水曜日

『それでは、この辺で・・・・』


 私がお会いしたアメリカ人の方が、日本語を聞いていて、どのことばに一番印象付けられているのかを話されたことがありました。それは、『あのう!』なのだそうです。まったく日本語を学んだことのない方で、日本人のスピーチを聞いておられて、聞き取っていたのが、この「単語」なのです。頻発するのだから、最も重要な言葉だと思ってしまわれたに違いありません。ことばが続かないのでしょうか、次のことばや思想が見つからないのですか、探している間、考えている間に、私たちは発するのが、この『あのう!』ではないでしょうか。また、遠慮したり、ためらってもじもじしている間に、これを連発するのではないでしょうか。ことばが流暢ではない方は、ひっきりなしにこれを連発されます。聞きづらいのです。話の腰を折ると言うのでしょうか、せっかくの理路整然とした思想が、『ブッツ、ブッツ!』と切れ切れになってしまうのです。時々アナウンサーの中にもおいでです。それで、私は極力これを使わないようにと、意志的に努力をしたのです。おかげさまで、沈黙はしますし、間をとりますが、『あのう!』を言わないで、人の前で話せるようになったと自負しているのです。中国語にも、同じようにして使われる「那个,这个 nege zhege」ということばがあります。まったく日本語の『あのう、あのう!』と同じ表情で、みなさんが使われています。そういえば、英語にも”well、well”がありますね。

 私も、ことばを濁してしまいたいとき、使わないほうがいいと感じたときには、意志的に『あのう・・・・・』と間をおいてしまうことはあります。これとは別に、『どうも!』と言うことばがあります。『どうも・・・』と言っただけで、それに続くことばがないのです。この言葉の聞き手も、『あっ、そうか、《ありがとう!》とか《すみません!》と言いたいんだな!』と理解してしまうのです。私が使っている日本語教科書の会話の中に、食堂に入った日本人とアメリカ人が、メニューを見ながら注文するくだりがあります。アメリカ人の男性が『わたしはテンプラ!』、日本人の男性が『わたしは牛丼!』と言うと、店員さんは、『テンプラと牛丼ですね。しばらくお待ちください』というのです。文法的には間違っていますね。でも会話を学ぶ外国人に、このスキットを用いて日本語を教えるわけです。『わたしはテンプラ!』、『わたしは牛丼!』のことばに、何が続いているのかを、店員さんは理解したのです。『このアメリカ人のお客様は、テンプラを注文し、こちらの日本人の方は、牛丼を食べたいのだ!』と、彼女は理解して、『テンプラと牛丼ですね!』と受け答えしているのです。彼女も、『ご注文は、テンプラ定食1つと牛丼1つですね!』と言わなかったのです。双方が通じているのですから、会話としては成り立っているわけです。そういえば、知人が亡くなって、遺族に挨拶をするときに、『このたびは・・・・まことに・・・・・』と、言っただけで終えてしまったことが何度もありました。くどくど、具体的に表現しなくても、弔意を汲んでくださるわけです。こういった「曖昧さ」が、日本語の特徴なのだと言うことを、つくづく感じさせられるのです。

 《言葉の背後を読み取る能力を要求される言語》、これが日本語に違いありません。私を教え導いてくださったアメリカ人の方は、難しい日本語を駆使することが出来ましたが、この「背後を読み取る能力」は、ついに身につけられませんでした。それは至難なことだからでしょうか。もう召されたのですが、大変努力をされて日本語を学ばれたことに、とても感謝でを覚えるのです。聞くところによりますと、主語などの曖昧さは、古い英語の中にもあったのだそうですね。言葉だけではなく心の思いを交し合うのが会話ですから、こういった曖昧模糊とした部分が、どの言語の中にもあるからなのでしょうか。『それでは、この辺で・・・・』で終わることにします。

(写真は、裏庭から見える隣家の「エンゼル・トランペット(天使の)」です)

2009年5月2日土曜日

勝男武士


 そういえば、「霞ヶ浦」へ新婚旅行に行った帰り、銚子港の魚市場で、「鰹」を三本かって、重いのを担いで帰ってきたのを思い出します。一本は父と母に、一本は義父母に、そしてもう一本は兄家族にでした。38年前の4月の7日のことであります。大変好評だったのです。鰹漁の基地は、三浦半島の三崎、土佐の高知、鹿児島の枕崎でしょうか、銚子も捨てたものではありません。とくに黒潮に乗って北上するのを一本釣りする光景が海の男の意気を見せて、豪快なのですが。

 鰹といえば、「鰹節」に思い出があります。『まさちゃん、かいてくれる!』と言って、《削り節器》を母に渡されて、削り節を削るように、よく頼まれました。今のように、化学調味料の《だしの素》のなかった時代、これと昆布と煮干とが「だし」をとる材料だったからです。母は、この鰹節でだしをとっては、蕎麦のタレやとろろ飯のタレを作っていました。今では、プラスチックの袋入りの「けずりぶし」が主流になってしまっていますから、『シューッ、シューッ!』と音を立てて、乾燥させた鰹を鉋(かんな)で削ることはなくなってしまったのですが。

 この鰹節は、源氏や平氏といった「武士集団」が誕生してから、特に重宝がられたのだそうです。駄洒落なのですが、「鰹節」の 「鰹」は「勝男(かつお)」、「節(ぶし)」は「武士」と同じ発音ですから、縁起をかつぎが行われたようで、とくに織田信長は、清洲城に「鰹節」を届けさせては、家臣に振舞ったのだそうです。鯉が滝のぼりをするように、そしてこの初鰹が黒潮を勢いよく遊泳するように、「力強さ」の象徴なのでしょうか。『孫たちよ、力強く、勢いよく成長しなさい。そして誰からも愛され喜ばれる優しさを身に着けてほしい!』、そう願う、皐月五月の大陸のババと爺であります。




(写真は、「鰹節削器(http://nekomiwa.exblog.jp/8244100/)」と「鰹のたたき」です)

たっぷりと生姜醤油で!


  「目に青葉 山時鳥(ほととぎす) 初松魚(かつお)」、宵越しの金を持たない江戸っ子は、女房を質においても、旬の鰹を食べるのを、「粋」としたのだそうですね。この「粋」を辞書を引きますと、『気性・態度・身なりがあか抜けていて、自然な色気の感じられるさま!』とあります。格好付けだったのでしょう。私たちの国は、季節の移り変わりの中に、なんともいえない微妙さが感じられるので、特別な「美意識」が養われてきたのでしょうか。そういった微妙さを目ざとく感じとる感覚を、受け継いでいるのが私たちなのかも知れません。温帯の南北に伸びた島国の地理的、気候的な環境が、こういった感覚を培ったのでしょうか。「粋」のためではなく、「鰹のたたき」を、生姜醤油で食べた味は、山猿の私にも美味なる物で、好物のひとつなのです。

 送っていただいた「福神漬け」がしまってあるのを忘れていたのですが、三日ほど前に見つけ出して、炊き立てのご飯と一緒に食べたのです。結婚以来、家内が私に付き合って病気をすることは、一度もなかったのですが、この日曜日の夕食後、風邪を引いたのでしょうか、嘔吐と下痢と頭痛で二人でダウンしてしまったのです。やっと体力が戻ってきて、『日本のものが食べたい!』と言う弱気と郷愁がよみがえってきて、探したら見つかったわけです。『うーん、この微妙な味付けが日本の味覚なんだ!』と、しきりに感心されてしまいました。『世界で最も美味しいのは中華料理だ!』と言われる国にやってきた私たちですが、たとえ駅前や生協のスーパーの漬物コーナーで売っているプラスチックの袋に入った「福神漬け」や「佃煮」や「塩辛」だとしても、独特に、いえ比類なく「日本の味覚」なのです。発酵食品で体にいいといわれて、「ザーサイ」の漬物を、近くのスーパーで家内が買ったのですが、美味しいのですが、でも微妙なところで味が違うのです。

 《微妙な味覚》の持ち主であることを再発見した、根っからの食いしん坊の私は、「大島紬(おおしまつむぎ)」の着物を着ていた父のことを思い浮かべていました。父の羽織には、「片手蔓柏」の家紋が入れてあり、どうでもいいと思われる裏地にお金をかけていたのです。見えないチラリと見え隠れするところに気配りをするのが「男の粋」、「男のお洒落」なのだということを、父は教えてくれたのですが、そんな男っ気から程遠く生きている今です。景気のいい時期に仕立てた着物なのだそうですから、相当なものなのでしょう。それを母が、私の身丈けに仕立て直してくれて、母のところにあります。これから着る機会があるのでしょうか。中日文化交流会のときに、着ていったら喜ばれるでしょうか、それとも、嫌われるでしょうか。決めかねている今であります。和服はともかく、「初鰹」は食べてみたいですが。青葉若葉の緑を見ながら、ホトトギスの啼く音を聞きながら、たっぷりと生姜醤油ベースのタレで・・・・!

(写真は、《株式会社越前屋》の「鰹」です)  

2009年5月1日金曜日

『今頃、高尾駅は・・・・・』


 甲府盆地から、「郡内」と呼ばれる河口湖や都留方面に抜けるためには、いくつかのルートがあります。境川から上九一色を経て精進湖に抜けるか、峡南の市川から本栖湖に抜けるか、御坂峠(今はトンネルがあります)を越えて河口湖に抜けるかでしょうか。それでもなかったら、大月まで行って、都留を通過して行くかです。山道は、春夏秋冬、どの季節に、どの道を通っても、山里の素朴な美しさを見せていました。生まれたのが山里の12月でしたから、原風景に似た景色を眺められるからでしょうか、郡内への山道は、わらや木切れを燃した煙が立ち昇っている冬から早春の風情は、一幅の墨画を見るようで懐かしく思い出されます。

 そういえば、奥多摩の山や山梨県下の山に登っても、雪のない冬枯れの山道が大好きでした。葉が落ちているのは、ちょっと物悲しいのですが、枯葉を踏むカサカサとした乾いた音はなんとも心地よく、葉を落とした木々の間からの見通しもきいて景色が遠いからいいのです。河口湖方面とは逆に、昇仙峡の周りには、山道が巡っていて、北巨摩から信州・川上村に、また乙女峠を経て塩山・奥多摩に抜けられるのです。そのあたりに私の生家があったのです。「日本百名山」を著わした深田久弥が、登山の途中で亡くなった、「茅ヶ岳」に登った時は、ちょうど今頃の季節だったでしょうか。生まれ故郷の二つほど西に寄った沢違いの山なのです。1704メートルの低い山で、昼食後に、頂上の近くの枯葉の上で、ごろりとまどろんだのは実に気持ちがよかったのを思い出します。週日でしたから、ほとんど人がいませんでした。登山途中に、深田久弥の「終焉の地」の碑がありましたが、彼もまた山に魅せられた人だったのですね。

 ここ福州に、「鼓山(gushan)」と言う、海抜455メートルの山があります。頂上まで、階段とロープウェイがある山なのだそうです。登ってみたい気持ちはあるのですが、山道を登れるのならいいのですが、石の階段を踏んで昇ってみるのには、少々抵抗があるので、躊躇しているところです。きっと眼下の眺めはいいのだろうと思うのです。先日は、この山の麓の近くにある「養老院」を見学に行ったのですが、やはり登山道が気になってしまいました。台湾の方で、日本料理店を経営されて、日本語の上手な店主とお話をしたことがあるのですが、『登るなら一緒に行きましょう!』と言ってくれました。同世代でしょうか。芭蕉は、「漂白の思い」がやまなかったのですが、私は、「登山の思い」がやまないのです。高い山には登ろうと思わないのですが、奥多摩の山や茅ヶ岳や入笠山級の山には登ってみたくて仕方がありません。今頃、高尾駅の普通電車の大月行きのホームには、中高年の登山愛好者でいっぱいでしょうね。することがないからではなく、昔の生活のリズムを感じさせてくれる「山登り」が、みなさんは懐かしくて「回帰行動」をとられるのに違いありません。こちらでは、これから《ブーム》になるのではないでしょうか!

(写真は、八ヶ岳から眺めた「茅ヶ岳」です)

2009年4月29日水曜日

父(てて)無し子の級友たちの顔が


 今日は、国民休日の「昭和の日」ですね。私たちが中国に来ましたのが、2006年の8月でしたから、日本不在の2007年に、新たに祝日になった日なのです。もちろん、「昭和天皇の誕生日」であったのですが、お亡くなりになった後に、「みどりの日」に名称が変わりました。この祭日に、『休んだ!』との実感がありませんでしたので、不注意に見逃してしまっていました。本日、4月29日、日本から東シナ海を隔てた、ここ福州で、あらためて「昭和」の時代を顧みております。

 一言で言いますと、「激動の時代」だったのでしょうか。アジアや太平洋への戦争の拡大、国内統制、物資の欠乏、多くの犠牲者、終戦、占領、戦後処理、朝鮮戦争の特需、奇跡的な復興、国連加盟、世界第二位の経済大国、学校の崩壊、全学連、自殺者の頻発、公害、環境破壊、薬害、公害対策、天皇崩御、明仁様の即位、公けにはそのような時代でした。私的には、父と母が結婚し、私たち四人の男の子の誕生、戦後教育を受け、就職、結婚、転職、四人の子どもたちの誕生と成長などの時代だったのです。個人的には、テレビで、皇太子・明仁様と美智子さんのご成婚を、アメリカ大統領のダラスでの暗殺事件を、旧ソ連やアメリカの宇宙開発、市ヶ谷の自衛隊での三島由紀夫事件などの、「衝撃的瞬間」を見たりしました。

 その「昭和」の時代が終わって、「平成(1989年1月8日に元号が変わる)」になって、もう21年になるのですね。それにしても、「平成」の実感が薄いのは、どうしてでしょうか。多情多感な青年期を過ごした「昭和」が、どうしても強烈に印象付けられているからなのでしょう。昭和47年・1971年は、やはり忘れることの出来ない年です。父が召されたからです。当時中野の高校に奉職していた私は、出勤したところに、母から電話が入って、入院先の病院で父が召された旨、知らされたのです。母は、『雅ちゃん、びっくりしないでね、実は・・・』と、一呼吸おいて、父の死を知らせてくれたのです。休みをもらって、その病院に駆けつける間、涙がこぼれて止まりませんでした。あんなに泣いたのは初めのことでした。肉親の死は衝撃だったのです。その日は、父の退院の日だったことで、喜びが裏切られたことが、よけい衝撃度を増したのでしょうか。「父の死」の受容というのは、難しかったと思います。親不孝者が、せめてもの孝行のできる矢先だったからでもあります。葬儀がすべて終わって、高尾霊園に、父の遺骨を埋葬したときには、虚脱感で満たされたのを覚えています。もう一方では、悲しんでいるよりは、五十代中ほどの母を力づける必要を感じたのですが、かえって母からの励ましのほうが大きく強かったのではないでしょうか。

 激動の核になるのは、どうしても「戦争」でしょうか。予科練の生き残りの方が、仲間の死に対して、『彼らの死は、無駄な死でも、犬死でもないのです。祖国のために命をささげたからです!』と言ったことばが忘れられません。有為な青年たちの犠牲の上に、新しい日本の再建がなされてきたことになります。そうですね、お父さんを戦争で失った、大激動の中をめげずに生き抜いて来た「父無し子(ててなしご)」の級友たちの顔が思い出されてきます。

(写真は、野坂昭如作「火垂るの墓」のアニメーションのDVD です)

2009年4月27日月曜日

『這えば立て、立てば歩め・・・』


 隣家に猫が二匹飼われてています。先ごろ若いほうの猫が出産をしました。子猫の声がしばらくしてからやんでしまったのですが、どうも飼い主が、母猫の留守の間に処分してしまったようです。それで、毎日毎晩、産んだ子猫を呼ぶ声がして、実に切ないのであります。親猫の子への情愛が、こんなにも深いのだということを知らされて、鳴き声に悩まされながらも、感心させられております。狼にしろ猫にしろ、人間以上の愛情を子にそそぐ、その様は、『人間よ、猫に学べ!』と言われているようです。
 
 物資の少ない時代の子育ては、きっと大変だったのではないでしょうか。父の若い日の写真が母のアルバムの中にあるのですが、戦争末期に、仕事で山奥の採掘工場から東京の本社や陸軍省に出かけたときの写真のようです。恰幅の良い父にしては、信じられないほどに、頬が落ちて眼がくぼんで、痩せて写っているのです。敗戦間近の東京の食糧難は相当なものだったようです。そんな中、四人の子育ては、山村でも並大抵ではなかったのではないでしょうか。飽食の今からは、想像することが出来ない、《食べられない時代》があったのです。どこからか、生まれたばかりの私のためにミルクを、兄たちの食料も調達してきて、ひもじい思いをさせなかった父と母には、感謝がつきません。

 『子を持って知る親の恩!』、父と母に、私たち四人兄弟があったのですが、私たちにも四人の子が与えられました。子育ては、70~80年代の好景気の時代でしたから、私の父母に比べたら容易だったのだと思われます。それでもお金がなくて、米が買えないときもありました。『どうしよう?』と思っている矢先、『広田ちゃん、米が採れたので食ってくれますか!俺が母ちゃんと作った米、うまいですよ!』といって貰らい、兄の福井の友人や知らない人から送って来たり、そんなことが何度もあったのです。『おかずがない!』と思っていたら、佃煮が送られてきたり、肉を戴いたり、結構ぎりぎりのところで、備えられたことが度々あるのです。そうしますと、子どもたちにとって、『何不自由なく生活できる我が家!』ではなく、物のないときを一緒に過ごしたことがあったことになります。いつも、ぎりぎりのところで、カラスが運んでくれた経験をしていることにもなりますね。継ぎを当てたズボンなどはいている子などいなかった時代でしたが、継ぎをしたものを着たり穿いたり、お古を使ったりしてきたのです。そういった経験は、子どもたちにはよかったのでしょうか。また、《待つこと》や《我慢》を学ぶことが出来たのもよかったに違いありません。

 長男に子どもが二人、次女にも二人いて、今、私と家内には計四人の孫がいます。『這(は)えば立て立てば歩めの親心 !』は、ジジとババの心でもありますが、健康で元気に育っていることは何よりです。

  『野菜を食べて愛し合うのは、肥えた牛を食べて憎み合うのにまさる!』
  『一切れのあわいたパンがあって平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家に
   まさる!』

という諺がありますから、そんな家庭で育っていってほしいと願ってやみません。「端午の節句」で、鯉幟を挙げ、武者人形を買ってあげられなのですが、心と体が健全で、愛心や優しい心を宿した子どもとして育ってほしい、名のない野の花のように、春の若芽のように、静かに、そして着実に、すくすくと、そう心から願う「黄金週間」目前の福州のババとジジであります。

(写真は、HP《静かな裏庭》の「枇杷の芽」です)

2009年4月26日日曜日

孫たちの成長を願った祖母の心


     「背くらべ」    海野 厚作詞  中山晋平作曲

  柱のきずはをととしの   五月五日の脊(せい)くらべ
  粽(ちまき)たべたべ兄さんが   計(はか)つてくれた脊(せい)のたけ
  きのふくらべりや何(なん)のこと  やつと羽織(はおり)の紐(ひも)のたけ

  柱に凭(もた)れりやすぐ見える  遠いお山も脊(せい)くらべ
  雲の上まで顔 だして  てんでに脊(せい)伸してゐても、
  雪の帽子(ぼうし)をぬいでさへ  一はやつぱり富士 の山

 昭和11年は、青年将校たちが、『昭和維新!』を掲げて決起した、「二・二六事件」があった年でした。その時、彼らが歌ったのが、昭和5年、24歳の海軍少尉・三上卓が、長崎の佐世保で作詞した、『汨羅(べきら)の渕に波騒ぎ  巫山(ふざん)の雲は乱れ飛ぶ  混濁(こんだく)の世に我れ立てば  義憤に燃えて血潮湧く 』という「青年日本の歌」なのです。この「汨羅(べきら)の淵」とか「巫山の雲」というこのことばですが、『いったい、何のことだろう?』と、思って調べてみました。「汨羅」とは、湖南省にある川の名で、屈原という人が入水(じゅすい)したことで有名な川です。また、「巫山」とは、四川省にある山の名で、楚の懐王が見た夢に登場しています。美しい山というよりは、どうも道徳的に乱れた状況が見られた地域として有名なのだそうです。三上卓が、昭和初期を、「混濁の世」と言い、その世相に「義憤に燃えて」歌ったわけです。お隣の中国の故事の中から、『昭和の世は、道徳的に退廃し、自殺者がおびただしく出て、実に嘆かわしい!』という、嘆きの気持ちを込めて詠んだのでしょうか。

 ところが、泪罗に身を投じた屈原は、ここ中国では、高く評価されいる人物で、歴史上の実在者なのです。彼は、「悲劇の武将」と言ったらいいでしょうか。もっと積極的に言いますと、「憂国の士」、「愛国の士」と言った方がいいかも知れません。戦国春秋の時代の「楚」の政治家で、名門の王族の出でした。懐王に仕え、信任が篤かったのです。当時、楚は、「秦」と「斎」という二つの国と、どう国交していくかについて、意見が分かれていました。屈原は、親斎派で、『秦を信用することはいけない!』と主張したのです。ところが、政治的な手腕が優れ有能であった屈原を妬む「親秦派」に讒言され、結局、懐王は、秦と国交することに決めたのです。屈原が案じたとおり、秦は楚を攻撃して負かしてしまい、難題を要求し懐王も人質にされ、楚は風前の灯のような状況でした。国の将来を憂えた屈原は、泪罗江に身を投じてしまったのです。その日が、五月五日でした。

 弟を愛した姉は、屈言の遺体が魚に食われないように、竹の筒に入れたご飯を泪罗に流して、遺体を守ろうとしたのです。その後、彼の命日に、彼を慕う人々によって、「栴檀 (せんだん)」や「笹」の葉でご飯を包み、五色の紐でしばって、汨羅の川に流すようになったのです。それが「端午(たんご)の節句」の「粽(ちまき)」の始まりです。

 子どもの頃、毎年、五月五日の前になると、小包が届きました。母の故郷からでした。母の養母が、母の四人の男の子のために、笹の葉に包んだだももち米粉と米粉で作った「粽」を送ってくれたのです。私たちの成長を、遠く山陰の地から願って、毎年欠かすことなく送ってくれたのです。バターのように滑らかではなく、砂糖の甘さもなく、クリームの美味しさのない素朴な味で、さとう醤油をつけて食べました。孫を思う祖母の心が、その「粽」に籠もっていたのです。舌にではなく、「心」に愛情が届いたのではないでしょうか。また、父と過ごした家の柱に、四人の毎年の背丈を書き込んだ跡が残っていました。さらに、我が家の四人の子どもたちの成長のあとを記した柱もありましたが、解体のときに、柱を保存しておきたかったのですが、置き場所がなくてあきらめてしまいました。「粽」は、屈原の悲劇などつゆ知らず、「端午の節句」の祖母の温もり味であり、「柱のキズ」は、成長の懐かしい思い出であります。

(写真は、HP《godmotherの料理レシピ日記》の「粽」です)

2009年4月20日月曜日

わが師匠の夢


 中国に「二胡(にこ)」という楽器があります。胡弓とも三味線とも違っていて、ヴァイオリンのように弦で弾くのですが、肩ではなく左足の付け根に置きます。私は、三味線にはまったく興味がありませんでしたが、『中国に行って、もし時間があったら、二胡を習ってみたい!』と思っていました。天津の私たちの通っていました学校の近くに、「天塔(テレビ塔)」があります。友人が、その近くに住んでいて、訪ねた帰りに、川辺の東屋で、二胡を演奏して、それにあわせて歌っている人たちを、自転車を止めて眺めていたことが何回かありました。二胡に興味があるのを知った老人が、『ずっと、ここにいるのなら教えてあげよう!』と言ってくれたのです。でも、まもなく、私たちは福州に越してしまいましたので、その機会をえませんでした。

 昨年の暮れに、友人との談笑の中で、「二胡」が話題になったのですが、そのとき、私は、『習ってみたいんですが!』と話しましたら、この友人が、一人の方を紹介してくれたのです。福州人ですが、長らく広東省の「深圳(しんせん)」でマッサージをされていた方で、やめて福州に家を持たれて帰って来られたのでした。お名前を、「陳」とおっしゃいます。1941年の生まれですから、すぐ上の兄と同い年で、生まれてまもなく失明され、悶々とした中で自殺も考えられたそうです。それでも、ある方の勧めで、マッサージの学校に行くことになり、そこを終えた後は、北京にある短期大学に合格され、そこでもマッサージ術を勉強されたのだそうです。卒業後、深圳で開業され、腕を評価され、広東省の省長さんや市長たちがお得意さんだったそうです。なかなかの人格者で、眼のよくないみなさんと、音楽活動をされておられ、様々なところに出かけています。更なる活動を期しておいでです。この方は、二胡とは別に、お皿を楽器にして演奏もされるのです。

 この方が、『教えましょう!』と言ってくださったのです。17歳から始められて、抜群の腕の持ち主ですが、この私に週一度2時間のレッスンを無料でしてくださるというのです。彼の夢は、彼の演奏活動に、私を連れて行くことなのだそうです。六十を過ぎてから、発心して新しいことに挑戦しようとした気概を喜んでくださったのです。それで一生懸命に教授してくださるわけです。ところが音楽の素質の無い私は、なかなか上達しないのです。悪戦苦闘、それでも少しづつ弾けるようになってきていますが、まだまだ人に聞かせるところには至りませんが。

 先週のレッスンの合間に、失明に至る話をしてくれました。友人が通訳してくれたのですが。お父様が、福州でラジオ放送のお仕事をされていたそうです。日本軍が来るというので、福州の北にある三明市に、放送機材を運んで、山の中で放送を続けたようです。この陳先生は、お母様のおなかの中にいて、悪路を慌しく、その町に疎開されたのです。日本軍が、その疎開先の町にもやって来て、お母様は、『殺される!』といった恐怖に満たされて、家の中に隠れていたのです。ところが幸いにも、家の中に入ってこないで去ったのだそうです。そんな困難の中に、陳先生は誕生されたのです。私が、『失明と日本軍の侵略と関係があるのでしょうか?』と言ったのですが、彼は否定されましたが、言わずもがなであります。戦争が終わって、お父様の貯金を全部持って、上海の有名な眼科で受診されたそうです。医者は、『生まれてすぐに手術をしていたら・・・・』と言われたそうです。遅かったのです。もし、日本軍さえ来ないで福州にいたら、汽車で上海に行くことが出来たのです。やはり、関係があるわけです。でも彼は、日本を恨んでいませんで、日本人の私に「二胡」を教えることを喜びとし、私を連れて出かけることも夢見ていてくださるのです。この年になって、また師匠を頂いたことは、私にとってはとても感謝なことであります。

 やぁー、こんなに期待されたら、ここにいなければなりませんし、もっと上達しなければなりませんね。もし許されるなら、師匠のかばんを持って、町々村々を旅したいものです。夢や幻は、年齢には関係ないのです。どうも、おっちょこちょいの性格は、いくつになっても直らないようです。

(写真は、HP《タカハシミュージックプラザ》の「二胡」です)

2009年4月19日日曜日

『どんな醜い母でも、愛さなければならない!』


     『あなたの父と母を喜ばせ、あなたを産んだ母を楽しませよ。』

 『誤っている点やよくない点を指摘し、あげつらうこと。』を「批判」、『相手の欠点や過失を取り上げて責めること。』を「非難」、『他人の悪口を言うこと。」を「誹謗(ひぼう)」、『根拠の無い悪口を言い、他人の名誉を傷つけること。』を「中傷」、『事実・論理に合わない、でたらめなことば。』を「妄言(もうげん)」、『罪状や責任を問いただして、とがめること。』を「糾弾(きゅうだん)」、『他人を陥れようとして、事実を曲げ、いつわって悪し様に告げ口をすること。』を「讒言(ざんげん)」、と三省堂の「スーパー大辞林」にありました。聞いて心地よくないことばを言い表した「ことば」をこれだけ知っていますが、ほかには思い出せません。

 何で、こんな「ことば」を挙げ連ねたかといいますと、願わないことをたびたび人から言われきたからです。私は極力、人の悪口を言ったり陰口を利かないで生きてきたつもりですが、さりとて失敗もきっとあるはずですから、誇れませんが。これまでの私に対する「ことば」を思い返しますと、「非難」と「讒言」を、何度か聞いてきましたし、「批判」はしょっちゅうでした。『それだけ、私に関心があるからなのだから!』と思って、聞くことにしたのです。当を得た「ことば」であるなら、くみ上げて、反省もしました。誤解されたときは、馬耳東風で聞き流してしまいました。そんな中で、どうしても忘れられない「ことば」が幾つあります。まあ忘れられないで覚えているのですから、強烈だったことになるでしょうか。その中で一番強烈だったは、事実無根なことを公にブログで攻撃されたことでしょうか。

 そのほかに心外だったのは、「マザコン」と陰口されたことです。直接ではなく、家内を経由して、そう言われたのです。一度や二度ではありませんから、『俺は、本物のマザコンなのだろうか?』と思って、『では、マザコンに徹してやろう!』と反骨の思いをもったりしたのです。なぜかと言いますと、私が母親のことを話題にして、ちょくちょく話したからでした。母を語る、母を誇る、これは「孝」や「感謝」であって、誰もがすべきことだと思いましたから、「マザーコンプレックス」のレッテルを貼られても、母を語って止むことなく、ここまで生きてきました。中国語辞書では、「対母親的錯綜意識(幼年時受母親過分寵愛的人、青年時期所表現的一種対女性関係的抑制心理状態)」とありました(遼寧人民出版社「新日漢辞典」)。精神医学者で「精神分析」の創始者のフロイトが命名したことばです。

 中国に、『どんな醜い母でも、愛さなければならない!』という格言があるそうです。だからでしょうか、中国の武勇伝の英雄たちは、自分の母をよく語り、敬い、大切にし、誇るのです。そのような母親思いの武将を、民衆は高く評価し、英雄視するわけです。「日本青少年研究所」という団体がありまして、2004年に、日・米・中の高校生の調査をしました。その中で、『どんなことをしてでも親の面倒を見たいか?』という項目に、次のような結果がでています。アメリカは67.9%、日本は43.1%でしたが、中国は84.0%という高いパーセンテージを上げているのです。『祖国は母である!』、国を愛するなら、母を愛するということを学び、中国の青年たちは、それを実践しようとしているのです。そんな若者たちの一人が、深沢七郎の「楢山節考」を知っていて、「姥捨山伝説」について質問されたことがあります。私が母を誇ることと、その私をフロイトの口を借りて『マザコン』と言うのと、どちらに軍配が上がるのでしょうか。中国の若者たちは、きっと私を支持してくれるに違いありません。中国に来てよかった、ひとつの理由の一つがこれであります。今日、二歳違いの弟が、母孝行の行き先を、出雲から鎌倉に替え、『五月の連休に、一緒に行って来るね!』と言ってきました。うーん、弟には負けてしまいます!

(写真は、東映映画「楢山節考」の一場面、主演の緒形拳は昨年10月に亡くなりましたね)  

『ピチピチ チャプチャプ ランランラン!』


 先週、授業のときに、『あめあめふれふれ、母さんが 蛇の目でお迎え、うれしいな・・・』を歌ってしまいました。篠つくような雨の中を出勤した私は、北原白秋作詞、中山新平作曲の「あめふり」を披露したわけです。歌っていて、小学校のころの光景を思い出してしまいました。涙はこぼれませんでしたが、歌い終わりましたら、万雷の拍手がありました。日本の「梅雨」は、六月から七月頃ですから、一足も二足も早いのですが、ここ福州の雨を、日本で生活をしたことのある知人たちは、「梅雨」と呼んでいます。本来、「梅雨」は、揚子江を境に、北の気団と南からの湿気を帯びた暖かな気団が、長江上空でぶつかり合って、「梅雨前線」を発生させて、朝鮮半島や日本列島に、雨をもたらすのですが。こちらの今頃の雨も、やはり、日本の「梅雨」に感じが似ていて、同じ漢字で表記しますが、「黴雨(中国語では《霉雨meiyuメイ・イ》」と書いて、黴の生えやすい時期であることを言い表しています。実によく降りますが、それでも,『ピシッ!』と止んでは降るを繰り返しています。去年も、この時期を、こちらで過ごしているのですが、『こんなに雨が降ったかな?』と思ったりで、季節の移ろいを余裕をもって感じられるようになってきたのでしょうか。

 さて、歌ですが、『・・・・ピチピチ チャプチャプ ランランラン!』と続けたので。これは擬声語ですが、説明が難しいのです。身振り手振りをしましたら、みんなは分かったのでしょうか、頷いてくれました。この擬声語は、日本の国語の中には多くあって、わが国語の一大特徴かも知れませんね。人や動物や自然が、動いたり発したりする様子を、『きっと、こうだろう、そうだろう!』と思っては、ことばで表現するのですから、とても興味深いものです。雨を歌った歌の多くが、悲しくて切なくてやるせないのですが、この歌は違います。蛇の目を持って迎えに来てくれたお母さんがうれしくて、この子は『ランランラン』と、ホップしながら鼻歌を歌って喜んでいるのでしょうか。お母さんが忙しくない、いつも家にいてくれ、登校時には見送り、家に帰ると出迎え、急に雨が降ると、わざわざ傘を持って学校まで迎えに来てくれるのですね。そういえば、この歌は、母が八歳の頃(大正14年)に発表されているのですから、そんな悠長な時代だったのです。

 昔のお母さんは、化粧していませんでしたね。割烹着(白い木綿の生地で出来た料理用の上っ張り)を着て、下駄を履いて、買い物籠を下げていたと思います。家事や子育てに専念できた時代だったわけです。やっぱり、子どもたちにとってはいい時代だったわけで、情緒の豊かな人に育ったに違いありません。うーん、物の豊かさよりも、心の豊かな、そんな時代はもうやってこないのでしょうね、とても残念ですが。




(写真は、「あずさ屋(長野県喬木村)」で、蛇の目の傘を作成しているところ。下は、完成品です)

2009年4月17日金曜日

踏春


     「あなたの友、あなたの父の友を捨てるな。あなたが災難に会うとき、
     兄弟の家に行くな。近くにいる隣人は、遠くにいる兄弟にまさる。 」

 「アイデンティティー(identity)」ということばがあります。英語の訳語は、「正体」とか「身元」と訳したらいいのかも知れませんから、『私は誰?』、『どうしてここにいるの?』、『これから何をするの?』という問いかけになるでしょうか。また、「ルーツ(root)」は、「起源」とか「祖先」になるでしょうか。私たち日本人の正体ですが、かつて、「単一民族国家」を形成してきた「大和民族」であると言われていましたが、今では、そういったことを声高に言う人はいなくなりました。としますと、「混血民族」であることに間違いはありません。

 中国に参りまして、まもなく三年になろうとしています。この間、多くの人と出会ってきましたが、昨年末、私たちのお世話をしてくださる方の友人が来られ、時々、我が家にも来られるのです。その彼女が、家内の召された兄の令夫人に、びっくりするほどそっくりなのです。この方だけではありません、『エッ!○○さんにそっくり!』という方に、これまで何人も会ってまいりました。お会いした方ばかりではなく、私の家内は、最近は中国人に思われていて、町で路を聞かれては、二度に一度は答えることができるようになっているようです。同じ土地の上で、同じ空気を吸い、水を飲み、食材を食べていますから、風土に見合った顔つきになってくるのでしょうか。人間とは、それほど風土に見合ったものになるのかも知れません。

 それもそうでしょうけども、民族的には、ほとんど代わらないのではないでしょうか。私の血の中に、中国人の血も、朝鮮民族の血も、南方民族の血も、イルクーツク人の血も流れているに違いないからです。ことのほか福建省は、日本に近く、長い年月にわたって文化交流や人間の往来があったからでしょうか、ことばや習慣が似ているのです。こちらの方言の「闽南话(台湾語とほとんど同じ)」で、「いち、にい、さん、しい・・(五以上は違いますが)」は、日本語と同じですし、『エッ!』と思うほど似ていることばが、方言の中から聞こえてきます。また「黄檗宗(禅宗)」の日本での開祖は、私たちの隣町の福清の出身の「隠元」なのです。そういった交流や往来を、文献的に研究したら、面白い発見が出来るのではないかと思っています(そういった研究がなされていますが)。ポリネシア人の友人がいますが、体型は別にして、日本人とほとんど変わらないのです。

 先週、福建師範大学の日本語学科の「スピーチ・コンテスト」に行ってきました。私たちと親しく交わりをしています一人の学生が、日中関係は、「一衣帯水」の関係にあることを語っていました。彼らの話を聞いていて分かったのは、多くの若いみなさんが、日本語と文化を学ばれ、こちらで生活している日本人との交わりを通して、良い体験をしていることでした。かつての偏見や誤解が氷解して、日本の良さと弱さとを、しっかりと理解したうえで、良好な関係に回復することを願って、「架け橋」になろうとしているのです。

 子どもの頃に、聞いていた中国人のイメージは、長いキセルでプカプカと煙草を吸って、働くことが嫌いで、動きが鈍重だというものでした。こちらで私がお会いしている中国のみなさんは、くよくよしないで、豊かな感情の持ち主で、困難を上手に跳ね除け、実に勤勉ですし、行動も敏捷なのです。『あれっ!』と思うことも、文化と習慣の違いですからありますが、悪いのではないのです。彼らだって、『あれっ!』と、日本や日本人について思われることはたくさんあるのでしょう。互いが、相手への《要求》を引っ込めて、《理解》をもったら、素晴らしい関係を再構築することが出来るはずです。「踏春(ta chun)」と書いて、「春に郊外にピクニックすること」と日本語に訳すのですが、春の気分を豊かに言い表した、素晴らしいことばを知りました。このように、漢字の恩恵を受けたことを、日本語を教えながら、痛切に感じております。様々に「近さ」と「親しさ」、そして「懐かしさ」を感じさせられてなりません。

(写真は、わが借家の裏庭に咲いた可憐な春を告げる「花」です)

2009年4月14日火曜日

王への敬愛と感謝を!



   「・・・王とすべての高い地位にある人たちのために・・・感謝・・・しなさい」

 最近、今上天皇(平成)でいらっしゃる、明仁様の逸話を読みました。新憲法下で、国の「象徴」となられ、人間宣言をされた昭和天皇のご長男でいらっしゃいます。学習院に学ばれて、昭和34年1月14日に、正田美智子さんと結婚をされました。今年、ご成婚五十周年の「金婚式」を迎えられたのです。私は、結婚式後のパレードの様子を、テレビの中にまぶしく見せていただいたのを、よく覚えております。さらに、昭和64年1月8日、第125代の天皇に即位されましたが、その様子も、テレビで見せていただいて、「国王」のいる英国と同じように、『日本は王を戴く国家である!』と言うことを、改めて思わされたのでした。横暴で、権威の座に安穏として、ほしいままに権力を行使した王は数あるのですが、明仁様は、王でありながら、実に謙虚で誠実な方であることに、驚かされるのです。もちろんお会いしてことばを交わしたことなどありません。でも知る限りにおいて、このようなへりくだって、いたわり深い王様を他に知らないのです。

 明仁様が、学習院大学に在学中のことだそうです、東都大学野球の試合がありますと、ちょくちょく神宮球場に応援に行かれたのだそうです。学習院のエース・ピッチャーが親友であったからだそうです。もちろん母校愛での応援でもあったのですが。そのときの様子を記している雑誌の引用を引用します。「当時の『野球少年』という雑誌に、こんなレポートが掲載されている。<ゲームは熱戦をくりかえしながら進んでいきました。ところが皇太子さまは、相手チームがエラーしたときなどは、応援団がさわいでも、ご自分はいっしょに手をたたいたりなどはなさらないということに気がつきました。熱狂すると、敵がエラーでもすれば、ついさわぎたくなるものですが、相手にとってみれば気持ちのよいものではありませんし、スポーツマン・シップからはずれているように思います。そんな応援をなさらない皇太子さまは、やっぱり日本の少年たちの代表だと思いました。> 」、二十歳前後の明仁様が、このように振舞われたのです。

 《相手の失策を喜ばない》、これこそ一事が万事でしょう、このような心や態度をお持ちの方が、私たちの国の「王」であることを、誇りたいのであります。もちろん王様は、信仰の対象ではありません。しかし国民が、立てられた王に、心からの敬意を示すのは、当然なことではないでしょうか。「・・・王とすべての高い地位にある人たちのために・・・感謝・・・しなさい」と、私は学ばされましたから、心からの敬愛と感謝とを表したいのであります。

 明仁様、美智子様のご健康とご長寿を、心から願っております。

 ところで、義父は、自分の家系などにはさらさら関心は無かったのですが、長男を《馬の骨》呼ばわりされて、癇に障ったのでしょうか、どうでも良いと思っていた家系のことを、綿密に調べたのだそうです。そうしましたら、なんと天皇家の家系に属することを突き止めたのです。『だから、どうなのですか?』と聞き返されてしまうので、結局はどうでも良いことにして、義父は、ブラジルのサンパウロの地で召されて、何ももたずに天に帰っていきました。遺骨も、大西洋の海原に散骨してしまいました。そうしますと私の四人の子どもも、四人の孫たちも・・・・、明仁様と・・・・、うーん、考え過ぎでしょうか。

(写真は、新華社のネットに掲載された「金婚式記念(2009年4月)」の天皇ご夫妻、2008年5月、明仁天皇(左から3人目)と皇后(右から3人目)は胡錦濤主席(左端)を滞在中のホテルに訪ね、胡主席と劉永清夫人(右端)です)

2009年4月12日日曜日

《隣の三尺》と《おらが三十尺》


 所帯を持ってから、一度だけ、一軒家に住んだことがあります。それも、四軒とも同じ造りの借家で、持ち家を作る前の仮住まいでしょうか、まだ幼い子どもが二人ほどの家族が、まわりに住んでいました。家と家との間が1.5メートルほどで、西側の窓をまたぐと隣の家に入り込めそうでしたし、東側の窓からは、隣の大家さんの息子の家の浴室が鼻の先にありました。それ以外は、アパートや市営・県営の一棟30~50軒ほどの集合住宅に住んだのです。引越しの多かった我が家で、市営住宅の5階に住んでいたときのことでした。子どもたちが留学中に引越しをしたので、彼らには引越しの実感が無く、帰国して違った家に帰って来なければならなかったわけです。そんなことが何度かありました。あるとき下の娘が、アルバイトを終えて帰った来たときに、あわてて階段を駆け上がって、ドアーを開けて玄関で靴を脱いで顔を上げると、お客さんが出て来たのです。『こんばんわ!』と言ったのでしょうか、でも、そのお客さんが怪訝な顔をしていたのです。玄関を見回すと、いつもとちっとたたずまいが違うのに気付き、『あっ、間違えた!』と思ったのだそうです。詫びて方法のていで駆け下りて、隣の階段から我が家に帰って来たことがありました。笑えない出来事でした。我が家も、その家も、玄関のドアーに施錠をしなかったから、こういったことが起こるのですし、もちろん同じような階段とドアーですから、考えずに帰宅したらありうることなのでしょうか。その上、留学から帰って間もなくでしたし、彼女も少々おっちょこちょいだったこともありますが。

 こちらに来るまで住んでいたマンションでのことでした。ある日、玄関に、『静かにしてください!』との張り紙がされてありました、隣家の仕業でした。『掃除機の音がうるさい。洗濯機の音がうるさい。話し声が大きい!』そういったことが書いてありました。それで、極力音を加減しながら生活を続けたのですが、もう一度張り紙があり、戸袋の新聞受けにも、抗議文が入れてありました。ことばで訴えるのならまだしも、張り紙をされて、我慢の緒が切れてしまった私は、大人気なく隣の玄関を大きな音を立ててたたいてしまったのです。音といったって、生活音です。傍若無人に生活していたわけではありません。集合住宅での生活術をわきまえていたつもりだったからです。その一件があって、東京の渋谷から、彼女のお母さんが呼ばれて駆けつけました。そのお母さんと家内が話をしたのです。『娘は夜中は起きていて、昼間は寝ているので、お宅の音が気になるようです!』と弁明したのです。朝方に眠りだす人の隣家の我が家で、ノーマルな日常を開始して、朝起きて、早過ぎないようにして洗濯機を廻すのですから、無理難題をしていたわけではありません。間もなく、越していきましたが。数少ない隣人との悶着でした。

 《隣の三尺》と言うことばがあるようです。隣と接する玄関先を掃き掃除するとき、隣家の前の通りを、1メートルほど進入して掃くことの勧めです。掃き過ぎてもいけないし、ぎりぎりの線までしか掃かないのもいけない、これが《程よい範囲》なのです。狭い日本の社会で、先人が悟った知恵なのでしょうか。ここ中国では、そんな気遣いは感じられません。足元に、『ガーッツ、ペ-ッ!』と痰を吐かれますし、上の階から、『ひらひらやドスン!』とゴミや物が我が家の庭に捨てられます。まさに《おらが三十尺》です。それでも、お世辞笑いでは無いのですが、みなさん人懐っこいのです。慣れました。でも《隣の三尺》を気にしなければならない気遣いの社会から、気を使わないでいい社会に住みますと、自由でいいのでしょうか、開放されてこちらの生活に満足している日本人に時々、出会います。でも、日本に帰ったら、『礼儀知らず!』とか『世間知らず!』と、『言われないようにしないといけないだろうな?』と、もう気にしているこのごろであります。

(写真は、HP《若き建築家氏間貴則の挑戦》の「玄関」です)

2009年4月10日金曜日

いなり寿司


 『好物は何?』と言われたら、真っ先に答えるのが、「いなり寿司」なのです。運動会のときや遠足に、母が持たせてくれたからでしょうか。普段も食べていたのでしょうけど、特別に、「運動会」のときに食べたときの美味しさが、きっと強烈だったのだと思います。小学校では、兄たちは、各学年の代表で、「部落対抗リレー」に出ていたのですが、病欠児童の私は鈍足でしたから、出してもらったことが、まったくありませんでした。クラスの徒競争でも、ビリかビリから二番手と言ったところがお決まりでした。で、応援席で席を暖め、荷物番をしていて、それでもお腹の空いたところに、甘辛く煮込んだ油揚げに、細かく刻んだ人参や蓮根を入れた酢飯を詰めた「いなり寿司」を食べては、代表になれない憂さを晴らしていたのでしょうか。ほろ苦い経験でした。それでも小学校高学年になった頃には、健康になって、マット運動や跳び箱などには、『雅、お前やってみろ!』と担任に言われては、試技をするほどになっていたのです。6年のときは、学級委員を一度もさせてもらえなかった私は、「体育部長」をさせてもらいました。給食の無い時代でしたから、手作りの昼飯がほとんどだったのですが、そのときにも、「いなり寿司」があったのです。

 『中国では食べれないよなあ!』とあきらめていたのですが、なんと、今日、家内が作ってくれたのを6つも食べてしまいました。『美味しかった!』の一言に尽きます。福州の店に、「油揚げ」はあるのですが、しっかりと重量感のあるもので、日本のように、巾着のように開いて、酢飯を入れて、いなり寿司を作れるようにはなっていないのです。じつは先日、家内の妹が送ってくれた小包の中に、「味付けの油揚げ」が入っていたのです。それを使って、家内が今日作って、そっと出してくれたわけです。その小包の中には、「イカの塩辛」、「わさび漬け」も入っていました。炊き立てのご飯にのせて食べたのですが、普段は一杯なのにお代わりをしてしまいました。福州に日本食品を売っている小さな店はありますが、種類もわずかですから、塩辛やわさび漬けなどはありません。日本食品は無くても大丈夫なのですが、こうして食べてみますと、自分が「真正の日本人」なのだと思わされるのですね。何十年も食べてきた食べ物が、嗜好を決めるのですから、中華料理がどんなに美味しくても、日本では、どうということのない通常の食物が光り輝いて見えますし、高級で高価な日本食品以上の価値を、舌と胃袋が感じているのです。

 外国住まいの経験の長い義妹が、『こんなもの食べたいよね!』と思って送ってくれたわけです。眠った子を起こされた私は、『塩辛も食べてしまったし、これからどうしようか?』と思ってしまうのです。でも「宇宙船」に乗り込んでいる日本人飛行士・若田光一さんは宇宙に長期滞在するのですから、まず「塩辛」も「いなり寿司」も食べられないのでしょう。私たちのほうが恵まれていることに、感謝しないといけないようです。でも日本食とは、こんなに美味しいものなのでしょうか、改めて納得したところであります。来月は五月、日本では、《山ホトトギス初鰹》の季節になるのでしょうか。うーん、胃袋が羨ましがっています!

(写真は、HP《カトミエ》の「いなり寿司」です)

2009年4月8日水曜日

『な、そうだろう!』


 家の近くにコピー屋さんが数軒ありますが、週に何度もお願いする私は、まあまあのお得意さんなのでしょうか。以前は、一枚が1.5毛でしたが、最近は2毛に値上がりしています。師範大学の構内にある店では、1.2毛ほどになりますが、便利な近場を利用しているこのごろです。2毛と言いますと3円ほどになるのですが、日本のコンビニの1枚10円に比べますとだいぶ安く感じられますが、こちらの物価を考えますと、やはり高いのかも知れません。三日ほど前に、いつもの店とは反対方向の150mほどの外国語語言学院の近くの店で、53枚のコピーをお願いしました。10元6毛でした。20元札と6毛を渡しましたら、15元のおつりをくれたようです。確かめずに、ポケットの中にねじ込んだのですが、やはり、つり銭が多過ぎでした。『儲かった!』とは思わなかったのですが、あまり考えないで、『まあいいか!』と思いながら家に帰ってきたのですが、そのつり銭が気になってならないのです。迷っているうちに、心の中に平安が無くなってくるではありませんか。5元ですから、70円ちょっとで、牛肉入りの米粉麺を一杯食べられる一食分の値段なわけです。いたたまれなくなって、家内に一言言って、その店に、とって返しました。こちらで「板番(ラオ・バン」と呼ばれる店主に、『つり銭が多すぎたよ!』と言って説明して返金したのです。

 値段を高くされ、つり銭を少なくされるのは、天津でもそうでしたが、ここ福州でもちょくちょくあります。どうしても韓国人か日本人にしか見えない私たちは「外国人」ですから、《外国人価格》があるのでしょうか、ネギを背負った「カモ」の到来に、『しめた!』と思うのでしょうか、そういうことが多くあるのです。そうされますと、決まって『過去の日本が、この国で搾取したんだから、子孫同士が立場の逆転で、そうされてもまあ仕方ないか!』と思うのです。また、『いやな思いをしないですむから、次からは、スーパーに行こう!』と思ったりするのですが、やはり通り道の小商店で買い物をしてしまいます。人のよさそうに見える家内は、しばしばのことですが。

 でもそれとこれとは違うのです。『だまされることが多いのだから、つり銭の間違いが一度くらいあってもいいか!』と言う論理が、思いの中に立ち上がってきたのは事実です。でも、置忘れたり、落としてある財布の中からお金を取って、自分のポケットに入れると、それは「窃盗犯罪」になるのですね。立件されて処罰された名ある人のニュースを何度も聞いていました。それよりも何よりも、『盗んではいけない・・・だましてはいけない。』という声が、こだましてきたのです。その店で説明していたら、板番の娘が覗き込んでいました。5元を返して、受け取った彼は、『謝謝!』とにっこり笑って意外な出来事に感謝をあらわしたのです。でも感謝はこちらがすべきことでした。

 昔なら、『もうかった!』と思うのは当たり前で、万引きを繰り返した窃盗小学生の過去あるわが身ですから、髪の毛が白くなって再び、同じ轍(わだち)の中にはまりそうな中から救出されて、ホットしたのです。『石川や浜の真砂に尽きぬとも、世に盗人の種は尽きまじ』と、五右衛門が辞世の句を詠んだと言われますが、もう少しで彼に、『な、そうだろう!』と言われそうでした。桜満開の北日本のニュースを聞いた、福州の4月の初旬であります。

(写真は、京の三条大橋で釜ゆでになった「石川五右衛門」の錦絵です。写真を右クリックしますと大きく見られます。)

2009年4月6日月曜日

「忍」と「和」との隔たり


 30年の結婚歴のある夫婦を対象に、シチズン時計が、アンケート調査をしました。『結婚を漢字の一字でどう表しますか?』と言う問いに、総合順位は次のようでした。一位は「真」、二位は「和」、三位は「絆」、四位は、「愛」でした。男女の違いがあったのはそれぞれの二位でした。男が、「和」であったのが、女では「忍」だったことです。いわずもがなの結果なのかも知れません。やはり妻たちのほうが、忍耐して結婚生活を送っていることになるわけです。そういえば、私たちの結婚生活も同じようなことがいえるのだろうと思うのです。短気でおっちょこちょいの私は、その日、何があっても一晩寝てしまうとまったく新しく一日を始めて行ける人間でしたが、彼女には、忍んで耐えた毎日だったことになります。そういえば先週、4月4日は、私たちの結婚38周年だったのです。彼女は、『わたしでなかったら、あなたにここまで添い遂げる女性はいなかったでしょうね!』と、平然として、かつまた確固たる自信をもって言い切るのに、私は反発できなくて、『そ、そう、その通り!』と言ってしまう、二人の38年目であります。

 『そろそろ結婚をしなくてはいけない!』ような雰囲気が、私のまわり一面に満ちていました。女子高に務めていましたから、『身をかためなければ!』と言う切実な迫りも感じていたのです。社長の娘も、大学や専門学校の講師も、そのほかにも数人の候補者がいました。でも、『誰でもいい!』わけではありません。それで、上の兄に任せたのです。その兄が紹介してくれたのが、今の妻でした。名も富みもない方の娘でした。後になって知るのですが、彼女は、島津家から徳川家に嫁いだ「篤姫」も、『あっ!』と驚くほどの家系だったようです。今の世では、『それが何なの?』と言われそうですが、頼朝の家来だと父が誇りに思っていた「鎌倉武士」の末裔などは、足元にも及ばないわけです。名も金もない人の娘を妻にした、私の好きな政治家の広田弘毅は、素晴らしい家庭を建設したのですが、当時の外務官僚としては、広田は異端児でした。ほとんどが、名家の娘を妻に迎えるのですが、『妻の口利きで出世したと言われるような者になりたくない!』と頑なに突っ張って、28のときに、七つ下の好いた女性を広田は娶ったのです。広田夫人は、刑死する夫に先立って、鵠沼の家で自死して果てます。やはり、この方は、富や名誉には目も向けない自由民権運動の志士の娘でした。

 「潔さ」を広田のうちに見て、感動される私ですが、『50年早く生まれた!』と彼は何度か漏らしたそうですが、激動の時局をまったく良心的に、誠実に、務めを全うして生きたのです。あの時代の舵取りに、不可欠な日本に天が備えられた逸材だったにちがいありません。その彼を陰で支えつづけた夫人があってこそ、広田が天職を全うして生きられたわけです。

『人がひとりでいるのはよくない。』

との諺が、結婚の最前提であるのですから、うーん、彼の結婚生活に大いに刺激されます。人の結婚に憧れるだけではなく、私たちの結婚生活に、子どもたちや孫たちが刺激されてほしいものです。そのために、家内には、もうしばらく「忍」の一字で添い続けてもらいたいものです。これって「和」を求める男の甘さとずるさでしょうか。

(写真は、新婚旅行で訪ねた「潮来」の「あやめ《旅猫旅日記》」です)

2009年4月2日木曜日

広田弘毅と麻生太郎


 少年期から青年期に、好きだった映画俳優は日本では鶴田浩二、アメリカではジェ-ムス・ディーン、女優だとのフランソワズ・アルヌール(フランス)、歌手ですとちあきなおみ、落語家ですと鈴々舎馬風(れいれいしゃばふう)、野球選手では与那嶺要、相撲取りですと琴ヶ浜、幕末の志士ですと高杉晋作、戦国時代の武将では明智光秀でした。それぞれに出色の人物だと思います。『好き!』と言うよりは、『印象的な人だった!』と言ったほうがいいかも知れません。ですから、政治家への関心は、時の総理大臣や文部大臣の名前を知っているくらいで、ほとんでありませんでした。

 ところが大人になって、一人の政治家に、強烈な感銘を受けたのです。それが、「広田弘毅」でした。この方は、私が青年期に憧れた銀幕に映し出された演技上の《英雄像》とはまったく違った型の人で、畏敬の念を覚えさせられてしまったのです。もし十代のころに、この広田弘毅を知っていたら、きっと政治家を志していたのではないでしょうか。広田は、福岡市の東公園の近くにあった石屋の子として、1878年に生まれています。当時、石工の子が高等教育を受けることなど考えられなかったのですが、成績が抜群に良かったこともあって、進学の道が開かれ、第一高等学校から東京帝国大学法学部政治学科を経て、外交官試験に合格するのです。外務官僚となり、1933年に外務大臣、1936年、第32代内閣総理大臣に就任しています。この方を、一言の漢字で言い表すなら「潔(いさぎよし)」だと思うのです。総理退任後に、再度、外務大臣に就任した当時の、「南京事件」の責を負われ、東京裁判で、A級戦争犯罪人として、死刑を求刑され、1948年12月23日に処刑されたのです。
 
 東京裁判の顛末を、ウイキペヂアは次のように記しています。『広田は公判では沈黙を貫いた。弁護人の一人(ジョージ山岡)が統帥権の独立の元では官僚は軍事に口を出せなかったことを弁明した際にも、広田はそれ について語ろうとしなかった。外国人の弁護士と日本人の弁護士がついて「このままあなたが黙ってると危ないですよ。あなたが無罪を主張し、本当の事を言え ば重い刑になることはないんですから」としきりに勧め、同じA級戦犯の佐藤賢了も 同様に広田に無罪を主張するよう促していた。にもかかわらず東京裁判で広田が沈黙を守り続けたのは、天皇や自分と関わった周囲の人間に累が及ぶことを一番 心配していたからだとされる。広田は御前会議にも重臣会議にも出席しており、日中戦争が始まる時にも天皇を交えた話し合いがもたれていた。また広田の場合 は、裁判において軍部や近衛に責任を負わせる証言をすれば、死刑を免れる事ができた・・・・・広田は最終弁論を前に、弁護人を通じて「高位の官職にあった期間に起こった事件に対しては喜んで全責任を負うつもりである」という言葉を伝えている。また、判決が確定した後に広田に「残念でなりません」と語りかけてきた大島浩に対しては、「雷に打たれた様なものだ」と飄々とした表情で返答したという。』

 死に物狂いになって「言い訳」や「自己弁明」を繰り返し、責任回避や転嫁をした他のA級戦犯たちに比べて、「武士(もののふ)の魂」を宿した姿に、「潔さ」を覚えさせられてならないのです。掲げました写真は、求刑を泰然自若、真摯に聞かれる姿であります。辞世の句も詠むことも、残すこともなく、潔く責を負ったのであります。

 ああ、こういった日本の政治家こそ生き残られて、戦後の収拾に助言や忠告が欲しかったものです。広田弘毅の減刑嘆願に、かつての同僚・吉田茂が奔走したそうですが、その孫に当たる、麻生太郎総理もまた福岡県人です。支持率の低さにあえいでおりますが、ぜひとも日本の回生のために、日本と日本人が元気さを取り戻すために、粉骨砕身、鋭意努力で、国難に当たっていただきたいものです。字の読み間違で揚げ足取りをするような反抗勢力にめげずに、政に精進していただきたいのです。でも、おじいさんの真似をして、『バカヤロー!』だけは言わないでほしいですし、広田弘毅のように、「毅然」として、弁明などまったくしないで、歴史に名を残す優れた宰相でありますように!

 『・・・私たちが敬虔に、また、威厳を持って、平安で静かな一生を過ごすために・・』、選ばれ立てられた、一国の指導者のために、願い、感謝し、支持していく必要があるのではないでしょうか。そんなことを願う、春風駘蕩、百花繚乱の福州の卯月、四月であります。

(写真は、東京裁判で死刑判決を淡々として聞かれる広田弘毅元総理大臣です)

2009年3月31日火曜日

♯ ハッピー・バースデイ・トウ・ユウ ♭


 『・・・お母様は、あと半年くらい・・・・』と、母の主治医が私に告げました。家に帰って、父にその旨を報告をしたのです。父は、『そうか!雅、覚悟しような!』と言いました。もう四十数年も前の日のことになります。これは、婦人科の疾患で、腫瘍がみつかり、その摘出手術をし、『念のために組織検査をしてみましょう!』とのことで、その検査結果を告げるために、父が呼ばれたのですが、『雅、行って聞いて来てくれ!』と言われた私が、出かけて行って、聞いてきたときの話です。父ではなく、二十代前半の青臭い私が来たことに、怪訝な顔をした福島先生が、いわゆる「ガン告知」をされたのでした。聞いたとき後頭部を『ガーン!』と殴られたような感じがしたのを思い出します。

 ところが、半年どころではなく、病癒えた母は、あれから四十年も元気に過ごして、今朝、92歳の誕生日を迎えたのです。『誕生日おめでとうございます!』とカードを郵送し、誕生日を指定した「誕生メール」も送りました。そして今日は、学校から戻ってから、電話で、『お母さんおめでとう!』と伝えて、『♯ ハッピー・バースデイ・トウ・ユウ ♭』と、家内といっしょに歌ったたところです。格言に、

   『あなたの父と母を喜ばせ、あなたを産んだ母を楽しませよ!』

とあります。『寡黙で我慢強い 』と言われる山陰出雲で生まれた母は、まさにそういった気質の女性でした。父と出会って結婚に導かれ、私たち四人の男の子を産んでくれたのです。ガスコンロも炊飯器も洗濯機も水道も無い時代に子育てを始め、病む子を看病し、兄弟げんかを仲裁し、悪戯で呼び出されると謝りに学校や警察に出かけ、はらはらどきどきの連続の年月だったに違いありません。今は、すぐ上の兄の家で、愛され世話されて、元気に毎日を過ごしております。『食欲もあって、元気!』と、兄からたびたび連絡があり、『最近物忘れが・・・』とのメールもありますが、しっかり兄夫婦で面倒を見ていてくれますから、心配しておりません。遠く離れてしまった私は、孝行する機会が無いことを申し訳なく思うのですが、こちらからの思い以上に、病弱だった幼少期の私を忘れられない母にとっては、いままだ愚生、心配の種なのかも知れません。そのことを思い返しますと、「・・・自分の家の者に敬愛を示し、親の恩に報いる習慣をつけさせなさい。 ・・・」と言う勧告が思い起こされてまいります。

 『今のときを楽しく感謝して過ごしてほしい!』、そんな願いを海の向こうの母に、インターネット回線(スカイプ)を使って伝えてみたのです。これって、親孝行になりますよね。




(写真は、《「出雲の阿国」前進座劇場・公演》と、《紀行写真集・山陰》の「出雲・日御碕(ひのみさき)」です)

2009年3月29日日曜日

入笠山(にゅうがさやま)


 国道20号線を甲府から諏訪に向かって車を走らせますと、山梨県との県境を越えて長野県に入り、諏訪郡富士見町をしばらく北上しますと、左手に標高1995メートルの「入笠山(にゅうがさ)」が見えてきます。伊那市と富士見町に跨る山なのです。この山の頂上から、晴天の日の展望は、じつに壮観でした。東西南北、眺望が八方に開けているからです。これまで幾つもの山に登りましたが、この入笠山ほど遮蔽物が無く見晴らしのよい山は、他に類を見ないのではないでしょうか。その光景を、ことばで表現しても、写真で見てもらっても、十分に伝えられません。その頂きに実際に立って見回さないと実感がないのですから、表現のしようがないもどかしさを覚えてしまいます。秋だったのですが、大人と子ども10人ほどのパーティーで登山したのです。天候に恵まれて、それは感動的でした。秩父連邦も北アルプスも木曽の御嶽山も見ることができた、実に贅沢な登山だったのです。

 この山に一度で魅せられた私は、翌年の12月に家内を誘って、その登山計画を実行したのです。その日は晴れていましたが、2日ほど前に私たちの町では雨でした。『まだ雪にはなっていないだろう!』と思って、軽装で登り始めたのです。念のため、家内だけには、雪の滑り止めを携行していました。ところが、あの雨は、ここ入笠山では雪だったのです。登るに連れて、うっすらだった雪が足首を覆うほどになっていきました。『うぬ、だいじょうぶかな?』と思ったのですが、せっかく来た山でしたし、家内に頂上を見せたかったので強行したのです。スキー場の脇を上って行きましたら、不安が的中して、だいぶ積雪がありました。そうしましたら悪いことに、風が吹き始めたのです。雪の表を吹いて渡って来ますから、冷たいのと言ったら凍えそうでした。結局頂上行きをあきらめて、風をふさぐ小屋の影で、震えながら握り飯をぱくついたのです。早々に昼食を済ませて、下山することにしたのです。『林道を下ったほうが楽だろうね!』と、その道をとりましたら、ここも北側の林道には、20センチほどの積雪があって、なんと獣の足跡もあちこちにあるではありませんか。鹿だったら、仕方が無いかなと思いましたが、『熊が出てきたら、くまった(困った)ことになるけど、どうしよう?』という不安が込み上げてきたのです。駄洒落どころではなくなってきたのです。その林道の雪は20センチほどあって、ある箇所はアイスバーンで凍っていたのです。家内は、アイゼンの付いた滑り止めをはかせたのですが、滑り止めの無い私は、何度も何度も滑って転んで腰を打ってしまったのです。泣きっ面に蜂で、『初老の夫婦、遭難!』と言う、新聞の見出しがちらつくほどでした。

 こんな辛い山歩きは初めてでした。やっと駐車場まで降りましたら、もう陽が西に傾き始めていました。命からがらの山行きでしたが、再挑戦の思いはいまだに消えないでおります。いつか帰国したら、この宿題を果たさなければと思う福州の春であります。そこには、山や眺望だけではなく、湿原もユリも鈴蘭も蓮華つつじもあって、旺盛に自然が息づいているのです。

(写真は、《富士彩景画像掲示板》の入笠山から遠く望んだ富士山です)

2009年3月28日土曜日

期待の星


  日本に置いてきてしまい手元には無いのですが、小学校入学記念の一葉の写真が残っています。帽子をかぶり、下穿きの袋を右手に下げ、黒革のランドセルを背負い、紺の純毛の制服を着、編み上げの革靴をはいた、東京の麹町や世田谷あたりの都会の子どもの姿で写っているのです。私が入学したのは、山深い渓谷の高台にあった村立小学校でした。兄たちには用意しなかった一そろいを、日本橋の三越に特別注文して作らせて、送らせた物でした。なぜか父は、私を特別扱いしたのです。もちろん兄たちが小学校に入学したのは終戦後間もなくの国民学校でしたから、物資窮乏の時期で出来なかったこともありましたが。私が入学したのも、経済的には大変な時期であったはずなのです。ところが、入学する直前に、私は肺炎にかかってしまって、町の国立病院に数ヶ月入院してしまい、「入学式」に出ることが出来なかったのです。それは、父にとってはたいそう残念なことだったようです。それで父は、やっと病癒えて退院した私のために、写真屋を山の中に呼んだのでしょうか、用意しておいた一式を着せて、記念写真を撮らせたわけです。村長さん、駐在さん、郵便局長さんでも、これほどの豪勢な格好をさせた息子はいなかったのではないでしょうか。兄たちや弟には、申し訳ないのですが、父の「期待の星」であったことが分かるのです。

 私にも四人の子が与えられたのですが、誰一人、こんなに着飾って入学を祝って上げた子はいませんでした。私の時代とは比べられなく豊かな時代になっていたのにです。三番目の子には、従姉妹のお古のランドセルを使わせてしまったほどでした。特別扱いを受けた私は、我侭に育ってしまい、いまだに尾を引いて苦労をしているのですが、その反面、愛された子には、『父の特愛を受けたのだ!』と言う充足感があって、愛された者特有の質を、自ら感じているのですが、言い訳になるでしょうか。一方、結構雑に育ててしまった四人の子どもたちは、自立心に富んでいて、我慢強い人間になっているように、欲目で感じていのですが。

 そんな父でしたから、これまた一流大学で学ぶように期待したのですが、その期待も裏切ってしまったのです。結局、二流大学に入学した私が、卒業と同時に、ある職場に入学したときに、その職場の所長の家に、何故か父が一緒に挨拶に行ってくれたのです。その方は、早稲田大学の学科長をされていた、その道では名の知れた学者でした。その職場に就職したことを、父が大変に喜んでくれたからです。その挨拶がよかったのでしょうか、この所長が私に目をかけてくれて、出世(!?)コースのレールの上においてくれたのです。ところが、そういったことに頓着のない私は、またもや父を裏切ってしまって、流行らない仕事に転職してしまったのです。それでまたもや、父を裏切ってしまったのです。結婚相手にも、父なりの期待があったのですが、父の意には適わない女性と結婚してしまったのですから、更なる裏切りをしてしまったことになります。結婚式がすんで、二月ほどしたときに、父は入院先の病院で脳溢血を起こして亡くなってしまったのです。

 あれから、37年がたつのですが、もし今の私を見ることが出来るなら、きっと父は良い評価点をつけてくれるのではないでしょうか。素晴らしい妻を得、自慢の四人の子たちがいることも、きっと愛でてくれるに違いありません。名を成し、功を上げることはなかったのですが、父が青年の日に渡って、その血を燃やした中国大陸の一角で、自分の子の一人が今もなお夢を見ながら生きていることを知ったなら、『雅のことじゃあ、仕方ないか!』と認めてくれるに違いありません!また父の話になってしまいましたね。そういえば、この記念写真を撮ったとき、もう一葉、2歳違いの弟と手をつないで撮ったものがあります。彼も、革靴をはき、当時ではめずらしい色模様のセーターを着ているのです。まさに《都市型二兄弟》なのであります。

(写真は、《シオンサイトはてな》の「桜」です) 

2009年3月25日水曜日

『・・北に巡れる多摩の流れ・・』


 『南に仰ぐ富士の高嶺 北に巡れる多摩の流れ 教えの庭の朝な夕な 鏡と見まし山と川を・・・』、これは、わが母校の校歌なのです。校庭からは、毎朝、富士山を見上げることができましたし、町のはずれには多摩川の流れが豊かな水をたたえていました。特に夏場には、この川で水泳をしたものです。まだ学校にはプールがありませんでしたから、水泳はと言えば川泳ぎでした。橋の下に、「ナメ」と呼んでいました粘土質の箇所があって、そこにもぐっては泳ぐ魚を眺め、浮いては一休みするようなことを、しきりに繰り返していました。唇が真っ青になるほどに水遊びをしたでしょうか。もう少し下流に行きますと、すぐ上の兄が、『うなぎをとるんだ!』と言っては出かけて、わなを仕掛けた箇所があったと思います。時間がゆっくりと過ぎて行き、太陽がジリジリと音を立てて照り付けていたように思い出されます。泳ぎの帰りには、決まって、駅前の肉屋さんで、「ボンボン」と呼んで、ゴムの中に入ったアイスキャンデーを買っては、食べるのを楽しみにしていました。

 勉強のことは薄すらとしか思い出さないのですが、遊んだことの思い出は色濃く残っているのは、体一杯で遊びを楽しんだからなのでしょうか。兄にくっついて行くのですが、仕舞いには面倒くさがられて、結局は同級生たちとの遊びに代わっていったでしょうか。大きな川ばかりではなく、小川が縦横に流れていました。コンクリートで護岸されていませんでしたので、葦や水草の間にフナやザリガニや蛙や、蛇でさえも泳いでいました。靴を脱いで流れに入って、魚やザリガ獲りに夢中になっていました。田んぼには、蓮華が春になると一面に咲きだしていました。夏の夜には蛍も飛んでいたでしょうか。多摩丘陵の続きには、その高台に上る間に、林がこんもりと茂っていて、ジャングルごっこをするには十二分の広がりがありました。冬には、兄の作ってくれたそりで滑ったりもしました。また「里山」と呼ばれる藪が、あちこちにあったでしょうか。いろいろな虫がいて、木の実もありました。武蔵野の風情は、あたり一面だったのです。

 やがて高度成長で、田舎町に都市化が進み、都会に通勤する人たちの家が建ち始めていきました。宅地化が進むにしたがって、嬉々として遊んだ自然が後退して行ってしまったのです。もう今では、富士山も見えなくなってしまっているでしょう。多摩川も、鏡のような清流ではなくなっているでしょうか。でも、思い出が消えないでいるのは、感謝なことであります。子どものころの現実が、「思い出」に変わってしまって、二度と帰ってこないのは寂しいことであります。でも、いつか、そんな思い出のそこかしこを、孫たちの手をとって歩ける日を望み見て、今を生きることにしましょう!

(写真は、《多摩川の汽水域》の「多摩川の夕日」です)

2009年3月23日月曜日

父の腰から出たあなた


 『今日は何の日?』、と聞かれるなら、『父の誕生日でした!』と答えたいのです。父は、明治43年(西暦1910年)3月27日に、神奈川県横須賀で生まれています。海軍工廠の技官の家庭でした。この年の7月、「春よ来い」が掲載された、「尋常小学読本唱歌」が発行され、ペコちゃんポコちゃんで有名な洋菓子の「不二家」が東京に開業されています。そうですね、生きていたら、父は99歳の誕生日を迎えたのですが、38年前に召されてしまいました。

 この父の小学校時代の写真が、母の持っていますアルバムの中に残されているのですが、椅子に座る父親(私たちの祖父になりますが)のひざの間にいて、二人の男の子たちと一緒に写ったセピア色の写真です。絣の着物を着て、床の上にはだしでいるのです。実にやんちゃな顔をしていまして、見てすぐに父だと分かるほどです。祖父の顔を見ますと、髭をたくわえて和服姿なのです。『雅は、髭を付けたら俺の親爺にそっくりだ!』と、かねがね言っておりましたから、父に言われるまでも無く、写真の祖父の面影を受け継いでいるのが自分でも分かったほどです。残念なことに、この祖父に抱かれた記憶はまったくないのです。

 『雅ちゃんは、お父さんの腰から出たあなたなのですから!』と何度か母が言っていたことがありました。その意味は、《あなたは、お父さんの良いものを受け継いでいるのですよ!》と言うことに違いありません。旧制の横須賀中学校に入学をし、途中で、東京大田区の私立中学校に転校して、品川の親戚の家から通ったと聞いています。どうも家庭の事情があったようですが。そこから秋田鉱山高等専門学校(現・秋田大学鉱山学部)に進学したのです。ですから父の職歴は、少なくとも、戦争が終わるまで、奉天(現・瀋陽)や京城(現・ソウル)や山形や山梨と、鉱山関係の仕事に従事していたのです。そういえば、父の書庫には、鉱山関係の本が何冊もあったのを覚えています。戦争後は、都会に出て、いくつかの会社と関わって、私たち4人の男の子を育て上げてくれたのです。

 その父は、『俺は何も残さないが、教育だけは受けさせてやる!』と言って、大学に行かせてくれました。《後は自分で生きていけ!》と言う思いを込めてだったようです。それで4人とも、堅実な仕事をえて、家庭を設けることが出来たのです。子煩悩な父でしたから、父に自分の子を抱いて、祝福してもらえなかったかったことが、至極残念でなりません。急逝した父は、まだまだ顔の色艶のよかった61歳でしたから、その頃の父を見て、『親爺って、ふけて見えるよな!』と兄や弟と言い合っていたのに、みんな父の召された年齢を越えてしまって、「弟のような父」を写真の中に眺めて、面痒くてならないのです。そう、もうひとつ残念なことがあります、親孝行が足りなかったことです。福州の隣町の「永泰(yong tai)」には、温泉があると聞いていますが、連れて行って一緒に湯につかって、背中を流してあげることが叶わないのです。しかし方法があります。父に連れ添って、父の子を宿して産んでくれた母に孝行をすることです。おりしも、5月の黄金週間に、弟が母を車椅子に乗せ、リュックに母の着替えを入れて、羽田から飛び立って、母の生まれ故郷を訪問する計画を立てているのです。『最後の親孝行をするんだ!』と言っておりす。一緒に行きたいのですが!

    「あなたの父と母を敬え」

(写真は、明治44年の京急六郷大橋《京浜急行100年の歩み》、川は多摩川です)

2009年3月20日金曜日

『今日は春分の日ですね!』


 『今日は春分の日ですね!』と、学生に言われて、『あっ、そうだったね!』と答えたのですが、すっかり忘れていました。今日は日本ですと旗日で休日だったのですね。愛読していますブログには、『東京湾に近い都立猿江恩賜公園の櫻の蕾は数日で2倍に膨らみ、先端は緑色になった。週末か来週初めには開花するんじゃないか (18日)」とありましたから、また一段と膨らんでいるのではないでしょうか。こちらでも、街路樹の木々に赤やピンクや紫色の花が、いっせいに咲き始めています。日本ですと、徐々に、段々といった感じなのですが、いっぺんに咲き出す様子には、まだ慣れないでおります。真冬だって草が枯れてしまって、木の葉がまったく落ちてしまう冬枯れがなく、いつも通る路沿いには、ハイビスカスの花が咲いていますから、季節感に戸惑いを覚えてしまうのです。

 滝廉太郎が作詞しました「春」には、

春のうららの隅田川 のぼりくだりの船人が
櫂のしづくも花と散る ながめを何にたとふべき

見ずやあけぼの露浴びて われにもの言ふ桜木を
見ずや夕ぐれ手をのべて われさしまねく青柳を

錦おりなす長堤に くるればのぼるおぼろ月
げに一刻も千金の ながめを何にたとふべき

とあります。「うららの春」とは、「麗(うら)らかな」と言うことばなのだと思いますが、長閑(のどか)で、揺蕩(たゆた)うとしている季節感なのでしょうか。うーん、それは四季の移り変わりがはっきりしている日本で、春先に感じることのできる「感覚」なのですが、眠気を誘ういまどきに違いありません。『春を見つけに行ってきます!』と出かけて行った子どもたちが、手に手に、野の草や花を握って、『春を見つけてきたよ!』と勇躍帰って来た日々が思い出されます。「・・・げに一刻も千金の ながめを何にたとふべき」、さて、何にたとえたらいいのか、辺りを見回すのですが、あの繊細な季節の動きを見つけることが、ここ福州でも出来るのでしょうか。国土が広大なので、自然も大きく大らかなのですが、「時に感じて 花にも涙を濺(そそ)・・・<杜甫・春望>」いだ詩人のような目さえあれば、きっと見つけられるのではないでしょうか。

 「見なさい。農夫は、大地の貴重な実りを、秋の雨や春の雨が降るまで、耐え忍んで待っています 」

(写真は、《DISCOVER TOKYO》の「菜の花」と「桜」です)

2009年3月16日月曜日

大の字に畳の上で寝転んでみたい!


 『日本の家は木や草や紙で作られていて、実に粗末なものだ!』と言われてきましたが、本当にそうなのでしょうか。レンガや石を積み上げた家に比べたら、火や洪水に耐える力は弱いに違いがありません。ところが、木や紙がもっています材質の柔らかさは、じつに人にも自然にも優しい細やかさにあふれているのではないでしょうか。そんな繊細さを持っている家屋は、世界のどこにも見当たりませんね。一間六尺(1.8m)の寸法で、家のすべてが規格どおりに作られていて、五尺の人の身丈に、長すぎず足りな過ぎないことに感心させられてしまうのは、私だけではないかも知れません。

 通りと隔てた戸をあけますと、玄関までは石畳が敷かれてありました。玄関は、客人を歓迎する気持ちを表していて、玄関の「三和土(たたき)」に立ちますと、そこは広すぎず狭ますぎず、立って頭を下げ合いながらの挨拶を交わすには、程よい広さなのです。視線を横に向けますと、よく磨かれた廊下があって、ガラス越しに庭が見えます。靴を脱いで上がり、廊下を通って、右手の障子を開けて客間に入りますと、きめ細かな波のような井草表(いぐさおもて)の畳が敷かれてあります。新しい井草表の畳は、気を落ち着かせるに程よい「草の香」を放っていました。八畳ほどの畳の部屋は、縦横に上手に畳が組み合わされてあるのです。部屋と部屋は、襖で仕切られていて、大人数の来客のときには、それを外しますと、十人でも二十人でも容れることの出来る大広間になってしまうのです。襖の上には長押(なげし)があって、その上には双方の部屋が、決して密室ではないことが分かるように、明り取りや換気の用を果たす飾木工の「欄間」がありました。ほどほどに二間を分けてあったのです。

 客間の奥には、横六尺、奥行き三尺ほど(畳一畳分でしょうか)の「床の間」がありました。そこには、毛筆の字と画で書かれた掛け軸があって、磨かれた「黒平水晶」の置物があり、一時は、刀を置くための鹿の角もあったと思います。家を越すたびに、父が大切にしていたものが一つ減り、二つ減って行ってしまったのですが、どこに行ってしまったのでしょうか。物に執着心のなかった父のこと、どなたかに差し上げてしまったのでしょうか。そんな床の間の光景もよみがえって参ります。  

 我たち兄弟は男の子四人でしたから、相撲や喧嘩で、障子も母が張りなおせば破り、襖の芯は折れ、畳は擦り減り破れていました。まあ育ち盛りでしたから仕方が無かったかも知れません。今日日、私のひとつ二つの願いは、そんな部屋の畳の上に、大の字になって寝転がって、天井をじっと眺めてみたいのです。それは贅沢でしょうか。障子の和紙を透き通って射し込む陽の光が部屋全体に広がっている、そんな風に寝転んでいたら、『雅!』、『雅ちゃん!』と呼ぶ父や母の声が聞こえてきそうですね。また、廊下の先の奥の風呂場にある、「檜(ひのき)」造りの風呂桶に、井戸で汲んだ水を張って、薪(まき)で炊いた湯に、「檜」の香りをかぎながら、湯気が立ち上る湯に肩までつかって、「赤とんぼ」でも歌ってみたいものです。『湯加減は、どう?』との母の声も聞こえることでしょうか。

 このような「和風建築の美」というのは、世界に誇ることの出来る日本独特の文化や芸術に違いありません。日本人の心、また美意識を育て上げてくれた極上の文化に違いありません。そんな伝統や文化を再評価し、感謝し、誇りたいのです。あ、忘れていました。もうひとつ「押入れ」がありました。そこには、家族みんなの盛りだくさんの懐かしい思い出が仕舞い込まれているはずなのですが。




(写真は、HP《★和室 1024 x 768》の「和室」です)

2009年3月14日土曜日

霞浦


 「潮騒」は、潮が満ちて、波が寄せて来るときにたてる音のことですが、片瀬江ノ島の西海岸や湯河原の吉浜海岸や九十九里海岸で聞いた、その音が、とても懐かしく思い出されてまいります。この潮騒は、オレゴンのコーストでも、ここ福建省の長楽の海岸でも、日本語の波の音も、英語や中国語の波音も無く、同じ音であることに気付くのです。当然ですよね。

 福建省の北、浙江省(ZheJiangShen)に接したところに、「霞浦(XiaPu)」と言う町があります。最近、この「霞浦」の海岸線を写した数葉の写真を見たのですが、その美しさに魅せられてしまったのです。残念ながら静止画像ですので、潮騒を聴くことができないのですが、「波頭の煌めき」と言うのでしょうか、波頭に夕日や朝日が当たって、まるで音を立てながらキラキラしているように、目に飛び込んでくるのです。こんな美しい海岸線の写真を、これまで見たことが無いからです。とっさに、『行って観てみたい!』と思わされました。そして、この春節にシンガポールに行きましたときに、次男からもらったデジタルカメラがありますので、それを持って行って、日の出から日没まで、月があったら月明かりの下でも、写真を撮ってみたいと思わされてしまったのです。

 去年の春、一台のマイクロバスを借りて、30人ほどの親しい仲間に加えてもらって、福州の隣町・長楽に出かけました。そのとき、海岸まで足を伸ばして、波遊びをしたのです。そこの海岸線は、山が迫っていて、すぐに海岸のような日本のようなものではなく、とてつもなく広がっていて果てが無いといった感じでした。『813路のバスに乗って白湖亭に行き、そこから江田镇行きか下沙村行きのバスに乗ったら行けますよ!』と教えてもらったのですが、まだ行く機会を得ていません。ところが、今度は、「霞浦」の景色に見せられてしまったわけです。写真で見た限りですが、「霞浦」のほうが、さらに広大で変化に富んでいるように思われるのです。




 きっと車があったら、飛び出してしまっていることでしょうね。山奥で35年ほど過ごしておりましたときに、『海が見たい、このまま静岡か新潟まで行ってみたらいい!』と誘惑に駆られることしばしばだったのを思い出すのですが。なんだか、そんな気分の三月の半ばであります。何時行けるでしょうか。

(写真は、福建省寧徳市の「霞浦」です)

2009年3月11日水曜日

「女・弁慶」


 京の五条の大橋で、牛若丸と刃を交えたのが、「弁慶」でした。それを機に、弁慶は生涯、この牛若丸(後の源義経)を主君として仕えるのです。兄頼朝と対立した義経が都落ちをするのに同行します。山伏姿に変装しての旅が有名なのですが。加賀の国・安宅の関を通過するとき、役人(富樫という名)に見咎められるのですが、「勧進帳(かんじんちょう)」を読み上げて、疑われた義経を、『お前が義経に似ているからいけないのだ!』と言いながら、金剛杖で打ち据えます。それをみていた富樫は、その嘘を見破りながらも、彼の主君思いに感動し、あえて騙された振りをするのです。それで、義経一行は無事に関所を越えて奥州(今の岩手県)の平泉の藤原秀衡の世話になります。秀衡が亡くなって、子の泰衡の代になったとき、頼朝を恐れるあまりに泰衡は、衣川で義経を討ってしまうのです。その戦いのとき、弁慶は、薙刀を振るって義経を守るのですが、敵の放つ矢を受けて立ったまま死にます。いわゆる「弁慶の立往生」と言われるくだりです。死んでもなお、主君を守りつづけた弁慶は、「忠臣」の誉れが高いのです。

 これが、子どもの頃に聴いたり、読んだりした話です。史実とは、いささか違うようですが、歌舞伎や能で演じられた内容、伝説でしょうか。この弁慶は、「弁慶の泣き所(ぶつけると弁慶でさえなくような痛さの向こう脛のこと)」とか「内弁慶(外では意気地が無いけど、家の中では弁慶のような強さを表すこと)」と言う諺にもなっている人物です。

 私の孫が、家の中では元気なのですが、見知らぬ人の中にいると人見知りしてしまうのだそうで、『○○ちゃんは内弁慶!』と娘が言っていました。ところが、先日送ってきた動画によりますと、プールに精一杯に水しぶきを上げて飛び込むのです。何度も何度も繰り返してです。女の子なのですが。どう見ても「女・弁慶」に見えるのですが。

(写真は、五条大橋の「牛若丸と弁慶」です)

2009年3月10日火曜日

『その子たちは立ち上がって、彼女を幸いな者と言・・・』


 『なんて愚図なの、まったくお父さんに似て!』と言う出来るお母さんと、そう言われてしまう出来の悪い息子のお話です。『自分に似てくれたらいいのに!』と思ってみても、子どもというのは、父親の良い点と悪い点、母親の長所と短所とを、それぞれ4分の一は受け継いでいるのですから、おっとり構えた、機敏性に欠ける「牛のような子」には、ほとほと嫌気がさして、頭を抱えて悩むお母さんが、意外と多いのではないでしょうか。男だったらお父さんになれるのですが、女に生まれたのですから「お母さん」をしなければならないのですね。

 そういう何人かのお母さんに、これまで会ってきました。頭の回転が速いので、子どもが考える前に、先を読み取って指示を与えてしまうのです。子どもには頼りがいがあるわけです。ところが子どもが幼くて小さなときは、それでもよいのですが、思春期の危機に突入した子どもは、お母さん抜きで行動しようとの《自立心》が芽生えてくるわけです。でも、自立の訓練の時期を得ていませんので、願いと現実のはざ間で迷って困惑し混乱してしまうのです。それで登校拒否や家庭内暴力や非行の路に入っていく事例が多いのでしょう。お母さんのテリトリーから抜け出した息子の別の問題で頭を抱えて、お母さんがやって来られたのです。

 私の母親は、そのようなお母さんのように賢くなかったので、ただほど良い距離から四人を見守り続けていたようです。『いつでも困ったら帰っておいで、あなたのいられる場所を残してあるからね!』と思いながらでしょうか、ただ愛だけを注いでくれたのです。糸の切れた凧のように、虚空を彷徨って苦悶していた青春真っ只中の私を、何かに任せていたのでしょうか、あわてなかったのですね。時期が来て、母港に帰還する船のように、出来の悪い息子は戻ることができたのですから。「彼女は家族の様子をよく見張り、怠惰のパンを食べない・・・」、そんな母に向かって、「その子たちは立ち上がって、彼女を幸いな者と言・・・」うのですが、そう言わなければならないのは、この出来の悪い息子の私であります。

(写真は、《春日部大凧あげ祭り》の「大凧」です)
 
 
     

2009年3月8日日曜日

黒猫と三毛猫との別れ


 「タッカー」と「スティビー」、二年半前まで、我が家で飼っていた猫の名前です。飯田の街角の捨て猫を、次女の主人が拾って飼っていた猫でした。最初の年、オスの黒猫、次の春にメスの三毛猫に出会って、『ニャーン!』と呼びかけられて、ニャンともしがたく抱き上げたのだそうです。そう、やさしいのです。二年の予定で、次女夫婦は、県立高校の英語の補助教師(JETプログラム〈The Japan Exchange and Teaching Programm「語学指導等を行う外国青年招致事業」〉で来日)を始めたのですが、県教育委員会に頼まれて、もう一年を南信濃で、働いていたのです。日米のマネージメントの違い、教頭や教科主任などの在り方、生徒や教科指導の違いなどに悩まされながら、それでも日本方式への理解を深めた三年だったようです。

 生徒たちの訪問、同僚の先生たちとの付き合い、食事に招いたり招かれたりの交流、大鹿村の伝統歌舞伎の鑑賞、地域の人たちとの接触など、多くの異文化体験で忙しく過ごした年月でだったようです。特質すべきは、彼らの長男が飯田市立病院で生まれたことでしょうか。私たちにとっては初孫になりますが。私が大ケガの手術とリハビリを経て、病癒えて、初めての家内ととも旅行をして、熊本に友人を訪ねたときでした、『お父さん、男の子が生まれました!』と次女が、新しい命の誕生の喜びを知らせをくれたのです。その孫の誕生は、ケガで落ち込んでいた私には絶大なる励ましでした。

 その次女夫婦が飼っていた二匹の猫を、帰国する彼らが連れて行けなくて、私たちが引き取ったのです。私は犬好きで、根っからの猫嫌いでした。ところが次女が連れて来ている間に、嫌いな私が猫好きに変心してしまったわけです。次女夫婦や孫が可愛いように、猫たちも可愛くなったのですから、不思議なものですね。

 今度は、私たちが日本を離れて、中国に行くことになってしまったのです。『タッカーとスティービーをどうしよう?』と言う大きな課題に直面したのです。やむなく、愛護センターに連れて行き、実に悲しい別れをしてしまいました。その二年半前の大きな犠牲を思い返していますと、隣家の三毛猫が、私を見ては、『ニャーオ!』と鳴くのです。私たちの今を知ったなら、二匹は赦してくれるに違いありません、きっとそうですよね・・・ねっ!

(写真は、《心葉スケッチblog》の「黒猫」です)

洗濯物


         とぼとぼと犬の歩みや梅雨の入り  木津克司

 『春が来た!』と思って喜んだのですが、束の間の喜びで、『おー寒い!』と昨日は、ついつぶやいてしまいました。寒いときは《覚悟の寒さ》で、寒さを受け入れられるのですが、『わーっ暖かい!』と感じた矢先の《油断の寒さ》は、期待外れで厳しさを感じてしまいます。『洗濯物が乾かないの!』と、家内が窓から空を見上げて言っていました。結局、部屋の中に紐を張って、そこに洗濯物を干して、ストーブをつけて、扇風機を廻して、一室を「乾燥室」にしているこのごろです。

 私のアメリカ人の師は、日本に長く住んで、日本で亡くなり、日本に埋葬された親日家でした。この方と一緒に七年間の交わりをしたのですが、日本家屋に住んでいて、『僕と弟の遊び部屋は、この家よりも大きかったよ!』と言っていたことがありました。アメリカの南部の豊かな家庭で育った彼が、日本での生活の不満を語ったのではないのです。正直で率直な印象でした。その彼が我が家にやって来て、部屋の中に干してある、子どもたちの洗濯物を見上げて、『これってアメリカの家庭では見られない光景・・・貧乏の象徴なんです・・・・』と、つい口を滑らせていました。悪意は無かったのです。日本の住宅事情、4人の子供という家族事情、梅雨といった気候事情、そして当時の経済事情、そういったことを考えますと、我が家としては仕方の無いことでした。

 華南地方の雨季、日本に住んだ経験のある友人たちは、「梅雨」だと言われるのですが。弥生三月の日本は、一雨一雨暖かくなって行くのですが、ここ福州の雨の三月は、冬を思わせる日が続いております。『今月いっぱいは、こんな状況でしょうね!』と友人が言っていました。それでも晴れる日は、夏を感じささてくれますから、それを楽しみに、日本で感じた「梅雨」とは趣の違う、福州の梅雨を感謝しないといけないのでしょうね。この雨が、田畑を豊かに実らせるのですから。

(写真は、HP《トレッカ通信ブログ》の「梅雨空」です)

2009年3月6日金曜日

お茶目な母



 母の面倒を看てくれている兄からの連絡に、『このところ物忘れをするようになった!』とありました。うーん、元気で若かった母の印象が強いので、ちょっと意外な感じがしますが、今月の31日で、92歳になろうとしているのですから、ある面では当然なのかも知れませんね。中学の私の同級生の親が、医者やJRA調教師や社長だったりでした。負けず嫌いの母は、父兄会に来るときには、彼らのお母さんに《ライバル意識》を燃やす、そんな茶目っ気もありました。大人になった私との談笑の中で、そう懐かしく漏らしたことがありました。

 駅前の目抜き通りに「時計屋」がありました。道路に向かって座って仕事をしている店主が、仕事三分の一、外見三分の二ほどだったでしょうか。このおじさんと、歩いている母が視野に入る位置に私がちょうどいたのです。このおじさんは、母に眼を釘付けにして首を廻しながら鼻の下を伸ばしていたのです。見たくて見ていたのではなかったのですが、『へえ、お袋ってそうなんだ!』と新発見したのが中学の日でした。「今市小町」の異名をとった娘時代があったそうですから(母の親友に聞いたのですが)、こういったことも、『さもあろうかな!』でありました。

 市の老人学級への参加を渋る母を、強いて兄夫婦が行かせているのですが、その日の前日には、決まって美容院に行くのだそうです。「女」を忘れないでいる気丈夫な母を知って、安心したり、心配したりであります。生まれて関東大震災の揺れも感じた山陰出雲、新婚時代を過ごした松江や京都、戦前戦中に父に従って住まいを変えた京城(ソウル)・山形・山梨、四人の男の子を育て上げた東京都下の三つの町、今日日、様々に思い返していることでしょうか。

(写真は、今日の「松江市内」です)

2009年3月2日月曜日

『これ(東海道新幹線)こそわれわれが求めている速さだ!』



 12年ほど前になりますが、広東省の省都・広州を観光で訪ねたことがありました。街中に活気が溢れていて、道路が掘り起こされ、ビル工事が街中で進められていました。そして町の中心に、大きなポスターでしょうか、巨大な看板が掲出されていました。それは第五代の総書記をされた、邓小平(Deng Xiao ping)氏の大きなと顔写真だったのです。召されてもなお、中国国民に絶大な人気があることがうかがえ、それに応えた微笑みがこぼれていました。




 1978年10月に、中日友好条約の締結を記念して、中国の指導者としてはじめて日本を訪問されたのが、この邓小平氏でした。彼が始めた「改革開放政策」によって、中国の国力は驚異的に増強しており、その政策に一石を投じたのが、このときの日本訪問だったようです。敗戦国日本が、わずか7年余りで経済水準を戦前の最高水準にまで回復させ、わずか25年で世界第2位の経済大国となった様を見て、邓氏は賞賛を惜しまなかったようです。新幹線で京都訪問をしたときには、その速さに驚嘆されたのです。その訪問について、『私が今回日本に来たのは、日本に教えを請うため・・・科学技術の発展における日本の進んだ経験を持ち帰りたい!』と語られたのです。かつての敵国に学ぼうとされた寛大さや謙遜さには、感謝を覚えさせられてなりません。




 昨年秋、改革開放30周年記念の「京劇公演」が福州の「鳳凰劇場」の舞台で行われていました。『今回の訪日で現代化とは何かがわかった!』と言われた邓氏の現代化政策の現れでもある中国の伝統芸能の鑑賞会にお招きいただいたのです。日本の戦後復興のためにアメリカの後押しがあったように、中国の復興と発展のために、日本が協力できたことを思い返して、初めての京劇に感動を受け、広州の街中で見上げた邓氏の笑顔を思い出していた私に、晩秋の福州の月が微笑んでくれたように感じた宵でした。

(写真は、子ども〈孫?〉と談笑している「邓小平総主席)、HP《新幹線 無料壁紙》 の「東海道新幹線」、鳳凰劇場で昨年末上演された「京劇」の一コマです)

2009年3月1日日曜日

『おんもへでたいと・・・』


 心がウキウキしてきたと思ったら、やはり今日から「弥生」三月なのですね。それでも先週、四川省では大雪だったと聞きました。今時の中央道を東京に向かって走っていますと、冬枯れでまったく葉を落とした梢に、葉の芽でしょうか、花芽でしょうか、膨らんでいるのがわかって、日を追うたびに重量感の増し加わるのが感じられたものです。ここ福州は亜熱帯ですから、完全に木々の葉が落ちませんし、花だって咲いています。冬枯れの実感なく春を迎えることになります。家の前の通りを「進歩路」と言うのですが、大木が路側に植えられていて、風が吹くたびに、その木々の葉が雨の様に舞い落ちていたのは2週間はど前だったでしょうか。一年中、落葉と芽吹きを繰り返しているのです。それもまた春到来の準備なのかも知れません。

 昨日、15人ほどが集まって談笑している間に、『暖かくなったらピクニックに行こう!』と言う話になって、あちらこちらの候補地があげられていました。みなさん学生ですから、『一泊できて泳げるところに行こう!』という話になりました。私たちは、友人の誘いで、一つの計画があるのですが、『重ならないといいんだけど!』と思っているところです。
 窓から空を見上げますと、どんよりと曇っていて、今にも降りそうな素振りが感じられます。それでも「爛漫の春・三月」に、心は浮き立つのかも知れません。何十年となく繰り返して体感してきた感覚と言うのは、一向に衰えることなく、鋭敏になっていくのでしょうか。「農夫は、大地の貴重な実りを、・・・春の雨が降るまで、耐え忍んで待っています 」、農夫でなくとも、やはり春待望は万人の願いなのでしょう!

 『はるよこい はやくこい あるきはじめた みいちゃんが
  あかいはなおのじょじょはいて おんもへでたいと まっている』 

(写真は、HP《ぶっこのぷぷっっ》の「草履・じょじょ」です)

2009年2月25日水曜日

『生きているって素晴らしい!』



 最近、実に感動的な一枚の写真を見つけました。これは、オーストラリアの消防隊員が、山火事にあったコアラに、ペットボトルの水を飲ませている一コマです。火の中を逃げ回って、ノドがカラカラなコアラを見付けた彼は、自分の飲み分を与えたのでしょうか。彼の眼差しがなんとも暖かいですね。座っているコアラの前足を握っている手の温もりが、なんとなく伝わってきて、私の手でそれが感じられるようです。水を受けるコアラも、人の子のように、愛情に甘え、応答しているではありませんか。悪びれずに、任せ切っているのです。

 森林に火をつける者も、火事場に入り込んで物を盗むけしからん輩だっている世の中で、こんな光景に接してしまうと、『生きているって素晴らしい!』と感じてしまうのです。コアラの前足は、火傷を負っていたそうで、それを優しく握っているのですね。給水をしているのは、デヴィッド・ツリーさんというボランテア消防士です。三本のペットボトルの水を飲んだコアラは、順調に快復しているとのことです。

含羞草



 勢いのある夏草や、きれいな色彩の派手な花が好きだったのに、年を重ねたからでしょうか、好みが変わってしまったようです。最近、関心を向けているのが、「含羞草」と書いて《おじぎそう》と読む草です。ちょっと触れたり、大きな音の響きを感じますと、『シュン!』と葉を縮めてしまう草なのです。

 苔玉店店長さんが、『日々成長し、明るくなると葉が開き、暗くなるとまた閉じて、まるで人間の生活と同じですね。またデリケートなので、雨や人の手などで触って刺激を感じると、葉はシューっと閉じられてしまい、首からうな垂れていきます。その礼儀正しさは見習わなければなりませんね! 』と仰ってます。草にも礼儀の正しいものがあるのには驚かされるのですが、この「含羞草」は、《羞かしがり屋》に違いありません。さらに遠慮深くて、周りのことに気を配るような、そんな草に違いありません。賑やかなサンバのリズムが響くブラジルが、原産なのには驚ろかされますが、クラッシク音楽を好む方もおいでなのです。 この草は「眠り草」とも言われるのですが、まるで遠慮深い日本人でもあるかのようです。




 家内の上の兄が、そのブラジルのサンパウロの近郊に住んでいて、一週間ほど滞在したことがあります。物静かで、いたわり深く、旅の途上の私に、何くれとなく心配りをしてくれたのです。18で、「あるぜんちな丸」に乗って農業移民をしたのです。一緒に胸を膨らませて行った仲間の自死に直面し、その彼を泣きながら葬ったこともあったそうです。旱魃で収穫がなく、食物にも窮し、人に裏切られ、夢破れるような挫折の中から、すっくと立ち上がって、まあまあの身代を築くことができたのです。妻をえ、3人の子を養い育て、自立させた50年の歳月だったようです。なぜか、この義兄が、この「含羞草」のように思えてならないのです。秋には、小さな淡い桃色の花を咲かせますから、ほどほどに茂って、ほどほどに咲いて自然を彩り、そっと散る、そんな草なのであります。義兄は、今、静かな日々を迎えて、ふるさとや来し方を思い返しているのでしょうか。

      中庸(ちゅうよう)を正しく生きて含羞草   紫野

(写真は、blog《苔玉店》の「含羞草」、HP《季節の花300》の「含羞草の花」です)

2009年2月22日日曜日

「ハインリッヒの法則」の証明



  『健康のためには、自動車よりも自転車がいい!』とのことで、近所に出かけるときは自転車に乗っていました。ある時、道沿いにあるハンバーガー・ショップの中の様子を、首を右に振って見ていましたら、急に電信柱がぶつかってきたのです。漫画では、火花が描かれる画面ですが、まさにその通り、痛打した目から火花が放たれたのです。また、歩道を越えようとして、上手に乗り上がれなくて、横転して、しこたま痛い目にあったことも、何度もあります。そういったことを子どもの頃から繰り返してきました私は、『いつか大きな怪我をするかも知れないけど、なぜか守られている!』と自負していたのです





 『一件の重大な事故が発生する背後に、29の小さな事故があり、そして300のヒヤッとする経験がある!』と言う法則があります。アメリカの損害保険会社の事故調査副部長だったハインリッヒが、統計学的に調査して、1929年に発表した結論です。歩き始めてから、ヒヤッとしたことは、300回ではなく、30000回ほどあったのではないでしょうか。擦りキズや手キズや脛のキズなど数えると、300ヵ所ほどは優にあるに違いありません。とくに手キズは、傷の上に傷が残っているほどです。




 2005年の2月、ある朝の未明に自転車に乗って家を出たのです。坂が下っていた道路の左端を走っていて、向こう側に渡ろうとしていたのです。前方から来る車のライトが目に入りましたから、早く渡り切ってしまおうと、急いで横切り、歩道を越えようと思いました。そうしましたら、自転車では越えられないほどの高さの路側帯にぶつかって、自転車から思いっきり弾き飛ばされてしまいました。その直後に車は通り越していたのですが、幸いにも私は、道路側ではなく、歩道側に投げ出されて、輪禍にあわずにすんだのです。ところが、打ちつけた右腕が上がらないのです。医者に行きましたら、「右腕の腱板断裂」とのことでした。




 まさに、「ハインリッヒの法則」を身をもって証明してしまったのです。ただし、100倍ほどのヒヤッとした経験、10倍ほどの小事故に遭っていましたから、確率的には低かったわけです。『雅仁、いつか大怪我をするから、注意深くするんだ!』と、母親や父親からではなく、過去の経験が忠告していたのですが、注意が足りなかったのでしょうか、そんな結末を迎えてしまったのです。でも、手術と入院生活と長いリハビリで、ボールが投げられ、重いスーツケースを下げて旅行できるように快復いたしました。父にも兄たちにも友人たちにも、『おっちょこちょいの雅仁!』と言われ続けてきましたが、幾つになっても直らないには閉口します。きっと母に似たのでしょうか。母は、去年の暮れに「肋骨」を骨折したのです。91才でした!う~ん、これからが、なおなお心配です、母も私も・・・。

(写真は、福州の街中を40キロ以上で疾走する「電動自転車」、HP《団塊Jr黙示録》の「ハインリッヒの法則の図」、HP《福岡県星野村》の「天文台」、HP《大阪府交通対策協議会です) 》の「自転車」です)

2009年2月21日土曜日

『父母を父母として遇する!』



 子どもの頃、父も母も親戚付き合いは、多くはありませんでした。それでも母の故郷・山陰に旅行をしたり、父が中学時代に身を寄せていた大森の親戚の家などを、みんなで訪ねた記憶があります。もっと、足しげく行ってみたかった父の三浦半島の生家には、父の継母の葬儀の折に、父に付き従って訪ねただけでした。なぜか、父は、兄たちではなく三男の私を連れ出したのです。もしかしますと、私が父の父似だったからかも知れません。

 父に愛され、期待された息子だったのですが、応えることのできなかったことは、私の悔いのひとつであります。もう何十年も前からですが、父の生まれた町、通った東京や秋田の町、若い一時期を過ごした遼寧省の瀋陽(父の時代は《奉天》と言っていましたが)、朝鮮半島の京城(ソウル)、そういった町々を訪ねてみたい思いが強くあるのです。




 父は61の誕生日を過ぎて間もなく、入院先の病院で、脳溢血を起こして召されたのです。父の退院する日の朝、唐突に、父との別れが訪れましたから、ことさらに父とのつながりを確かにしてみたい思いが強いのかも知れません。幾つになっても父は父なのですね。『父は、父なるが故に、父として遇する!』と言うことばを聞いたときから、父への敬意、感謝の足りなかった私は、そういった思いが募るのでしょうか。いまだに健在な父の連れ合いであった「母」に、その思いを向けたらいいいのでしょう。来月、92歳になる母ですが、兄によりますと、食欲が旺盛なのだそうです。散歩を嫌って、近くのドラッグストアーに入り込んで、時間潰しをする茶目っ気たっぷりの母であります。『母は、母なるが故に、母として遇する!』も然りであります。う~ん、元気だったときの、父の颯爽とした姿や、甲斐甲斐しく世話に励んでいた日の母の姿が、目に浮かんでまいります。

(写真は、HP《ぐるめ・あいとっと》の「横須賀海軍カレー」、HP《旅スケ》の「山陰・出雲の夕日」です)

2009年2月19日木曜日

一兵卒の愛



 この「春節」の休みに、シンガポールに参りましたが、滞在期間延長のため、一旦、シンガポールを出る必要があって、マレーシアのジョホール・バルにつれて行ってもらいました。そのとき、日本軍が、タイから南下して来て、この街を通過して、シンガポールを陥落したことを思い出したのです。

 その街の中心に、日本のジャスコの店舗が、まるでお城のように夜空に向かってそびえていました。『ジャスコはマレーシアに30店舗あるんです!』と聞いて、スーパーマーケット業界の東南アジアでの躍進と、《マレーの虎》と言われた山下奉仕文の侵攻とが、ダブるようにして感じさせられたのです。

 そんな戦時中、南方の島に進駐していた日本軍は、アメリカ軍の攻勢で撤退せざるを得なくなって、島を捨てて飛行機で逃げ出したのだそうです。将校と兵士はみな、飛行機 に分乗できましたが、看護婦さんの乗る余地がなかったのです。結局、『仕方がないが、看護婦は残して行こう!』と言うことになったのだそうです。その時、茂木一等兵という人が、『私は乗らなくてもい いから、ぜひ看護婦さんたちを乗せて行ってくれ!』と叫んだのです。それで、茂木一等兵が残り、代わって看護婦を押し込めるようにして、飛行機は飛 びたったのです。これは、この様子を目撃した人の証言であります。

 その茂木一等兵の消息は、そのまま不明で、南の島でいのちを落としたようです。このような名も階級もない一兵卒が、若い看護婦のために、自分の特権を放棄して、「愛」を示したことになります。評判の芳しくない日本軍の中に、かくなる人がいたことで、ほっとした思いにさせられるのは、私ばかりではないはずです。

(写真は、「ジョホール・バルの税関」、こちら側が、マレーシア、向こう側がシンガポールです)

2009年2月18日水曜日

望郷の思い



 「百人一首」の中で、紀貫之が、「故郷(ふるさと」)」について次のように詠んでいます。『人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞむかしの 香ににほいける 』とです。その意味は、『人は、どうかは知らない。でも、懐かしいふるさとの花(梅でしょうか)だけは、昔のままの芳しい香りを放って咲きほこっている!』なのでしょうか 。

 私にも故郷があります。兄や弟と駆け巡った山野がありましたし、ハヤや山女を流れの中に見つけた小川もあったのです。一生懸命に働いてくれる父がいて、家事一切をして子育てにいそしむ母が元気でおりました。中部山岳地帯の富士川に注いでいる沢を登った、熊やサルや鹿の出没する山村で生を受けた私は、兄たちの後をついて山道を追っていました。私が小学校に上がった夏に、4人の息子たちの将来や教育を考えた父は、東京に出ることを決めたのです。まだ武蔵野の風情の残った中央線の多摩地区に、父は家を買いました。そこは、まだまだ農村と言った感じがしておりましたから、級友たちの多くは農家の子だったと思います。




 故郷は、生まれた土地なのでしょうか、育った土地なのでしょうか。きれいな小川があって、蝉の鳴く夏があって、野の花の咲く土のにおいがして、思い出の中に鮮明に刻まれる土地、厳格(こわ)い父は逝き、笑顔の母は老いて、国外に住む私は、はるかに故国に思いを向けております。二親とも活き活きとしていた時代の団欒、そここそが「ふるさと」なのかも知れません。懐かしい光景と匂いの中に人がいて、郷愁(おも)う「ふるさと」があるのでしょう。

 それでもなぜか、自分の中に、《本物の故郷》を憧れるような望郷の思いがあって、しきりに呼び寄せられているように思えてならないのですが。

(写真は、《松雄博雄の社長研究室HP》の「大空」、《おたる水族館HP》の「やまめ」です)

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自己紹介

 次男に勧められて始めた「ブログ」ですが、2007年7月から1年間休刊しました。その間、他の「ブログ」を開設したのですが、2008年7月に、名前を変えて再開しました。  父として子どもたちに、爺として孫たちに、また母や兄弟や友人たちにも、何かを語り残したいと願って、続けています。