2009年3月6日金曜日

お茶目な母



 母の面倒を看てくれている兄からの連絡に、『このところ物忘れをするようになった!』とありました。うーん、元気で若かった母の印象が強いので、ちょっと意外な感じがしますが、今月の31日で、92歳になろうとしているのですから、ある面では当然なのかも知れませんね。中学の私の同級生の親が、医者やJRA調教師や社長だったりでした。負けず嫌いの母は、父兄会に来るときには、彼らのお母さんに《ライバル意識》を燃やす、そんな茶目っ気もありました。大人になった私との談笑の中で、そう懐かしく漏らしたことがありました。

 駅前の目抜き通りに「時計屋」がありました。道路に向かって座って仕事をしている店主が、仕事三分の一、外見三分の二ほどだったでしょうか。このおじさんと、歩いている母が視野に入る位置に私がちょうどいたのです。このおじさんは、母に眼を釘付けにして首を廻しながら鼻の下を伸ばしていたのです。見たくて見ていたのではなかったのですが、『へえ、お袋ってそうなんだ!』と新発見したのが中学の日でした。「今市小町」の異名をとった娘時代があったそうですから(母の親友に聞いたのですが)、こういったことも、『さもあろうかな!』でありました。

 市の老人学級への参加を渋る母を、強いて兄夫婦が行かせているのですが、その日の前日には、決まって美容院に行くのだそうです。「女」を忘れないでいる気丈夫な母を知って、安心したり、心配したりであります。生まれて関東大震災の揺れも感じた山陰出雲、新婚時代を過ごした松江や京都、戦前戦中に父に従って住まいを変えた京城(ソウル)・山形・山梨、四人の男の子を育て上げた東京都下の三つの町、今日日、様々に思い返していることでしょうか。

(写真は、今日の「松江市内」です)

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自己紹介

 次男に勧められて始めた「ブログ」ですが、2007年7月から1年間休刊しました。その間、他の「ブログ」を開設したのですが、2008年7月に、名前を変えて再開しました。  父として子どもたちに、爺として孫たちに、また母や兄弟や友人たちにも、何かを語り残したいと願って、続けています。