2009年3月28日土曜日

期待の星


  日本に置いてきてしまい手元には無いのですが、小学校入学記念の一葉の写真が残っています。帽子をかぶり、下穿きの袋を右手に下げ、黒革のランドセルを背負い、紺の純毛の制服を着、編み上げの革靴をはいた、東京の麹町や世田谷あたりの都会の子どもの姿で写っているのです。私が入学したのは、山深い渓谷の高台にあった村立小学校でした。兄たちには用意しなかった一そろいを、日本橋の三越に特別注文して作らせて、送らせた物でした。なぜか父は、私を特別扱いしたのです。もちろん兄たちが小学校に入学したのは終戦後間もなくの国民学校でしたから、物資窮乏の時期で出来なかったこともありましたが。私が入学したのも、経済的には大変な時期であったはずなのです。ところが、入学する直前に、私は肺炎にかかってしまって、町の国立病院に数ヶ月入院してしまい、「入学式」に出ることが出来なかったのです。それは、父にとってはたいそう残念なことだったようです。それで父は、やっと病癒えて退院した私のために、写真屋を山の中に呼んだのでしょうか、用意しておいた一式を着せて、記念写真を撮らせたわけです。村長さん、駐在さん、郵便局長さんでも、これほどの豪勢な格好をさせた息子はいなかったのではないでしょうか。兄たちや弟には、申し訳ないのですが、父の「期待の星」であったことが分かるのです。

 私にも四人の子が与えられたのですが、誰一人、こんなに着飾って入学を祝って上げた子はいませんでした。私の時代とは比べられなく豊かな時代になっていたのにです。三番目の子には、従姉妹のお古のランドセルを使わせてしまったほどでした。特別扱いを受けた私は、我侭に育ってしまい、いまだに尾を引いて苦労をしているのですが、その反面、愛された子には、『父の特愛を受けたのだ!』と言う充足感があって、愛された者特有の質を、自ら感じているのですが、言い訳になるでしょうか。一方、結構雑に育ててしまった四人の子どもたちは、自立心に富んでいて、我慢強い人間になっているように、欲目で感じていのですが。

 そんな父でしたから、これまた一流大学で学ぶように期待したのですが、その期待も裏切ってしまったのです。結局、二流大学に入学した私が、卒業と同時に、ある職場に入学したときに、その職場の所長の家に、何故か父が一緒に挨拶に行ってくれたのです。その方は、早稲田大学の学科長をされていた、その道では名の知れた学者でした。その職場に就職したことを、父が大変に喜んでくれたからです。その挨拶がよかったのでしょうか、この所長が私に目をかけてくれて、出世(!?)コースのレールの上においてくれたのです。ところが、そういったことに頓着のない私は、またもや父を裏切ってしまって、流行らない仕事に転職してしまったのです。それでまたもや、父を裏切ってしまったのです。結婚相手にも、父なりの期待があったのですが、父の意には適わない女性と結婚してしまったのですから、更なる裏切りをしてしまったことになります。結婚式がすんで、二月ほどしたときに、父は入院先の病院で脳溢血を起こして亡くなってしまったのです。

 あれから、37年がたつのですが、もし今の私を見ることが出来るなら、きっと父は良い評価点をつけてくれるのではないでしょうか。素晴らしい妻を得、自慢の四人の子たちがいることも、きっと愛でてくれるに違いありません。名を成し、功を上げることはなかったのですが、父が青年の日に渡って、その血を燃やした中国大陸の一角で、自分の子の一人が今もなお夢を見ながら生きていることを知ったなら、『雅のことじゃあ、仕方ないか!』と認めてくれるに違いありません!また父の話になってしまいましたね。そういえば、この記念写真を撮ったとき、もう一葉、2歳違いの弟と手をつないで撮ったものがあります。彼も、革靴をはき、当時ではめずらしい色模様のセーターを着ているのです。まさに《都市型二兄弟》なのであります。

(写真は、《シオンサイトはてな》の「桜」です) 

0 件のコメント:

Powered By Blogger

自己紹介

 次男に勧められて始めた「ブログ」ですが、2007年7月から1年間休刊しました。その間、他の「ブログ」を開設したのですが、2008年7月に、名前を変えて再開しました。  父として子どもたちに、爺として孫たちに、また母や兄弟や友人たちにも、何かを語り残したいと願って、続けています。