2009年2月25日水曜日

『生きているって素晴らしい!』



 最近、実に感動的な一枚の写真を見つけました。これは、オーストラリアの消防隊員が、山火事にあったコアラに、ペットボトルの水を飲ませている一コマです。火の中を逃げ回って、ノドがカラカラなコアラを見付けた彼は、自分の飲み分を与えたのでしょうか。彼の眼差しがなんとも暖かいですね。座っているコアラの前足を握っている手の温もりが、なんとなく伝わってきて、私の手でそれが感じられるようです。水を受けるコアラも、人の子のように、愛情に甘え、応答しているではありませんか。悪びれずに、任せ切っているのです。

 森林に火をつける者も、火事場に入り込んで物を盗むけしからん輩だっている世の中で、こんな光景に接してしまうと、『生きているって素晴らしい!』と感じてしまうのです。コアラの前足は、火傷を負っていたそうで、それを優しく握っているのですね。給水をしているのは、デヴィッド・ツリーさんというボランテア消防士です。三本のペットボトルの水を飲んだコアラは、順調に快復しているとのことです。

含羞草



 勢いのある夏草や、きれいな色彩の派手な花が好きだったのに、年を重ねたからでしょうか、好みが変わってしまったようです。最近、関心を向けているのが、「含羞草」と書いて《おじぎそう》と読む草です。ちょっと触れたり、大きな音の響きを感じますと、『シュン!』と葉を縮めてしまう草なのです。

 苔玉店店長さんが、『日々成長し、明るくなると葉が開き、暗くなるとまた閉じて、まるで人間の生活と同じですね。またデリケートなので、雨や人の手などで触って刺激を感じると、葉はシューっと閉じられてしまい、首からうな垂れていきます。その礼儀正しさは見習わなければなりませんね! 』と仰ってます。草にも礼儀の正しいものがあるのには驚かされるのですが、この「含羞草」は、《羞かしがり屋》に違いありません。さらに遠慮深くて、周りのことに気を配るような、そんな草に違いありません。賑やかなサンバのリズムが響くブラジルが、原産なのには驚ろかされますが、クラッシク音楽を好む方もおいでなのです。 この草は「眠り草」とも言われるのですが、まるで遠慮深い日本人でもあるかのようです。




 家内の上の兄が、そのブラジルのサンパウロの近郊に住んでいて、一週間ほど滞在したことがあります。物静かで、いたわり深く、旅の途上の私に、何くれとなく心配りをしてくれたのです。18で、「あるぜんちな丸」に乗って農業移民をしたのです。一緒に胸を膨らませて行った仲間の自死に直面し、その彼を泣きながら葬ったこともあったそうです。旱魃で収穫がなく、食物にも窮し、人に裏切られ、夢破れるような挫折の中から、すっくと立ち上がって、まあまあの身代を築くことができたのです。妻をえ、3人の子を養い育て、自立させた50年の歳月だったようです。なぜか、この義兄が、この「含羞草」のように思えてならないのです。秋には、小さな淡い桃色の花を咲かせますから、ほどほどに茂って、ほどほどに咲いて自然を彩り、そっと散る、そんな草なのであります。義兄は、今、静かな日々を迎えて、ふるさとや来し方を思い返しているのでしょうか。

      中庸(ちゅうよう)を正しく生きて含羞草   紫野

(写真は、blog《苔玉店》の「含羞草」、HP《季節の花300》の「含羞草の花」です)

2009年2月22日日曜日

「ハインリッヒの法則」の証明



  『健康のためには、自動車よりも自転車がいい!』とのことで、近所に出かけるときは自転車に乗っていました。ある時、道沿いにあるハンバーガー・ショップの中の様子を、首を右に振って見ていましたら、急に電信柱がぶつかってきたのです。漫画では、火花が描かれる画面ですが、まさにその通り、痛打した目から火花が放たれたのです。また、歩道を越えようとして、上手に乗り上がれなくて、横転して、しこたま痛い目にあったことも、何度もあります。そういったことを子どもの頃から繰り返してきました私は、『いつか大きな怪我をするかも知れないけど、なぜか守られている!』と自負していたのです





 『一件の重大な事故が発生する背後に、29の小さな事故があり、そして300のヒヤッとする経験がある!』と言う法則があります。アメリカの損害保険会社の事故調査副部長だったハインリッヒが、統計学的に調査して、1929年に発表した結論です。歩き始めてから、ヒヤッとしたことは、300回ではなく、30000回ほどあったのではないでしょうか。擦りキズや手キズや脛のキズなど数えると、300ヵ所ほどは優にあるに違いありません。とくに手キズは、傷の上に傷が残っているほどです。




 2005年の2月、ある朝の未明に自転車に乗って家を出たのです。坂が下っていた道路の左端を走っていて、向こう側に渡ろうとしていたのです。前方から来る車のライトが目に入りましたから、早く渡り切ってしまおうと、急いで横切り、歩道を越えようと思いました。そうしましたら、自転車では越えられないほどの高さの路側帯にぶつかって、自転車から思いっきり弾き飛ばされてしまいました。その直後に車は通り越していたのですが、幸いにも私は、道路側ではなく、歩道側に投げ出されて、輪禍にあわずにすんだのです。ところが、打ちつけた右腕が上がらないのです。医者に行きましたら、「右腕の腱板断裂」とのことでした。




 まさに、「ハインリッヒの法則」を身をもって証明してしまったのです。ただし、100倍ほどのヒヤッとした経験、10倍ほどの小事故に遭っていましたから、確率的には低かったわけです。『雅仁、いつか大怪我をするから、注意深くするんだ!』と、母親や父親からではなく、過去の経験が忠告していたのですが、注意が足りなかったのでしょうか、そんな結末を迎えてしまったのです。でも、手術と入院生活と長いリハビリで、ボールが投げられ、重いスーツケースを下げて旅行できるように快復いたしました。父にも兄たちにも友人たちにも、『おっちょこちょいの雅仁!』と言われ続けてきましたが、幾つになっても直らないには閉口します。きっと母に似たのでしょうか。母は、去年の暮れに「肋骨」を骨折したのです。91才でした!う~ん、これからが、なおなお心配です、母も私も・・・。

(写真は、福州の街中を40キロ以上で疾走する「電動自転車」、HP《団塊Jr黙示録》の「ハインリッヒの法則の図」、HP《福岡県星野村》の「天文台」、HP《大阪府交通対策協議会です) 》の「自転車」です)

2009年2月21日土曜日

『父母を父母として遇する!』



 子どもの頃、父も母も親戚付き合いは、多くはありませんでした。それでも母の故郷・山陰に旅行をしたり、父が中学時代に身を寄せていた大森の親戚の家などを、みんなで訪ねた記憶があります。もっと、足しげく行ってみたかった父の三浦半島の生家には、父の継母の葬儀の折に、父に付き従って訪ねただけでした。なぜか、父は、兄たちではなく三男の私を連れ出したのです。もしかしますと、私が父の父似だったからかも知れません。

 父に愛され、期待された息子だったのですが、応えることのできなかったことは、私の悔いのひとつであります。もう何十年も前からですが、父の生まれた町、通った東京や秋田の町、若い一時期を過ごした遼寧省の瀋陽(父の時代は《奉天》と言っていましたが)、朝鮮半島の京城(ソウル)、そういった町々を訪ねてみたい思いが強くあるのです。




 父は61の誕生日を過ぎて間もなく、入院先の病院で、脳溢血を起こして召されたのです。父の退院する日の朝、唐突に、父との別れが訪れましたから、ことさらに父とのつながりを確かにしてみたい思いが強いのかも知れません。幾つになっても父は父なのですね。『父は、父なるが故に、父として遇する!』と言うことばを聞いたときから、父への敬意、感謝の足りなかった私は、そういった思いが募るのでしょうか。いまだに健在な父の連れ合いであった「母」に、その思いを向けたらいいいのでしょう。来月、92歳になる母ですが、兄によりますと、食欲が旺盛なのだそうです。散歩を嫌って、近くのドラッグストアーに入り込んで、時間潰しをする茶目っ気たっぷりの母であります。『母は、母なるが故に、母として遇する!』も然りであります。う~ん、元気だったときの、父の颯爽とした姿や、甲斐甲斐しく世話に励んでいた日の母の姿が、目に浮かんでまいります。

(写真は、HP《ぐるめ・あいとっと》の「横須賀海軍カレー」、HP《旅スケ》の「山陰・出雲の夕日」です)

2009年2月19日木曜日

一兵卒の愛



 この「春節」の休みに、シンガポールに参りましたが、滞在期間延長のため、一旦、シンガポールを出る必要があって、マレーシアのジョホール・バルにつれて行ってもらいました。そのとき、日本軍が、タイから南下して来て、この街を通過して、シンガポールを陥落したことを思い出したのです。

 その街の中心に、日本のジャスコの店舗が、まるでお城のように夜空に向かってそびえていました。『ジャスコはマレーシアに30店舗あるんです!』と聞いて、スーパーマーケット業界の東南アジアでの躍進と、《マレーの虎》と言われた山下奉仕文の侵攻とが、ダブるようにして感じさせられたのです。

 そんな戦時中、南方の島に進駐していた日本軍は、アメリカ軍の攻勢で撤退せざるを得なくなって、島を捨てて飛行機で逃げ出したのだそうです。将校と兵士はみな、飛行機 に分乗できましたが、看護婦さんの乗る余地がなかったのです。結局、『仕方がないが、看護婦は残して行こう!』と言うことになったのだそうです。その時、茂木一等兵という人が、『私は乗らなくてもい いから、ぜひ看護婦さんたちを乗せて行ってくれ!』と叫んだのです。それで、茂木一等兵が残り、代わって看護婦を押し込めるようにして、飛行機は飛 びたったのです。これは、この様子を目撃した人の証言であります。

 その茂木一等兵の消息は、そのまま不明で、南の島でいのちを落としたようです。このような名も階級もない一兵卒が、若い看護婦のために、自分の特権を放棄して、「愛」を示したことになります。評判の芳しくない日本軍の中に、かくなる人がいたことで、ほっとした思いにさせられるのは、私ばかりではないはずです。

(写真は、「ジョホール・バルの税関」、こちら側が、マレーシア、向こう側がシンガポールです)

2009年2月18日水曜日

望郷の思い



 「百人一首」の中で、紀貫之が、「故郷(ふるさと」)」について次のように詠んでいます。『人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞむかしの 香ににほいける 』とです。その意味は、『人は、どうかは知らない。でも、懐かしいふるさとの花(梅でしょうか)だけは、昔のままの芳しい香りを放って咲きほこっている!』なのでしょうか 。

 私にも故郷があります。兄や弟と駆け巡った山野がありましたし、ハヤや山女を流れの中に見つけた小川もあったのです。一生懸命に働いてくれる父がいて、家事一切をして子育てにいそしむ母が元気でおりました。中部山岳地帯の富士川に注いでいる沢を登った、熊やサルや鹿の出没する山村で生を受けた私は、兄たちの後をついて山道を追っていました。私が小学校に上がった夏に、4人の息子たちの将来や教育を考えた父は、東京に出ることを決めたのです。まだ武蔵野の風情の残った中央線の多摩地区に、父は家を買いました。そこは、まだまだ農村と言った感じがしておりましたから、級友たちの多くは農家の子だったと思います。




 故郷は、生まれた土地なのでしょうか、育った土地なのでしょうか。きれいな小川があって、蝉の鳴く夏があって、野の花の咲く土のにおいがして、思い出の中に鮮明に刻まれる土地、厳格(こわ)い父は逝き、笑顔の母は老いて、国外に住む私は、はるかに故国に思いを向けております。二親とも活き活きとしていた時代の団欒、そここそが「ふるさと」なのかも知れません。懐かしい光景と匂いの中に人がいて、郷愁(おも)う「ふるさと」があるのでしょう。

 それでもなぜか、自分の中に、《本物の故郷》を憧れるような望郷の思いがあって、しきりに呼び寄せられているように思えてならないのですが。

(写真は、《松雄博雄の社長研究室HP》の「大空」、《おたる水族館HP》の「やまめ」です)

2009年2月17日火曜日

李冰と信玄



 『武田信玄が、もう少し遅く生まれ、健康だったら、天下を取ってていただろう!』と言われる歴史家がおいでです。城を持たなかった信玄は、何よりも「人」を大切にした戦国武将でした。数年前に、四川省の「都江堰」を訪ねたことがあります。そこは、春の雪解け水で増水した岷江(ミン・ジアング)の防護堰であり、下流域の灌漑用水の取り入れ口でした。四川盆地を「天府之国」と言うのですが、この堰によってもたらされた豊穣の故だそうです。紀元前3世紀、洪水をくりかえす岷江の流れを緩め、また二分して下流域の農業振興のために、太守の「李冰(リ・ビング)」が、4年の歳月を費やして設けたものでした。

 この故事を、「史記」を読んで知った信玄が、御勅使川(みだいがわ/釜無川・富士川の支流)の洪水で苦しむ甲府盆地の農民のために、都江堰に倣って造ったのが「信玄堤」です。そのような経緯があって、山梨県と四川省とは姉妹関係を提携して、人材や産業文化の交流をしているのです。昨年の四川大地震の折には、山梨県下の中学校から義捐金が送られているニュースを聞きました。




 お金や物ではなく、「人」こそが、最重要されるべきなのでしょう、李冰や信玄のように、人を大切にしますと、富や収穫が、人望を伴って後からついてくるのではないでしょうか。信玄は、『人は石垣、人は城、人は堀、情けは味方、仇は敵なり!』ということばを残しております。う~ん、下克上の戦国の世に《情け》だったんですね、人として幸せなことは、「・・・情け深く、人には貸し、自分のことを公正に・・・・」生きることに違いありません。

(写真は、四川省の「都江堰」、釜無川の「信玄堤」です)

2009年2月16日月曜日

索道



 山奥で鉱物(石英)の採掘事業をしていた父が、馬に乗っていたことに、前回触れましたが、採掘現場から集積工場までは、「索道(さくどう)」と言う、ケーブルカーが敷設されていたのです。山の中を数キロに渡っていましたから、当時としては難工事だったのでしょう。採掘された鉱物を、隣村の集積工場に運び、そこからトラックを使って街の駅に運んでいたのです。それを東京の工場で加工して、水晶発信子用や防弾ガラスの原料を製造し、軍用の計器や飛行機に用いていたそうです。平和な時代になって、その索道で、山奥から熊や鹿が運ばれて、索道 の油くさい車輪軸のそばに置かれていたのを覚えています。子どもの目には実に大きく見えました。

 この索道に、兄たちは乗せてもらって、山奥の採掘現場に行ったことがあったようですが、おっちょこちょいの私と幼かった弟を、父は決して乗せてくれませんでした。ですから兄たちが羨ましくて仕方なかったのです。

 索道の始発点に住んでいたのですが、その工場と家があったあたりを母と兄と弟で、30年ほど前に訪ねたことがありました。丈の高い夏草で覆われてコンクリートの台座だけが残っているだけで、谷の向こうから、架かっていた極太のワイヤーも、それを支えていた鉄骨の櫓も、みな撤去されていたのです。終戦とともに、山も村も会社も、そして私たち家族も、大きく変化したことになります。

 沢違いの部落に、弟と私の生まれた家屋が残っていました。苔むすと言うのでしょうか、まったく老朽化していましたが、『ここから始まったんだ!』と思いますと、実に感慨深いものがありました。

(写真は、長野県飯田市のHPの「索道」、兄たちが乗っていたのとまったく同じものです)

2009年2月14日土曜日

心根の優しい父



 今で言えば、「高級乗用車」になるでしょうか、父の事務所のあった街の連隊の連隊長の馬よりも、はるかに毛並みの優れたな馬に、『俺は乗っていたよ!』と、父が自慢していました。山の奥にある採掘現場と工場と町の事務所の間を馬に乗って移動していたのです。その連隊長が、父の馬を欲しがったのですが、決して手放さなかったほどでした。馬丁さんに、世話を任せていた自慢の馬だったわけです。

 ある日、知り合いが、『美味しい肉が手に入りましたからお持ちしました!』と言って持ってきたのです。疑うことなく父は食べ、母も兄たちも食べたのでしょう。私と弟は、まだ生まれていませんでした。しばらくたったら、それが、自分の愛馬であったことに気付いたのです。食糧難の時代だったこともありますが、馬丁さんの息子が病気になって、どうしても滋養のある食べ物を食べさせる必要があったようです。それで目をつけたのが父の馬だったわけです。それを知った父は、烈火のように怒ったのだろうと思ったのですが、何も言わなかったのだそうです。自分も食べてしまっことでもありましたから。

 《人情物》のテレビ番組を見ては涙を流す父を知っていましたから、馬丁さん家族に同情を示したのでしょう、心根(こころね)の優しい父だったのです。「あわれみを愛・・・」することは、物の犠牲に通じるのでしょうか。人生が物の獲得レースではないことを、父は教えてくれたことになります。

(写真は、父が馬の背で行き来した「峠道」です)

2009年2月13日金曜日

春一番



 今日、『関東平野に《春一番》が吹いたよ!』との知らせがありました。立春を過ぎて間もない良い知らせに、春到来のうきうきした気分を、ここ華南の地に運んできてくれたようです。冬が凍てついて寒さが厳しければ厳しいほど、爆竹と花火で、待ち望んでいた春を呼び込もうとする思いがつのるのでしょうか。日本列島を、吹き抜ける南寄りの《春一番》には、炸裂音も火花もないのですが、同じ思いが込められています。正月に感じられる「新気分」とは趣きの違った、『ズンズン、ズンズン!』と聞こえそうな、いのちの再生の音や馥郁(ふくいく)とした花の香が、まもなく聞こえ漂ってくることでしょう。
 
 卒業や入学、終業や始業、別れや出会いの悲喜こもごもの時の訪れでもあります。4人の子どもたちが、まだ就学していた時期には、その節目の忙しさに追われるような気分がしたものです。それぞれの地に巣立って行き、大人になってしまった彼らを思うに、宿題を忘れた朝に泣きながら鉛筆を走らせていた子、背中にゆれていたお古のランドセルで我慢した子、失恋した先生の相談にのって帰宅が遅れて母親に叱られていた子、新聞配達をしながら塾に通って高校受験の準備にいそしんでいた子、さまざまな場面が走馬灯のように蘇ります。

 今日は、一枚一枚と重ね着を脱ぐ初夏を思わすような暑い一日でした。『もう春!』なんてい言ていられない、短い春を、それでも楽しみたいものです。もう、我が家の庭先で蝶ちょうが飛んでいました!

( 写真は、《 enjoy TOKYO 》のHPの「春一番・梅満開」です)

寄り添う思い出



  私たちの「ゼミ歌」が、『夕焼け小焼けの 赤とんぼ 負われて 見たのは いつの日か 』の「赤とんぼ」でした。作詞が三木露風、作曲が山田耕作でした。中学卒で終わっても当然だったのに、大学にまで行かせてもらい、「ゼミ」にも加わることができましたから、父への感謝は尽きません。NHK第一ラジオで、1977年から1991年3月まで放送された、「にっぽんのメロディー」のテーマソングが、この「赤とんぼ」でした。そんな誼み(よし)で、よく聞いたのです。また、担当の「中西龍(りょう)アナウンサー」が先輩でもありましたので、ことのほか贔屓(ひいき)にしたわけです。中西先輩は、『歌に思い出が寄り添い・・・思』と語りだし、『では・・「つんつん・・津軽の・・・雪・・娘」・・・・』 とリクエスト曲(二曲)が流され、終わりには、一首の俳句を紹介し、独自の解説をそえ、『全国のみなさん・・おやす・・・なさい!』と言って番組を終了するのが常でした。話の句点と間が独特だったのが印象的でした。日本の叙情、人情の機微の満ちた番組でしたから、沢山のフアンがおいでだったのです。

 「寄り添う思い出の歌」、「語りかける思い出の歌」が、みなさんにもおありでしょうか?4人の子どもたちの成長とともに聞いた、「赤とんぼ」のメロディーが、懐かしく思い出されて、口を突いて出てきてなりません。二番に、『山の 畑の 桑の実を 小籠に 摘んだは まぼろしか 』とありますが、籠や笊(ざる)にとる前に、口に運んでほおばった日の光景が、幻のように味覚とともに蘇ってまいります。

(写真は、Nature of Hannoから「赤とんぼ」です)

2009年2月12日木曜日

まるで詩のような演説を



 1931年10月、国際連盟の全権大使だった松岡洋右が、ジュネーブの連盟本部で演説をしたとき、聞く人を感動させ、議場に万雷の拍手が響き渡ったのだそうです。父親の事業が倒産した13歳の松岡は、アメリカに渡り、さまざまな仕事をしながらオレゴン大学を卒業した、「苦学の人」でした。不撓不屈(ふとうふくつ)、励んだ甲斐あって、その英語力は抜群のものがあったのです。平和な時代に生まれていたら、新渡戸稲造のように、国際社会を舞台に活躍できた人なのかも知れません。日独伊三国同盟などに奔走し、外務大臣などを歴任したのですが、戦争責任を問われた東京裁判の公判中に病気を得て亡くなっています。

 私たちは、どのような時代に生まれるかを選び取ることができずに、生を受けるわけですが、松岡と同じ学校で学んだ後輩の私の子どもたちは、松岡のような、何世代も前の先輩の存在を知らないのだろうと思うのです。そのような《時代の人》松岡が、『三国同盟は僕の一生の不覚だった。三国同盟はアメリカの参戦防止によって世界戦争の再起を予防し、世界の平和を回復し、国家を泰山の安きにおくことを目的としたのだが、事ことごとく志と違い、今度のような不祥事件の遠因と考えられるに至った。これを思うと、死んでも死にきれない。陛下に対し奉り、大和民族八千万同胞に対し、何ともお詫びの仕様がない。』と、日米開戦の報道を耳にしたとき、病床で涙を流しながら語ったと言われてます。満州鉄道総裁のときには、5000人のユダヤ難民を保護したこともある人でした。「私たちは、平和に役立つこと・・・」のために、生を受けた時代を生きて行きたいものです。

(写真は、オレゴン州ユージンにある「オレゴン大学」です)

2009年2月10日火曜日

鞭炮(爆竹)と烟花(花火)



 夕べの爆竹と花火の競演には改めて驚かされました。考えが甘かったようです。正月最後の「元宵節(小正月)」に当たりますから、いっせいに打ち鳴らしたわけです。5階建アパートの入り口の一階の右端に住んでいますが、その入り口で、突然、大炸裂音がしたのには、飛び上がるほどでした。遠くから聞こえる音にも驚かされていて、『まさか、ここでは!』と思った直後のことでした。
  
 今朝、ニュースを見ましたら、北京の国営テレビ局・中央電視台の新社屋ビルが火災で焼失したと伝えていました。出火原因は、『花火とか爆竹ではないか!』とのことでした。10数年ぶりの一部解禁の矢先の出来事です。
  
 福州の隣の長楽市で、先日、爆竹から引火して、15人ほどの青年たちが亡くなったと聞いたばかりでした。やはり騒音被害だけではなく、毎年、多くの命が失われているのですから、どうしても考え直さなくてはいけない時期に来ているようです。禁止して伝統をなくすことはなかなか難しいのかも知れません。
  
 全人口中、中国系の人が75%のシンガポールでは、爆竹のイルミネーションが飾られ、打ち鳴らす太鼓を代替物として「春節」を祝っていました。同じ文化と伝統に受け継ぎながら、安全面では一歩先を行っているのでしょうか。
  
 「悪い知らせを恐れ・・」ないで、2009年がよい年でありますように!

(写真は、爆竹が炸裂している様子です)

2009年2月9日月曜日

春節から元宵節まで



 「春節」は、中国の「正月」のことです。実に、4000年の歴史を持つ、中華圏ではもっとも大切な祝祭日なのです。日本では、太陽暦(西洋暦)で季節ごとの伝統行事が行われるようになったのですが、中国では、「農暦(旧暦)」を用いており、今年は、1月26日が、2009年の元旦に当たりました。2006年の夏に、中国に来ました私たちは、初めての「春節」を天津で過ごしたのです。大晦日には、花火と爆竹が、街中で炸裂していました。私たちが住んでいましたアパートは、アパート群の空き地に接していました。 そこは、爆竹を打ち鳴らしたり、花火を揚げる最適な立地でしたから、宵から真夜中にまで、大音響の連続でした。私たちの部屋は、7階にありましたから、高く上がらなかった花火が、窓の間近で炸裂して閃光が部屋中に輝きわたっていました。あの勢いでしたら、悪鬼は逃げ出さないわけにはいかないのだろうと思わされたのです。




 そのような訳で、まあ逃げ出したのではないのですが、去年と今年は、この時期に旅行をしたのです。一昨年の暮れに、長男夫妻のところに女児が生まれましたので、家内は手伝いで12月半ばに帰国し、私は年が明けて学校が休みに入りましたので帰国しました。今年は、シンガポールで働いています長女のところに身を寄せて、そこで「春節」を過ごしたのです。シンガポールでは、だいぶ以前から安全上の理由で、爆竹禁止になっているとのことでした。火薬発明の子孫であるこちらのみなさんには、きっと物足りなさを感じているのだろうと思ったのですが。その代替物として、飾り立てられたトラックの荷台に載せた太鼓が打ち鳴らされていました。爆竹に比べましたら、太鼓の音は、穏やかな静かな音に聞こえたのです。この4000年もの間、受け継がれた伝統文化を、そういった形に変化させるのは、一大決心だったのではないでしょうか。おかげさまで、爆竹の炸裂音に悩まされない夜を、ゆったりと寝ることができた次第です。




 1月の末になって、『ハッピー・ニュー・イヤー!』、『新年快楽!』と挨拶を交わすみなさんの声に、ちょっと戸惑いを覚えて、一呼吸遅れて呼応し、同じように挨拶をする《ぎこちなさ》が残るのですが、一昨年よりは昨年、昨年よりは今年、だいぶタイミングが合うようになってまいりました。一昨日、シンガポールから戻ったのですが、長楽の飛行場の上空に差し掛かる頃、夕闇の眼下に、花火が打ち上げられているのを眺めることができました。『まだお祝いの渦中なのだ!』とうことが分かりました。去年も同じ時期に、日本からfu福州に戻りましたが、同じ光景を眺めたのです。こちらのみなさんは、正月行事の最後となる「元宵節(春節から数えて15日目)」には、「汤圆(タン・ユアン)」を食べるのです。家族の「団欒」と「幸福」を願ってだそうです。昨日、家内が友人のおば様家族のところにお邪魔して、帰りにいただいてきた「汤圆」を、今日の昼に食べました。美味しかった!4人の子どもたちが巣立っていき、家内と二人になった今、しかも中国大陸の片隅に暮らす身なのですが、それでも、すべての家族の「団欒」と「幸福」は、今なお私たちの切なる願いでもあります。食べ物を美味しく食べて、元気を出して、新しい年を祝福していくことは、素晴らしい伝統でありますね。この記事を書いていましたら、隣家のエプロン姿のご主人が、「春巻き」を届けてくださいました。『ここ福州では、元宵節に「春巻き」を食べるのです!』とのことで、お裾分けくださったのです。美味しかった!




 大晦日に、こちらでは「そば」ではなく、餃子を食べるのですが、私たちはシンガポールの娘の友人たちと、餃子と名前を覚えていない料理をいただきました。胃袋で、文化を感じ取ることができるのも素晴らしい特権だと思うのです。新暦の正月には、和式に「お雑煮」を食べることができ、こちらの小正月に当たる「元宵節」には、「 汤圆」と「春巻き」を食べることができました。平安と幸福と喜びのあふれる、2009年であることを心から願うものです。餃子を食べる大晦日には、「圧歳銭 (お年玉)」を年長者が子どもにあげる習慣なのだそうですが、長女にお年玉を上げるのを忘れてしまいました。幼い頃、私の父は決まって、このお年玉をくれたものですが、幼かった私たちの子どもたちに我が家はどうだったのでしょうか、忘れてしまいました!

(写真は、正月に回す「御所人形・独楽廻し<遠山記念館HP>」、元宵節に食べる「汤圆」、シンガポールで頂いた「大晦日の料理」、「お年玉の袋」です) 

2009年2月5日木曜日

マレー半島の2つの国訪問記



 『こんな涼しい天気、シンガポールでは初めてだって!』と、シンガポールの巷の噂話を長女が伝えてくれました。この季節は、雨季で毎日雨降りなのだそうですが、私たちが参りました、1月6日から3週間ほどは、ほとんど雨のない日が続いていたのです。それでも、この一週間は、夕方にスコールのような熱帯特有の雨が、三日ほど降りましたが、それでも例年には比べられないそうです。おかげさまで、熱帯の蒸し暑さから免れて涼しく快適な時を過ごすことができたました。5年ほど前に、まだ日本におりましたときに、一週間ほどの休暇を得まして、娘を、ここシンガポールに訪ねたことがありましたが、今回は、家内と二人の長期の滞在になったわけです。




 一昨日、娘が勤めから帰りましたら、『夕食が済んだら出かけよう!』と言って連れ出されたのです。ビサなしの滞在が、ここシンガポールでは「30日間」という決まりがあったのを知らなかった私たちは、32日の滞在で、二日間オーバーステイになっていたのです。それで、どうしても国外に、一たん出る必要がありまして、夜の8時過ぎになって、娘の会社の同僚の方の案内で、マレーシアに行くことになりました。マレー半島の北部はタイ、南半分がマレーシア(首都は「クアラルンプール」です)、この南半分の南端がシンガポールなのです。入国手続きのために首都まで行く必要は無く、国境に接した第二の都市である「ジョホール・バル」に行ったわけです。シンガポールとの間が海峡になっていたのを、埋め立てられていて、堤防の上に設けられた道路が両国を結んでいました。出国と入国の手続きを済ませて、そのジョホール・バルの中心街に入ってみたのです。折角の入国でしたので、『どこかでコーヒーでも飲みましょう!』との私の提案で、メイン道路から少し入ったところのレストランで、こちらの名物の「ホワイト・コーヒー」を注文したのです。この国で生産したコーヒー豆を炒って煎れたものですが、実に美味しかったのです。これまで、どこでも味わったことのない不思議な味がして、少々甘かったのですが、異国情緒とともに飲み心地は満点でした。メニューを見ていましたら、案内を買って出てくださった娘の同僚が、『これが美味しいです!』と勧めてくれた麺も注文して食べたのですが、これまた、とても美味でした。




 立春の月が、遠慮がちに、私たちを眺めていましたが、マレー人の街というよりは、漢字の看板が目立つ華人の街でした。ここには、何と「ジャスコ」が進出しているそうで、国境近くにも「イオン」の看板を掲げた大型店を見つけることができました。その出店の影響で、『フランス資本のカルフールの客がに流れてしまっているんです!』と言っていました。その昔、日本軍が、タイ領土からマレー半島を南下して、イギリスの領土であったシンガポール陥落作戦を開始したのです。「銀輪部隊」と呼ばれた自転車部隊が南下して、ここジョホール・バルに到着して、海峡を渡ってシンガポールに進入したのです。山下奉文が、その時のマレー作戦の司令官だったのです。先日、その上陸地にも連れて行ってもらいましたが、太平洋戦争時の爪痕は、長女の家のすぐ近くのチャイナタウンの一郭にも、マレーシアのジョホール・バルにも見つけることができて、父の時代の日本の様子を思い出させられた次第です。




 そのような過去を持つ街と人々の中で、長女が働くことができ、よき友人を多く得ていることは、実に感謝なことであります。昨晩は、そんな友人たちの一人とご主人とお嬢さん家族と、彼女の弟さんが、私たちを食事に招いてくださって、よい時を過ごすことができました。この弟さんは、私が35年間働いた町で出会った青年なのです。娘のシンガポール行きが分かった時に、ご自分のお姉さんを彼が紹介してくれたのです。雨上がりの昨晩のシンガポールは、しっとり静かで、美味しくて、楽しい街でした。

(写真は、ご馳走していただいた「マンゴー・プリン」、シンガポールの顔「マーライオン」、南端のシンガポールとマレーシアの「マレー半島」、シンガポールの春節に食べる「正月料理」です)



 『こんな涼しい天気、シンガポールでは初めてだって!』と、シンガポールの巷の噂話を長女が伝えてくれました。この季節は、雨季で毎日雨降りなのだそうですが、私たちが参りました、1月6日から4週間ほどは、ほとんど雨のない日が続いていたのです。それでも、この一週間は、夕方にスコールのような熱帯特有の雨が、三日ほど降りましたが、それでも例年には比べられないそうです。おかげさまで、熱帯の蒸し暑から涼しく快適な時を過ごすことができたました。5年ほど前に、まだ日本に下りましたときに、一週間ほどの休暇を得まして、娘の問安のつもりで訪ねたことがありましたが、今回は、家内と二人の長期の滞在になったわけです。



 一昨日、娘が勤めから帰りましたら、『夕食が済んだら出かけよう!』と言って連れ出されたのです。ビサなしの滞在が、ここシンガポールでは「30日間」という決まりがあったのを知らなかった私たちは、32日の滞在で、二日間オーバーステイになっていたのです。それで、どうしても国外に、一たん出る必要がありまして、夜の8時過ぎになって、娘の会社の同僚の方の案内で、マレーシアに行くことになりました。マレー半島の突端にあります島が、シンガポールなのですが、半島全体はマレーシア(首都は「クアラルンプール」です)なのです。入国手続きのために首都まで行く必要は無く、国境に接した第二の都市であるジョホール・バルに行ったわけです。シンガポールとの間が海峡になっていたのを、埋め立てられていて、堤防の上に設けられた道路が両国を結んでいました。出国と入国の手続きを済ませて、そのジョホール・バルの中心街に入ってみたのです。折角の入国でしたので、『どこかでコーヒーでも飲みましょう!』との私の提案で、メイン道路から少し入ったところのレストランで、こちらの名物の「ホワイト・コーヒー」を注文したのです。この国で生産したコーヒー豆を炒って煎れたものですが、実に美味しかったのです。これまで、どこでも味わったことのない不思議な味がして、少々甘かったのですが、異国情緒とともに飲み心地は満点でした。メニューを見ていましたら、案内を買って出てくださった娘の同僚が、『これが美味しいです!』と勧めてくれた麺も注文して食べたのですが、これまた、とても美味でした。



 立春の月が、遠慮がちに、われわれを眺めていましたが、マレー人の街というよりは、漢字の看板が目立つ中国人の街でした。ここには、何と「ジャスコ」が何店もあるそうで、国境近くにもイオンの看板を掲げた大型店を見つけることができました。その出店の影響で、フランス資本のカルフールの客が、『ジャスコに流れてしまっている!』と言っていました。その昔、日本軍が、タイ領土からマレー半島を南下して、イギリスの領土であったシンガポール陥落作戦を開始したのです。「銀輪部隊」と呼ばれた自転車部隊が南下して、ここジョホール・バルに到着して、海峡を渡ってシンガポールに進入したのです。山下奉文が、その時のマレー作戦の司令官だったのです。先日、その上陸地にも連れて行ってもらいましたが、太平洋戦争時の爪痕は、長女の家のすぐ近くのチャイナタウンの中にも、マレーシアのジョホール・バルにも見つけることができて、父の時代の日本の様子を思い出させられた次第です。



 そういった過去を持つ街と人々の中で、長女が働くことができ、よき友人を得ていることは、実に感謝なことであります。昨晩は、そんな友人たちの一家族と弟さんが、私たちを食事に招いてくださって、よい時を持つことができました。その弟さんは、私が35年間働いた町で出会った青年なのです。娘がシンガポール行きが分かったときに、ご自分のお姉さんを紹介してくれたのです。雨上がりの昨晩のシンガポールは、雨降りの後でしっとりし、静かで、美味しくて、楽しい街でした。

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自己紹介

 次男に勧められて始めた「ブログ」ですが、2007年7月から1年間休刊しました。その間、他の「ブログ」を開設したのですが、2008年7月に、名前を変えて再開しました。  父として子どもたちに、爺として孫たちに、また母や兄弟や友人たちにも、何かを語り残したいと願って、続けています。