2007年2月26日月曜日

「武士道」


 昨年の秋に、久しぶりに札幌を訪ねました。青年期に、この町に憧れたのですが、ここで学んだり住んだりする機会を得ませんでした。

 私は、時の北海道開拓使長官・黒田清隆に請われて、1876年(明治9年)札幌農学校の教頭に就任したクラークが好きだったのです。彼の『少年よ、大志をいだけ!』を聞いて、『少年の私は、大きな志をもって生きるべきなのだ!』と言う挑戦を受けたからです。そして彼の間接的な薫陶を受けた、内村鑑三や新渡戸稲造に強烈な関心を寄せたのです。明治期に、アメリカに渡って学問をし、西洋のものの考え方を身につけて帰って来て、それなりの主張を、この二人が日本の社会の中でしたからです。

 とくに、稲造の著した「武士道」は、実に興味ある本です。私の次男が送ってくれて、改めで読み返しました。
彼は、人斬りを容認し礼賛しているのではありません。中国の思想家の孔子や孟子の教えた、「徳」、「仁」、「義」、「孝」、「忠」などを、武士は生きたのだと、彼は記しています。ヨーロッパの「騎士道」にも通じるものがあるのです。何よりも彼自身、武家の出で、武士としての振る舞いを身に着けた人だったのです。その武士の生き方は、女子にも庶民にも影響を与えて、日本全体が、「武士道」の精神的感化を受けていたと言うのです。私たちは、日本人としての「自意識(アイデンティティ)」を知るために、この稲造の著した本は、読むべき一冊かと思うのです。

 その彼が、中国の春秋時代の思想、そして西洋思想に触れて、日本人を見つめ直したことに意味があります。彼は、『われ太平洋の橋とならん!』との志を持って学び、後に国際連盟の事務局次長に就任し、また教育事業に従事して行くのです。偏屈な亡霊のような侍にではなく、彼が国際社会に通用した人となったことに意味があるのだと思うのです。

 その彼が札幌で学んだ1つの事は、『紳士たれ!』と言う事でした。彼の学んだ学校の学則が、この一言だったのです。その稲造や鑑三の薫陶を受けた、田中耕太郎が、「教育基本法」の草案者の一人でした。文部大臣だったのです。私が受けた戦後教育は、ここに基本があったのです。その前文に「真理と平和を希求する人間の育成を期する」とあります。ところが、新しい基本法からは、「平和」が除かれ、「正義」が加えられているのです。国の正義のために、「平和」が犠牲になるのでしょうか。

 国の行き先が誤らないことを切に願う、春待望の今日この頃であります。

2007年2月25日日曜日

終の棲家



 「終の棲家」として住んでみたいのは、南信州の駒ヶ根です。この町を車で初めて通ったときに、そのような気持ちにさせられてしまいました。町並みが整然としている、自然が美しい、信州人気質が好きだとかいった理由ではありません。第一印象がよかったのです。次女の家族が、飯田に3年間住んで、その滞在期間の間に孫が生まれました。その孫に会いたくて何度も訪ねた帰りを、高速道路に乗らないで、国道を通るたびに、駒ヶ根の町並みに入ると、何時もそう思わされたのです。

 これまで、たくさんの街を訪ね、通過し、泊まったりしてきましたが、そういった気持ちを持たせてくれたのは、この駒ヶ根だけでした。そんなに豊かには見えませんし、歴史があるのでもないと思います。そう願わさせたのは、年齢的なこともあるのでしょうか。境遇的なものもあるのだと思います。残された生涯を、海を渡って過ごそうと決意し、準備し始めてから、その思いはさらに強くなりました。持ち物や財産を処分して、わずかな衣服と書籍を持って、こちらに来ました。そして父から経済的に独立してから、初めて無収入の日々を生き始めたのです。

 餞別に頂いたり蓄えたものを持つて、寄留者のようのように生き始めました。2年間の経費には、十分ではないと思いますが、備えられると信じております。結婚してから借家住まいを、ずっとして来ましたが、その最後の借家をお返しして、そこにあった35年間のほとんどの物を、思い出を除いて処分してしまいました。何かが残っていたら、挫折した時に、そこに戻る事になるのだと思いましたから、すべての物を捨ててしまったのです。

 今は、外国人宿舎に住ませていただいています。『お父さんとお母さんはどんな風に生きているのだろうか?』と、心配した長女と次男が、先週と先々週、交互に訪ねてくれました。一緒に時を過ごして、必要な物いろいろと買い備えてくれました。育てた子から、厚意を受けて本当に感謝で一杯でした。『一人っ子っていいな。なんでももら一人でもらえるんだから!』と4人兄弟で、何でも分け合わなければならないのを友人と比べて、そんなことばをふと、小学生の時に漏らした長女でしたが、わざわざ来てくれたのです。次男は、『僕が面倒見るから、帰って来なよ!』と言っていました。

 父が青年期のある時期を過ごした国の一角で生き始めて、中国語を学んで、日本人を正しく理解していただくために、何かをさせていただきたいからであります。
  
 駒ヶ根ではなく、この国のどこかが、私と家内の「終の棲家」となるのかも知れません。

(写真は、「駒ヶ根観光協会」のHPからの転載)

次男


 どこで買い込んだのか、紀州梅や漬物やお茶漬けや黒飴や羊羹など、大きなかばんに詰め込んで、次男が、我が家を訪ねてくれました。春節の直前の週のことでした。見知らぬ土地で半年、生活環境をまったく変えてしまった親を心配しての問安だったのです。北京から、500元ものタクシー代を払ってでした。まったく言葉が出来ませんから、度胸1つで通訳機を忍ばせての来訪でした。

 こちらに来て間もなくして、小包が彼から届きました。決して独身だからではなく、気配りの子として、さまざまな家内と私の好物が詰めてありました。きっと、『これを食べたら喜んでくれるよな!』と思ってだったことでしょう。まさに、私と家内は、優しい心配りを喜びました。ことのほか家内の喜びは大きかったようです。思春期の真直中で、青春の蹉跌とでも言うのでしょうか、悶々と苦しんでいた彼に、家内は何度涙を流し、眠れない夜を過ごしたことでしょうか。私にとっては、母親の愛の深さを見せてもらった日々でした。
 
 ところが、そんな過去を忘れさせてしまうほどに、しつかりと回復して、小さな会社ですが営業部長をしているという次男の頼もしい姿を見て、すっかり安堵していました。この町に、日本で有名なデパートの支店があります。そこで家内にスラックスを買っていましたし、近くのスーパー・マーケットでは春先の靴も買っていました。宝石など見向きもしない家内に、『これ欲しい?』といって買って上げたそうにしていました。

 そのデパートに、開店して間もない日本食のレストランがあり、そこで『食事をしよう!』と誘ってくれたのです。指をくわえて素通りして、『誕生日に来よう!』と言うだけで、誕生日にも『またにしようか?』と言っていた日本食でした。油分が多くて、グルタミン酸調味料の効いた地元の食事を、時々、みなさんにご馳走になってきた私たちには、半年振りの懐かしい、信州そば、カレー・ライス、ソースカツ丼でした。美味かった!

 私にも靴を買ってくれたり、『時計は?服は?』と言ってくれました。食べたからだけではありませんし、親元を離れて学んでいた時に、彼に差し入れした「お返し」のようにみえますが、いいえ、懐かしい交わりを運んでくれ、楽しみ喜ばせてくれた、彼の訪問そのものが嬉しかったのです。

 親とは、素晴らしく特権を与えられた種族なのですね。漢族に感謝!

○亭の鰻


 『雅仁、うまい物を食いに行こう!』と言って、小学生の私を、父は新宿と渋谷に連れ出してくれました。歌舞伎町が、今のような闇の犯罪都市になる以前のことでした。「コマ劇場」で、誰かの芝居を見せてくれましたが、覚えていればいいのですが、誰が演じた芝居だったのかまったく記憶にありません。

 観劇を終えて、山手線で渋谷に出て、入ったレストランでの食事は、「ロシア料理」でした。子牛を調理した、それまで食べたこともない柔らかな肉をほおばって、『うまい!』と思いました。父の言った通りでした。お酒を飲まない喰い道楽の父は、何度か、『いつか駒形に行って、ドジョウ鍋でも食おうか!』と誘ってくれたのですが、果たさないまま逝ってしまいました。

 多分、父は子どもを、かわるがわる連れ出しては、同じような機会を作っていたのだと思うのです。喧嘩に明け暮れる男の子たちの「非行防止」の1つの策だったのかも知れません。満員電車にゆれながら、ケーキやサンドイッチや鰻や餡蜜や、夏にはソフトクリームまで買って帰ってくれました。旅行に行くと、薄皮饅頭だとか○○饅頭と言うものを、必ず買って帰って来たのです。景気がよかったのかも知れませんが、子供を喜ばすのが上手でした。キャッチ・ボールも相撲もレスリングも頬刷りもしてくれて、親子関係はずいぶんと濃くて親密だったのです。

 そんな父が召される数週間前に、入院先の病室を見舞った私に、『雅仁、神田の○亭の鰻が食べたい!』と言いました。私は翌日、買って父の元に運んだのです。ところが、肉の厚いほうを隣のベッドのおじさんに上げて、自分は、身の細い尻尾のほうを食べていたのです。そういった父でした。

 親子関係、とくに「父子関係」は、男の子の成長にも、女の子の成長にも実に大切だと思うのです。父親は、男の子には「男性像のモデル」を、女の子には「夫のモデル」を提供するからです。私の愛読書に、こう記されてありました。「彼は・・父の心を子に向けさせ、この心をその父に向けさせる。」とです。よい父親像を持つことは、人にも国にも必要なことです。

 たくさんの弱さを持ち、辛い過去も父にはありましたが、息子たちに費やしてくれた時間や心やお金は、どうも無駄にはなっていないと思うのです。

 亡き父に、感謝の思いを込めて。
(写真は、「駒形・前川」の蒲焼)

2007年2月20日火曜日

坊主頭の三分の一



 一昨年の春、転倒して右肩の腱板を断裂してしまいました。その負傷箇所の治療のために、入院して手術をしたのですが、入院中に長年の長髪を切ってしまいました。といってもかなり薄かったのですけれども。その断髪の1つの理由は、間もなく夏を迎えようとしていて、利き腕でない手での調髪が難しかったからです。


 2つは、同室で隣のベッドに入院中のNさんが坊主頭をしていて、隣で看護士さんにサッパリと刈ってもらっていました。不慮の事故で、左手だけがやっと利くほどの重傷を負っていた彼への同情と共感とによって、彼に真似たのです。私と2か月違いの同じ年に生まれ、同じ時代の風を受けながら生きて来たよしみででした。特に強く私の思いに迫ったのは、私が志を持って、残りの生涯を過ごしたいと願っていた、この中国の北京で、戦争の末期に生まれていたからです。彼も私も「戦争残留孤児」の世代なのです。母親の背に負われて、兄姉とともに、命からがら帰国した彼が住んだのは、私と沢違いの山村でした。60年がたって、怪我という共通体験を通しての入院先で、隣り合わせになったのは、不思議な巡りあわせと出会いだったに違いありません。

 3つは、私の父は、海軍の軍需工場の工場長(海軍大佐ほどの役職だったそうです)をして、あの勇名を馳せた「零式戦闘機」の部品の原材料を掘削していたのです。多くの前途有為の青年たちの命を乗せて、死地に運んで突撃死させた機体は、父の手が関わっていたのです。その戦闘機は、中国の内陸の「重慶」の爆撃にも用いられていたに違いありません。私の生まれた時代、その侵略によって、2000万人(私は1000万人だと教わっていたのですが、中国の方々はこの数字を提示されています)もの中国の人々の命を奪った責任を、私は重く感じたからです。『あなたには父の世代の侵した罪の責任がありません。しかし、これから起こるであろう同じような戦争に対しては責任が問われます!』とある方が言いました。まさに、その通りです。自分の生涯の締めくくりに何かができるなら、父の世代の罪を償うこと、そう思って生きてきたのです。彼らの中に住んで、二度と同じ過ちを犯さないために、彼らに愛を示しいたいのです。悔悛とか懺悔の思いで、私は坊主頭になりました。

 『旧日本兵にそっくりだ!』と家内に言われますが、そう感じさせない努力をして、柔和でなくてはと願っております。

 時折しも、旧正月が明けました。昨晩は爆竹と花火の炸裂音が響き渡っています。朝になった今もまた、そこかしこから花火を上げる音と爆竹音が、住宅郡の壁にこだましてすさまじいのです。道路には、真っ赤な爆竹の残骸の紙くずが山のように散乱しています。

 きっと日本軍の落とした爆弾の炸裂音も同じようなすさまじさだったのでしょう。ただし爆竹は、悪魔祓いと金持ちになりたい願望と天から祝福を求める、そういった意味が込められていると言われています。平和のために用いられているのですから、侵略に用いられたものとはまったく意味が違うわけです。

 「平安(平和)」と「安息」の享受こそが、この国が必要としていることなのではないでしょうか。そのために私は、「平和の使者」でありたいと願う、「春節」の祝祭の真直中です。    (2月19日) 
                    

刑務所の内と外


 学校の近くに、高いコンクリートの塀で囲まれた「刑務所」がありまた。冬場になると、この塀の周りを3周するランニングが基礎練習の定番だったのです。結構距離があったのですが。 『俺も将来、ここに入る可能性だって無いとは言えないよな!』と、変に納得しながら走っていたのを思い出します。今のところ、その塀の高さは高いままですが。

 また、近くに「少年院」もありました。この門の隙間から、教室とか宿舎が見えるので、通りすがりに何度ものぞいてみたものです。 『俺だって暇をもてあそんでいたら、ここに入っていても不思議ではないんだよな!』と思いながらでした。あいにくと言うか、運がよかったと言うか、ここにも入らずじまいでした。

 最近、この刑務所には、外国人が多いのだそうです。アジア人もアメリカ人もアラブ系も、40カ国もの国籍を持った人たちが、あふれるほどに収監されていると言うのです。言葉も、食べ物も様々なのだろうと思われます。かつて塀のめぐりを走っていた時に、そんなことは思いもしなかったことでしたが。少年院にも刑務所にも入らなかったのですから、あの学校で6年間学んだ学習効果があったことになるのだろうと、恩師の顔を思い出しながら。

 もう20年も前になりますが、A市の鑑別所から、一人の少年を預ったことがありました。幼い時に両親と死別して、姉と二人の姉弟でした。私の息子たちがまだ幼かったころのことであったのです。隠れてシンナーを吸い、塗装店から仲間とシンナーの一斗缶を盗んで警察に捕まるし、私の留守の間に遊び仲間を呼び入れるのです。愛が足りないので思いっきり愛を示しましたし、彼の姉も引き取って世話をさせていただいたのです。

 施設で育ったのですが、上級生には、いわゆる「喝上げ」をされたり殴られたのだと言うのです。家内は、一生懸命に世話をしてくれましたが、彼らは「家庭」がか、どのように機能するかも知らないのです。集団の中で生きて来たからでした。そうこうしている間に、長男が彼を怖がってしまいました。そんな時に、彼はプイと出て行ってしまったのです。

 『Nくんは、どうしてるかな?』と、今でも思います。まさか刑務所に入っていないと信じたいのですが。平凡な家庭を築いて、そこでで寛いでいて欲しいのですが。

 小菅の拘置所での体験を記した「獄中記」が、講談社から出版されています。500日以上もの拘置体験を綴ったものです。恥な経験を逆手にとって、たくさんのことを獄中で気付き学んだと言っておられます。

 『今頃、私の後輩たちは塀を左に見て、何を思って走っているのだろうか?』、そんな思いに駆られています。    (写真は、「武蔵野・多摩MTB散歩」から)

2007年2月19日月曜日

春よ来い、早く来い!


 「春節」、旧正月の祝祭を、中国では、こう呼びます。伝統的な年中行事の「正月」も「盆」も、西洋暦(太陽暦)で迎えるようになった日本とはちがうのです。陰暦にしたがって迎える「春節」は、何となく遠い昔の日本を懐古させてくれます。元旦が、春の到来を知らせると言っても、日本では最も寒い真冬であることに変わらないのです。

 ところが、T市の住宅の窓から射し込んでくる陽の光は、この数週の間、日一日と強さを増して来ております。外では北風が冷たくほほを凍らせるますが、陽の当たる背中は、もうぽかぽかと暖かいのです。『もう春が、そこまで来ている!』と感じさせられおります。

 中部地方の山の中で生まれ、東京で育った身には、今年の冬ほど寒さを感じさせてくれた年はありませんでした。近くの河が完全に結氷していましたし、北風も半端ではなかったのです。気温マイナス10度の連続日でした。とうとうズボン下と雪国使用のズボンをはいてしまいました。それでも刺すような寒さを感じてなりません。東北の黒龍江省に比べたら、寒さは数段弱いのでしょうけど、河北のこの街の寒さも実にきついのです。寒さには強かった私ですが、今年は、何だか弱音を吐いてしまったようです。


 夜中に花火が上がり、爆竹の炸裂音が、住居群の壁にこだましてけたたましいのです。時計を見ますと11時をとうに過ぎております。「超市(スーパー・マーケット)」には、贈り物が山済みにされ、真っ赤な色彩の飾り物や下着がケースに山盛りにされています。「豚」が印刷された下着が、「豚」の形をした入れ物で売られていたりします。今年の干支は、日本では「猪」ですが、ここでは「豚」です。道路の路肩には屋台が出て、爆竹と花火が山済みにされて売られていました。菜市場には、黒山のような人だかりがして、大量の食料が動いております。


 「春到来」の喜びが、真紅の色彩から溢れて流れ出ています。耐える寒さが厳しければ厳しいだけ、春の訪れの喜びは大きいのだと言うことが分かります。その迎春の喜びを、みなさんが満身から表しているわけです。こういった光景の遠い記憶が、何となく思い出されてならないのです。何十年も前の日本の農村部に見られた光景が、ここにはいまだに残されているからです。


 民間伝来の春節を、街中のたたずまいと人々の表情と陽の光から感じ取れるのです。そんな私の背中に、陽の光が、『春が来た!』ことを告げているかのようです。


 『春よ来い、早く来い!』                                                (2007年2月15日)

2007年2月13日火曜日

詩心をもって生きよ!


 『あなたたちは詩人であって欲しい!』と、30代後半ほどの年齢で、目の澄んだ、髭剃りあとの頬の青い、端正な顔立ちの講師が講義をしていました。彼の授業は楽しく一度も休んだことがなかったのです。聴いた多くの講義の中で、この言葉だけがまだ耳に残っています。講義された百番教室、そのたたずまいも臭いでさえも、思い出せと言えば思い出すことができます。

 Y市で社会事業に従事されて、社会からなおざりにされた方々のために骨身を惜しまずに世話をされておられました。彼が、後輩に伝えたかったのは、『詩心を持って生きよ!』と言いたかったのでしょう。夢を持って生きること、たった一度の人生を、物の豊かさではなく、心の豊かさをもって生きることを勧めたかったに違いないのです。

 彼は、いつも紺の背広に同じネクタイで講壇に立っていました。『物ではなく、精神こそが一番大切なのだ!』と無言のうちに語りかけているようでした。禁欲主義者かと思うと、そうではないのです。ピューリタンの継承者だったに違いありません。

 いつでしたかテレビの対談に出ておられたのを見ました。髪の毛が白くなり、少し太られたように見受けられたのです。でも、その目の澄んだ輝きは、あの百番教室に立っていた時と同じでした。彼をブラウン管の中に見、彼の話を聞いたとき、30年ほどの年月が経っていたのですが、彼の理想とする生き様も価値観も変わっていないのが分かったのです。同じように生きて来たことを伺い知ることができて嬉しさが込み上げてきました。教育と言うのは、口先の行為ではないのだろうと思います。手と足とが「心の原理」に従って動き出す行為だと言えるのではないでしょうか。

 この師から一冊の薄い本が送られて来たことがありました。その中に、ベルジャエフと言う思想家の言葉が引用されていたのです。『自分のパンの問題は物質的であるが、人のパンの問題は精神的である。』とありました。《人のパンの問題》に、心を向けて生きること、彼がベルジャエフに挑戦されたことなのでしょう。そして彼もまた、そのように生きることを、われわれに願ったのだろうと思うのです。渇き飢えた現代人の心に、天来の糧をもって届きたいと切に願うこのごろです。詩心をそえて。                (2007年2月13日)

2007年2月12日月曜日

「すそを堅くつかんで・・・いっしょに行きたい」


 T市の住まいで、2007年が明けました。驚くような速さで街が変わっていくのが感じられます。たったの4ヶ月の間に、その変化を身近に感じてさせられているのです。

 「08北京オリンッピック」が開催されるのにともない、サッカーと卓球の競技が、この街で行われるからです。道路が拡幅整備され、高層住宅があらこちらに建設中です。違法に改装されていた集合住宅が、有無を言わせず、一様に元の姿に戻され、青空市場で商いをする闇商人たちが追い払われ、去った後の道路に、敷石が敷かれて行くのです。壊れた看板が新しく付け替えられ、街中に散乱していたごみを清掃人が箒を持って掃いています。信号無視の車や人や自転車の行き来する交差点には警察官が立って、交通の流れを指導している様子が際立ちます。スーパー・マーケットの中に、『放痰禁止!』の貼り紙が見られます。外側から、この国が変わろうとしているのです。

 1964年に、東京でオリンッピック大会が行われた当時の東京を思い出してみて、ここ天津が、40年余り前の東京に、どこか似ているのを感じさせられています。目立った近代的な建造物のなかった東京の街の中に、ビルの間を綱渡りか綾取りの糸のように曲線を描いて交差した首都高速の道路網が張り巡らされて行きました。まだのどかなな旅が楽しめたのに、高速の東海道新幹線で、東京と京都・奈良・大阪とが結ばれたのです。アメリカ映画でしか見たことのない、大都市の景観が、東京で見られるようになったのには目を見張らされました。でも、新宿でも渋谷でも街の中には、ごみが散乱し、悪臭がドブから立ち昇り、手洟をかみ、痰は辺りかまわずに吐かれていたのを覚えています。代わりつつある街の中で生きる人たちの生活習慣と、近代化していく街の景観との間に、不釣合いがあったのです。

 今の東京を見て、『建物では引けを取らないし、かえって私たちの国の方が優れています。しかし東京の町が実にきれいなのに驚かされてしまうのです!』と、東京を訪ねた中国の方が語っておられるのを聞きました。「きれいな東京」、一瞬のうちにできたのではありません。30~40年の歳月の地道な努力と変化の積み上げがもたらしたものなのです。

 この天津の街の中で、『仕事がないのです!』との話を何度も聞いています。50代の男性の話なのですが。青年も例外ではないようです。大卒が多く、その学生数にも驚かされます。『せめて、子供には高等教育を!』と、高等教育を受ける機会を得なかった世代のご両親が共働きで、子弟の教育を願ったからなのでしょう。失業の主要な世代は、あの時代の大変動の只中を中学~大学で過ごした人たちの世代なのだそうです。その「しこり」は30年たっても消えていないようです。強い酒が飲まれています。酩酊した人が寒風の中、路上に横になっているのえお見かけました。豊かさとともに、精神的な荒廃や混迷が後を追って来ているのでしょうか。

 貧しいときには、『豊かさに向かっての一生懸命さ!』でやって生きて来たが、物が豊かになるにつれて、考える余裕が心の空虚さに気づかせているのではないでしょうか。『日本とは違って自殺をする人はほとんどここにはいないのです!』と聞きます。2006年も、また3万人以上の自殺者を日本が出している事を知って、うらやましい限りですが。

 でも今日の日本の問題は、明日のこの国の問題かも知れないのです。でも、身近に感じている事ですが、この国の人たちは、クヨクヨしないし悩まないのです。遠慮など高い徳ではないかも知れません。多弁な彼らは大声で感情を豊かに放出しています。自らの命を断つことなく、生きるのに賢明な民族に違いないのです。でも将来は分かりません。「唯物論」に養われた旧ソ連の人々のアルコールの過度の摂取が、今日の大きな社会問題であるのを知って、その可能性を、この愛する方々の内に感じてならないのです。「心」や「霊魂」の存在、いのちの付与者を認めない教育を、1950年代から受けた世代の人たちの心に、「潤い」や「優しさ」や「静寂さ」への渇望がうかがえるからです。物が人の生活を潤す以上の価値感を知って、それを願い求める願いが、湧き上がるに違いないと信じるのです。心が豊かになりたいと願っているからに違いありません。

 その価値を、すでに見出した者たちの「衣のすそ」を、彼らが堅く握って、「いっしょに行きたい」と、私たちのもとに求めて来られるのではないでしょうか。この国の祝福を願う、新しい年の初めであります。 (1月1日)                                                                           

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自己紹介

 次男に勧められて始めた「ブログ」ですが、2007年7月から1年間休刊しました。その間、他の「ブログ」を開設したのですが、2008年7月に、名前を変えて再開しました。  父として子どもたちに、爺として孫たちに、また母や兄弟や友人たちにも、何かを語り残したいと願って、続けています。