2007年2月20日火曜日

坊主頭の三分の一



 一昨年の春、転倒して右肩の腱板を断裂してしまいました。その負傷箇所の治療のために、入院して手術をしたのですが、入院中に長年の長髪を切ってしまいました。といってもかなり薄かったのですけれども。その断髪の1つの理由は、間もなく夏を迎えようとしていて、利き腕でない手での調髪が難しかったからです。


 2つは、同室で隣のベッドに入院中のNさんが坊主頭をしていて、隣で看護士さんにサッパリと刈ってもらっていました。不慮の事故で、左手だけがやっと利くほどの重傷を負っていた彼への同情と共感とによって、彼に真似たのです。私と2か月違いの同じ年に生まれ、同じ時代の風を受けながら生きて来たよしみででした。特に強く私の思いに迫ったのは、私が志を持って、残りの生涯を過ごしたいと願っていた、この中国の北京で、戦争の末期に生まれていたからです。彼も私も「戦争残留孤児」の世代なのです。母親の背に負われて、兄姉とともに、命からがら帰国した彼が住んだのは、私と沢違いの山村でした。60年がたって、怪我という共通体験を通しての入院先で、隣り合わせになったのは、不思議な巡りあわせと出会いだったに違いありません。

 3つは、私の父は、海軍の軍需工場の工場長(海軍大佐ほどの役職だったそうです)をして、あの勇名を馳せた「零式戦闘機」の部品の原材料を掘削していたのです。多くの前途有為の青年たちの命を乗せて、死地に運んで突撃死させた機体は、父の手が関わっていたのです。その戦闘機は、中国の内陸の「重慶」の爆撃にも用いられていたに違いありません。私の生まれた時代、その侵略によって、2000万人(私は1000万人だと教わっていたのですが、中国の方々はこの数字を提示されています)もの中国の人々の命を奪った責任を、私は重く感じたからです。『あなたには父の世代の侵した罪の責任がありません。しかし、これから起こるであろう同じような戦争に対しては責任が問われます!』とある方が言いました。まさに、その通りです。自分の生涯の締めくくりに何かができるなら、父の世代の罪を償うこと、そう思って生きてきたのです。彼らの中に住んで、二度と同じ過ちを犯さないために、彼らに愛を示しいたいのです。悔悛とか懺悔の思いで、私は坊主頭になりました。

 『旧日本兵にそっくりだ!』と家内に言われますが、そう感じさせない努力をして、柔和でなくてはと願っております。

 時折しも、旧正月が明けました。昨晩は爆竹と花火の炸裂音が響き渡っています。朝になった今もまた、そこかしこから花火を上げる音と爆竹音が、住宅郡の壁にこだましてすさまじいのです。道路には、真っ赤な爆竹の残骸の紙くずが山のように散乱しています。

 きっと日本軍の落とした爆弾の炸裂音も同じようなすさまじさだったのでしょう。ただし爆竹は、悪魔祓いと金持ちになりたい願望と天から祝福を求める、そういった意味が込められていると言われています。平和のために用いられているのですから、侵略に用いられたものとはまったく意味が違うわけです。

 「平安(平和)」と「安息」の享受こそが、この国が必要としていることなのではないでしょうか。そのために私は、「平和の使者」でありたいと願う、「春節」の祝祭の真直中です。    (2月19日) 
                    

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自己紹介

 次男に勧められて始めた「ブログ」ですが、2007年7月から1年間休刊しました。その間、他の「ブログ」を開設したのですが、2008年7月に、名前を変えて再開しました。  父として子どもたちに、爺として孫たちに、また母や兄弟や友人たちにも、何かを語り残したいと願って、続けています。