2009年4月29日水曜日

父(てて)無し子の級友たちの顔が


 今日は、国民休日の「昭和の日」ですね。私たちが中国に来ましたのが、2006年の8月でしたから、日本不在の2007年に、新たに祝日になった日なのです。もちろん、「昭和天皇の誕生日」であったのですが、お亡くなりになった後に、「みどりの日」に名称が変わりました。この祭日に、『休んだ!』との実感がありませんでしたので、不注意に見逃してしまっていました。本日、4月29日、日本から東シナ海を隔てた、ここ福州で、あらためて「昭和」の時代を顧みております。

 一言で言いますと、「激動の時代」だったのでしょうか。アジアや太平洋への戦争の拡大、国内統制、物資の欠乏、多くの犠牲者、終戦、占領、戦後処理、朝鮮戦争の特需、奇跡的な復興、国連加盟、世界第二位の経済大国、学校の崩壊、全学連、自殺者の頻発、公害、環境破壊、薬害、公害対策、天皇崩御、明仁様の即位、公けにはそのような時代でした。私的には、父と母が結婚し、私たち四人の男の子の誕生、戦後教育を受け、就職、結婚、転職、四人の子どもたちの誕生と成長などの時代だったのです。個人的には、テレビで、皇太子・明仁様と美智子さんのご成婚を、アメリカ大統領のダラスでの暗殺事件を、旧ソ連やアメリカの宇宙開発、市ヶ谷の自衛隊での三島由紀夫事件などの、「衝撃的瞬間」を見たりしました。

 その「昭和」の時代が終わって、「平成(1989年1月8日に元号が変わる)」になって、もう21年になるのですね。それにしても、「平成」の実感が薄いのは、どうしてでしょうか。多情多感な青年期を過ごした「昭和」が、どうしても強烈に印象付けられているからなのでしょう。昭和47年・1971年は、やはり忘れることの出来ない年です。父が召されたからです。当時中野の高校に奉職していた私は、出勤したところに、母から電話が入って、入院先の病院で父が召された旨、知らされたのです。母は、『雅ちゃん、びっくりしないでね、実は・・・』と、一呼吸おいて、父の死を知らせてくれたのです。休みをもらって、その病院に駆けつける間、涙がこぼれて止まりませんでした。あんなに泣いたのは初めのことでした。肉親の死は衝撃だったのです。その日は、父の退院の日だったことで、喜びが裏切られたことが、よけい衝撃度を増したのでしょうか。「父の死」の受容というのは、難しかったと思います。親不孝者が、せめてもの孝行のできる矢先だったからでもあります。葬儀がすべて終わって、高尾霊園に、父の遺骨を埋葬したときには、虚脱感で満たされたのを覚えています。もう一方では、悲しんでいるよりは、五十代中ほどの母を力づける必要を感じたのですが、かえって母からの励ましのほうが大きく強かったのではないでしょうか。

 激動の核になるのは、どうしても「戦争」でしょうか。予科練の生き残りの方が、仲間の死に対して、『彼らの死は、無駄な死でも、犬死でもないのです。祖国のために命をささげたからです!』と言ったことばが忘れられません。有為な青年たちの犠牲の上に、新しい日本の再建がなされてきたことになります。そうですね、お父さんを戦争で失った、大激動の中をめげずに生き抜いて来た「父無し子(ててなしご)」の級友たちの顔が思い出されてきます。

(写真は、野坂昭如作「火垂るの墓」のアニメーションのDVD です)

2009年4月27日月曜日

『這えば立て、立てば歩め・・・』


 隣家に猫が二匹飼われてています。先ごろ若いほうの猫が出産をしました。子猫の声がしばらくしてからやんでしまったのですが、どうも飼い主が、母猫の留守の間に処分してしまったようです。それで、毎日毎晩、産んだ子猫を呼ぶ声がして、実に切ないのであります。親猫の子への情愛が、こんなにも深いのだということを知らされて、鳴き声に悩まされながらも、感心させられております。狼にしろ猫にしろ、人間以上の愛情を子にそそぐ、その様は、『人間よ、猫に学べ!』と言われているようです。
 
 物資の少ない時代の子育ては、きっと大変だったのではないでしょうか。父の若い日の写真が母のアルバムの中にあるのですが、戦争末期に、仕事で山奥の採掘工場から東京の本社や陸軍省に出かけたときの写真のようです。恰幅の良い父にしては、信じられないほどに、頬が落ちて眼がくぼんで、痩せて写っているのです。敗戦間近の東京の食糧難は相当なものだったようです。そんな中、四人の子育ては、山村でも並大抵ではなかったのではないでしょうか。飽食の今からは、想像することが出来ない、《食べられない時代》があったのです。どこからか、生まれたばかりの私のためにミルクを、兄たちの食料も調達してきて、ひもじい思いをさせなかった父と母には、感謝がつきません。

 『子を持って知る親の恩!』、父と母に、私たち四人兄弟があったのですが、私たちにも四人の子が与えられました。子育ては、70~80年代の好景気の時代でしたから、私の父母に比べたら容易だったのだと思われます。それでもお金がなくて、米が買えないときもありました。『どうしよう?』と思っている矢先、『広田ちゃん、米が採れたので食ってくれますか!俺が母ちゃんと作った米、うまいですよ!』といって貰らい、兄の福井の友人や知らない人から送って来たり、そんなことが何度もあったのです。『おかずがない!』と思っていたら、佃煮が送られてきたり、肉を戴いたり、結構ぎりぎりのところで、備えられたことが度々あるのです。そうしますと、子どもたちにとって、『何不自由なく生活できる我が家!』ではなく、物のないときを一緒に過ごしたことがあったことになります。いつも、ぎりぎりのところで、カラスが運んでくれた経験をしていることにもなりますね。継ぎを当てたズボンなどはいている子などいなかった時代でしたが、継ぎをしたものを着たり穿いたり、お古を使ったりしてきたのです。そういった経験は、子どもたちにはよかったのでしょうか。また、《待つこと》や《我慢》を学ぶことが出来たのもよかったに違いありません。

 長男に子どもが二人、次女にも二人いて、今、私と家内には計四人の孫がいます。『這(は)えば立て立てば歩めの親心 !』は、ジジとババの心でもありますが、健康で元気に育っていることは何よりです。

  『野菜を食べて愛し合うのは、肥えた牛を食べて憎み合うのにまさる!』
  『一切れのあわいたパンがあって平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家に
   まさる!』

という諺がありますから、そんな家庭で育っていってほしいと願ってやみません。「端午の節句」で、鯉幟を挙げ、武者人形を買ってあげられなのですが、心と体が健全で、愛心や優しい心を宿した子どもとして育ってほしい、名のない野の花のように、春の若芽のように、静かに、そして着実に、すくすくと、そう心から願う「黄金週間」目前の福州のババとジジであります。

(写真は、HP《静かな裏庭》の「枇杷の芽」です)

2009年4月26日日曜日

孫たちの成長を願った祖母の心


     「背くらべ」    海野 厚作詞  中山晋平作曲

  柱のきずはをととしの   五月五日の脊(せい)くらべ
  粽(ちまき)たべたべ兄さんが   計(はか)つてくれた脊(せい)のたけ
  きのふくらべりや何(なん)のこと  やつと羽織(はおり)の紐(ひも)のたけ

  柱に凭(もた)れりやすぐ見える  遠いお山も脊(せい)くらべ
  雲の上まで顔 だして  てんでに脊(せい)伸してゐても、
  雪の帽子(ぼうし)をぬいでさへ  一はやつぱり富士 の山

 昭和11年は、青年将校たちが、『昭和維新!』を掲げて決起した、「二・二六事件」があった年でした。その時、彼らが歌ったのが、昭和5年、24歳の海軍少尉・三上卓が、長崎の佐世保で作詞した、『汨羅(べきら)の渕に波騒ぎ  巫山(ふざん)の雲は乱れ飛ぶ  混濁(こんだく)の世に我れ立てば  義憤に燃えて血潮湧く 』という「青年日本の歌」なのです。この「汨羅(べきら)の淵」とか「巫山の雲」というこのことばですが、『いったい、何のことだろう?』と、思って調べてみました。「汨羅」とは、湖南省にある川の名で、屈原という人が入水(じゅすい)したことで有名な川です。また、「巫山」とは、四川省にある山の名で、楚の懐王が見た夢に登場しています。美しい山というよりは、どうも道徳的に乱れた状況が見られた地域として有名なのだそうです。三上卓が、昭和初期を、「混濁の世」と言い、その世相に「義憤に燃えて」歌ったわけです。お隣の中国の故事の中から、『昭和の世は、道徳的に退廃し、自殺者がおびただしく出て、実に嘆かわしい!』という、嘆きの気持ちを込めて詠んだのでしょうか。

 ところが、泪罗に身を投じた屈原は、ここ中国では、高く評価されいる人物で、歴史上の実在者なのです。彼は、「悲劇の武将」と言ったらいいでしょうか。もっと積極的に言いますと、「憂国の士」、「愛国の士」と言った方がいいかも知れません。戦国春秋の時代の「楚」の政治家で、名門の王族の出でした。懐王に仕え、信任が篤かったのです。当時、楚は、「秦」と「斎」という二つの国と、どう国交していくかについて、意見が分かれていました。屈原は、親斎派で、『秦を信用することはいけない!』と主張したのです。ところが、政治的な手腕が優れ有能であった屈原を妬む「親秦派」に讒言され、結局、懐王は、秦と国交することに決めたのです。屈原が案じたとおり、秦は楚を攻撃して負かしてしまい、難題を要求し懐王も人質にされ、楚は風前の灯のような状況でした。国の将来を憂えた屈原は、泪罗江に身を投じてしまったのです。その日が、五月五日でした。

 弟を愛した姉は、屈言の遺体が魚に食われないように、竹の筒に入れたご飯を泪罗に流して、遺体を守ろうとしたのです。その後、彼の命日に、彼を慕う人々によって、「栴檀 (せんだん)」や「笹」の葉でご飯を包み、五色の紐でしばって、汨羅の川に流すようになったのです。それが「端午(たんご)の節句」の「粽(ちまき)」の始まりです。

 子どもの頃、毎年、五月五日の前になると、小包が届きました。母の故郷からでした。母の養母が、母の四人の男の子のために、笹の葉に包んだだももち米粉と米粉で作った「粽」を送ってくれたのです。私たちの成長を、遠く山陰の地から願って、毎年欠かすことなく送ってくれたのです。バターのように滑らかではなく、砂糖の甘さもなく、クリームの美味しさのない素朴な味で、さとう醤油をつけて食べました。孫を思う祖母の心が、その「粽」に籠もっていたのです。舌にではなく、「心」に愛情が届いたのではないでしょうか。また、父と過ごした家の柱に、四人の毎年の背丈を書き込んだ跡が残っていました。さらに、我が家の四人の子どもたちの成長のあとを記した柱もありましたが、解体のときに、柱を保存しておきたかったのですが、置き場所がなくてあきらめてしまいました。「粽」は、屈原の悲劇などつゆ知らず、「端午の節句」の祖母の温もり味であり、「柱のキズ」は、成長の懐かしい思い出であります。

(写真は、HP《godmotherの料理レシピ日記》の「粽」です)

2009年4月20日月曜日

わが師匠の夢


 中国に「二胡(にこ)」という楽器があります。胡弓とも三味線とも違っていて、ヴァイオリンのように弦で弾くのですが、肩ではなく左足の付け根に置きます。私は、三味線にはまったく興味がありませんでしたが、『中国に行って、もし時間があったら、二胡を習ってみたい!』と思っていました。天津の私たちの通っていました学校の近くに、「天塔(テレビ塔)」があります。友人が、その近くに住んでいて、訪ねた帰りに、川辺の東屋で、二胡を演奏して、それにあわせて歌っている人たちを、自転車を止めて眺めていたことが何回かありました。二胡に興味があるのを知った老人が、『ずっと、ここにいるのなら教えてあげよう!』と言ってくれたのです。でも、まもなく、私たちは福州に越してしまいましたので、その機会をえませんでした。

 昨年の暮れに、友人との談笑の中で、「二胡」が話題になったのですが、そのとき、私は、『習ってみたいんですが!』と話しましたら、この友人が、一人の方を紹介してくれたのです。福州人ですが、長らく広東省の「深圳(しんせん)」でマッサージをされていた方で、やめて福州に家を持たれて帰って来られたのでした。お名前を、「陳」とおっしゃいます。1941年の生まれですから、すぐ上の兄と同い年で、生まれてまもなく失明され、悶々とした中で自殺も考えられたそうです。それでも、ある方の勧めで、マッサージの学校に行くことになり、そこを終えた後は、北京にある短期大学に合格され、そこでもマッサージ術を勉強されたのだそうです。卒業後、深圳で開業され、腕を評価され、広東省の省長さんや市長たちがお得意さんだったそうです。なかなかの人格者で、眼のよくないみなさんと、音楽活動をされておられ、様々なところに出かけています。更なる活動を期しておいでです。この方は、二胡とは別に、お皿を楽器にして演奏もされるのです。

 この方が、『教えましょう!』と言ってくださったのです。17歳から始められて、抜群の腕の持ち主ですが、この私に週一度2時間のレッスンを無料でしてくださるというのです。彼の夢は、彼の演奏活動に、私を連れて行くことなのだそうです。六十を過ぎてから、発心して新しいことに挑戦しようとした気概を喜んでくださったのです。それで一生懸命に教授してくださるわけです。ところが音楽の素質の無い私は、なかなか上達しないのです。悪戦苦闘、それでも少しづつ弾けるようになってきていますが、まだまだ人に聞かせるところには至りませんが。

 先週のレッスンの合間に、失明に至る話をしてくれました。友人が通訳してくれたのですが。お父様が、福州でラジオ放送のお仕事をされていたそうです。日本軍が来るというので、福州の北にある三明市に、放送機材を運んで、山の中で放送を続けたようです。この陳先生は、お母様のおなかの中にいて、悪路を慌しく、その町に疎開されたのです。日本軍が、その疎開先の町にもやって来て、お母様は、『殺される!』といった恐怖に満たされて、家の中に隠れていたのです。ところが幸いにも、家の中に入ってこないで去ったのだそうです。そんな困難の中に、陳先生は誕生されたのです。私が、『失明と日本軍の侵略と関係があるのでしょうか?』と言ったのですが、彼は否定されましたが、言わずもがなであります。戦争が終わって、お父様の貯金を全部持って、上海の有名な眼科で受診されたそうです。医者は、『生まれてすぐに手術をしていたら・・・・』と言われたそうです。遅かったのです。もし、日本軍さえ来ないで福州にいたら、汽車で上海に行くことが出来たのです。やはり、関係があるわけです。でも彼は、日本を恨んでいませんで、日本人の私に「二胡」を教えることを喜びとし、私を連れて出かけることも夢見ていてくださるのです。この年になって、また師匠を頂いたことは、私にとってはとても感謝なことであります。

 やぁー、こんなに期待されたら、ここにいなければなりませんし、もっと上達しなければなりませんね。もし許されるなら、師匠のかばんを持って、町々村々を旅したいものです。夢や幻は、年齢には関係ないのです。どうも、おっちょこちょいの性格は、いくつになっても直らないようです。

(写真は、HP《タカハシミュージックプラザ》の「二胡」です)

2009年4月19日日曜日

『どんな醜い母でも、愛さなければならない!』


     『あなたの父と母を喜ばせ、あなたを産んだ母を楽しませよ。』

 『誤っている点やよくない点を指摘し、あげつらうこと。』を「批判」、『相手の欠点や過失を取り上げて責めること。』を「非難」、『他人の悪口を言うこと。」を「誹謗(ひぼう)」、『根拠の無い悪口を言い、他人の名誉を傷つけること。』を「中傷」、『事実・論理に合わない、でたらめなことば。』を「妄言(もうげん)」、『罪状や責任を問いただして、とがめること。』を「糾弾(きゅうだん)」、『他人を陥れようとして、事実を曲げ、いつわって悪し様に告げ口をすること。』を「讒言(ざんげん)」、と三省堂の「スーパー大辞林」にありました。聞いて心地よくないことばを言い表した「ことば」をこれだけ知っていますが、ほかには思い出せません。

 何で、こんな「ことば」を挙げ連ねたかといいますと、願わないことをたびたび人から言われきたからです。私は極力、人の悪口を言ったり陰口を利かないで生きてきたつもりですが、さりとて失敗もきっとあるはずですから、誇れませんが。これまでの私に対する「ことば」を思い返しますと、「非難」と「讒言」を、何度か聞いてきましたし、「批判」はしょっちゅうでした。『それだけ、私に関心があるからなのだから!』と思って、聞くことにしたのです。当を得た「ことば」であるなら、くみ上げて、反省もしました。誤解されたときは、馬耳東風で聞き流してしまいました。そんな中で、どうしても忘れられない「ことば」が幾つあります。まあ忘れられないで覚えているのですから、強烈だったことになるでしょうか。その中で一番強烈だったは、事実無根なことを公にブログで攻撃されたことでしょうか。

 そのほかに心外だったのは、「マザコン」と陰口されたことです。直接ではなく、家内を経由して、そう言われたのです。一度や二度ではありませんから、『俺は、本物のマザコンなのだろうか?』と思って、『では、マザコンに徹してやろう!』と反骨の思いをもったりしたのです。なぜかと言いますと、私が母親のことを話題にして、ちょくちょく話したからでした。母を語る、母を誇る、これは「孝」や「感謝」であって、誰もがすべきことだと思いましたから、「マザーコンプレックス」のレッテルを貼られても、母を語って止むことなく、ここまで生きてきました。中国語辞書では、「対母親的錯綜意識(幼年時受母親過分寵愛的人、青年時期所表現的一種対女性関係的抑制心理状態)」とありました(遼寧人民出版社「新日漢辞典」)。精神医学者で「精神分析」の創始者のフロイトが命名したことばです。

 中国に、『どんな醜い母でも、愛さなければならない!』という格言があるそうです。だからでしょうか、中国の武勇伝の英雄たちは、自分の母をよく語り、敬い、大切にし、誇るのです。そのような母親思いの武将を、民衆は高く評価し、英雄視するわけです。「日本青少年研究所」という団体がありまして、2004年に、日・米・中の高校生の調査をしました。その中で、『どんなことをしてでも親の面倒を見たいか?』という項目に、次のような結果がでています。アメリカは67.9%、日本は43.1%でしたが、中国は84.0%という高いパーセンテージを上げているのです。『祖国は母である!』、国を愛するなら、母を愛するということを学び、中国の青年たちは、それを実践しようとしているのです。そんな若者たちの一人が、深沢七郎の「楢山節考」を知っていて、「姥捨山伝説」について質問されたことがあります。私が母を誇ることと、その私をフロイトの口を借りて『マザコン』と言うのと、どちらに軍配が上がるのでしょうか。中国の若者たちは、きっと私を支持してくれるに違いありません。中国に来てよかった、ひとつの理由の一つがこれであります。今日、二歳違いの弟が、母孝行の行き先を、出雲から鎌倉に替え、『五月の連休に、一緒に行って来るね!』と言ってきました。うーん、弟には負けてしまいます!

(写真は、東映映画「楢山節考」の一場面、主演の緒形拳は昨年10月に亡くなりましたね)  

『ピチピチ チャプチャプ ランランラン!』


 先週、授業のときに、『あめあめふれふれ、母さんが 蛇の目でお迎え、うれしいな・・・』を歌ってしまいました。篠つくような雨の中を出勤した私は、北原白秋作詞、中山新平作曲の「あめふり」を披露したわけです。歌っていて、小学校のころの光景を思い出してしまいました。涙はこぼれませんでしたが、歌い終わりましたら、万雷の拍手がありました。日本の「梅雨」は、六月から七月頃ですから、一足も二足も早いのですが、ここ福州の雨を、日本で生活をしたことのある知人たちは、「梅雨」と呼んでいます。本来、「梅雨」は、揚子江を境に、北の気団と南からの湿気を帯びた暖かな気団が、長江上空でぶつかり合って、「梅雨前線」を発生させて、朝鮮半島や日本列島に、雨をもたらすのですが。こちらの今頃の雨も、やはり、日本の「梅雨」に感じが似ていて、同じ漢字で表記しますが、「黴雨(中国語では《霉雨meiyuメイ・イ》」と書いて、黴の生えやすい時期であることを言い表しています。実によく降りますが、それでも,『ピシッ!』と止んでは降るを繰り返しています。去年も、この時期を、こちらで過ごしているのですが、『こんなに雨が降ったかな?』と思ったりで、季節の移ろいを余裕をもって感じられるようになってきたのでしょうか。

 さて、歌ですが、『・・・・ピチピチ チャプチャプ ランランラン!』と続けたので。これは擬声語ですが、説明が難しいのです。身振り手振りをしましたら、みんなは分かったのでしょうか、頷いてくれました。この擬声語は、日本の国語の中には多くあって、わが国語の一大特徴かも知れませんね。人や動物や自然が、動いたり発したりする様子を、『きっと、こうだろう、そうだろう!』と思っては、ことばで表現するのですから、とても興味深いものです。雨を歌った歌の多くが、悲しくて切なくてやるせないのですが、この歌は違います。蛇の目を持って迎えに来てくれたお母さんがうれしくて、この子は『ランランラン』と、ホップしながら鼻歌を歌って喜んでいるのでしょうか。お母さんが忙しくない、いつも家にいてくれ、登校時には見送り、家に帰ると出迎え、急に雨が降ると、わざわざ傘を持って学校まで迎えに来てくれるのですね。そういえば、この歌は、母が八歳の頃(大正14年)に発表されているのですから、そんな悠長な時代だったのです。

 昔のお母さんは、化粧していませんでしたね。割烹着(白い木綿の生地で出来た料理用の上っ張り)を着て、下駄を履いて、買い物籠を下げていたと思います。家事や子育てに専念できた時代だったわけです。やっぱり、子どもたちにとってはいい時代だったわけで、情緒の豊かな人に育ったに違いありません。うーん、物の豊かさよりも、心の豊かな、そんな時代はもうやってこないのでしょうね、とても残念ですが。




(写真は、「あずさ屋(長野県喬木村)」で、蛇の目の傘を作成しているところ。下は、完成品です)

2009年4月17日金曜日

踏春


     「あなたの友、あなたの父の友を捨てるな。あなたが災難に会うとき、
     兄弟の家に行くな。近くにいる隣人は、遠くにいる兄弟にまさる。 」

 「アイデンティティー(identity)」ということばがあります。英語の訳語は、「正体」とか「身元」と訳したらいいのかも知れませんから、『私は誰?』、『どうしてここにいるの?』、『これから何をするの?』という問いかけになるでしょうか。また、「ルーツ(root)」は、「起源」とか「祖先」になるでしょうか。私たち日本人の正体ですが、かつて、「単一民族国家」を形成してきた「大和民族」であると言われていましたが、今では、そういったことを声高に言う人はいなくなりました。としますと、「混血民族」であることに間違いはありません。

 中国に参りまして、まもなく三年になろうとしています。この間、多くの人と出会ってきましたが、昨年末、私たちのお世話をしてくださる方の友人が来られ、時々、我が家にも来られるのです。その彼女が、家内の召された兄の令夫人に、びっくりするほどそっくりなのです。この方だけではありません、『エッ!○○さんにそっくり!』という方に、これまで何人も会ってまいりました。お会いした方ばかりではなく、私の家内は、最近は中国人に思われていて、町で路を聞かれては、二度に一度は答えることができるようになっているようです。同じ土地の上で、同じ空気を吸い、水を飲み、食材を食べていますから、風土に見合った顔つきになってくるのでしょうか。人間とは、それほど風土に見合ったものになるのかも知れません。

 それもそうでしょうけども、民族的には、ほとんど代わらないのではないでしょうか。私の血の中に、中国人の血も、朝鮮民族の血も、南方民族の血も、イルクーツク人の血も流れているに違いないからです。ことのほか福建省は、日本に近く、長い年月にわたって文化交流や人間の往来があったからでしょうか、ことばや習慣が似ているのです。こちらの方言の「闽南话(台湾語とほとんど同じ)」で、「いち、にい、さん、しい・・(五以上は違いますが)」は、日本語と同じですし、『エッ!』と思うほど似ていることばが、方言の中から聞こえてきます。また「黄檗宗(禅宗)」の日本での開祖は、私たちの隣町の福清の出身の「隠元」なのです。そういった交流や往来を、文献的に研究したら、面白い発見が出来るのではないかと思っています(そういった研究がなされていますが)。ポリネシア人の友人がいますが、体型は別にして、日本人とほとんど変わらないのです。

 先週、福建師範大学の日本語学科の「スピーチ・コンテスト」に行ってきました。私たちと親しく交わりをしています一人の学生が、日中関係は、「一衣帯水」の関係にあることを語っていました。彼らの話を聞いていて分かったのは、多くの若いみなさんが、日本語と文化を学ばれ、こちらで生活している日本人との交わりを通して、良い体験をしていることでした。かつての偏見や誤解が氷解して、日本の良さと弱さとを、しっかりと理解したうえで、良好な関係に回復することを願って、「架け橋」になろうとしているのです。

 子どもの頃に、聞いていた中国人のイメージは、長いキセルでプカプカと煙草を吸って、働くことが嫌いで、動きが鈍重だというものでした。こちらで私がお会いしている中国のみなさんは、くよくよしないで、豊かな感情の持ち主で、困難を上手に跳ね除け、実に勤勉ですし、行動も敏捷なのです。『あれっ!』と思うことも、文化と習慣の違いですからありますが、悪いのではないのです。彼らだって、『あれっ!』と、日本や日本人について思われることはたくさんあるのでしょう。互いが、相手への《要求》を引っ込めて、《理解》をもったら、素晴らしい関係を再構築することが出来るはずです。「踏春(ta chun)」と書いて、「春に郊外にピクニックすること」と日本語に訳すのですが、春の気分を豊かに言い表した、素晴らしいことばを知りました。このように、漢字の恩恵を受けたことを、日本語を教えながら、痛切に感じております。様々に「近さ」と「親しさ」、そして「懐かしさ」を感じさせられてなりません。

(写真は、わが借家の裏庭に咲いた可憐な春を告げる「花」です)

2009年4月14日火曜日

王への敬愛と感謝を!



   「・・・王とすべての高い地位にある人たちのために・・・感謝・・・しなさい」

 最近、今上天皇(平成)でいらっしゃる、明仁様の逸話を読みました。新憲法下で、国の「象徴」となられ、人間宣言をされた昭和天皇のご長男でいらっしゃいます。学習院に学ばれて、昭和34年1月14日に、正田美智子さんと結婚をされました。今年、ご成婚五十周年の「金婚式」を迎えられたのです。私は、結婚式後のパレードの様子を、テレビの中にまぶしく見せていただいたのを、よく覚えております。さらに、昭和64年1月8日、第125代の天皇に即位されましたが、その様子も、テレビで見せていただいて、「国王」のいる英国と同じように、『日本は王を戴く国家である!』と言うことを、改めて思わされたのでした。横暴で、権威の座に安穏として、ほしいままに権力を行使した王は数あるのですが、明仁様は、王でありながら、実に謙虚で誠実な方であることに、驚かされるのです。もちろんお会いしてことばを交わしたことなどありません。でも知る限りにおいて、このようなへりくだって、いたわり深い王様を他に知らないのです。

 明仁様が、学習院大学に在学中のことだそうです、東都大学野球の試合がありますと、ちょくちょく神宮球場に応援に行かれたのだそうです。学習院のエース・ピッチャーが親友であったからだそうです。もちろん母校愛での応援でもあったのですが。そのときの様子を記している雑誌の引用を引用します。「当時の『野球少年』という雑誌に、こんなレポートが掲載されている。<ゲームは熱戦をくりかえしながら進んでいきました。ところが皇太子さまは、相手チームがエラーしたときなどは、応援団がさわいでも、ご自分はいっしょに手をたたいたりなどはなさらないということに気がつきました。熱狂すると、敵がエラーでもすれば、ついさわぎたくなるものですが、相手にとってみれば気持ちのよいものではありませんし、スポーツマン・シップからはずれているように思います。そんな応援をなさらない皇太子さまは、やっぱり日本の少年たちの代表だと思いました。> 」、二十歳前後の明仁様が、このように振舞われたのです。

 《相手の失策を喜ばない》、これこそ一事が万事でしょう、このような心や態度をお持ちの方が、私たちの国の「王」であることを、誇りたいのであります。もちろん王様は、信仰の対象ではありません。しかし国民が、立てられた王に、心からの敬意を示すのは、当然なことではないでしょうか。「・・・王とすべての高い地位にある人たちのために・・・感謝・・・しなさい」と、私は学ばされましたから、心からの敬愛と感謝とを表したいのであります。

 明仁様、美智子様のご健康とご長寿を、心から願っております。

 ところで、義父は、自分の家系などにはさらさら関心は無かったのですが、長男を《馬の骨》呼ばわりされて、癇に障ったのでしょうか、どうでも良いと思っていた家系のことを、綿密に調べたのだそうです。そうしましたら、なんと天皇家の家系に属することを突き止めたのです。『だから、どうなのですか?』と聞き返されてしまうので、結局はどうでも良いことにして、義父は、ブラジルのサンパウロの地で召されて、何ももたずに天に帰っていきました。遺骨も、大西洋の海原に散骨してしまいました。そうしますと私の四人の子どもも、四人の孫たちも・・・・、明仁様と・・・・、うーん、考え過ぎでしょうか。

(写真は、新華社のネットに掲載された「金婚式記念(2009年4月)」の天皇ご夫妻、2008年5月、明仁天皇(左から3人目)と皇后(右から3人目)は胡錦濤主席(左端)を滞在中のホテルに訪ね、胡主席と劉永清夫人(右端)です)

2009年4月12日日曜日

《隣の三尺》と《おらが三十尺》


 所帯を持ってから、一度だけ、一軒家に住んだことがあります。それも、四軒とも同じ造りの借家で、持ち家を作る前の仮住まいでしょうか、まだ幼い子どもが二人ほどの家族が、まわりに住んでいました。家と家との間が1.5メートルほどで、西側の窓をまたぐと隣の家に入り込めそうでしたし、東側の窓からは、隣の大家さんの息子の家の浴室が鼻の先にありました。それ以外は、アパートや市営・県営の一棟30~50軒ほどの集合住宅に住んだのです。引越しの多かった我が家で、市営住宅の5階に住んでいたときのことでした。子どもたちが留学中に引越しをしたので、彼らには引越しの実感が無く、帰国して違った家に帰って来なければならなかったわけです。そんなことが何度かありました。あるとき下の娘が、アルバイトを終えて帰った来たときに、あわてて階段を駆け上がって、ドアーを開けて玄関で靴を脱いで顔を上げると、お客さんが出て来たのです。『こんばんわ!』と言ったのでしょうか、でも、そのお客さんが怪訝な顔をしていたのです。玄関を見回すと、いつもとちっとたたずまいが違うのに気付き、『あっ、間違えた!』と思ったのだそうです。詫びて方法のていで駆け下りて、隣の階段から我が家に帰って来たことがありました。笑えない出来事でした。我が家も、その家も、玄関のドアーに施錠をしなかったから、こういったことが起こるのですし、もちろん同じような階段とドアーですから、考えずに帰宅したらありうることなのでしょうか。その上、留学から帰って間もなくでしたし、彼女も少々おっちょこちょいだったこともありますが。

 こちらに来るまで住んでいたマンションでのことでした。ある日、玄関に、『静かにしてください!』との張り紙がされてありました、隣家の仕業でした。『掃除機の音がうるさい。洗濯機の音がうるさい。話し声が大きい!』そういったことが書いてありました。それで、極力音を加減しながら生活を続けたのですが、もう一度張り紙があり、戸袋の新聞受けにも、抗議文が入れてありました。ことばで訴えるのならまだしも、張り紙をされて、我慢の緒が切れてしまった私は、大人気なく隣の玄関を大きな音を立ててたたいてしまったのです。音といったって、生活音です。傍若無人に生活していたわけではありません。集合住宅での生活術をわきまえていたつもりだったからです。その一件があって、東京の渋谷から、彼女のお母さんが呼ばれて駆けつけました。そのお母さんと家内が話をしたのです。『娘は夜中は起きていて、昼間は寝ているので、お宅の音が気になるようです!』と弁明したのです。朝方に眠りだす人の隣家の我が家で、ノーマルな日常を開始して、朝起きて、早過ぎないようにして洗濯機を廻すのですから、無理難題をしていたわけではありません。間もなく、越していきましたが。数少ない隣人との悶着でした。

 《隣の三尺》と言うことばがあるようです。隣と接する玄関先を掃き掃除するとき、隣家の前の通りを、1メートルほど進入して掃くことの勧めです。掃き過ぎてもいけないし、ぎりぎりの線までしか掃かないのもいけない、これが《程よい範囲》なのです。狭い日本の社会で、先人が悟った知恵なのでしょうか。ここ中国では、そんな気遣いは感じられません。足元に、『ガーッツ、ペ-ッ!』と痰を吐かれますし、上の階から、『ひらひらやドスン!』とゴミや物が我が家の庭に捨てられます。まさに《おらが三十尺》です。それでも、お世辞笑いでは無いのですが、みなさん人懐っこいのです。慣れました。でも《隣の三尺》を気にしなければならない気遣いの社会から、気を使わないでいい社会に住みますと、自由でいいのでしょうか、開放されてこちらの生活に満足している日本人に時々、出会います。でも、日本に帰ったら、『礼儀知らず!』とか『世間知らず!』と、『言われないようにしないといけないだろうな?』と、もう気にしているこのごろであります。

(写真は、HP《若き建築家氏間貴則の挑戦》の「玄関」です)

2009年4月10日金曜日

いなり寿司


 『好物は何?』と言われたら、真っ先に答えるのが、「いなり寿司」なのです。運動会のときや遠足に、母が持たせてくれたからでしょうか。普段も食べていたのでしょうけど、特別に、「運動会」のときに食べたときの美味しさが、きっと強烈だったのだと思います。小学校では、兄たちは、各学年の代表で、「部落対抗リレー」に出ていたのですが、病欠児童の私は鈍足でしたから、出してもらったことが、まったくありませんでした。クラスの徒競争でも、ビリかビリから二番手と言ったところがお決まりでした。で、応援席で席を暖め、荷物番をしていて、それでもお腹の空いたところに、甘辛く煮込んだ油揚げに、細かく刻んだ人参や蓮根を入れた酢飯を詰めた「いなり寿司」を食べては、代表になれない憂さを晴らしていたのでしょうか。ほろ苦い経験でした。それでも小学校高学年になった頃には、健康になって、マット運動や跳び箱などには、『雅、お前やってみろ!』と担任に言われては、試技をするほどになっていたのです。6年のときは、学級委員を一度もさせてもらえなかった私は、「体育部長」をさせてもらいました。給食の無い時代でしたから、手作りの昼飯がほとんどだったのですが、そのときにも、「いなり寿司」があったのです。

 『中国では食べれないよなあ!』とあきらめていたのですが、なんと、今日、家内が作ってくれたのを6つも食べてしまいました。『美味しかった!』の一言に尽きます。福州の店に、「油揚げ」はあるのですが、しっかりと重量感のあるもので、日本のように、巾着のように開いて、酢飯を入れて、いなり寿司を作れるようにはなっていないのです。じつは先日、家内の妹が送ってくれた小包の中に、「味付けの油揚げ」が入っていたのです。それを使って、家内が今日作って、そっと出してくれたわけです。その小包の中には、「イカの塩辛」、「わさび漬け」も入っていました。炊き立てのご飯にのせて食べたのですが、普段は一杯なのにお代わりをしてしまいました。福州に日本食品を売っている小さな店はありますが、種類もわずかですから、塩辛やわさび漬けなどはありません。日本食品は無くても大丈夫なのですが、こうして食べてみますと、自分が「真正の日本人」なのだと思わされるのですね。何十年も食べてきた食べ物が、嗜好を決めるのですから、中華料理がどんなに美味しくても、日本では、どうということのない通常の食物が光り輝いて見えますし、高級で高価な日本食品以上の価値を、舌と胃袋が感じているのです。

 外国住まいの経験の長い義妹が、『こんなもの食べたいよね!』と思って送ってくれたわけです。眠った子を起こされた私は、『塩辛も食べてしまったし、これからどうしようか?』と思ってしまうのです。でも「宇宙船」に乗り込んでいる日本人飛行士・若田光一さんは宇宙に長期滞在するのですから、まず「塩辛」も「いなり寿司」も食べられないのでしょう。私たちのほうが恵まれていることに、感謝しないといけないようです。でも日本食とは、こんなに美味しいものなのでしょうか、改めて納得したところであります。来月は五月、日本では、《山ホトトギス初鰹》の季節になるのでしょうか。うーん、胃袋が羨ましがっています!

(写真は、HP《カトミエ》の「いなり寿司」です)

2009年4月8日水曜日

『な、そうだろう!』


 家の近くにコピー屋さんが数軒ありますが、週に何度もお願いする私は、まあまあのお得意さんなのでしょうか。以前は、一枚が1.5毛でしたが、最近は2毛に値上がりしています。師範大学の構内にある店では、1.2毛ほどになりますが、便利な近場を利用しているこのごろです。2毛と言いますと3円ほどになるのですが、日本のコンビニの1枚10円に比べますとだいぶ安く感じられますが、こちらの物価を考えますと、やはり高いのかも知れません。三日ほど前に、いつもの店とは反対方向の150mほどの外国語語言学院の近くの店で、53枚のコピーをお願いしました。10元6毛でした。20元札と6毛を渡しましたら、15元のおつりをくれたようです。確かめずに、ポケットの中にねじ込んだのですが、やはり、つり銭が多過ぎでした。『儲かった!』とは思わなかったのですが、あまり考えないで、『まあいいか!』と思いながら家に帰ってきたのですが、そのつり銭が気になってならないのです。迷っているうちに、心の中に平安が無くなってくるではありませんか。5元ですから、70円ちょっとで、牛肉入りの米粉麺を一杯食べられる一食分の値段なわけです。いたたまれなくなって、家内に一言言って、その店に、とって返しました。こちらで「板番(ラオ・バン」と呼ばれる店主に、『つり銭が多すぎたよ!』と言って説明して返金したのです。

 値段を高くされ、つり銭を少なくされるのは、天津でもそうでしたが、ここ福州でもちょくちょくあります。どうしても韓国人か日本人にしか見えない私たちは「外国人」ですから、《外国人価格》があるのでしょうか、ネギを背負った「カモ」の到来に、『しめた!』と思うのでしょうか、そういうことが多くあるのです。そうされますと、決まって『過去の日本が、この国で搾取したんだから、子孫同士が立場の逆転で、そうされてもまあ仕方ないか!』と思うのです。また、『いやな思いをしないですむから、次からは、スーパーに行こう!』と思ったりするのですが、やはり通り道の小商店で買い物をしてしまいます。人のよさそうに見える家内は、しばしばのことですが。

 でもそれとこれとは違うのです。『だまされることが多いのだから、つり銭の間違いが一度くらいあってもいいか!』と言う論理が、思いの中に立ち上がってきたのは事実です。でも、置忘れたり、落としてある財布の中からお金を取って、自分のポケットに入れると、それは「窃盗犯罪」になるのですね。立件されて処罰された名ある人のニュースを何度も聞いていました。それよりも何よりも、『盗んではいけない・・・だましてはいけない。』という声が、こだましてきたのです。その店で説明していたら、板番の娘が覗き込んでいました。5元を返して、受け取った彼は、『謝謝!』とにっこり笑って意外な出来事に感謝をあらわしたのです。でも感謝はこちらがすべきことでした。

 昔なら、『もうかった!』と思うのは当たり前で、万引きを繰り返した窃盗小学生の過去あるわが身ですから、髪の毛が白くなって再び、同じ轍(わだち)の中にはまりそうな中から救出されて、ホットしたのです。『石川や浜の真砂に尽きぬとも、世に盗人の種は尽きまじ』と、五右衛門が辞世の句を詠んだと言われますが、もう少しで彼に、『な、そうだろう!』と言われそうでした。桜満開の北日本のニュースを聞いた、福州の4月の初旬であります。

(写真は、京の三条大橋で釜ゆでになった「石川五右衛門」の錦絵です。写真を右クリックしますと大きく見られます。)

2009年4月6日月曜日

「忍」と「和」との隔たり


 30年の結婚歴のある夫婦を対象に、シチズン時計が、アンケート調査をしました。『結婚を漢字の一字でどう表しますか?』と言う問いに、総合順位は次のようでした。一位は「真」、二位は「和」、三位は「絆」、四位は、「愛」でした。男女の違いがあったのはそれぞれの二位でした。男が、「和」であったのが、女では「忍」だったことです。いわずもがなの結果なのかも知れません。やはり妻たちのほうが、忍耐して結婚生活を送っていることになるわけです。そういえば、私たちの結婚生活も同じようなことがいえるのだろうと思うのです。短気でおっちょこちょいの私は、その日、何があっても一晩寝てしまうとまったく新しく一日を始めて行ける人間でしたが、彼女には、忍んで耐えた毎日だったことになります。そういえば先週、4月4日は、私たちの結婚38周年だったのです。彼女は、『わたしでなかったら、あなたにここまで添い遂げる女性はいなかったでしょうね!』と、平然として、かつまた確固たる自信をもって言い切るのに、私は反発できなくて、『そ、そう、その通り!』と言ってしまう、二人の38年目であります。

 『そろそろ結婚をしなくてはいけない!』ような雰囲気が、私のまわり一面に満ちていました。女子高に務めていましたから、『身をかためなければ!』と言う切実な迫りも感じていたのです。社長の娘も、大学や専門学校の講師も、そのほかにも数人の候補者がいました。でも、『誰でもいい!』わけではありません。それで、上の兄に任せたのです。その兄が紹介してくれたのが、今の妻でした。名も富みもない方の娘でした。後になって知るのですが、彼女は、島津家から徳川家に嫁いだ「篤姫」も、『あっ!』と驚くほどの家系だったようです。今の世では、『それが何なの?』と言われそうですが、頼朝の家来だと父が誇りに思っていた「鎌倉武士」の末裔などは、足元にも及ばないわけです。名も金もない人の娘を妻にした、私の好きな政治家の広田弘毅は、素晴らしい家庭を建設したのですが、当時の外務官僚としては、広田は異端児でした。ほとんどが、名家の娘を妻に迎えるのですが、『妻の口利きで出世したと言われるような者になりたくない!』と頑なに突っ張って、28のときに、七つ下の好いた女性を広田は娶ったのです。広田夫人は、刑死する夫に先立って、鵠沼の家で自死して果てます。やはり、この方は、富や名誉には目も向けない自由民権運動の志士の娘でした。

 「潔さ」を広田のうちに見て、感動される私ですが、『50年早く生まれた!』と彼は何度か漏らしたそうですが、激動の時局をまったく良心的に、誠実に、務めを全うして生きたのです。あの時代の舵取りに、不可欠な日本に天が備えられた逸材だったにちがいありません。その彼を陰で支えつづけた夫人があってこそ、広田が天職を全うして生きられたわけです。

『人がひとりでいるのはよくない。』

との諺が、結婚の最前提であるのですから、うーん、彼の結婚生活に大いに刺激されます。人の結婚に憧れるだけではなく、私たちの結婚生活に、子どもたちや孫たちが刺激されてほしいものです。そのために、家内には、もうしばらく「忍」の一字で添い続けてもらいたいものです。これって「和」を求める男の甘さとずるさでしょうか。

(写真は、新婚旅行で訪ねた「潮来」の「あやめ《旅猫旅日記》」です)

2009年4月2日木曜日

広田弘毅と麻生太郎


 少年期から青年期に、好きだった映画俳優は日本では鶴田浩二、アメリカではジェ-ムス・ディーン、女優だとのフランソワズ・アルヌール(フランス)、歌手ですとちあきなおみ、落語家ですと鈴々舎馬風(れいれいしゃばふう)、野球選手では与那嶺要、相撲取りですと琴ヶ浜、幕末の志士ですと高杉晋作、戦国時代の武将では明智光秀でした。それぞれに出色の人物だと思います。『好き!』と言うよりは、『印象的な人だった!』と言ったほうがいいかも知れません。ですから、政治家への関心は、時の総理大臣や文部大臣の名前を知っているくらいで、ほとんでありませんでした。

 ところが大人になって、一人の政治家に、強烈な感銘を受けたのです。それが、「広田弘毅」でした。この方は、私が青年期に憧れた銀幕に映し出された演技上の《英雄像》とはまったく違った型の人で、畏敬の念を覚えさせられてしまったのです。もし十代のころに、この広田弘毅を知っていたら、きっと政治家を志していたのではないでしょうか。広田は、福岡市の東公園の近くにあった石屋の子として、1878年に生まれています。当時、石工の子が高等教育を受けることなど考えられなかったのですが、成績が抜群に良かったこともあって、進学の道が開かれ、第一高等学校から東京帝国大学法学部政治学科を経て、外交官試験に合格するのです。外務官僚となり、1933年に外務大臣、1936年、第32代内閣総理大臣に就任しています。この方を、一言の漢字で言い表すなら「潔(いさぎよし)」だと思うのです。総理退任後に、再度、外務大臣に就任した当時の、「南京事件」の責を負われ、東京裁判で、A級戦争犯罪人として、死刑を求刑され、1948年12月23日に処刑されたのです。
 
 東京裁判の顛末を、ウイキペヂアは次のように記しています。『広田は公判では沈黙を貫いた。弁護人の一人(ジョージ山岡)が統帥権の独立の元では官僚は軍事に口を出せなかったことを弁明した際にも、広田はそれ について語ろうとしなかった。外国人の弁護士と日本人の弁護士がついて「このままあなたが黙ってると危ないですよ。あなたが無罪を主張し、本当の事を言え ば重い刑になることはないんですから」としきりに勧め、同じA級戦犯の佐藤賢了も 同様に広田に無罪を主張するよう促していた。にもかかわらず東京裁判で広田が沈黙を守り続けたのは、天皇や自分と関わった周囲の人間に累が及ぶことを一番 心配していたからだとされる。広田は御前会議にも重臣会議にも出席しており、日中戦争が始まる時にも天皇を交えた話し合いがもたれていた。また広田の場合 は、裁判において軍部や近衛に責任を負わせる証言をすれば、死刑を免れる事ができた・・・・・広田は最終弁論を前に、弁護人を通じて「高位の官職にあった期間に起こった事件に対しては喜んで全責任を負うつもりである」という言葉を伝えている。また、判決が確定した後に広田に「残念でなりません」と語りかけてきた大島浩に対しては、「雷に打たれた様なものだ」と飄々とした表情で返答したという。』

 死に物狂いになって「言い訳」や「自己弁明」を繰り返し、責任回避や転嫁をした他のA級戦犯たちに比べて、「武士(もののふ)の魂」を宿した姿に、「潔さ」を覚えさせられてならないのです。掲げました写真は、求刑を泰然自若、真摯に聞かれる姿であります。辞世の句も詠むことも、残すこともなく、潔く責を負ったのであります。

 ああ、こういった日本の政治家こそ生き残られて、戦後の収拾に助言や忠告が欲しかったものです。広田弘毅の減刑嘆願に、かつての同僚・吉田茂が奔走したそうですが、その孫に当たる、麻生太郎総理もまた福岡県人です。支持率の低さにあえいでおりますが、ぜひとも日本の回生のために、日本と日本人が元気さを取り戻すために、粉骨砕身、鋭意努力で、国難に当たっていただきたいものです。字の読み間違で揚げ足取りをするような反抗勢力にめげずに、政に精進していただきたいのです。でも、おじいさんの真似をして、『バカヤロー!』だけは言わないでほしいですし、広田弘毅のように、「毅然」として、弁明などまったくしないで、歴史に名を残す優れた宰相でありますように!

 『・・・私たちが敬虔に、また、威厳を持って、平安で静かな一生を過ごすために・・』、選ばれ立てられた、一国の指導者のために、願い、感謝し、支持していく必要があるのではないでしょうか。そんなことを願う、春風駘蕩、百花繚乱の福州の卯月、四月であります。

(写真は、東京裁判で死刑判決を淡々として聞かれる広田弘毅元総理大臣です)

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自己紹介

 次男に勧められて始めた「ブログ」ですが、2007年7月から1年間休刊しました。その間、他の「ブログ」を開設したのですが、2008年7月に、名前を変えて再開しました。  父として子どもたちに、爺として孫たちに、また母や兄弟や友人たちにも、何かを語り残したいと願って、続けています。