2009年4月20日月曜日

わが師匠の夢


 中国に「二胡(にこ)」という楽器があります。胡弓とも三味線とも違っていて、ヴァイオリンのように弦で弾くのですが、肩ではなく左足の付け根に置きます。私は、三味線にはまったく興味がありませんでしたが、『中国に行って、もし時間があったら、二胡を習ってみたい!』と思っていました。天津の私たちの通っていました学校の近くに、「天塔(テレビ塔)」があります。友人が、その近くに住んでいて、訪ねた帰りに、川辺の東屋で、二胡を演奏して、それにあわせて歌っている人たちを、自転車を止めて眺めていたことが何回かありました。二胡に興味があるのを知った老人が、『ずっと、ここにいるのなら教えてあげよう!』と言ってくれたのです。でも、まもなく、私たちは福州に越してしまいましたので、その機会をえませんでした。

 昨年の暮れに、友人との談笑の中で、「二胡」が話題になったのですが、そのとき、私は、『習ってみたいんですが!』と話しましたら、この友人が、一人の方を紹介してくれたのです。福州人ですが、長らく広東省の「深圳(しんせん)」でマッサージをされていた方で、やめて福州に家を持たれて帰って来られたのでした。お名前を、「陳」とおっしゃいます。1941年の生まれですから、すぐ上の兄と同い年で、生まれてまもなく失明され、悶々とした中で自殺も考えられたそうです。それでも、ある方の勧めで、マッサージの学校に行くことになり、そこを終えた後は、北京にある短期大学に合格され、そこでもマッサージ術を勉強されたのだそうです。卒業後、深圳で開業され、腕を評価され、広東省の省長さんや市長たちがお得意さんだったそうです。なかなかの人格者で、眼のよくないみなさんと、音楽活動をされておられ、様々なところに出かけています。更なる活動を期しておいでです。この方は、二胡とは別に、お皿を楽器にして演奏もされるのです。

 この方が、『教えましょう!』と言ってくださったのです。17歳から始められて、抜群の腕の持ち主ですが、この私に週一度2時間のレッスンを無料でしてくださるというのです。彼の夢は、彼の演奏活動に、私を連れて行くことなのだそうです。六十を過ぎてから、発心して新しいことに挑戦しようとした気概を喜んでくださったのです。それで一生懸命に教授してくださるわけです。ところが音楽の素質の無い私は、なかなか上達しないのです。悪戦苦闘、それでも少しづつ弾けるようになってきていますが、まだまだ人に聞かせるところには至りませんが。

 先週のレッスンの合間に、失明に至る話をしてくれました。友人が通訳してくれたのですが。お父様が、福州でラジオ放送のお仕事をされていたそうです。日本軍が来るというので、福州の北にある三明市に、放送機材を運んで、山の中で放送を続けたようです。この陳先生は、お母様のおなかの中にいて、悪路を慌しく、その町に疎開されたのです。日本軍が、その疎開先の町にもやって来て、お母様は、『殺される!』といった恐怖に満たされて、家の中に隠れていたのです。ところが幸いにも、家の中に入ってこないで去ったのだそうです。そんな困難の中に、陳先生は誕生されたのです。私が、『失明と日本軍の侵略と関係があるのでしょうか?』と言ったのですが、彼は否定されましたが、言わずもがなであります。戦争が終わって、お父様の貯金を全部持って、上海の有名な眼科で受診されたそうです。医者は、『生まれてすぐに手術をしていたら・・・・』と言われたそうです。遅かったのです。もし、日本軍さえ来ないで福州にいたら、汽車で上海に行くことが出来たのです。やはり、関係があるわけです。でも彼は、日本を恨んでいませんで、日本人の私に「二胡」を教えることを喜びとし、私を連れて出かけることも夢見ていてくださるのです。この年になって、また師匠を頂いたことは、私にとってはとても感謝なことであります。

 やぁー、こんなに期待されたら、ここにいなければなりませんし、もっと上達しなければなりませんね。もし許されるなら、師匠のかばんを持って、町々村々を旅したいものです。夢や幻は、年齢には関係ないのです。どうも、おっちょこちょいの性格は、いくつになっても直らないようです。

(写真は、HP《タカハシミュージックプラザ》の「二胡」です)

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自己紹介

 次男に勧められて始めた「ブログ」ですが、2007年7月から1年間休刊しました。その間、他の「ブログ」を開設したのですが、2008年7月に、名前を変えて再開しました。  父として子どもたちに、爺として孫たちに、また母や兄弟や友人たちにも、何かを語り残したいと願って、続けています。