2009年4月26日日曜日

孫たちの成長を願った祖母の心


     「背くらべ」    海野 厚作詞  中山晋平作曲

  柱のきずはをととしの   五月五日の脊(せい)くらべ
  粽(ちまき)たべたべ兄さんが   計(はか)つてくれた脊(せい)のたけ
  きのふくらべりや何(なん)のこと  やつと羽織(はおり)の紐(ひも)のたけ

  柱に凭(もた)れりやすぐ見える  遠いお山も脊(せい)くらべ
  雲の上まで顔 だして  てんでに脊(せい)伸してゐても、
  雪の帽子(ぼうし)をぬいでさへ  一はやつぱり富士 の山

 昭和11年は、青年将校たちが、『昭和維新!』を掲げて決起した、「二・二六事件」があった年でした。その時、彼らが歌ったのが、昭和5年、24歳の海軍少尉・三上卓が、長崎の佐世保で作詞した、『汨羅(べきら)の渕に波騒ぎ  巫山(ふざん)の雲は乱れ飛ぶ  混濁(こんだく)の世に我れ立てば  義憤に燃えて血潮湧く 』という「青年日本の歌」なのです。この「汨羅(べきら)の淵」とか「巫山の雲」というこのことばですが、『いったい、何のことだろう?』と、思って調べてみました。「汨羅」とは、湖南省にある川の名で、屈原という人が入水(じゅすい)したことで有名な川です。また、「巫山」とは、四川省にある山の名で、楚の懐王が見た夢に登場しています。美しい山というよりは、どうも道徳的に乱れた状況が見られた地域として有名なのだそうです。三上卓が、昭和初期を、「混濁の世」と言い、その世相に「義憤に燃えて」歌ったわけです。お隣の中国の故事の中から、『昭和の世は、道徳的に退廃し、自殺者がおびただしく出て、実に嘆かわしい!』という、嘆きの気持ちを込めて詠んだのでしょうか。

 ところが、泪罗に身を投じた屈原は、ここ中国では、高く評価されいる人物で、歴史上の実在者なのです。彼は、「悲劇の武将」と言ったらいいでしょうか。もっと積極的に言いますと、「憂国の士」、「愛国の士」と言った方がいいかも知れません。戦国春秋の時代の「楚」の政治家で、名門の王族の出でした。懐王に仕え、信任が篤かったのです。当時、楚は、「秦」と「斎」という二つの国と、どう国交していくかについて、意見が分かれていました。屈原は、親斎派で、『秦を信用することはいけない!』と主張したのです。ところが、政治的な手腕が優れ有能であった屈原を妬む「親秦派」に讒言され、結局、懐王は、秦と国交することに決めたのです。屈原が案じたとおり、秦は楚を攻撃して負かしてしまい、難題を要求し懐王も人質にされ、楚は風前の灯のような状況でした。国の将来を憂えた屈原は、泪罗江に身を投じてしまったのです。その日が、五月五日でした。

 弟を愛した姉は、屈言の遺体が魚に食われないように、竹の筒に入れたご飯を泪罗に流して、遺体を守ろうとしたのです。その後、彼の命日に、彼を慕う人々によって、「栴檀 (せんだん)」や「笹」の葉でご飯を包み、五色の紐でしばって、汨羅の川に流すようになったのです。それが「端午(たんご)の節句」の「粽(ちまき)」の始まりです。

 子どもの頃、毎年、五月五日の前になると、小包が届きました。母の故郷からでした。母の養母が、母の四人の男の子のために、笹の葉に包んだだももち米粉と米粉で作った「粽」を送ってくれたのです。私たちの成長を、遠く山陰の地から願って、毎年欠かすことなく送ってくれたのです。バターのように滑らかではなく、砂糖の甘さもなく、クリームの美味しさのない素朴な味で、さとう醤油をつけて食べました。孫を思う祖母の心が、その「粽」に籠もっていたのです。舌にではなく、「心」に愛情が届いたのではないでしょうか。また、父と過ごした家の柱に、四人の毎年の背丈を書き込んだ跡が残っていました。さらに、我が家の四人の子どもたちの成長のあとを記した柱もありましたが、解体のときに、柱を保存しておきたかったのですが、置き場所がなくてあきらめてしまいました。「粽」は、屈原の悲劇などつゆ知らず、「端午の節句」の祖母の温もり味であり、「柱のキズ」は、成長の懐かしい思い出であります。

(写真は、HP《godmotherの料理レシピ日記》の「粽」です)

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自己紹介

 次男に勧められて始めた「ブログ」ですが、2007年7月から1年間休刊しました。その間、他の「ブログ」を開設したのですが、2008年7月に、名前を変えて再開しました。  父として子どもたちに、爺として孫たちに、また母や兄弟や友人たちにも、何かを語り残したいと願って、続けています。