2009年4月2日木曜日

広田弘毅と麻生太郎


 少年期から青年期に、好きだった映画俳優は日本では鶴田浩二、アメリカではジェ-ムス・ディーン、女優だとのフランソワズ・アルヌール(フランス)、歌手ですとちあきなおみ、落語家ですと鈴々舎馬風(れいれいしゃばふう)、野球選手では与那嶺要、相撲取りですと琴ヶ浜、幕末の志士ですと高杉晋作、戦国時代の武将では明智光秀でした。それぞれに出色の人物だと思います。『好き!』と言うよりは、『印象的な人だった!』と言ったほうがいいかも知れません。ですから、政治家への関心は、時の総理大臣や文部大臣の名前を知っているくらいで、ほとんでありませんでした。

 ところが大人になって、一人の政治家に、強烈な感銘を受けたのです。それが、「広田弘毅」でした。この方は、私が青年期に憧れた銀幕に映し出された演技上の《英雄像》とはまったく違った型の人で、畏敬の念を覚えさせられてしまったのです。もし十代のころに、この広田弘毅を知っていたら、きっと政治家を志していたのではないでしょうか。広田は、福岡市の東公園の近くにあった石屋の子として、1878年に生まれています。当時、石工の子が高等教育を受けることなど考えられなかったのですが、成績が抜群に良かったこともあって、進学の道が開かれ、第一高等学校から東京帝国大学法学部政治学科を経て、外交官試験に合格するのです。外務官僚となり、1933年に外務大臣、1936年、第32代内閣総理大臣に就任しています。この方を、一言の漢字で言い表すなら「潔(いさぎよし)」だと思うのです。総理退任後に、再度、外務大臣に就任した当時の、「南京事件」の責を負われ、東京裁判で、A級戦争犯罪人として、死刑を求刑され、1948年12月23日に処刑されたのです。
 
 東京裁判の顛末を、ウイキペヂアは次のように記しています。『広田は公判では沈黙を貫いた。弁護人の一人(ジョージ山岡)が統帥権の独立の元では官僚は軍事に口を出せなかったことを弁明した際にも、広田はそれ について語ろうとしなかった。外国人の弁護士と日本人の弁護士がついて「このままあなたが黙ってると危ないですよ。あなたが無罪を主張し、本当の事を言え ば重い刑になることはないんですから」としきりに勧め、同じA級戦犯の佐藤賢了も 同様に広田に無罪を主張するよう促していた。にもかかわらず東京裁判で広田が沈黙を守り続けたのは、天皇や自分と関わった周囲の人間に累が及ぶことを一番 心配していたからだとされる。広田は御前会議にも重臣会議にも出席しており、日中戦争が始まる時にも天皇を交えた話し合いがもたれていた。また広田の場合 は、裁判において軍部や近衛に責任を負わせる証言をすれば、死刑を免れる事ができた・・・・・広田は最終弁論を前に、弁護人を通じて「高位の官職にあった期間に起こった事件に対しては喜んで全責任を負うつもりである」という言葉を伝えている。また、判決が確定した後に広田に「残念でなりません」と語りかけてきた大島浩に対しては、「雷に打たれた様なものだ」と飄々とした表情で返答したという。』

 死に物狂いになって「言い訳」や「自己弁明」を繰り返し、責任回避や転嫁をした他のA級戦犯たちに比べて、「武士(もののふ)の魂」を宿した姿に、「潔さ」を覚えさせられてならないのです。掲げました写真は、求刑を泰然自若、真摯に聞かれる姿であります。辞世の句も詠むことも、残すこともなく、潔く責を負ったのであります。

 ああ、こういった日本の政治家こそ生き残られて、戦後の収拾に助言や忠告が欲しかったものです。広田弘毅の減刑嘆願に、かつての同僚・吉田茂が奔走したそうですが、その孫に当たる、麻生太郎総理もまた福岡県人です。支持率の低さにあえいでおりますが、ぜひとも日本の回生のために、日本と日本人が元気さを取り戻すために、粉骨砕身、鋭意努力で、国難に当たっていただきたいものです。字の読み間違で揚げ足取りをするような反抗勢力にめげずに、政に精進していただきたいのです。でも、おじいさんの真似をして、『バカヤロー!』だけは言わないでほしいですし、広田弘毅のように、「毅然」として、弁明などまったくしないで、歴史に名を残す優れた宰相でありますように!

 『・・・私たちが敬虔に、また、威厳を持って、平安で静かな一生を過ごすために・・』、選ばれ立てられた、一国の指導者のために、願い、感謝し、支持していく必要があるのではないでしょうか。そんなことを願う、春風駘蕩、百花繚乱の福州の卯月、四月であります。

(写真は、東京裁判で死刑判決を淡々として聞かれる広田弘毅元総理大臣です)

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自己紹介

 次男に勧められて始めた「ブログ」ですが、2007年7月から1年間休刊しました。その間、他の「ブログ」を開設したのですが、2008年7月に、名前を変えて再開しました。  父として子どもたちに、爺として孫たちに、また母や兄弟や友人たちにも、何かを語り残したいと願って、続けています。