2007年6月17日日曜日

必要不必要


 語学教育で、一番学習効果を上げられるのは、軍隊の学校だと言えるでしょうか。日本理解者として著名であるドナルド・キーンは、コロンビア大学の学生の時に、カリフォルニアにあった、アメリカ海軍の日本語学校に入学して、短期の徹底教育を受けます。この学校では、半年もたたないうちに、そこで学ぶ者全員が、きわめて難解だとされている日本語を話せるようになり、しかも日本語新聞を判読できるようになったそうです。

 そういえば、5年ほど前に、カリフォルニアのサン・ホゼに行きましたときに、まだ十代のアメリカの兵隊さんが、実に流暢な日本語を話していました。『どれくらい学んだの?』と聴きましたら、『軍の学校で半年学んでいます!』と言っていましたが、後ろを向いていたら、『日本人が話している!』と思わせるほどでした。軍隊内では、それだけの学習効果を挙げることが可能なことに驚かされたのです。

 アメリカ社会が、日本社会と全く違っていたのは、敵性語の捉え方でした。わが国は、野球用語の中にある米英語を使うことを禁じて、「ストライク」を『よし!』と言い換えてしまうほどに、米英語を嫌悪したようです。『剃刀の刃のようだった!』と評されるほどに鋭い頭脳明晰な人物でさえも、通訳者の声をレシーバーで聞いて、裁判に臨んでいたのが、印象的でした。ところが同じような戦時下で、アメリカは、戦後処理を考えたのでしょうか、徹底的な特訓を青年たちにさせて、日本語を教え込んだのです。

 中学に入った時に、英語の先生が気に喰わなかった生意気な私は、英語学習への関心を全くなくしてしまいました。それでも、試験の点数だけはよかったのですが、英語が身につかないままで終わってしまったのです。あの時から合計しますと、少なくとも8年間も学んだのに、英語理解の乏しさに、実にさびしいものを感じてならないのです。その上、私はアメリカ人ビジネスマンと、7年も一緒に働く機会がありました。それなのに下手なのです。彼があまりにも日本語が上手だったこともありますが。

 『中国では、4歳の子どもが英語を学んでいます!』と聞きます。若者の英語熱は非常に高く熱いものがあり、多くの青年たちが流暢に英語をしゃべるのを耳にします。好き嫌いの問題ではなく、「必要不必要の問題」からの学習なのです。駅前に英語塾なんて無いのにです。

 日本の学校では、あんなに時間をかけて来ましたし、小学校から英語教育をしようとする動きがあるのに、学校教育の学習効果が上がっていないわけです。結局は、ハングリーかどうかの違いのようですね。こちらのラジオ放送では、英語放送の時間が決まっていて、軽妙な語り口の英語を誰でも聞くことが出来ます。今、中国語を学んでいますが、なかなか進まない自分に、腹立たしい思いがしてならないのです。効果的な方法などありません。あるのは一歩一歩、一句一句の前進のみなのでしょう。

2007年6月8日金曜日

パチンコ


 25になる前まで、私はパチンコ屋によく出入りしました。あの玉が、釘とガラスとに触れながら落ちてくる音と、玉の出てくる金属音とに誘われたからです。田舎町の駅前にたった一軒のパチンコ屋があって、そこに出入りしては、落ちていた玉を拾ってやったのが始まりでした。小学生でした。

 その時以来、必ず、どこの店でも店内に流れていたのが、「軍艦マーチ」でした。あのリズムが、台の右下の穴の中に、左手の親指で玉を入れ、打って行くタイミングと共鳴し、共動していたのです。若かった私は、あのマーチを耳にして、愛国心が煽られているような錯覚に陥ったこともありました。

 もともと愛国少年の志に燃えていましたから、鉄砲を担いで出て行きたい気持ちにさせられてしまったのです。『行け行けドンドン!』のテンポでした。憲法に保障された平和な日本の巷間で、そんな気持ちにされたのですが、今日日は、改正されて行く「教育基本法」や「憲法改正論議」の中で、『行け行けドンドン!』の扇動的な動きが感じられてならないのです。もちろん「軍艦マーチ」は聞こえませんが、もうすぐすると、パチンコ屋からではなく、どこかなお街角から、大音響で聞こえてきたら聞こえてくるかも知れません。

 私たちの祖父や父の世代に、多くの青年たちが、鼓舞され、「愛国心」を作為的に注ぎ込まれて、戦場に駆り立てられたことを、歴史から知らされるのですが。

 その「愛国心」に訴えた国造りは危険です。もし正しい歴史観、正直に歴史の中にあった事実を認めて、そこにあった多くの過誤を認め、国として個人として心から反省した上に立つのでなければ、私たち日本人は、声高に『愛国心を!』と叫んではいけない民族なのではないでしょうか。『二度と誤らない様に!』と願って、平和憲法を、「天」から頂いたのですから。

 日の丸を振って、街角で千人針を、戦勝を祈願して、子や夫や父を戦地に見送った国民が、どんなに悲しい思いをしたかを知らない人たちが、今日日、愛国心を煽り立てているのです。生まれた国を愛する青年は、侵略した国の中にもいたのです。独りよがりの「愛国心」は、間違っています。愛国心と愛国心は、戦うのではなく、友好と協力で支え合い刺激し合って、それぞれの国の先祖伝来の風土と文化と歴史と習慣を尊び、それらの中に生きている父母や兄弟姉妹や親族や友人が、平和で安寧を保障されて生きて行くことが出来るように努めることこそが、国造りであり、交際協調に違いありません。

 ところで、今でもパチンコ屋では「軍艦マーチ」が流れているのでしょうか?

2007年6月4日月曜日

「ことば」


 NHKのラジオ第二放送で、日曜日の朝に「講演会」の内容が再放送されていて、よく聴きました。十人十色というのでしょうか、その興味は内容はともかく、話術の巧みさだけではないのです。その話者の来し方、在り方、生き様がどうであったかが、見えない分、何となく聴こえてしまうのが楽しみの1つでした。遠く離れている今、聴きたい番組の1つです。


 遠来の本と講演テープと会報が、友から届きました。こう言った彼の話の展開が好きなのです。知識を誇ろうとするのではない、読んできた本の数を誇るのでもない、余計なことを省いて、それで話の筋が一貫し、適用が上手で、結論がしっかりと導かれているのです。ちょっと声の音調が高いのは、若い日と変わらないのですが。

 また、書かれた本には、活字と活字、行と行の間に余韻が残されているのです。正直なのでしょうね、思想が高邁なのです。若い者たちにも老いた者にも、男にも女にも、教育のある者にも無い者にも、訴える思想があるのです。人の正直な生き方や考え方が紹介されています。共通の知人たちの事も触れられていて、知らなかったことが、『そうだったのか!』と読んで納得させられます。何よりも知識欲を駆り立ててくれるのがいいのです。

 中学の3年間担任だったK先生も、高校のN先生も、それぞれ社会科と英語科の教師でしたが、学級では、よく話しをしてくれました。ちょっと難しかったのですが、「大人」と認めて話しをしてくれたのです。『読んだらいい!』と本を紹介してくれたこともしばしばでした。『こうしたらいいじゃないか!』と、個人的に進言してくれたりもしました。『オジさんは・・・』と、N先生が、映画制作の裏話をしたことがあったのですが、『小津(安二郎)さんは・・』と言いたかったのです。だいぶ年をとられていたので発音がはっきりしなかったのですが、《慶応ボーイ》でした。

 若かった分、両先生の物の考え方の影響を受けたのですが、決定的に影響されたのは、母国語の違うアメリカ人のKさんでした。彼のもとに7年間いて、個人的に学ぶ機会が与えられたのです。ところが日本語が上手で、実に難しいことばを知っておられたのです。ですから、英語を学ぶ機会を逸してしまったのが、実に残念でたまらないのです。でも彼から、欧米的な思想の原点を、そして普遍的な考え方を、「ことば」の大切さを、「世界的古典」から学べたことは、素晴らしい年月だったと思い返して、感謝しています。日本精神に凝り固まった井の中の蛙然としていた私が、大海に泳ぎ出せるような願いを、心の中に培ってくださったことに、深い感謝を覚える六月、これまでの年月とは趣きの違った、天津での初夏であります。


2007年6月3日日曜日

「三つ撚りの糸は・・切れない!」


 私の好きな格言は、『一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ご馳走と争いに満ちた家に勝る。』と言うものです。そこには、小さな感謝の積み上げがありますし、平和を希求する意識が満ちています。奢侈贅沢を嫌っていますし、競争社会の問題点を突いているのです。

 嫌いなのは、『生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ。』と言う言葉です。これは、格言とは言えないかも知れませんが、天皇の兵士が守るようにと訓示された「戦陣訓」の一節です。時の陸軍大臣東条英機が、中国を侵略した兵士たちによる、中国の婦女への陵辱や物品の盗みが横行する中で、帝国軍人の有り方をまとめ上げた道徳訓示であったのです。「破戒」で有名な島崎藤村が中心になって作ったと言われています。そこには体裁とか、建前とかが表に出ていて、『生きたい!』と言う他の国の人々の人間本来の切なる願いを認めていないのです。生命軽視が溢れていますから、他者の命の重さを認めることが出来ないので、平気で人を殺してしまうことができたわけです。

 人の生き方に大きな影響を与えるものの1つは、「ことば」です。人は「ことば」に出会って発奮し、方向が与えられ、どう生きて行くべきかの導きを得ます。39歳の時に大きな手術をしました。『死ぬかもしれない!』と思った私は、妻と4人の子に宛てて、初めての遺書を記したのです。子どもたちに、『もしお父さんが亡くなったら・・』と言って、「三つ撚りの糸は簡単に切れない」と言う、親爺の日記帳からの引用の「ことば」を書き残しました。これは、毛利元就が三人の子に託した「三本の矢」のたとえ話が酷似しているのですが、『お父さんがいなくなっても、お母さんを助けて、4人で仲良く助け合って生きて行って欲しい!』と勧めたのです。彼らは、一本多いので、より協力の度合いが堅固になるのですが、長男が小学校6年生、一番下の次男が3歳だったのです。

 ところが、死ぬこともなく、生き延びて、一人一人が自立して行く様を見ることの出来た今、もう遺書を残す必要も無いと思いますが、この「ブログ」で、『みんなの父親は、どんな考えや生き方をして来て、どこに向かって生き、ゴールをどこに定めているたのか?』を書き残したいのであります。彼らも、それぞれに「ことば」と出会い、その「ことば」を語った人の思想と人格とに触れ、励まされ、または叱責されて生きて行くのでしょう。

 地味でいい、有名にならなくてもいい、審判の場に立つときに、『よくやった!』とほめられる生き方が出来るために、火で精錬され試された本物の「ことば」と出会って、その励ましで生きて欲しいだけであります。

2007年6月1日金曜日

昔日のような友情を培って行きたい!


 学校に行く時に、時々下駄で行ったことがあります。ただの下駄ではなく、高下駄でした。弟が少林寺拳法をするバンカラの学生でしたので、彼のを借りては穿いていたのです。新宿の地下道に響いていたあの『カラン、コロン!』という音がなんとも言えなく気持ちよく、背がだいぶ高くなった気分もして、爽快だったのを思い出します。でもそんな私を見て、奇妙に思われた方が『ケタケタ』と笑っていたに違いありません。

 横浜の港から、「赤い靴」を履いて、異人さんに連れて行ってもらった女の子の歌は有名ですが、「下駄」を履いて、玄界灘を渡って、中国に来た物があります。日本の文化や製品や影響力のことです。こちらでも「カラオケ」が流行っているそうで、週末には友達と行くと知人が言われています。「アニメ(漫画)」も子どもたちは大好きなのだそうです。私たちを教えてくれている一人の先生は、子どもの頃に、「一休さん」が大好きで、内容を暗記してしまうほどに観たことがあるそうです。

 今日日、中国のみなさんの日本人と日本製品に対する関心はずいぶんと高いように感じます。聞くところによりますと、女優の中野良子と元歌手の山口百恵、俳優の高倉健は、映画で紹介されて、熱烈なフアン層を作ったそうで、いまだに人気があると言われています。

 時々、街の中で、高級車の中に日本車を見ることがあります。また中国国産のように言われていますが、先日、上海南駅-杭州駅(171キロ)、上海駅-南京駅(303キロ)間に開業した、どちらかの「中国新幹線」には、日本の技術が導入されているのです。

 また、こちらに参りまして、中国の食材を買って調理して食べ、時には外食をして来たのですが、食べ物の調理法は別として、『ア、これと同じ物を日本で食べたことがある!』という物に、よくめぐり合います。今日の昼に、笹の葉に包まれたもち米とあんこの食べ物を、蒸かしてもらって食べたのですが、それは、幼い日に母の故郷から送られて来た「ちまき」に瓜二つでした。まさに日本の食の原点は、ここ中国にあることを疑う余地はありません。味が違うのですが、ほとんど同じだと言えます。米作や野菜作りの種も、ほとんどは朝鮮半島を経由して日本にやって来たものです。味付けは、気候の違いによって変わってしまったのでしょうけど、日本では売られなくなったような物を見つけて懐かしく感じたりしています。長女が来た時に、古文化街に行ったとき、「綿アメ」が、露天で売っていて、彼女が家内に買って上げていました。

 地理的にも文化的にも、また人類学的にも、その距離の近さは、まさに至近であります。その距離を全く遠くしてしてしまった、過去の過失を埋めて、その至近の距離を回復して、昔日のような友情を培って行きたいものです。そんなことを思っていますと、外から物売りの通る声が響いて聞こえて参りました。
(写真は、新華社撮影の「中国新幹線」です)

Powered By Blogger

自己紹介

 次男に勧められて始めた「ブログ」ですが、2007年7月から1年間休刊しました。その間、他の「ブログ」を開設したのですが、2008年7月に、名前を変えて再開しました。  父として子どもたちに、爺として孫たちに、また母や兄弟や友人たちにも、何かを語り残したいと願って、続けています。