2010年2月26日金曜日

2009年9月17日木曜日

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2009年5月14日木曜日

四満点の弁論大会


 先週の土曜日、午後2時から、「中華人民共和国六十周年紀念・福州大学日本語弁論大会」が、新校区の設備の整った講堂で開かれました。外国語学部、至誠学院、武夷学院から選抜された、2年生、3年生の19名の学生たちによる弁論がなされたのです。甲乙つけがたいスピーチに、中国の学生たちの意気を感じさせてもらうことができました。彼らの国や社会や家族、そしてご自分の人生に対しての見方、その視座の高さと確かさを感じさせてもらうことが出来、大いに励まされ、感動させられたのです。次代を担って行く、この国の、この時代の青年たちの主張には、やはり「熱さ」や「確かさ」があふれていました。日本の学生たちも同じように、高い志を持って、後継者としての責務を感じながら、学び備えていてくれるのだろうと確信させられたのです。時節がら、未曾有の経済危機の真っ只中で、将来が見えてこない閉塞感や不安を敏感に感じながらも、明日の夢をつないでいこうとしている彼らに、心からの拍手を送りました。ひ弱なもやしのようにではなく、踏まれ強い野の草のような逞しさを、目の輝きの中に見つけることができましたから、《満点》でした。うーん、明日の中国が楽しみです。日本も!

 いつも感じることですが、《一人》を選ぶと言うのは大変に難しいことではないでしょうか。判官贔屓(ほうがんびいき)で、実際に教えている学生たちへの私情はないことはないのですが、一人一人の熱弁を聞いていますと、私情など挟む余地のないことを思わされるのです。今回の大会に出場する二名を選ぶ役割をおおせつかったのですが、これとて同じく難しかったのですから、本選は格別だったことでしょう。それでも弁論の途中で「絶句」してしまって、『ごめんなさい!』と何人かの学生が言っていましたが、大勢の前で話をする、しかも2年、3年に満たない学びで他国語で自分の思想を表現すると言うのは、大変なのですから、出場するだけで《満点》ではないでしょうか。人前で話すことを職業にして、40年も私は働いてきましたが、テクニックはともかく、やはり最終的には「態度」が問われるのだろうと思うのです。そうしまうと、これもまた全員が《満点》でした。『よくやったよ!』と労をねぎらいたい思いでいっぱいです。

 大会終了後、審査員や来賓者の「懇親会」が、鳳凰ホテルでもたれ、出席させていただきました。日本企業で働いていらっしゃる一組のご夫妻、単身赴任されている企業人3人、福州大学・日本語学科の日本留学経験のある先生2人、日本人教師1人、私と家内、そして友人1人の10名で、テーブルを囲んで会食をしました(他にも2つのテーブルがあったそうです)。この大会は、日本の企業が出資した合弁会社の後押しがあって、5年も続いているそうです。大会の裏方として、準備運営をした学生のみなさんへのねぎらいの言葉もありました。し遂げた《達成感》が、一人一人のうちから感じられて、これもまた《満点》だったと思うのです。みなさんが、それぞれに励まされた週末の夕べでした。来年は、さらに多くの挑戦者を得て、この大会が開かれ、全学生のみなさんが励まされますように! 好好儿挑战吧!

(写真は、ブログ「りゅうけいみの福建日記」から借用した「福州大学・正門」です)

2009年5月7日木曜日

拘泥


 7年間、忍耐して私を教えてくださったアメリカ人のKさんは、私にとっては「恩師」であります。彼は、名門ジョージア工科大学を卒業したアメリカ空軍の将校でしたが、その職を辞して来日され、いくつもの事業を興し、日本で召されました。彼は、文学や歴史や心理学や論理学など、多岐にわたって、私に教えてくださったのです。学究的なことのほかにも、妻の愛し方、子育ての方法、体と心のエクササイズといった実践的なことまで教えてくれたました。

 この方には、強い願い、頑固なこだわりがありました。『わたしを先生と呼ばないでください!』と言われたのです。それではなんと呼んだかと言いますと、” Mr.○○ ”でした。『○○さん!』と、彼が召されるまでお呼びしました。独特なヤンキー気質を持たない方で、決して威張ることのない、実に謙遜な方でした。そういえば、私が学ばせていただいたのも、アメリカの長老派から派遣され、「ローマ字」で有名なヘボンという名の宣教師が建学された学校でした。この学校の1つの伝統は、先生も学生も、” Mr.”で呼び合ったのだそうです。先生は、教壇から降りて学生たちと同じ床の上に立って、共に学びあったのでしょうか。また、私の中学校3年間の担任は、社会科を教えてくださった教師で、ほかの教科のどの先生とも違っていたのです。彼は、私の学んだ学校の卒業生ではなく、東京大学を卒業された方でしたが、朝礼・終礼、授業開始時と終了時に 、教壇の上から降りられて、髭もまだ生えていない私たちに、禿げ上がった頭を下げて挨拶をしておられました。母と同世代だったでしょうか。

 最近、『主語を殺した男』と称される、街の語学者・「三上章」という方の評伝を読みました。講談社から2006年11月に刊行された「主語を殺した男 評伝三上章(モントリオール大学・東アジア研究所日本語科長・金谷武洋著)」です。この三上は、明治36年(1903年)に、広島県の過疎地で生まれ、東京大学で建築学を学ばれ、卒業後、旧制の中学校、新制の高校で数学を教えておられた方です。ところが、数学よりも、「日本語文法」に強い関心もを持った三上は、後に国語学で博士号を取られ、大学教授をなさっておられました。ご自分を「街の語学者」と言われて、市井の一研究者として生きたのです。その研究成果は、何冊もの本として刊行されています。国立大学の正統派(!?)の国文学者たちから、無視されながらも一心腐乱に学んで、国文学界、文法学界に一石を投じられたのです。この方もまた、自分が先生と呼ばれることを嫌われたのだそうです。

 「博士呼ばわり」、「先生呼ばわり」されることを嫌い、『三上さん!』と呼ばれることを好んだのです。教え子が、『先生!』と呼ぶことは容認されたようですが。口髭を生やした学者然とした風貌を、ことのほか好まなかったようです。面白いのは、三上の死後に建て上げられた、「三上文法会」と言う研究会がありますが、その唯一の会則が、『席上、同席者にたいして先生の呼称を禁じる。』と言うものだったそうです。代議士も弁護士も「先生」、マージャンや花札やパチンコの指導者も「先生」と呼ばれる、麻酔的な効能のある呼称を、彼もまた嫌って生きたわけです。

 何故か、私の周りには、そういうこだわりをされる方が多かったのです。『先生と呼ばれるほどの○○でなし!』と言われますから、『先生!』と呼ばれていい気持ちにならない生き方・在り方は、やはり大切なものではないでしょうか。孔孟の教えで、教師に対しては格別な敬意を表す中国の社会で、「先生呼ばわり」されないですむのは難しいことなのでしょうか。こちらでは先生を、「老师・lao shi」と呼んでいます。「先生」は、「xian sheng」と呼び、『○○さん!』ですが。うーん、中国語と日本語とではニュアンスがだいぶ違いますよね。それで私も、拘泥(こうでい)するのでしょうか!

(写真は、三上章著「象は鼻が長い(くろしお出版刊)」です)

2009年5月6日水曜日

『それでは、この辺で・・・・』


 私がお会いしたアメリカ人の方が、日本語を聞いていて、どのことばに一番印象付けられているのかを話されたことがありました。それは、『あのう!』なのだそうです。まったく日本語を学んだことのない方で、日本人のスピーチを聞いておられて、聞き取っていたのが、この「単語」なのです。頻発するのだから、最も重要な言葉だと思ってしまわれたに違いありません。ことばが続かないのでしょうか、次のことばや思想が見つからないのですか、探している間、考えている間に、私たちは発するのが、この『あのう!』ではないでしょうか。また、遠慮したり、ためらってもじもじしている間に、これを連発するのではないでしょうか。ことばが流暢ではない方は、ひっきりなしにこれを連発されます。聞きづらいのです。話の腰を折ると言うのでしょうか、せっかくの理路整然とした思想が、『ブッツ、ブッツ!』と切れ切れになってしまうのです。時々アナウンサーの中にもおいでです。それで、私は極力これを使わないようにと、意志的に努力をしたのです。おかげさまで、沈黙はしますし、間をとりますが、『あのう!』を言わないで、人の前で話せるようになったと自負しているのです。中国語にも、同じようにして使われる「那个,这个 nege zhege」ということばがあります。まったく日本語の『あのう、あのう!』と同じ表情で、みなさんが使われています。そういえば、英語にも”well、well”がありますね。

 私も、ことばを濁してしまいたいとき、使わないほうがいいと感じたときには、意志的に『あのう・・・・・』と間をおいてしまうことはあります。これとは別に、『どうも!』と言うことばがあります。『どうも・・・』と言っただけで、それに続くことばがないのです。この言葉の聞き手も、『あっ、そうか、《ありがとう!》とか《すみません!》と言いたいんだな!』と理解してしまうのです。私が使っている日本語教科書の会話の中に、食堂に入った日本人とアメリカ人が、メニューを見ながら注文するくだりがあります。アメリカ人の男性が『わたしはテンプラ!』、日本人の男性が『わたしは牛丼!』と言うと、店員さんは、『テンプラと牛丼ですね。しばらくお待ちください』というのです。文法的には間違っていますね。でも会話を学ぶ外国人に、このスキットを用いて日本語を教えるわけです。『わたしはテンプラ!』、『わたしは牛丼!』のことばに、何が続いているのかを、店員さんは理解したのです。『このアメリカ人のお客様は、テンプラを注文し、こちらの日本人の方は、牛丼を食べたいのだ!』と、彼女は理解して、『テンプラと牛丼ですね!』と受け答えしているのです。彼女も、『ご注文は、テンプラ定食1つと牛丼1つですね!』と言わなかったのです。双方が通じているのですから、会話としては成り立っているわけです。そういえば、知人が亡くなって、遺族に挨拶をするときに、『このたびは・・・・まことに・・・・・』と、言っただけで終えてしまったことが何度もありました。くどくど、具体的に表現しなくても、弔意を汲んでくださるわけです。こういった「曖昧さ」が、日本語の特徴なのだと言うことを、つくづく感じさせられるのです。

 《言葉の背後を読み取る能力を要求される言語》、これが日本語に違いありません。私を教え導いてくださったアメリカ人の方は、難しい日本語を駆使することが出来ましたが、この「背後を読み取る能力」は、ついに身につけられませんでした。それは至難なことだからでしょうか。もう召されたのですが、大変努力をされて日本語を学ばれたことに、とても感謝でを覚えるのです。聞くところによりますと、主語などの曖昧さは、古い英語の中にもあったのだそうですね。言葉だけではなく心の思いを交し合うのが会話ですから、こういった曖昧模糊とした部分が、どの言語の中にもあるからなのでしょうか。『それでは、この辺で・・・・』で終わることにします。

(写真は、裏庭から見える隣家の「エンゼル・トランペット(天使の)」です)

2009年5月2日土曜日

勝男武士


 そういえば、「霞ヶ浦」へ新婚旅行に行った帰り、銚子港の魚市場で、「鰹」を三本かって、重いのを担いで帰ってきたのを思い出します。一本は父と母に、一本は義父母に、そしてもう一本は兄家族にでした。38年前の4月の7日のことであります。大変好評だったのです。鰹漁の基地は、三浦半島の三崎、土佐の高知、鹿児島の枕崎でしょうか、銚子も捨てたものではありません。とくに黒潮に乗って北上するのを一本釣りする光景が海の男の意気を見せて、豪快なのですが。

 鰹といえば、「鰹節」に思い出があります。『まさちゃん、かいてくれる!』と言って、《削り節器》を母に渡されて、削り節を削るように、よく頼まれました。今のように、化学調味料の《だしの素》のなかった時代、これと昆布と煮干とが「だし」をとる材料だったからです。母は、この鰹節でだしをとっては、蕎麦のタレやとろろ飯のタレを作っていました。今では、プラスチックの袋入りの「けずりぶし」が主流になってしまっていますから、『シューッ、シューッ!』と音を立てて、乾燥させた鰹を鉋(かんな)で削ることはなくなってしまったのですが。

 この鰹節は、源氏や平氏といった「武士集団」が誕生してから、特に重宝がられたのだそうです。駄洒落なのですが、「鰹節」の 「鰹」は「勝男(かつお)」、「節(ぶし)」は「武士」と同じ発音ですから、縁起をかつぎが行われたようで、とくに織田信長は、清洲城に「鰹節」を届けさせては、家臣に振舞ったのだそうです。鯉が滝のぼりをするように、そしてこの初鰹が黒潮を勢いよく遊泳するように、「力強さ」の象徴なのでしょうか。『孫たちよ、力強く、勢いよく成長しなさい。そして誰からも愛され喜ばれる優しさを身に着けてほしい!』、そう願う、皐月五月の大陸のババと爺であります。




(写真は、「鰹節削器(http://nekomiwa.exblog.jp/8244100/)」と「鰹のたたき」です)

たっぷりと生姜醤油で!


  「目に青葉 山時鳥(ほととぎす) 初松魚(かつお)」、宵越しの金を持たない江戸っ子は、女房を質においても、旬の鰹を食べるのを、「粋」としたのだそうですね。この「粋」を辞書を引きますと、『気性・態度・身なりがあか抜けていて、自然な色気の感じられるさま!』とあります。格好付けだったのでしょう。私たちの国は、季節の移り変わりの中に、なんともいえない微妙さが感じられるので、特別な「美意識」が養われてきたのでしょうか。そういった微妙さを目ざとく感じとる感覚を、受け継いでいるのが私たちなのかも知れません。温帯の南北に伸びた島国の地理的、気候的な環境が、こういった感覚を培ったのでしょうか。「粋」のためではなく、「鰹のたたき」を、生姜醤油で食べた味は、山猿の私にも美味なる物で、好物のひとつなのです。

 送っていただいた「福神漬け」がしまってあるのを忘れていたのですが、三日ほど前に見つけ出して、炊き立てのご飯と一緒に食べたのです。結婚以来、家内が私に付き合って病気をすることは、一度もなかったのですが、この日曜日の夕食後、風邪を引いたのでしょうか、嘔吐と下痢と頭痛で二人でダウンしてしまったのです。やっと体力が戻ってきて、『日本のものが食べたい!』と言う弱気と郷愁がよみがえってきて、探したら見つかったわけです。『うーん、この微妙な味付けが日本の味覚なんだ!』と、しきりに感心されてしまいました。『世界で最も美味しいのは中華料理だ!』と言われる国にやってきた私たちですが、たとえ駅前や生協のスーパーの漬物コーナーで売っているプラスチックの袋に入った「福神漬け」や「佃煮」や「塩辛」だとしても、独特に、いえ比類なく「日本の味覚」なのです。発酵食品で体にいいといわれて、「ザーサイ」の漬物を、近くのスーパーで家内が買ったのですが、美味しいのですが、でも微妙なところで味が違うのです。

 《微妙な味覚》の持ち主であることを再発見した、根っからの食いしん坊の私は、「大島紬(おおしまつむぎ)」の着物を着ていた父のことを思い浮かべていました。父の羽織には、「片手蔓柏」の家紋が入れてあり、どうでもいいと思われる裏地にお金をかけていたのです。見えないチラリと見え隠れするところに気配りをするのが「男の粋」、「男のお洒落」なのだということを、父は教えてくれたのですが、そんな男っ気から程遠く生きている今です。景気のいい時期に仕立てた着物なのだそうですから、相当なものなのでしょう。それを母が、私の身丈けに仕立て直してくれて、母のところにあります。これから着る機会があるのでしょうか。中日文化交流会のときに、着ていったら喜ばれるでしょうか、それとも、嫌われるでしょうか。決めかねている今であります。和服はともかく、「初鰹」は食べてみたいですが。青葉若葉の緑を見ながら、ホトトギスの啼く音を聞きながら、たっぷりと生姜醤油ベースのタレで・・・・!

(写真は、《株式会社越前屋》の「鰹」です)  

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自己紹介

 次男に勧められて始めた「ブログ」ですが、2007年7月から1年間休刊しました。その間、他の「ブログ」を開設したのですが、2008年7月に、名前を変えて再開しました。  父として子どもたちに、爺として孫たちに、また母や兄弟や友人たちにも、何かを語り残したいと願って、続けています。