2008年10月28日火曜日

もっと大らかに闊達に!


 国外に住む中国人を、「華僑」と「華人」と分けるのだそうです。「華僑」とは、中国籍を持たれる中国人のみなさんが、長期にわたって海外に居住する方のことを言い、おもに東南アジアに居住されておいでです。また、「華人」とは、居住される国の国籍を取得された中国人のみなさんのことを言います。これらの華僑と華人の故郷は、おもに沿海部の広東省や福建省なのだそうです。この13ヶ月あまりの間に、シンガポールや台湾やアメリカからおいでになられた方々にお会いする機会がありました。ご両親のご兄弟や自分のおじやおば、甥や姪にあたる親族を訪ねておいでになるケースが多いようです。年配者の場合ですと、こちらの学校を卒業されて海外に留学し、そこで結婚なさって、時々帰国されると言った事例もあるようです。田舎に行きますと、神社のようなつくりの建物があって、そこは一族の記録文書がしまってある「廟」なのです。海外に住む華僑や華人が、自分たちの家系を書き加えたり、確かめるためにも帰国をなさるようです。そういった「家系」を大切にされるのが、ここ中国のみなさんの大きな特徴なのでしょうか。父の苗字を、子が受け継ぎますから、『私の姓名は、〇〇省のどこどこに多く、そこから数百年前に移住して来たのです!』と、ご自分の出自をしっかりと理解されておられることには、驚かされてしまいます。

 とくに福建省の福清は、華僑や華人を多く送り出してきた地域と聞いております。国慶節の休みに、私たちが訪ねて、三日間を過ごさせていただいた、「海亮村」では、『一軒に一人は、外国に行っています!』と言われ、お会いした方々の子どもさん、お父さん、ご両親、おじさんおばさん、甥や姪が、『日本に行っているのです!』とおっしゃっていました。そういった意味でも日本と福建省とは緊密な関係にあることを知らされるのです。とくに沖縄との関係は、以前から経済や商業の面で、人の往来も多く頻繁だったようです。福建師範大学の旧キャンパスの裏に、「琉球墓地」がありまして、訪問時に帰らぬ人となって埋葬されたのでしょう。この悲しい歴史は、交流の長さを証明していることになります。


 

 そういえば、『日本語にソックリ似てる!』と、感じることがたびたびです。福清や南の泉州や厦门(アモイ)などの言葉には驚かれてしまいます。一、二、三、四までは「闽南话」にほとんど発音が同じです。人情も素振りも酷似しています。ただ大陸育ちの彼らは、せせこまとしている島国育ちのわれわれとは違って、心が広くて大らかですが。先週末、『私の祖父母は中国人なのです。私は奈良で育った三世で、中国語は話せなかったのですが、3年前にこちらにいる親族を訪ねて来て、中国語を勉強してきています!』、とおっしゃる方とお会いしました。『私の祖父母や父母は、昔の「特高」に酷い目に合わされたのです!』とも話されていたのが印象的でした。つい『申し訳ありませんでした!』とお侘びてしまいました。私と同じ年の生まれの男性で、せせこましくない大らかな方でした。



 アルゼンチンのブエノスアイレスに行きましたときに、そこで沖縄移民の二世や三世のみなさんとお会いし、歓迎してくださいました。沖縄のみなさんも、福建人に似て「進取の精神」に富んで、外の世界に勇躍出て行かれる民だったのです。移民されたほとんどの方が、下町でクリーニング店と花屋をされてきたのだそうです。どうしてかと言いますと、ほとんどがヨーロッパ移民の白人社会ですから、アジア系の彼らは優遇されない歴史があったからなのです。そんな社会でありながら、二世や三世の中には、お医者や弁護士や教授になっておいでの方もいらっしゃるとのことでした。勤勉さは、どこの、どのような社会の中でも評価は高いようですね。ですから日系人の結束も、中国人に負けないほど強固なものがあるように感じさせられたのです。

 これから、さらにグローバル化されていく中で、人の行き来はさらに頻繁になっていくのではないでしょうか。きっと孫たちの時代は、国境など無関係な人的、文化的、経済的な交流が、さらに拡大されていくに違いありません。そうしましたら、歴史家が言うように、『鎌倉時代の日本人は、もっと大らかで闊達だったのです!』と言うように、そんな八百年も前の時代の日本人に回帰できるでしょうか。ぜひ、そうなっていただきたい。日本と日本人が自信を回復し、誇りを内に秘めながら、「地球人」として「隣人愛」に生きて行ける、そんな次の世代の活躍が大いに楽しみですね!

(写真は、「アモイのバスターミナル」、「沖縄の海(旅スケ〉より)」、「ブエノスアイレスの街の中心にあるオベリスクwww2.gol.com/users/chrisl/travel/samerica1.htmです)


2008年10月26日日曜日

煉瓦造りの洋館と金木犀


 もう二週間ほど前かになるでしょうか、どこからともなく「金木犀」の花の甘い香りが漂ってきていました。深まり行こうとする秋を告げてくれた懐かしい香りなのです。『どこからだろう?』と思っていましたら、裏庭への出口の角に、花壇の中に一本の木があって、それに花が咲き始めているのを、家内が見つけたのです。手折った花を、コップに挿して、食卓の上に置いてくれましたから、部屋の中も秋になりました。それで、『秋はいいな、美味しくて、お米は実るし、果物も・・・』と言う歌を思い出して、つい口ずさんでしまいました。柿、葡萄、梨、林檎、無花果、みかん、それに南方の果物が、近くのスーパーマーケットの果物売り場に、いっぱい並んできています。

 この福州の街は亜熱帯にありますから、日中は汗を流すほどの暑さですが、それでも着実に秋がやってきているのを感じさせられております。闽江(ミン・ジアング)の流れの川岸の高台に、引越し先のアパートがあるのですが、このめぐりにある常緑樹の木の葉も、心なしか薄くなって、日差しを路上に射し落とすようになってきています。この辺りを歩いて気付かされる一つのことは、かつていくつかの国の領事館や多くの学校があった学校区ですから、新しい十数階建てのアパート群の谷間に、いくつもの洋風の煉瓦造りの建物が残っているのです。かつてここに住んで、若者たちの教育に当たった先生たちの住居だったようです。きっと、その子女たちも、路上や広場や公園で遊んでいただろうと、想像させられております。この福州に参ります前に、一年過ごしました天津には、「租界」があり、私たちの住んでいた外国人アパートから程遠くないところにありました。「五大道」と呼ばれている地域ですが、その辺りのたたずまいに、この地域が、やはり雰囲気が似ているのです。もう60年近く、時が経ってしまったのですが、その生活の形跡をうかがい知ることが出き、想像力が大きくされております。そんな子どもたちも、もう六十代から七十代になっておられるのでしょうか。それぞれに帰国されて、一線を退かれて時間の出来た今、幼少年期を過ごした街角を思いだ出しておられるのではないかと思わされています。



 家の、すぐ隣が「幼稚園」なのです。先生について、言葉の勉強や歌を歌っている声が、よく聞こえてきます。保母をしていました家内は、『あ、日本の歌を歌っているわ。〇〇さんの作られた歌!』と言っております。家内の弁によりますと、心なしか、日本の子どもたちよりも、もっと声が大きく、元気なように感じられるのだそうです。次の次代を担っていく世代が、明るく元気に、夢を膨らませながら過ごしているのが伺えて、感謝な思いにされてもおります。



 そんな地域ですから、住宅としては、ことのほか立地条件がよいようです。それでも、日本のことを考えますと、国土は小さな国ではありますが、世界の中でも、水がきれいなこと、空気が澄んでいること、土地が肥沃だと言われています。最近、この福建省でも、日本の環境整備や環境整備を学ぼうとされているそうです。私たちの友人の親しい友人が、その研究実現プロジェクトのチームの一員に選ばれたと言っておられました。今日も、あるお店で買い物をしましたら、彼女のおじさんが日本で働いておられて、日本のことを、よく聞かれるようで、『日本の街はとてもきれいなんだそうですね!』と言っていました。30年ほど前に、欧米に倣おうとしていた日本のことを思い出して、東アジア圏のよき模範になっていることを誇らしく感じさせられたのです。

 中国のみなさんは、今日日、遜ってわが国に学ぼうとされ、さらに熱意を込めて一生懸命に働いておられますから、きっと日本に追いつき、追い越す日がやって来るのではないでしょうか。それに協力できるのは感謝なことです。どこからともなく「文明城市」の実現を期している槌音や意気が強く聞こえてきます。一年前に比べ、街が大きく変わり始めています。ここに住んでいたかたがたが、懐かしんで訪ねてきたら、大きく変わってきた中国に驚かれ、その狭間に残された家屋や学校を見ては懐かしまれることでしょうね。耳を澄ませますと、よい時代が来ようとしている靴音が聞こえてくるようです。


2008年10月24日金曜日

吹けば飛ぶよな将棋の駒と我が身


 『三つ子の魂、百までも!』、子どもの頃の体験は、人の一生に大きき影響を与えるもののようです。ラジオしかない時代に、そこから流れてきたのは、「歌謡曲」でした。もちろん、古典音楽なども「名演奏家の時間」などの番組で、聴くことはできたのですが。聞こうとして聞いたのではないのですが、何度も同じ歌を聞くうちに覚えてしまって、何かの拍子でついて出てしまうのが、歌謡曲です。友人のお嬢さんの名前が『愛ちゃん!』でした。その呼び名を聞いていると、つい、『・・・愛ちゃんは太郎の嫁になり・・・』という歌詞が、条件反射のように、聞いていた当時の光景と共に思い出されて、歌い始めるように誘惑されるのです。困ってしまったことがありました。

 遊びだって同じです。子ども頃のゲームの中心は、「将棋」でした。トランプや花札などもありましたが、もっとも愛好されていたのは、「王将」とか「金」とか「歩」の駒を、盤面で戦わす将棋でした。すぐ上の兄が強くて、親爺が、よく『待った!』と言っていたのですが、兄は決まったように、『待ったなし!』と言うので、短気な親爺が悔しくて駒を投げ出していたことがよくありました。この「将棋」の世界で有名な人物も、歌謡曲の題材に取り上げられて歌われていました。その代表的な人物は、「将棋の鬼」と称された、上方の坂田三吉でした。「通天閣」の下で暮らしていた彼は、学問をする機会はなかったのですが、将棋にかけては鬼才の持ち主だったといわれています。大阪に行きましたとき、その通天閣の近くに、宿を取っていただき、そこに泊まりました。いわゆる「釜ヶ崎」のドヤ街でした。そのときお会いした一人の方は、かつて全国紙の〇〇新聞の記者をされていて、恵まれた環境の中にあったのですが、何かにつまずかれて、ここに流れ込んだのだと言っておられました。お会いしたときには、しっかりと更生なさっておられて、『近いうちに香港に仕事で行くことにしています!』と話されていました。ドヤ街を通過した経歴の持ち主にはまったく見えませんでしたが。


 

 そこで、パンの配給をされておれる方がいて、300人ほどの方々が集まっていました。偉そうにしていたって、きっと何かでつまずいていたら、『自分もここを定宿にして日雇いで生活していたかも知れないな!』と思わせられたり、パンのための行列を、眺める側でなく、もらう側にいたかも知れないのです。そう考えますと、感謝と共に、何か親近感が湧き上がってきて、高級ではないドヤに泊まっても、違和感を感じなかったのが不思議だったのです。この街と同じような労務者の町が、東京にもあって、「山谷(さんや)」と呼ばれています。ここで社会奉仕活動をしておられる方と知り合いになって、時々行ったり来たりしたこともありました。西も東も、街のたたずまいも臭いも風情さえまったく同じように感じられたのです。

 通天閣の近くに銭湯があって、そこに入ったのですが、『もしかしたら、ここに坂田三吉も入ったことがあるのだろうか?』と思ってみただけで、どなたかに聞いてみることはしませんでした。そのとき、『吹けば飛ぶよな将棋の駒に・・・』が口から、ついて出てしまいました。そういえば、銭湯に行くと、『・・・いい湯だな、ハハン、いい湯だな・・・』と言う歌の文句も出てきてしまうのにも困ったものです。何の不自由も感じないのですが、もし中国暮らしに一つ注文をつけるなら、『たまにでいいから、《檜の風呂桶》の お湯に浸かってみたい!』のです。先日、街角の店に、大き目のプラスチックのケースを見つけて、『風呂桶の代用になるかな?』と思ってしまうほど、《風呂恋し》の十月の「華東の秋」であります。


 

 そういえば、子どもの頃、我が家にあったのは、檜材で作られた風呂桶だったのを思い出します。なんともいえない木の香りが漂っていて、夕月を眺めながら入った風呂場の光景やちゃぶ台を囲んでいた家族の顔が、昨日のことのように思いの中に浮かんでまいります。

(写真は、「福清の荷に裂いていた花」、「檜風呂(http://homepage3.nifty.com/tokyo-ikeda/yokusou/zaiko080819/zaiko080819.htm)」、「通天閣(http://www7.plala.or.jp/tower/tsutenkaku/tsutenkaku.html)」

2008年10月22日水曜日

八百年の時の隔たりを感じて


 もう二年しますと、父の「生誕百年」を迎えます。私と家内の結婚式に出席して、祝福してくれた父は、そのふた月後に、入院先の病院で、六十一年の生涯を閉じてしまったのです。もう少し長生きをして、親孝行をさせて欲しかったと、今日まで、つくづくそう思ってまいりました。明治末に神奈川県横須賀で、軍港を見下ろす小高い丘の上の旧家で生を受けた父でした。自慢話をする父ではなかったのですが、『鎌倉武士の末裔で、頼朝の家来だった!』と、八百年も前に遡ることの出来る自分の家系を話してくれたことがありました。父の唯一の誇りだったのでしょうか。




 小学校の何年だったでしょうか、鎌倉と江ノ島に遠足に出かけたことがありました。お腹がすいて、母が作ってくれた美味しいお弁当を食べたこと、古臭い寺めぐりをしたこと、疲れたことが思い出されるのですが。6年ほど前になるでしょうか、横浜の中華街で昼食を終えて、その足を伸ばして鎌倉に行ったことがありました。子どもの頃とは違って、その関わりを聞かせられていましたから、その鎌倉行きには特別な思い入れがあったったことになります。由比ガ浜の海岸から鶴岡八幡宮を結ぶ「若宮大路」を歩いていたときに、『自分と同じ血の流れる祖先が、馬に乗ってか歩いてか、ここを行き来していたのだ!』と思うと、八百年の時の隔たりを一瞬に埋めてしまって、馬上豊かな「鎌倉武士」にでもなったように錯覚させられてしまったのです。その鎌倉は、征夷大将軍として、初めての武家による政府を建てた源頼朝が、1192年、幕府を置いた古都であります。

 としますと、蒙古軍が日本に攻めてきたときに(歴史で習いました「元寇」の頃のことですが)、九州の大宰府あたりに陣をひいて、一戦を交えた武士集団の中に、わが祖先もいたのかも知れません。そんな想像を逞しくしていますと、歴史に刻まれた800年も前の出来事と、現代に生きる自分とが無関係ではないのだということになり、歴史上の出来事を、ごく身近に感じて、興味が尽きませんでした。もう一度、興味津津に鎌倉時代の歴史を紐解いてみたくなったのです。中国の元代と鎌倉時代の日本とは、そういった意味でも極めて深くて近い関係にあったことになります。


 

 昨日、家内が、「インゲン豆」を甘味噌で合えたものを食卓に並べてくれました。実に美味しい日本の味だったのです。ところが、この「インゲン豆」は、江戸時代の初期に、中国から長崎に伝えられたものなのだそうです。明代の中国の禅宗の「黄檗宗(おうばくしゅう)」の高僧の「隠元禅師」が、1654年に、六十三歳で来朝した折、この豆を持参し、植えられたのが始めだといわれています。この隠元師は福建省に生まれた方で、先日、旅行をしました福清市の「東林村」の出身なのだそうです。ですから、これもまたとても身近に感じて、ことのほか日本風の味付けで、この福州近郊で採れたたインゲン豆を頂くことが出来たわけです。味付けに使った味噌だって、一説によりますと、やはり中国から伝えられたものだと言われますから・・・とにかく、「歴史」と「関わり」を感じながら、隠元師の生まれた近くの町で採れたものを、家内が調理してくれ、美味しく食べたわけであります。

 さて、もう一度日本に帰って、どこかに住むことが出来るなら、南信州の駒ヶ根か、この鎌倉か、父が生まれた横須賀に住んでみたいと思っているのですが、「終の棲家(ついのすみか)」は、どうも自分では決めることが出来ないのでしょう。それも、そう遠くない将来のことですが、それよりも《今日を生きること》、これに専念しなければいけないと、肝に銘じている福建の秋十月であります。正直、望郷の思いがないわけではありません。その思いもまた、当然だといってよいのでしょうか。

(写真は、「鎌倉の海」、「鎌倉時代の食事〈一日二食〉」、「鎌倉時代の武士の住居の母屋〈中西立太画伯の作品〉」です)


2008年10月19日日曜日

代表的日本人


 もう20数年前になりますが、台湾を旅行したことがありました。首都・台北から、南端の高雄まで、いくつかの街に下車しながらの新幹線の旅でした。台南に行きましたときに、泊めていただいた家のご主人とゆっくりとお話しする機会がありました。この方は流暢な日本語を話されて、その会話も弾んだのです。この街に、数年前まで日系企業の駐在員で、新たに事業を展開するために一人の方が来ておられたのです。私の知っている方でした。私が訪問しましたときには、何年かの開拓事業の末に、会社をたたんで帰国してしまいました。この方を、私を迎えてくださったご主人が、よく知っておられたのです。事業行き詰ってしまったのだそうです。その理由をお聞きしましたら、『彼の日本精神が原因で、お得意様を失っていかれたようです!』と話されていました。どうもそれは、かつての日本統治の時代のように、台湾のみなさんに高圧的な態度で接せられたのがいけなかったようです。旧軍隊の軍人のような権威を振るおうとされたのでしょうか、みんながそうだったのではないのですが。


 

 その反面、台湾のみなさんは、旧日本統治時代を懐かしく覚えておられる方が多くいらっしゃるのです。どの街にも駐在さん(派出所の巡査)がいて、治安が保たれていたようで、『玄関を空けたままで外出しても物がなくなるようなことはまったくなかったのです!』と何人のもの方が言っておられたのをお聞きしました。大陸や朝鮮半島では、憎まれた日本人でしたが、台湾は知日派のみなさんが多のを知って、新しい発見をしたようでした。



 戦前、その台湾に巨大な「鳥山頭ダム」を建設した、八田與一(よいち)氏がおられました。台湾では、きわめて高く評価されている「代表的日本人」でいらっしゃるのです。心無い日本人の行状が非難されて、今でも日本人の中国での評価は芳しくないのですが、『昔の日本人は素晴らしかった!』との評価を受けているのが、この八田氏なのです。1886年、石川県金沢市に生まれて、東京大学を卒業されて、台湾総督府土木課に配属されたのです。その在任中に、台南市近郊に灌漑用の水利ダムを建造が計画されたのですが、彼は職を辞して、建設組合の一技師として、大正9年(1920)から昭和5年(1930)まで、完成に至るまで工事を指揮したのです。 現在でも、このダムは稼動しており、台湾では、この八田さんを、技術的な評価と共に、一人の人として、その人柄の優れた点で、「日本精神を代表する人物」とされているのです。どういう点で、そのような評価を受けられたのかと言いますと、

   1、嘘をつかない、
   2、不正をしない、

   3、全力を尽くす、
   4、失敗を他人のせいにしない、



と言う、四つの点で、八田さんは、「真正の日本人」なのだそうです。中国(台湾)のみなさんが、いまだに、そう評価されるのです。それこそ、本当に基本的な人間の生き方なのでしょうけど、それを現に活きて見せて、人々の記憶に留めたと言うことに、素晴らしい人間的な輝きがあります。こういった日本人のうちに培われた「徳」は、どこにいってしまったのでしょうか。今日日では「反・日本精神」が蔓延してしまっているのではないでしょうか。本物の「日本精神」は、人に危害を与えません。人を軽蔑しません。人の心を和ませ、平和を喜びます。感謝にあふれて、祝福の基となります。ですから次の次代を担い行く子どもたちには、ぜひとも「真正の日本精神」を心に宿していただいて、不正を憎んで義を愛し、正直で、全力を尽くして隣人に仕え、他人の徳を高める人に育っていただきたいものです。私も、中国のみなさんの間で、八田與一氏のような心持ちで生きて行きたいと願うものです。

(写真は、八田與一氏と「鳥山頭ダム」です)

  

東京山


 『あなたの趣味は?』と聞かれると、きまって答えるのが、『スポーツ、学校ではバスケットとハンドをしていました。中年過ぎからはテニスを始めたのです。見るのもするのも好きなんです!』と答えるのです。実は、その他に、《隠れ趣味》があるのです。《地図を見ること》、それで先日も、大きく開いて、福州市の近郊を眺めていました。そうしましたら、なんと《東京山》と言う山を見つけたのです。2年ほど前になりますが、天津にいますときに、壁にはってある中国全土の地図を眺めていましたら、四川省の南東部、西蔵(チベット)と雲南の三つの省境に近いところに、「稲城」と言う街を見つけたことがありました。結婚するまで住んでいた東京郊外にある、多摩川河畔の街と同じ名だったのです。同じ漢字文化の両国の間には、氏名から物や町の名前にも、共通のものが数多くあるわけです。



 

 何となく親密さを感じた私は、隣町の福清市の南部の農村に位置する、海抜385mのその山に、『ぜひ登ってみたい!』と思ったわけです。そんな願いを知人にもらしましたら、この方が、この村の隣村の出身だったのです。それで彼女が、『一緒に行きませんか?』と誘ってくださったので、国慶節の一週間の休みを利用して、二泊三日の旅を計画したのです。家~師範大~白湖亭~福清~東汗~海亮村と乗り継いだバスの旅でした。福清市の最も南に位置するこの村は、東シナ海に面した海辺の町でした。小さな港に連れて行ってもらって、夕陽の中に海を眺めることが出来ました。帰る頃、夕空には三日月が出ていて、秋の風情を深く感じさせてもらいました。


 

 この村は、『一家に一人は海外に出かけているのです。南アフリカ、オーストラリア、アメリカ、日本などへです!』と言っておられました。その出稼ぎで得た収入を送金してでしょうか、3~5階建ての石造りの邸宅が、そこかしこに建っているのです。十年も帰って来られない方がいるそうで、大きな家には老夫婦が、また奥さんだけが残されてわびしく住んでいる家も少なくないそうです。小高い石山の麓に、サツマイモ畑があり、畑を牛が耕す農耕地の間に、そういった堅牢で色とりどりの外壁を持った「豪邸」が見られるのには、驚かされたのです。日本では、世田谷や兵庫の芦屋でさえも、見られないようなお屋敷でした。




 知人の友人が私たちを歓迎してくださって、二晩、泊めて下さいました。長男は、日本の大学を終えて、東京でコンピューターの会社に勤め、流山のマンションに住んでおられるそうです。次男は、広西自治区の大きな街の会社に就職をされていて、結婚したてのお嫁さんは、義父母の近くの幼稚園の先生をされているとのことでした。二人の息子さんには、それぞれの部屋があり、お孫さんの写真も飾ってあるのですが、部屋はがらんとしてさびしく感じられたのです。12~3も部屋があり、各階には浴室があるのですから、五所帯がゆうに住むことの出来るほどの広さの家でした。結婚以来、借家で過ごしてきている私たちにとっては、羨ましい限りですが、我が四人は、それぞれに自活していきましたから、この家の一階だけでも十二分すぎるのです。

 その東京山ですが、事情があって、外国人の登山は難しいようで、断念した次第です。この山を見て、東京を想像することは出来ませんでした。さて、やがて帰って行く世界には、お屋敷が待っているのでしょうか。屋敷でなくても、大きな都の門口にでもいいので、そこを終の棲家としたいものだと思わされた、今回の秋の旅でした。

(写真は、上は「長江の流域の地図」、その外は福清旅行の折のスナップ写真で、「野に咲いていた花」、「農村を往復するバスの中」、「泊めていただいた家からとった田園風景・・・畑を耕す牛と近代的な家屋」です)


わが身体髪膚いかに装わんや 


 先日、外出時の「出で立ち」を思い出してみたのです。頭には、次兄からもらった「帽子」、上着は、長男夫妻から父の日のプレゼントとしてもらった「チェックのシャツ」、ズボンのベルトは、30年ほど前に次兄からもらった物、下着とズボンは「自前」、靴下は、次兄にもらった物、靴は、昨年天津に来た次男が、デパートに行って買ってくれた「中国製」、肩から提げた「カバン」も次兄がくれたものでした。その中に、弟が送ってくれた書類が入っていました。買い物や遊びに行くときには、次女の送ってくれた「OREGON」と刺繍されてある、孫がかぶっているのと同じキャップを頭にのせるのです。朝、食事のときに飲んだのは、家内の妹が送ってくれた「ブラジル産のコーヒー」、デザートは、次女が送ってくれた「チョコレート」と、家内が日本語を教えた学生が持ってきてくれた「故郷の特産の木の実」でした。時々飲むのが、長女の送ってくれた「アールグレイの紅茶」なのです。『懐かしんでくれるでしょう!』と思ってでしょう、次男のガールフレンドが送ってくれた清里の清泉寮の「かりんとう」と「森永チョコレート」も,、大事につまんでいます。冬になると、愛用する「リップクリーム」は、アメリカの友人が送ってくれて、登場を待っています。

 両親から受けた「身体髪膚(しんたいはっぷ)」を装う物も、これを養い保つために頂く食べ物も、その多くが「頂き物」であることに気付かされて、知人や兄弟や子どもたちの好意によることを知らされて、感謝に心があふれた次第です。就学前に、肺炎に罹って、死線をさまよったときに、入院した病院で、ベッドの下に布団を敷いて、添い寝をして看護してくれたのが母でした。その世話で癒えた私は、その後も何度か肺炎を冒したのですが、『今度罹ったら危ないですから!』と医者に言われながらも、母の懸命の看護で生き延びることが出来たのです。その母の作ってくれた食事を食べ、励まされて、丈夫な体に回復することが出来ました。

 2006年、天津で冬を迎えて、体調を崩した私は、気管支炎でしょうか喘息気味で寝込んでいました。それを知ったオーストラリア人の男性が、アメリカ製の薬を持ってきてくれ、イギリス人の友人が市場で見つけた日本映画のDVDを持ってきてくれました。薬が効いたのでしょうか、愛にあふれた好意が働いたのでしょうか、すぐに元気になったことが思い出されます。



 そういえば、思想だって、哲学だって、教養だって、自分で悟ったりはしていません。みんな先人からの「頂き物」なのです。両親や先生たちが教えてくれたこと、読んだ本、聴いた講演,見た映像、聴いた音楽、それらが私の人となりを形作ってくれたわけです。学校に行かせてくれたのも父でしたし、就職をして、上司につまずいたときに激励してくれたのも母でした。ほめたり叱ってくれた先生たちもいました。生意気盛りの私を殴って、気付かせてくれた先輩もいました。

 自分に今日あるのは「恥じな過去」のみです。思い出しますと赤面の至りで、もし、どこかでお会いしたら、何と言って詫びるべきか、多くの人の顔が思い浮かんできます。まあ最高に苦労を掛け、忍耐させたのは、家内ではないでしょうか。ダイナマイトで砕いたばかりの岩のかけらのように、丸みのない私の鋭い角で、幾たびも心を傷つけてきたからです。そのおかげで、私の方には少し丸みをつけることが出来たでしょうか。



 みんなに、『ありがとう!』と言いたい、大陸の秋10月であります。今日学生たちが、10名来て、みんなで「四季の歌」を、『・・秋を愛する人は、心深き人、愛を語るハイネのような、僕の恋人・・・・』と一緒に歌いました。『妻と子どもたち、友人も親爺もお袋も、みんないて、今日の自分があるのだ!』と感じること仕切りです(1011日記)。

(写真は、「ぼうし」、「甲武信岳(http://www7a.biglobe.ne.jp/~happy-sanpo/sanpokiroku/05/kobusigaatke2/051103.htm)の頂上の岩」、「くつ(http://gigazine.jp/img/2006/07/14/shoelace/288301_8881.jpg)」です)


紙一重の違いの彼と俺


 この一週間、PCが使えなく、コピー屋さんのを借りて見た時、1つのニュースが目に飛び込んできました。グアムからロスアンゼルスに移送された三浦和義氏が、収監先の自室で、自殺をして果てたと言うのです。この知らせを聞いて、何とも表現できないような複雑な気持ちを感じているのが、今の正直な私なのです。まるで、自分の分身が、自死してしまったかのように感じられたからです。もちろん彼とは血筋のつながりのまったくない赤の他人ですし、以前、親交があったと言うのでもありません。ただ、ほぼ同世代で、戦争後の混沌とした中に、少年時代を過ごし、同じ時代の風を受けながら、それぞれに駆け抜けた者同士のわけです。彼は少年期に、放火を犯して少年院に入り、退院後も、さまざまな犯罪に関与して、警察にマークされながら、ここまで生きて来たのです。、万引きや盗みを繰り返して、同じ犯罪性を帯びながらも、一度も警察の厄介にならないで済ませてきてしまった私と、彼との違いは何だったのだろうかと思ってしまうのです。要領が悪く、上手に泳ぐことの出来なかった彼と、したたかにずるく過ごしてきた自分との差しか考えられないのです。芸能界で有名な女優の私生児して生まれたと言われていますが、真偽のほどは分かりません。そういった特異な環境の中で、家庭に恵まれない中を育ったのかも知れません。これも私には分かりません。ただ少年院に入りますと、そこで二度と捕まらない悪知恵や、犯罪学の教習を受けて出所して、また犯罪に手を染めると言うパターンを繰り返したようです。


 

 自分は、学校に上げてもらい、それなりの社会的な立場も得ることができ、教壇から人を教えるような仕事にもつかせていただきました。立ち回りが上手で、人の好意を得られて生きてくることができたのですが、三浦氏と自分との違いは、本当に「紙一重」としか感じられないのです。こそ泥などの軽犯罪から強悪犯になって行くといったレールの上から、私は外れることができ、彼は、乗ったままで生きて来たのかも知れません。思ったり考えたりしたことはあるのですが、実行犯として犯罪を犯して捕まると言うことなく、私は生きて来たことになりますが、罪性の根は、三浦氏のものと寸分なりとも違わないのです。彼は、『お前はずるい奴だ、要領よく生きやがって!』と、私に振り向いて言える一人に違いありません。ただ25の時に、黄河の大濁流が押し迫るように、不思議な力が責め寄せて来て、自分の罪を、涙を流し泣いて激しく悔いたことがありました。そして、その後、いくばくかの謝罪も行って来たのです。彼とて、六十代に至って、過去の罪を認めて、しっかりと謝罪する機会が残されていたのではないか、自死なんかしないで犯した罪の真偽を示し、もし有罪ならば清算することもできたと思ってならないのです。



 どういったらいいのでしょうか、空虚なのです。彼の気持ちが、なんとなく分かるように感じるのです。数年前に、三浦氏が本を万引きして逮捕されたことがありました。これだって、あのスリリングな盗みの感触、何となく手が出てしまって、気がつくと盗んでしまっていると言うような感覚が、自分のうちにも潜んでいるように感じてならないのです。彼は犯し、私は犯さないで手を引っ込めることが出来るに過ぎないのではないか。決して、彼に共感したり、彼の犯罪性に『仕方がない!』と同情しようとしているのではないのですが。彼がロスアンゼルスで死んだのに、私は中国の福州に生きている、何かやるせないと言うのでしょうか、じっとしていられないような思いにされているのです。彼の表情を、テレビの中に、写真の中に何度も見て、芸能人のような素振りの中に、強がりを見せていたのですが、彼が心のうちで感じていることが、何となく分かってしまうのです。

 そんな背中合わせに生きて来たように感じられる彼の訃報に接して、この気持ちをどう言い表したらいいのでしょうか。ただ、彼と違った生き方が出来たのは、こんな私を諦めないで、『可愛い!』と思ってくれて、忍耐深く祈り心をもって育ててくれた両親によることを思わされるのであります。ただ心からの感謝を覚えるのみです。とくに、今なお手紙で激励してくれる老いた母への感謝は尽きません(10月17日記)。

(写真は、少年期を過ごした昭和30年代の、人気テレビ番組「月光仮面(http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/92/0000032292/49/img8a4761d7zik5zj.jpeg)」、「ちゃぶ台(http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/14/0000436914/90/imga9e8d030zik1zj.jpeg)」、「お茶の間風景」)

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自己紹介

 次男に勧められて始めた「ブログ」ですが、2007年7月から1年間休刊しました。その間、他の「ブログ」を開設したのですが、2008年7月に、名前を変えて再開しました。  父として子どもたちに、爺として孫たちに、また母や兄弟や友人たちにも、何かを語り残したいと願って、続けています。