2008年10月24日金曜日

吹けば飛ぶよな将棋の駒と我が身


 『三つ子の魂、百までも!』、子どもの頃の体験は、人の一生に大きき影響を与えるもののようです。ラジオしかない時代に、そこから流れてきたのは、「歌謡曲」でした。もちろん、古典音楽なども「名演奏家の時間」などの番組で、聴くことはできたのですが。聞こうとして聞いたのではないのですが、何度も同じ歌を聞くうちに覚えてしまって、何かの拍子でついて出てしまうのが、歌謡曲です。友人のお嬢さんの名前が『愛ちゃん!』でした。その呼び名を聞いていると、つい、『・・・愛ちゃんは太郎の嫁になり・・・』という歌詞が、条件反射のように、聞いていた当時の光景と共に思い出されて、歌い始めるように誘惑されるのです。困ってしまったことがありました。

 遊びだって同じです。子ども頃のゲームの中心は、「将棋」でした。トランプや花札などもありましたが、もっとも愛好されていたのは、「王将」とか「金」とか「歩」の駒を、盤面で戦わす将棋でした。すぐ上の兄が強くて、親爺が、よく『待った!』と言っていたのですが、兄は決まったように、『待ったなし!』と言うので、短気な親爺が悔しくて駒を投げ出していたことがよくありました。この「将棋」の世界で有名な人物も、歌謡曲の題材に取り上げられて歌われていました。その代表的な人物は、「将棋の鬼」と称された、上方の坂田三吉でした。「通天閣」の下で暮らしていた彼は、学問をする機会はなかったのですが、将棋にかけては鬼才の持ち主だったといわれています。大阪に行きましたとき、その通天閣の近くに、宿を取っていただき、そこに泊まりました。いわゆる「釜ヶ崎」のドヤ街でした。そのときお会いした一人の方は、かつて全国紙の〇〇新聞の記者をされていて、恵まれた環境の中にあったのですが、何かにつまずかれて、ここに流れ込んだのだと言っておられました。お会いしたときには、しっかりと更生なさっておられて、『近いうちに香港に仕事で行くことにしています!』と話されていました。ドヤ街を通過した経歴の持ち主にはまったく見えませんでしたが。


 

 そこで、パンの配給をされておれる方がいて、300人ほどの方々が集まっていました。偉そうにしていたって、きっと何かでつまずいていたら、『自分もここを定宿にして日雇いで生活していたかも知れないな!』と思わせられたり、パンのための行列を、眺める側でなく、もらう側にいたかも知れないのです。そう考えますと、感謝と共に、何か親近感が湧き上がってきて、高級ではないドヤに泊まっても、違和感を感じなかったのが不思議だったのです。この街と同じような労務者の町が、東京にもあって、「山谷(さんや)」と呼ばれています。ここで社会奉仕活動をしておられる方と知り合いになって、時々行ったり来たりしたこともありました。西も東も、街のたたずまいも臭いも風情さえまったく同じように感じられたのです。

 通天閣の近くに銭湯があって、そこに入ったのですが、『もしかしたら、ここに坂田三吉も入ったことがあるのだろうか?』と思ってみただけで、どなたかに聞いてみることはしませんでした。そのとき、『吹けば飛ぶよな将棋の駒に・・・』が口から、ついて出てしまいました。そういえば、銭湯に行くと、『・・・いい湯だな、ハハン、いい湯だな・・・』と言う歌の文句も出てきてしまうのにも困ったものです。何の不自由も感じないのですが、もし中国暮らしに一つ注文をつけるなら、『たまにでいいから、《檜の風呂桶》の お湯に浸かってみたい!』のです。先日、街角の店に、大き目のプラスチックのケースを見つけて、『風呂桶の代用になるかな?』と思ってしまうほど、《風呂恋し》の十月の「華東の秋」であります。


 

 そういえば、子どもの頃、我が家にあったのは、檜材で作られた風呂桶だったのを思い出します。なんともいえない木の香りが漂っていて、夕月を眺めながら入った風呂場の光景やちゃぶ台を囲んでいた家族の顔が、昨日のことのように思いの中に浮かんでまいります。

(写真は、「福清の荷に裂いていた花」、「檜風呂(http://homepage3.nifty.com/tokyo-ikeda/yokusou/zaiko080819/zaiko080819.htm)」、「通天閣(http://www7.plala.or.jp/tower/tsutenkaku/tsutenkaku.html)」

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自己紹介

 次男に勧められて始めた「ブログ」ですが、2007年7月から1年間休刊しました。その間、他の「ブログ」を開設したのですが、2008年7月に、名前を変えて再開しました。  父として子どもたちに、爺として孫たちに、また母や兄弟や友人たちにも、何かを語り残したいと願って、続けています。