2008年9月29日月曜日

男っぽさ


 中学に入りたての頃、『男は、髭剃り後の青い頬がいいんだ!』と,ホームルームの時間に、《男っぽさ》について、担任のK先生が話されたことがありました。その言葉に触発されて、『どうしたらヒゲが濃くなるか?』について調べてみますと、《ヒゲ剃りの励行》だと言うことが分かったのです。早速、ヒゲを剃り始めたのが中1の時でした。毎晩、風呂に入った時に、父の安全かみそりを、そっと拝借しては剃ってみたのです。髭とは言っても、まだ産毛でしたが、毎日毎日、髭剃りを繰り返していました。『何時か、親爺のように、K先生のように!』と願いつつでした。ところが、父に似ないで、母似の私は、体質的に体毛が濃くないわけです。沖縄とかアイヌの方々は、体毛が濃いのです。ハワイに移民をされた沖縄出身の方を知っていますが、夏でも長袖を着るほどに体毛が濃いのです。それにひきかえ、『自分の薄さは何だろう?』と思ってしまうのです。多分、母の出身が山陰ですから、私も大陸から渡ってきた朝鮮民族の末裔に違いありません。彼らはさほど濃くないと聞いていますので。今日まで何回剃ったことでしょうか。いまだに、担任の言われた、《髭剃りあとの青い男っぽさ》には程遠いのであります。ついでに胸毛も欲しくて、かみそりで何度も剃ってみたのですが、これまた、なんら効果のないままで過ぎてしまいました。

 それでも青年期になりますと、人並みにヒゲが生えてきたのです。雅仁お前が髭を生やしたら、俺の親爺にそっくりだろうな!』と、自分の父親を思い出しながらでしょうか、父がそう言っていました。61才の誕生日を迎えたばかりで父が召されたのですが、それから何年もしてから、父の言葉を思い出して、『ヒゲを生やしてみよう!』と思ったのです。に見てもらって、喜ばせることは出来ませんでしたが、自分の顔を鏡に映して見て、『これが祖父の顔かたちなのか!』と感心して見入ったものです。祖父に抱いてもらうことは、一度もありませんでしたが、父をひざの間に入れて腰掛けている祖父の写真は、父のアルバムに見たことがありました。痩せ型の細面の祖父に、本当にそっくりだったのです。自分では悦にいっていたのですが、周りの評判がよくなかったのでしょうか、間もなく剃り落としてしまいました。


 

 ある時、アラブ系の一人のアメリカ人でアフリカで事業を展開していた方に出会いました。元ボクサーで斜視でしたが、声が素晴らしい、実に魅力的な男性でした。彼に憧れていた私は、また彼に真似て髭を付けたのですが、彼の様にはならずじまいでした。結局、『アテンション・プリーズのパフォーマンス!』と、髭嫌いの家内のことばに負けて、すぐに剃り落としてしまったのです

 先日、友人宅でお会いした中華系アメリカ人のご夫人に、『ありがとう!』と、家内が言いましたら、"Dont touch masutache "と、ことばが返って来ました。なんと、日本語の『どういたしまして!』の駄洒落でした!それを聞いていた私は、彼女の顔を、「しげしげ」と見てしまいました。どうも日本人との交わりが彼女にあるようで、そのユーモアを楽しませてもらったのです。

 K先生が言われた《男っぽさ》とは何だったのでしょうか。東大出の秀才で、すこしも威張った風に見せなかった方でした。私の憧れた鶴田浩治や高倉健やジョン・ウエインのような男性くささはなかったのですが、『いつか、K先生のような教師に、しかも社会科の教師になってみたい!』と思わせたほどの方でした。ですから外見上のことよりも、内面の建て上げについて多く話されたのですが、聞いた中一の私にとっては、「頬の青さ」は大きな挑戦であったわけです。そんな日々が、まるで昨日のことのように思い出されてきます。やっぱり、しみじみとした台風一過の秋の昼過ぎであります。

 

(写真は、在学当時の母校の玄関(左脇に二宮金次郎の銅像がありました)、現在の正門です)

2008年9月28日日曜日

美味しかった天丼を孫たちにも!


 「ヴェニスの商人」、「難波商人」、「甲州商人」、「近江商人」と言う言い方があります。物を仕入れて、それを必要とする人に売って生計を立てる人を「商人」と言います。商いの世界で、模範的な商業倫理を持っていたとして、高く評価されていて、映画にもなっているのが、行商で名を馳せた「近江商人」でしょうか。


 商才のない私でしたが、30年ほど前になるでしょうか、4~5日の会期で行われた大会に参加した時、受付の横で、小さな店を開いたことがありました。『参加者の便宜を図っていかがですか!』と、頼まれたのです。知り合いから果物や菓子や雑貨用品を仕入れて売りましたら、結構な収益を上げることが出来たのです。その収益金は、大会の運営費に寄付したのですが、『商売って、上手くやると驚くほどの収益を上げられるのだ!』と驚いたことがありました。『もしかしたら、商才があるのかも知れない!』と思わされたのです。よい場所に店を構え、人の必要を見抜いて商品を並べ、よいものを薄利で売るなら、きっと収益に欠けることはない、と言うことを学んだのですが、商人になろうと思ったことは一度もありませんでした。




 私の父の友人が、果物商されていて、同業者の組合長をされていました。戦争が終わって、着の身着のままで帰ってきた兵士たちに、リヤカーを轢いて、野菜や果物を売って歩くことで、生計を立てる道を勧めたのです。その開業資金を貸与して上げたそうです。朝早く市場で、持ち金で仕入れをし、轢き売りをして得た収益で、妻子を養い、子女に教育を受けさせるように自立を促したのです。小さく商いを始めて、店を構えた八百屋さんたちが、市場の中を歩いている父の友人に、深く頭を下げている光景を何度も見かけたことがありました。戦後の地方都市で、自分の儲けではなく、人の家庭や生活の建て上げのために尽力されたことは、新聞記事にこそなりませんでしたが、素晴らしいことだと思わされたです。この方が、『雅ちゃん、天丼でも食べようか!』と誘ってくれて、何度もご馳走になったことがありました。その柔和なおじさんの顔が、思い出されるのです。


 商売の順当な儲けと言うのは、2割か3割ほどが上限ではないでしょうか。5割や倍儲けは邪道なわけです。今日日、「近江商人」泣かせの米商人の不正がマスコミによって槍玉に挙げられています。事故米の不正流通が、病人食や学校給食にまで使われているのだそうです。彼らは、それを食べることはないのでしょう。自分の子どもや孫たちには、よそで買ってきた米を食べさせるに違いありません。他人の子ならよいのでしょうか。そういった商業倫理観が、いえ人間倫理観と言うべきでしょうか、これがまったく欠落してしまった現代社会を、憂うるのであります。ハムも牛乳も鰻も、もう何もかも「純正品」がなくなってしまったようです。本来なら、正直な人こそが、商人になるべきなのにです。順当で正当な儲けで生きていくのは当然だからです。「儲け」が先行してしまうと、商いが荒れてきます。心に不正が入り込んでくるからです。正直な商人が、ほとんどなのですが、わずかな「悪徳商人」の商売に、飽きないでいたいものです。




 今日日、何を食べたらいいのでしょうか。食料自給率の低いわが国で、成長盛りの孫に何を食べさせて上げられるのでしょうか。ユダヤ民族に、「水の癒し」の故事が残されています。ある街に、なぜか流産が多発していました。その原因を探りますと、住むには素晴らしい環境だったのですが、水が悪かったのです。それで、一人の人が、「新しい皿に盛った塩」を用意するように語ります。彼はその塩を、水の源に投げ込むと、すぐに水が癒されてしまったのです。その後、その街には、まったく流産が起こらなくなったというのです。としますと、調理した食物に、「塩」を投げ込んで、毒を癒すしかないのかも知れませんね。そうしたら、毒を飲んでも害を受けないですむのではないでしょうか。塩を用いる前に、ただ私が願うのは、4人の孫たちの次世代のために、正直な商い道・商法が回復されて、「安全な食材」の流通を願ってやみません。何時か、あの美味しかった天丼を、孫兵衛たちに安心して食べさせて上げたいものです。


(写真は、「行商姿の近江商人(http://www.biwa.ne.jp/~tenbinst/shonin/index.html)、「八百屋の店頭(http://www.ashinari.com/2008/08/31-007341.php)、「多摩川の水源」です)

2008年9月25日木曜日

父帰る


 菊池寛が、「父帰る」という小説(脚本)を書いています。明治40年頃の家庭を舞台にしていますから、私の父の生まれる3年ほど前のことになります。家出した父親の二十年ぶりの帰還、それがもたらす家庭内騒動といった筋書きです。私は、何度か家出をして野宿をしたことがあります。旧国鉄の引込み線に停車している貨物列車の車掌室にもぐりこんだり、大きな木の下に藁で寝場所を作って寝たり、防空壕の中で過ごしたこともあります。意地を張ったのでしょうか、子どもなりに家に帰れない事情があったからです。でも連泊することはなく、翌日には、「子帰る」で父の赦しを受けて家に戻りました。ところで、私の父が家出をしたことなど、一度もありませんでした。がんばって育て上げてくれたのです。

 新宿、神田、浅草橋に会社を持っていた父は、夕方になると、手に何か土産をつるして帰って来ることがたびたびでした。私たち四人兄弟にとっての「父帰る」は、美味しいソフトクリーム、ケーキ、カツサンド、あんみつと切り離せない、夕方の味覚であり、楽しみでした。怖かった父なのですが、子どもを喜ばすのが上手な父でもあったのです。家の前の、旧甲州街道の路上で、キャッチボールをしてると、『雅、グローブを貸せ!』と言って、兄たちと遊んでいると一緒にしてくれました。お湯が綺麗で、量の豊富な隣町の銭湯が好きで、一駅電車に乗っては、連れて行かれたこともあります。今日日の週末や春や夏や正月の休みなどに遠出をするような習慣の無い頃にも、渋谷や新宿に連れ出してくれたこともありました。この父は「本物好み」の人でした。『雅、柳川を食べに行こう!』と何度か誘ってくれたことがあります。浅草・駒形の老舗の「泥鰌屋(どじょう)」で、本物を食べる誘いでした。何度も約束してくれたのです。ところが私たちが結婚した翌月、61の誕生日を迎えてすぐに召されてしまいましたから、残念なことに、その約束は反故にされてしまいました。


 

 母と出会った山陰の松江や出雲で、父は青年期の一時期を過ごし、そこで結婚しています。上の兄二人は出雲で生まれているのです。母に連れられて訪ねたことと、学生のときの旅行と、仕事で鳥取に行ったときに足を伸ばしたことがありました。父や母だけにではなく、我ら四人の男の子たちにとっても、山陰の地は格別な土地に違いありません。毎年五月には、出雲の母の実家から、決まって「ちまき」が送られてきたからです。また、なぜか我が家の本籍は、ここに置かれてあったのです。この地方に、「安来節」と言う民謡があります。若くてヤンチャな父の十八番が「安来節」で、お囃子を奏でながら、「どぜう踊り」を踊ったのだそうです。見る機会はありませんでしたが。よくザルを手にしては、「どぜう獲り」にも出かけたそうです。都会育ちの父にとっては、山陰の片田舎ののんびりとした時の流れは、心の傷を癒し、和ませてくれたのでしょうか。



 Jr浅草橋駅から、そう遠くない隅田川の近くに、老舗の「どじょう料理屋」があったようです。今もあるでしょうか。獲るだけではなく、食べるのも好きだった父にとっては、足繁く通った店だったのでしょう。結婚した息子が船橋に住み始めましたから、御茶ノ水で乗り換えて総武線に乗り込みますと、『あさくさばし、浅草橋、次は・・・』と車内案内が流されています。それを聞くたびに、その父の約束が思い出させられるのです。そろりと降りて、駒形あたりを散策したい誘惑に駆られるのですが、まだ実現しておりません。今度帰国する機会があったら、駒形に足を伸ばして、隅田の川風に当たりながら、「どぜう屋」に入ってみたいものです。柳川」、これもまた父からの1つの宿題なのかも知れません。



 私の父は、決して模範的な父親ではなかったのですが、私にとっては、たった一人の父なのですから、良いも悪いも丸抱えで、「敬愛する父」であります。一言で言えば、涙もろくって、単純で、短気で、一晩寝てしまうと、翌朝からは新しくやり直せる人だったでしょうか。テレビを観てて、よく涙をぬぐっているのを目撃したことがあります。横になって、幼い日に歌った歌を思い出だしながら口ずさんでいました。巨人軍大好きのスポーツマンでした。父が天上の故郷に帰って、もう四十年近くになりました。二度と帰らない父なのですが、父の召された年齢を越えてみて、『もう少し長生きをして、子供や孫を見て欲しかった!』と思ってしまうのです。「父越える」と言うのは不思議な感覚がするものです・・・・なんだか父が弟のようにも感じてしまうからなのですが。人生短し、秋の風ですね!

(写真は、「山梨県清里の清泉寮のソフトクリーム(http://photozou.jp/photo/show/157896/11847919)」、「出雲平野を流れて宍道湖に流れ込む斐伊川」、「隅田川の2005年夏の花火「(http://sozai-free.com/sozai/00881.html)」「はるかに見える駒形橋(安部照雄氏撮影)」です)


2008年9月23日火曜日

Bucket List (バケツの一覧表)


 五月の帰国の際の、次男の激励は《温泉》だけではありませんでした。映画も見せてくれたのです。東京の郊外のスクリーンを何枚も持つ大型映画館で、数ある中から『うーん!』と唸らせる映画を見せてくれました。それは「最高の人生の見つけ方(原題、Bucket List”)」でした。

 老境を迎え、それぞれが「癌」を告知された二人の男性の物語でした。一人は、菜っ葉服を着て、長らく自動車整備工として勤勉に働き、妻を愛し、子どもたちを育て上げてきたアフリカ系アメリカ人、もう一人は、敏腕の実業家で資産家、家族を犠牲にしてきたことが伺える白系アメリカ人でした。この二人が、同じ病院の同じ病室で、入院して出会うのです。病院以外では、決して接点を見い出すことなどない二人なのですが、余命わずかな二人が、不安を胸に入院した同じ病室で、不思議な出会いをするのです。自分の夢よりも家族の幸せを願いながら働いてき たカーター、お金だけは有り余るほどあるのに、家族はまったく見舞うことがなく、ただ秘書だけが事務的にやって来るのみのエドワード。


 

 治る見込みの無いガン告知を受けた二人を、かたく結びつけたのは、二人で書き込んだ1枚のリスト、”Bucket List (自殺者は首に縄を掛けてからバケツを蹴ってことに及ぶところから、死ぬまでにしておきたいことを書き出すことを言っているようです)”の実行でした。生きている間にしておきたいことを実行していくのです。「美しく荘厳な風景を見ること」、「見知らぬ人に親切にすること」、「涙が出るほどに笑う こと」……とカーターは書き上げました。「スカイダイ ビングをすること」、「ライオン狩りに行くこと」、「世界一の美女と過ごすこと」……と、エドワードが付け加えたのです。そのリストアップした課題を実現 するために、エドワードの自家用ジェット飛行機に乗って、「世界旅行」に出かけるのです。『や り残したこと!』って意外とあるのではないでしょうか。それを生涯の最後に叶えられるのですから、この二人は恵まれているわけです。人生に悔いを残さない で、『最高の人生だった!』と心の底から喜んで死んでいこうとしたのです。実は、二人の残された時間は半年でした。ハラハラするような場面の中に、微笑や 苦笑いがあり、厳粛な死の現実を、ユーモアーをこめて描いた秀作でした。結局、カーターがエドワードの死に逝く様を見送るのですが。演じたジャック・ニコルソンもモーガン・フリーマンも、実に渋味ある好演でした



 『う~ん、自分だったらは、どんな「Bucket List 」を書き上げるのかな?』、と映画を観ながら考えていたのですが。最近、この映画のことを思い出して、しばし考えてみました。1つは、長女の結婚式に列席すること、2つは、次男の結婚式に列席すること、3つは、孫たちと遊ぶこと、4つは、遼寧省撫順の近くの「平頂山」にある記念館に花輪を携えてお詫びに行くこと、5つは、ネッカー河畔の街ハイデルベルクに旅行すること、つは、母と義母の百歳の誕生会に出席することつは、長兄と親しく交わりをすることつは、船に乗って日本海を渡って日本に行くこと、こんな8つのことを考えてみたのですが。死の宣告なしの思いですから、現実味に乏しいかも知れません。これらは、百才になるまでには実現できるでしょう。もちろん食べたい物、読んでみたい本、訪ねてみたい街、会ってみたい人などもありますが。でも「癌告知」を受けたら、覚悟を決めてカーターとエドワードのように、人生のしめくくりをつけられるでしょうか。リストアップされた課題についても、どれを優先順位の最初におくことになるでしょうか。いつでも死に逝く心備えをしながら、生きるつもりですから、健康管理にも心配りをしないといけないようです。



 自分のリストを、一緒に書き上げる人生最後の友人と出会えるでしょうか。それは、いつ、どこででしょうか。彼らのように病院でしょうか、それともバス・ターミナルかスター・バックスの外のベンチでしょうか。友をえ、行き先がきまったら、きっとタクシーか公共のバスに乗って行ける範囲で、行けるところまで行くことになるでしょう。そのほかは個人的にしなければならないことなのかも知れません。『しまった!』とは言えないのですから、そう思える間にしておかないとならないようですね。おっと、、、まだしなければならない日常の義務があるのです、これに専心しないと。あの二人のなきがらが、エベレストの頂上の石くれの間に置かれていましたが、私の場合は、この数年、水分を補給して養ってくれた「闽江(ミン・ジアング)」の流れに注いで、七つの海に連なる「東シナ海」に流して欲しいと願うのですが。

(写真は、エヴェレスト(http://yeti.justblog.jp/photos/8000m/)、主演の二人、モーガン・フリーマン氏、中国の瀋陽を走る「公交車」です)


2008年9月21日日曜日

息子の激励


 机の前の壁に、「中華人民共和国全図」が貼ってあります。東の端に日本列島を見つけることが出来ますが、この近さゆえに、古来、人や文化の交流がなされてきたことが、当然のように納得させられるのです。間には、朝鮮半島があり、台湾もあります。南には東南アジア諸国があります。さらに福州市を含んだ近辺の地図も机上にあります。「永泰県」が市の西部に位置しているのですが、そこに「温泉」があることが記されてあります。「公交車」と呼ばれる公共バスで、市内の「西站(xi zhan 西バス・ターミナル)」から1時間ほどのところにあります。見るにつけ、温泉で弱ったからだと痛んだ心とを、幾度となく回復された私は、『う~ん、行ってみたいな!』と願わされてならないのです。



 この5月に、「鼓膜再生手術」で帰国し、初診と手術まで三週間ほどの待機期間がありました。この時、次男が、『親爺をはげまそう!』と思って、大きな温浴施設に招待してくれたのです。『お湯につかる!』と言うのが入浴なのですが、普段、シャワーしか使えない環境にありましたから、思いっきり手足も心も伸ばすことが出来るのは、なんともいえない快適な経験、開放感を味わえて、『これぞ日本!』と感じさせられた次第です。岩盤浴、サウナ、ジェット水流、薬湯、香湯と、さまざまな工夫がされている施設に、かわるがわる入るのですが、どこに身をまかすか迷うほどでした。この何年かの間に、雨後のたけのこのように、東京郊外のそこかしこに出来た温浴施設ですが、現代の「日本人の疲労度」の高さを感じざるをえませんでした。しなければならないことに追われるような日々の真っ只中で、すべきことをしばし脇に追いやり、思いっきり緊張感を緩めて、裸になれるのは、日本独特の娯楽、いえ文化・伝統なのでしょうか。箱根や鬼怒川の温泉に入るのは、江戸の娯楽だったのでしょうか、この二十一世紀になっても、日本人の心の奥底には、同じ思いがあるからなのでしょうか。そういえば、顔も体も、緊張感を解かれて、『うーん、いいな!』と、みんなが納得しているような顔をしていました。もちろん自分もですが。



 あの時、夕食を一緒にとったのですが、『あれもこれも』と、しばらくぶりの日本料理を注文してくれて、彼とガールフレンドと三人で余すほどで、満腹になってしまいました。『こんな贅沢は、久しぶりだなあ・・・美味しい!』と思いながら、次男の好意に、『有難う!』と感謝して楽しむことが出来たのです。そういえば今、日本は秋たけなわですね。ガソリンが高くなってはいても、「行楽の季節」を迎えているわけです。今は、時々、インターネットで検索して、信州や東北の温泉を見ることがありますが、地図で見るよりも、写真や交通順路や解説がついていますし、近隣の観光地の紹介もなされています。今度、いつ帰られるか分かりませんが、帰ることが出来たら、また次男が、どこかへ連れて行ってくれることでしょう。そういえば親爺が風呂好きでした。『生きていたら湯河原あたりで、おんぶして温泉にいっしょに浸かって、背中を流して親孝行の真似をしてあげれたのになあ!』、と思ってしまう大陸の秋です。そういえば次男がご馳走してくれた料理の中に、秋刀魚があったようですが!今がたけなわなのでしょうか。


(写真は、上は、アジア地図、中は、4年前に鍵盤手術とリハビリが終えた後、訪ねた湯布院の友人の別荘から見えた「由布岳」、下は、39才の時に大きな手術を終えてからしばらく療養した増富ラジウム温泉の「金泉湯」の浴槽です)

2008年9月19日金曜日

お母さんを誇りに思っていた彼



 先ほど『覚えてる?』と、家内が読んでいる本のページの見開きを見せてくれました。そこに懐かしい人の名前がありました。12年ほど前になるでしょうか、アメリカの西海岸のポートランド近郊にある大きな会社を、15人ほどの友人や仕事仲間と家族も含めて訪問したことがありました。その社長の名前が出てきて、懐かしく思い出したのです。『日本から来た視察団、お客さま!』ということで大歓迎をしてくれました。こういったことは実に珍しいことなので、驚きましたから、いっそう印象深く思い出されるのです。




 街の大きなホテルの部屋をとってくださって、滞在期間中に食べたり使ったりするようにと品々がカードを添えて、”OREGON”と印字されている布袋に入れて、各部屋のテーブルの上に置いてありました。それは社長夫人が個人的に準備してくださった特別な好意であることを、後で知ったのです。会社の来歴と現況、スタッフの紹介、工場や施設案内、訪問した一人一人の自己紹介、懇談会、直筆の本の寄贈などが三日間ほどの日程の中に組み込まれていました。もちろん、観光もさせてくださいましたが。日本に強力な企業が建て上げられることを願って、創業期の苦労話もありました。彼の事務室に、15人ほどが座っての談話もありました。実はこの社長さんは、白血病を病んでおられたのです。今は、すでに召されておられて、新しい方が責任を取っておいでです。その彼が、遠くから訪ねてくれたと言う理由で、《キモセラピー》の治療を朝一番で終えて、事務所に見えられたとき、大きな手と体とで握手とハグをしてくれたのです。その様子を見ていた男性秘書が、チラッと難しい表情をされているのを見てしまったのです。彼は、アルコールを含ませた布で、机やいすを拭いていました。キモセラピーの治療後は、手に触れるものや通気に注意しなくてはいけないのです。握手やハグは禁物なわけです。理由を言われて避けられればいいのでしょうけど、彼は歓迎の意を体いっぱいで表現してやまなかったのです。




 そういえば、彼の会社のスタッフの一人の方は、若いときに、隣の町で会社を始めたのですが、難しい問題が起きると、この社長さんに相談をされていたようです。でも会社は倒産してしまったのです。そうしましたら、この社長さんは、好待遇で彼をスタッフの一員に招いたのだそうです。失意の彼を見過ごすことが出来なかったからです。そういった優しさがあって、彼の能力が引き出されて、有能な協力者となって貢献していたのです。滞在中、彼がスーツではなく、ラフなセーターを着て、日本のステーキハウスの晩餐に来られたことがありました。私たちの歓迎会でのことでした。『これ年を取った母の手縫いなんですよ!』と言っていました。有名ブランドの製品を着るべき大会社の社長さんなのですが、ちょっとちぐはぐで、お世辞にも体に合っているとはいえなかったのです。それを承知で、母親を誇るかのように、すんなりと着こなしておられたのです。『なかなか出来ないな!』と思わされて、この企業の祝福の秘訣は、こんな小さなところにあるのだろうと思わされたのです。つまり、人を大事にすると言った生き方でしょうか。この社長さんの友人も同じテーブルについていたのですが、『大会社の社長は、高級ブランドの背広を着て、ヨーロッパ製の高級車に乗るのですが、彼はどちらにも頓着が無いんです!』ともらしていました。驕りとか誇りとかいったものを持たない彼に、すっかり魅せられてしまいました。



 企業の魅力よりも、人となりの魅力のほうが、ずっと印象に残るもののようです。その頃、二人の娘が、ポートランドの南の方の大学町で勉強をしていました。ある日、彼女たちが訪ねてきて、この社長さんと交わることも許されたのです。彼女たちも歓迎されて満足だったようです。あの時も秋でした。コロンビア川の鱒の養漁場に連れて行ってくれたり、ポートランド市内の観光スポットも案内してくれました。日本の大きなスーパーがあって、バス観光のときの昼食は、わざわざ特注した日本食の弁当で、納豆まで用意してくれました。

 『懐かしいな!』と人を思い出すのは、異国で秋を迎えているからでしょうか。それでも、まだ日中は真夏のように暑くて、汗が噴き出してきます。11月までは夏のようだったのを昨年経験して、まあ覚悟しているのですが。彼の書いた本を一冊、こちらに持ってきていますので、少しずつ読んでみようかと思っている、「読書の秋」でもあります。

《写真は、「オレゴン大学」http://www.senshu-u.ac.jp/School/eibeibun/abroad/imoto.html、「マウント・フッド」、彼の会社の一角、赤い所がオレゴン州です)


2008年9月17日水曜日

しののめ



 今日は917日、「中秋節」も過ぎ、飛ぶ赤とんぼや空の色や吹く風に、秋の気配を感じさせられます。このブログの題名を変えてみました。「しののめ」とは「東雲」のことで、夜明け前の一時を言います。辞書には、『東の空がわずかに明るくなる頃。夜明け。あけぼの・・・ [古代、住居の明り取りの部分に篠竹を編んでいたが、その篠竹の目が明るくなる意から、という]・・・大辞林』とあります。篠竹の編み目から、朝の光を感 じるとは、昔の人の情緒の豊かさには驚かされます。商館や領事館、外国人が始めた語学学校や大学、彼らの住宅の廃屋の残る、「闽江(ming jiang)」の二股に分かれた中州の緑の濃い「仓山区(cang shan qu)」に住み始めて二ヶ月が過ぎました。



 篠竹の網の目からではありませんが、その東雲のわずかな陽光を窓ガラス越しに感じて、わくわくした気持ちで一日が始めれたら、きっと仕合わせを実感できるに違いありません。泣いて落胆して過ごしても一日、楽しく喜んで笑って過ごしても一日、だったら、希望や夢や幻を胸いっぱいに膨らませて、今日の一日を生きてみたいと思うのです。名の知らない鳥が近くのカジュマルの樹にやって来て、毎朝、

 『朝だよ!素晴らしい一日が始まるんだ、用意はいいかい?』

と言っているようです。数日前は台湾との間を台風が北上し、強い風と雨がありました。今朝は、初秋のたたずまいがして穏やかです。家内が、朝餉の用意をする音が台所からしています。  

 さあ、素晴らしい一日が始まりました!

(上の写真は、天津の我が家の窓から写した朝日、煙突は冬季の暖房のために石炭を燃やすための煙突です)


2008年9月15日月曜日

南信の「蕎麦がき」恋し


 中央本線に乗って、上諏訪で降りますと、抜けるような初秋の空がありました。空気も澄んで美味しく、山も野原も川も、『実にきれいだ!』と思わされたのです。バスに揺られて高原を行きますと、『日本ってなんて美しい国なんだろう!』と、まだ十代の私は感じること仕切りでした。そうして信州が大好きになった私は、結婚しても、妻や子どもたちを連れては、いくどとなく訪ねたものです。

 いつでしたか、その諏訪湖側からでない、佐久から車で、白樺湖に行ったことがありました。家内と二人、週日のことでしたから、ほとんど観光客がなく、車の行き来も少なかったのです。お土産屋に寄って品定めをしていても、実にのんびりしていました。店主のご夫人が、『どうぞ!』とお茶を入れてくれて、漬物も勧めてくれたのです。紅葉の秋でした。そんな一時をともにして世間話をしたのです。土日の週末では、そのような寛いだときは持てないに違いありません。のたりのたりと動く時を楽しませてもらいました

 それから何年もして、次女が結婚した夫の仕事場が、南信・飯田市の近くの町の高校でした。英語の補教師として赴任したのです。時間を作っては、何度、彼らの家を訪ねたことでしょうか。その教員住宅と言うのが、水洗ではなかったのです。強烈な臭気のする家に、2年ほど彼らは住んでいました。婿殿は、アメリカ北西部の出身でしたが、日本の旧式のトイレに我慢して、一言も不平を言いませんでした。私の母と一緒に訪ねたときに、近くの旅館に泊まったことがありました。彼らと一緒に食事をしましたら、鯵の干物、味噌汁が膳の上にありました。それを、『美味しい!』と言って、一緒に食べてくれたのです。そういった文化の違いを超えて、順応して生きていこうとする彼の生き方に、『えらいなあ!』と思わされ、彼への感謝と評価とが、なおさら大きくなったのは当然のことでした。



 彼らの所に行くには、飯田で高速を降りて、天竜川沿いを小一時間ほど走ったでしょうか、諏訪地方とは大分違った風情が感じられました。近くには、満蒙開拓で多くの家族が移住した「阿智」と言う村がありました。一族や一家の離散と言った辛い歴史のある村ですが、信州人の粘り強さや底力を、何となく感じさせられるようでした。中国の残留孤児の帰国を促したのが、この村で教師をされていたお坊さんでした。この方は、多くの子どもたちと共に開拓に行った過去をお持ちで、やむなく残留せざるをえなかった誇示のみなさんの帰国の働きに献身されたのです。故郷を後にしたみなさんは美しい山河を思し出しては、厳しい農地の開拓に励んだのでしょう。今では、コンビニができ様変わりした村には、『そんなことがあったのだろうか?』と思い出させるものは、村からも村人の心からも消えつつあるのです。



 彼らの所からの帰りに、国道を走っていた時、お腹がすいた私は、『そばを食べよう!』と家内を誘いました。伊北ICの近くの国道沿いに水車のある小奇麗な蕎麦屋でした。品書きに、「蕎麦がき」とありましたので、懐かしく注文しましたら、プリンのように柔らかくて、木の実のタレがかけられている、実に美味しいデザートでした。これが癖になった私は、娘たちが飯田に越し、孫が生まれてからも、訪ねて帰るたびに、この店に寄ることを「定番」にしてしまったのです。いつの間にか・・・彼らの訪問か、蕎麦がきを食べるためか・・・目的がずれ込んでしまったかのようでした。『どこに行きたい?』と聞かれれば、『信州!』、『何が食べたい?』と聞かれたら、『水車屋の蕎麦がき!』と答えることでしょう。いつでしたか、二代目が作ったのを食べたときには、『うーん・・・・!?』と言わざるをえませんでした。初代は、元気でしょうか、どうも秋になって食べ物と人とが恋しくなってきたようです。


(写真は、県立下伊那農業高校・農場の航空写真、中は、阿南町の「ゆうゆうらんど」、下は、箕輪町の「水車屋」の店内です)

2008年9月12日金曜日

人生修行


 子どもの頃に、小学校の運動場に映写幕を張って、映写会がもたれていました。美空ひばりの「りんご追分」が上映されていたのを覚えています。スクリーンの表と裏から両方から見るほどの盛況だったのです。また「旅芸人」がよく町にやって来ました。甲州街道の要所にあった、大きな神社の境内に小屋がかけられ、木戸銭(入場料)を払って観劇して、泣いたり笑ったりしたものです。まだ時がゆっくりと動き、世の中が、せわしくなかった時代だったのでしょうか。そういった劇団は、町から村へ、村から村へと旅をしながら、テレビの無かった時代の庶民の娯楽だったのです。小遣いを握っては出かけたのですが、親は黙認してくれました。それででしょうか、ちゃんばらごっこをして遊び、テレビの放映が始まると、「時代劇」にチャンネルを廻しては観て楽しむようになったのです。われわれの世代は、ジャズやアメリカ映画も好きですが、「原風景」とでもいうのでしょうか、子どもの頃の体験を、どうしても引きずっていて、結局は、おじさんやおじいさん趣味に回帰してしまうのでしょうか。


 『良い人と歩けば祭り、悪い人と歩けば修行。難儀な時やるのが、本当の仕事!』と言うことばを聞いたことがあります。・・・世の中には二種類の人がいる。いい人だけではなく、悪い人との出会いも避けることが出来ない。避けられないのならその出会いを嫌わないで、「修行」の時と心得て交わりを持て・・・そう勧めているのです。2005年に、105歳の長寿で召された「最後の瞽女(ごぜ)」と言われ、「人間国宝(重要無形文化財)」の小林ハルさんが言われたことばです。この「瞽女」について、次のように解説されています。『三味線をこわきにかかえ、門づけ歌や段物・くどき・はやり歌などを歌い歩いた盲目の遊行芸人 ″瞽女(ごぜ)″の組織は、昔は関東・北陸から九州にいたる広い地域にわたって随所に見られたというが、越後に本拠におく瞽女集団が最も発達し、かつ近年 まで存続してきたということは注目すべき現象であり、雪国という風土や社会環境のしからしむるころが大きいと思われる。……鈴木昭英著「刈羽瞽女」(長岡市立科学博物館研究報告№.8 昭48)」とです。かつての日本では、目や耳などの体の不自由な子が生まれると、親に捨てられてしまう事例が多かったのです。そういった子どもたちに心を向けて、技術を身につけさせ働くことのできるような授産施設など無かった時代、親や奇特な方が、女の子に三味線を習わせたり、按摩の技術を教えたのでしょうか。彼らは、それを身につけて、差別や偏見の中を逞しく生きて行ったのです。





 私の親爺の日記帳の中に、『順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ!』とありました。子どもである私たちに、そう言い残したのです。『雅、人生晴れの日ばかりじゃあないぞ。雨も雪も闇もある。陽がさんさんと降り注いでいたら、それ嬉々として喜ぶんだ。太陽の恵みに感謝しながら。鉛のような分厚い雲で天が覆われていたら、静かに自分の心中を覗き込んでごらん。これまで語った言葉や行いが、よかったか悪かったかを反省して、次には誤らないようにして生きていくんだ!』と言ってくれたのでしょうか。親爺もハルさんも同じことを言ったことになります。「発想の転換」が、新しい発明を生むための一つの大切な一歩だと言われています。としますと、私たちの人生修行だって、この「発想の転換」をしていけば、もっと楽しく、意味のある時を生きることができるわけです。

 


 ハルさんは1900年、新潟県三条市の農村に生まれましたが、生後間もなく、白内障に冒されて、目が不自由になったのです。彼女には、厳しく自活の道を考えてくれた母親、二歳の時に死別し愛してくれた父親、そんな彼女を厳しく稽古した親方、彼女の優れた技術を妬みいじめる姉弟子がいたのです。そのような中、辛抱強く生きることが出来たのは、お母さんとお父さんとに愛された記憶があって、それがハルさんを支えたのでしょうか。辛い経験を「人生修行」に変えてしまう能力は、何と明るくって、積極的な生き方であり、そのように生きた人だけができる勧められることではないでしょうか。『雅、鼻から息をする人間に信頼を寄せてはいけないの。人間の限界を知った上で、その人を信じて上げなさい!』、これは、私の母の処世訓の一つでした。世の中、西に行っても東に行っても、「修行の機会」があふれているのです。まあ一生学びなのでしょうか、まだまだの域に甘んじている、紺青の秋空の下、福州で生きて修行中の私であります。


(写真は、船の軌跡の向こうは新潟港「新日本海フェリー『らいらっく』乗船記http://、www.journey-k.com/~takaboo/funatabi/jyosenki/lilak.html、中は、本間章子著「小林ハル」求龍社の表紙、下は、「瞽女」の旅姿http://blog-eda.net/gozeuta/、

2008年9月11日木曜日

海外雄飛


 「海外雄飛」は、現実逃避なのでしょうか、それとも、島国の小国に育った日本人が、根っからに持っている「夢」なのでしょうか。それとも我侭な自分の責任逃れで、外の世界に憧れたのかも知れません。この夢は結婚しても、子どもが与えられても、私の内では消えなかったのです。十七で、南半球のアルゼンチンへの移民を考えたことのある私は、あるとき、上智大学で社会人のための継続学習の夜間講座が開講されているの聞きました。その1つに、「インドネシア語講座」があって、早速、受講願いを提出したのです。かつて日本軍が石油やゴムなどの資源を求めて進出した過去のある国でした。謝罪の意味もあっ、私は貢献したかったので、学び始めたのです。でも、ジャカルタへの門は開きませんでした。それからしばらく経ってから、『アフリカで一緒に働かないか!』との誘いもありました。これも、アメリカ人実業家から引き継いだ責任ある仕事についていましたので、叶わずじまいでした。そのように外に目を向けながら生活しているうちに、一昨年、中国の天津への門が開かれたのです。昨年春、学校の休みに、旅行で訪ねた福州の友人が、『こちらにに来ませんか!』との誘いに応えて、昨年八月、勇躍やって来たのです。

 福建師範大学の海外教育学院で、中国語を学び始めましたら、この省から海外雄飛で出かけた華僑や華人の子弟でしょうか、インドネシアからやって来られた留学生が20人近くいたのです。今年は、40人もの方々が来られたと聞きました。父や祖父のお国言葉を学んでいる彼女たちですが、家では文字は覚えないで、福建省の方言を使うのだそうです。そんな背景の彼らの標準語学習の理解の早さに、まったく違う言語を学ぶ私たちとの間には大きな開きがある理由が分からされた次第です。同じ宿舎には、インドネシア政府の高官に派遣された若い女性がいました。今は北京に行かれていますが、なかなか賢い方で、私の長女と同い年で、とても親切にしてもらいました。



 ここ福建省の沿岸部は、「華僑のふるさと」と言われています。隣町の福清市や、闽江(ミン・ジアング)の下流の町の楽市などからは、多くの人々が、一人で家族で、世界に向かって出かけて行った町なのだそうす。600年ほど前になりますが、「郑和(チェング・フウ/13711433 )」と言う、雲南省出身の航海家がいて、南京から就航した彼のは、 ここ闽江の河口付近の町に寄港して、インド、アラビヤ半島、アフリカ、さらにはアメリカ大陸などに出かけています。コロンブスよりも早く、郑和は、アメリカ大陸を発見していると、最近の研究成果が伝えているようです。春先に闽江の流れの脇に、彼の記念館や記念像があって見学したのですが、遥か彼方に目を向けている彼の眼差しが印象的でした。その影響でしょうか、海沿い、川沿いに生まれて育った青年たちもまた、新天地を求めて外雄飛に活路を見付け出そうとしたのでしょうか。

 六年ほど前になりますが、『中国人が一番住みたい町!』シンガポールに、長女を尋ねたたことがあります。そこに華僑たちが住んだ地域が残されてあって、記念館を見学をしました。今のようにアジアで誇り高い豊かで綺麗な街でなかった、100年も200年も前の生活ぶりを伺い知ることが出来たのです。初期移住者の苦労は、大変だったようです。イギリス統治の時代、日本統治の時代を過ぎて、独立を勝ち取ったこの街は、中華民族の国家ですから、福建省人にとっての憧れも一入なのでしょうか。この華僑や華人たちは、勤勉に働き、世界中の大都市に、「中華街(チャイナ・タウン)」を形成していったのです。そういった彼らの故郷にある、21世紀の子孫たちもまた、アメリカや日本への留学を切望しているのです。とても外国語学習熱が高まっているのではないでしょうか。



 さて、インドネシア人のことですが、彼らの目に、日本人が戦争に敗れた後に、「卑屈」になってしまっているのを見て、『そうではない!』と言っているのだそうです。日本人がやって来るまでのこの国は、オランダの支配下にあって、実に惨めなを送っていたのだそうです。有色人種のアジア人を、彼らは、まるで奴隷ような扱いをしていました。ところが、『日本人は、白人の国家に向かって銃を取って立ち上がって、アジア人の意気を示してくれた!』と、彼らは高く評価するのです。『日本が起たなかったら、欧米諸国から決して独立することは出来なかっただろう!』と言い、『独立への願いを喚起させてくれた日本と日本人!』と言うのが、彼らが見る日本人なのだそうです。虐げられた被征服民に甘んじなければならなかった彼らには、曙のような輝きが、私たち日本人にはあったことになります。それなのに、虚脱感に圧倒されてしまった私たちは、卑屈になって、自信を失ってしまったのです。いったい、どうしたことなのでしょうか。

 インドネシア人に、そのように高く評価されるのですから、その評価に立って、自身を取り戻したいものです。高慢も傲慢もいけません。同じように卑屈も自信喪失も、同じようにいけないのです。高慢でない「誇り」、卑屈でない「謙遜」を身に着けて、二十一世紀の日本の青年には、世界に向かって雄飛していただきたいのです。金儲けではなく、友好と貢献のためにです。 

(写真は、長楽付近の闽江、中は、闽江河畔の「郑和」の像、下は、インドネシアの海http://img.4travel.jp/img/tcs/t/album/lrg/10/01/87/lrg_10018726.jpgです)

    

2008年9月9日火曜日

『袖刷りあうも他生の縁!』


 一番嫌いなのは、「在日朝鮮人」という蔑称です。小学校の同級生に、朝鮮半島からやって来られた方々の子でしょうか、孫でしょうか、何人かの級友がいました。近所にも何家族かおいででした。仲のよかった友人・隣人たちです。大学の同級生で、よくノートをとってもらって、青梅や立川の図書館で、ノート写しを手伝ってくれた同級生も、そうでした。彼らは決して卑屈ではありませんでしたが、優秀な韓民族なのに、日本という狭量で島国根性の国情の中では、常に異端視され、迫害され、差別されてきた方々です。『恩を仇で返す!』とは、この人種的偏見であります。何も持たなかった我らが祖先たちは、米作りから機織から鋤や鍬や刀の鍛冶、豆腐や醤油作り、文字や紙や書を教えてくださった恩人であります。日本の技術水準の高さを世界に誇るなら、最初の指導は、韓民族のみなさんの大きな犠牲によったことを忘れてはならないのです。やって来た彼らは、母国に帰ることを断念して、この地に帰化してくださったのです。

 生まれた土地にも、引っ越して育った土地にも、「巨摩」とか「多摩」とか言った地名がついていましたが、民俗学的には、「高麗(コウライ)」に源があると言われております。日本の地名の中にも、そう言った朝鮮半島の文化的・産業的な極めて緊密な関わりがあることを、民俗学者たちは指摘しているのです。それなのに、何ということでしょうか。『○○人はかわいそう、戦争のためにお家を焼かれ・・・』、『こちゅせん、こちゅせん ひろおたよ ピールのふたて ぱかみたよ・・』と言った戯れ歌を歌って、侮辱してきたのです。いつでしたか、大きな企業の社長の講演会で、『私が写真を撮ったのは、「ばかチョン・カメラ」でして・・・』と、臆面もなく言っていました。かわいそうなのは、そんな歌を歌う日本人で、濁音の発音が難しい言語形態の韓民族のみなさんを、そう馬鹿にするのです。中国に行って、「四声」の使い分けに苦労して初めて、日本語の単純さを知らされ、漢語や韓語の優越性を知らされるのです。「ばかチョン」の「チョン」は、「朝鮮人」のことを言うのですが、「馬鹿でも朝鮮人でも写せるカメラ」で、どんなにきれいな写真を撮って誇ってみても、意味も分からずに敬そうな言動をする会社の製品は、売れないにきまっています。何年かしましたら、その社長の会社は、倒産したと漏れ聞きました。この韓民族のみなさんには、本当に申し訳ないことであります。



 初めて韓国のソウルを訪問しましたときに、ヨイドという漢江の流れのそばに、大きな会社の建物がありました。34年 ほど前のことで、夜間は灯火管制や外出禁止令がしかれていた時代でしたから、目を見張るような社屋でした。そこを訪問するために、バスに乗っていましたら、一人 の青年が英語で話しかけてきたのです。その会社を訪問する旨言いましたら、彼は、その会社の社員で、『あなたのバス代を、私に払わせてください!』と言わ れたのです。素晴らしい韓日の友好になりますから、その好意をお受けしたのです。素晴らしい青年でした。旅先で、わずかな金銭のバス代でしたが、それは千 金にも感じられるほど、うれしい経験でした。こういった『袖刷りあうも他生の縁!』の出会いに、励まされた私のビジネスも成功したのです。




 実は、私の母の出身は、山陰の島根です。日本海を隔てて、そこはすぐに朝鮮半島であり中国なのです。そこは渡来した朝鮮半島のみなさんが、多く移り住んでくださった土地に違いありません。ですから、朝鮮半島に出自をもたれる方々と、こういった背景の母の子である私は、とても深く関わっていることを血で感じるのです。テレビの草創期に、放映されていたプロレスに、「力道山」がいました。彼の活躍に、ほとんどの日本人が欣喜雀躍したのは、彼が「闘魂の士」だったからだけではなく、日本人の血の中に、彼と同じ血が流れていたからに違いなかったのです。朝鮮半島出身の作曲家や歌手の歌が、日本人の心の琴線に、感情的に情緒的に迫るのは、それと同じ理由に違いありません。だから理解し合い、感謝し合いがら、過去の多くの問題を超えて、素晴らしい関係を保ち続けていきたいものであります。そういえば、「ビビンバ」とか「チジミ」は、私の大好物でした!


(写真上は、朝鮮半島の地図、中は、image.blog.livedoor.jp「力道山」、下は、家内の誕生会の折、韓国料理店からお祝いに頂いたケーキ替わりの「チジミ」です)


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自己紹介

 次男に勧められて始めた「ブログ」ですが、2007年7月から1年間休刊しました。その間、他の「ブログ」を開設したのですが、2008年7月に、名前を変えて再開しました。  父として子どもたちに、爺として孫たちに、また母や兄弟や友人たちにも、何かを語り残したいと願って、続けています。