2008年9月9日火曜日

『袖刷りあうも他生の縁!』


 一番嫌いなのは、「在日朝鮮人」という蔑称です。小学校の同級生に、朝鮮半島からやって来られた方々の子でしょうか、孫でしょうか、何人かの級友がいました。近所にも何家族かおいででした。仲のよかった友人・隣人たちです。大学の同級生で、よくノートをとってもらって、青梅や立川の図書館で、ノート写しを手伝ってくれた同級生も、そうでした。彼らは決して卑屈ではありませんでしたが、優秀な韓民族なのに、日本という狭量で島国根性の国情の中では、常に異端視され、迫害され、差別されてきた方々です。『恩を仇で返す!』とは、この人種的偏見であります。何も持たなかった我らが祖先たちは、米作りから機織から鋤や鍬や刀の鍛冶、豆腐や醤油作り、文字や紙や書を教えてくださった恩人であります。日本の技術水準の高さを世界に誇るなら、最初の指導は、韓民族のみなさんの大きな犠牲によったことを忘れてはならないのです。やって来た彼らは、母国に帰ることを断念して、この地に帰化してくださったのです。

 生まれた土地にも、引っ越して育った土地にも、「巨摩」とか「多摩」とか言った地名がついていましたが、民俗学的には、「高麗(コウライ)」に源があると言われております。日本の地名の中にも、そう言った朝鮮半島の文化的・産業的な極めて緊密な関わりがあることを、民俗学者たちは指摘しているのです。それなのに、何ということでしょうか。『○○人はかわいそう、戦争のためにお家を焼かれ・・・』、『こちゅせん、こちゅせん ひろおたよ ピールのふたて ぱかみたよ・・』と言った戯れ歌を歌って、侮辱してきたのです。いつでしたか、大きな企業の社長の講演会で、『私が写真を撮ったのは、「ばかチョン・カメラ」でして・・・』と、臆面もなく言っていました。かわいそうなのは、そんな歌を歌う日本人で、濁音の発音が難しい言語形態の韓民族のみなさんを、そう馬鹿にするのです。中国に行って、「四声」の使い分けに苦労して初めて、日本語の単純さを知らされ、漢語や韓語の優越性を知らされるのです。「ばかチョン」の「チョン」は、「朝鮮人」のことを言うのですが、「馬鹿でも朝鮮人でも写せるカメラ」で、どんなにきれいな写真を撮って誇ってみても、意味も分からずに敬そうな言動をする会社の製品は、売れないにきまっています。何年かしましたら、その社長の会社は、倒産したと漏れ聞きました。この韓民族のみなさんには、本当に申し訳ないことであります。



 初めて韓国のソウルを訪問しましたときに、ヨイドという漢江の流れのそばに、大きな会社の建物がありました。34年 ほど前のことで、夜間は灯火管制や外出禁止令がしかれていた時代でしたから、目を見張るような社屋でした。そこを訪問するために、バスに乗っていましたら、一人 の青年が英語で話しかけてきたのです。その会社を訪問する旨言いましたら、彼は、その会社の社員で、『あなたのバス代を、私に払わせてください!』と言わ れたのです。素晴らしい韓日の友好になりますから、その好意をお受けしたのです。素晴らしい青年でした。旅先で、わずかな金銭のバス代でしたが、それは千 金にも感じられるほど、うれしい経験でした。こういった『袖刷りあうも他生の縁!』の出会いに、励まされた私のビジネスも成功したのです。




 実は、私の母の出身は、山陰の島根です。日本海を隔てて、そこはすぐに朝鮮半島であり中国なのです。そこは渡来した朝鮮半島のみなさんが、多く移り住んでくださった土地に違いありません。ですから、朝鮮半島に出自をもたれる方々と、こういった背景の母の子である私は、とても深く関わっていることを血で感じるのです。テレビの草創期に、放映されていたプロレスに、「力道山」がいました。彼の活躍に、ほとんどの日本人が欣喜雀躍したのは、彼が「闘魂の士」だったからだけではなく、日本人の血の中に、彼と同じ血が流れていたからに違いなかったのです。朝鮮半島出身の作曲家や歌手の歌が、日本人の心の琴線に、感情的に情緒的に迫るのは、それと同じ理由に違いありません。だから理解し合い、感謝し合いがら、過去の多くの問題を超えて、素晴らしい関係を保ち続けていきたいものであります。そういえば、「ビビンバ」とか「チジミ」は、私の大好物でした!


(写真上は、朝鮮半島の地図、中は、image.blog.livedoor.jp「力道山」、下は、家内の誕生会の折、韓国料理店からお祝いに頂いたケーキ替わりの「チジミ」です)


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自己紹介

 次男に勧められて始めた「ブログ」ですが、2007年7月から1年間休刊しました。その間、他の「ブログ」を開設したのですが、2008年7月に、名前を変えて再開しました。  父として子どもたちに、爺として孫たちに、また母や兄弟や友人たちにも、何かを語り残したいと願って、続けています。