2008年7月29日火曜日

方向転換

 高校生の時、よく小説を読みました。言葉に興味があって、難しい言葉や言い回し方を知りたったからです。とくに田宮虎彦の「足摺岬」、尾崎士郎の「人生劇場」、川端康成の「伊豆の踊り子」などは、言葉だけではなく、父の世代(昭和初期)の学生の生き方を知らせてくれたのを思い出します。読み進むうちに、父が青年期を過ごした時代の手がかりをつかむことができ、そういった時代に学んでいた父にダブらせて読むことができたのです。もちろん父は文学青年ではなったのですが、それでも父の書庫の中には文学作品もありました。これらの作品に描かれている時代は、世情が不安で、言い知れない深みに落ち込んでいくかのようだったに違いありません。男同士の友情が破綻し、男女の恋や愛も悶着を起こし、先の読めない混沌とした様子が描かれていて、知らない世界に興味津津だったと思います。

 自分の内側にも、たぎるような性欲が突き上げ、成功的に生きていきたいとの名誉心も噴き出し、物欲にも駆られ始めていたのです。親離れを決め込んで、外の世界に出て行っては、恋愛や友情の難しさに直面していました。時には、頭をかかえ込むこともあったのです。ですから、親との距離が大きくなるにつれて、『生きることって容易じゃあないし、大変なんだ!』と思わされたようです。

 昭和初期の学生の、恋しては愛に破れ、友を得ては訣別し、挫折し堕落して奈落に向かって落ち込んでしまう、そんな小説の中の青春に興味をなくしてしまいました。この田宮も川端も、晩年には自死しています。太宰も芥川も田中英光も、そうでした。早稲田や東大で文学をやって、物書きにでもなっていたら、彼らのような結末を迎えたかも知れませんね。小説家に、自死する人が多いのには、いまさらながら驚かされるのですが。ペンで思い描く架空の世界との差を埋めることが出来ないで、酒や女や薬物に踊らされれたり、また現実に押しつぶされて死への逃避行をたどるのでしょうか。

 それで、高校生活を描いた「草を刈る娘」、「若い人」や「青い山脈」などの石坂洋次郎作品に興味を向けたのです。そのほとんどを、くすくす笑いながら読みました。手の届きそうな太陽がいっぱいの空があって、空気も水も食べ物も人間も、清新で新鮮で闊達で屈託なく、福福満満たる大らかな世界がありました。何か消えかけていた希望の灯を、自分の青春にともし直すことができたかのようでした。でも小説の世界のようには、明るくも楽しくない現実の生活の中で、矢張り悶々として学生生活を送っていたのです。

  父の家の平穏さの中で、明るく楽しく楽観的に生きられていた時代を終えて、覆いの外の世界に向かって、『自立しなければ!』と自らを追い立てていました。 そこに待ち受けているのは、現実の過酷さだったのにです。一日一日、堕落していくような日を重ねていったんだろうと思います。『あ んな大人にはならないぞ!』と決めていたのに、あのおじさんたちのようになっていく自分に気付いて、まるで深い枯れ井戸の底から、わずかに見える青空を仰 いでいるようでした。裕次郎やジェームス・ディーンや高倉健の映画を観ていましたが、飲む酒の量が増え、吸うタバコの本数が多くなり、表通りから、場末の 暗がりをさまよい歩き始めていました。卒業し社会人となってからは、地方都市への出張が多くなり、接待や振舞われる機会が多くなり、昼間の仕事と夜の遊び との一対の生活が、矛盾を感じることなく進んでいました。でも心の空しさ、満たされない気持ちは、飲んで騒いで遊んでも埋められなかったのです。


 そんな頃、鹿児島への出張があって、当時上の兄がいた福岡の久留米に途中下車しました。振り返りますと、この街(実は義母の出身地でもあったのです)が、人生の大きな転換点となったのです。兄の行き方が眼を見張るように変わっていたのに驚き、その驚きが自分の生き方を変え始めようとしていたからです。お参りにではなかったのですが、大宰府の天満宮にも行って見たのですが, 学問の神様と言われる菅原道真によってではなく、ものすごく大きな手が背中を押して、「これが道だ、これを歩め」と言われているようでした。地獄の門の手前で、押し返されたかのような方向転換でした。久留米、何時か、また行ってみた街であります。

(写真は、上は、土佐清水市のHPの「足摺岬」、下は久留米市HPの「筑後川」です)


2008年7月27日日曜日

花火師

 

 今年の2月、関西空港発福州行きの深セン航空の定期便に乗って中国に戻りました。長楽市の国際飛行場が間近かになった頃には、もう夜の帳が下りていましたが、眼下に花火が小さく昇って来るのを眼にしたのです。春節明けを祝って打ち上げられたものでした。

 中国に来て気づいた1つのことは、中国のみなさんが「花火好き」だと言うことです。火薬は、すでに唐の時代に中国で発明されていたのですから、当然のことでしょうか。結婚式や葬儀のおりなど、日常の慶弔時に、この花火は欠かせないようです。先日も、住所変更手続きで公安警察に行く途中、道筋に明るい色彩の花輪が並んでいたのです。そうしましたら葬儀の隊列に出くわしたのです。トランペットがあり、シンバルンもあり、悲しい雰囲気を吹き飛ばすかのようでした。みなさんは、日本のような黒尽くめではなく、普段着に真っ赤な帯を締めて帰って来られ、葬送の後のあの暗い悲しみが見られませんでした(埋葬に行かれるときには白の帯を締めるのだそうです)。

 遺影を見ましたら、まだ若い働き盛りの男性でした。もちろんご遺族の悲嘆は測り知れないものがおありと思うのですが。このときは花火はなく、真っ赤な爆竹が火花と赤い包み紙を放ちながら、爆音とともに炸裂していました。これもまた、死霊を追い払うのでしょうか、悲しみを追いやるのでしょうか、日本では見られない光景でした。きっと、その夜にで花火も打ち上げられたことでしょう。

 私は、尾崎士郎の「人生劇場・残侠篇」を読んだとき、任侠の世界から足を洗った吉良常が、中国大陸の上海で花火を上げる「花火師」になったくだりを読んだのです。高校2年でしたから16歳ほどだったでしょうか。ヤクザには憧れませんでしたが、その吉良常の「花火師」に憧れてしまったのです。日本人も夏には、花火を景気よく上げて暑気払いをする風習がありますが、子どものころから幾度となく多摩川の花火を観てきました。『いつか世界に出て行って、日本の繊細な仕掛けの綺麗な花火を大空に打ち上げたてみたい!』と思ったわけです。気が多くておっちょこちょいの私でしたから、本気でそう考え始めたのですが、結局、志を遂げることがなく、近くのおもちゃ屋で買ってきた線香花火を、丸くなって、うつむきながら小さな火花を楽しむだけの、四人の子どもたちの普通のお父さんで終わってしまいました。


 

 あの小説の中で、花火師・吉良常が、花火の事故で片腕をなくす場面が描かれていました。命知らずの私は、そんなに危険な職業選択を恐れなかったのです。男が命をかけるには申し分ない仕事ですし、潔い仕事人なのだと思わされていたからです。まあ、さまざまな夢を見ては、その実現に敗れて、今日を迎えたのですが、夢に見なかったような人生の展開に身をゆだねて、「四馬路」と言う繁華街で有名な上海から南に、数百キロの「福州」にいるわが身の不思議さを、改めて見つめ直している真夏であります。

(写真は、「線香花火」〒444-0834 愛知県岡崎市柱町字上荒子25番地1  (株)太田煙火製造所のHPから、「諏訪湖花火」は、大会のHPからです)

2008年7月26日土曜日

鰻、ドリアン、マンゴスチンの美味しさ!


  今日は七月の最後の土曜日です。予想最高気温35度、『鍋の中の餃子の様な!』福州です(明日は37度だそうです!)。今、昼食をすませました。何を食べたかと言いますと、三日遅れの「鰻の蒲焼」でした。24日が「土用の丑の日」で、日本人の七月の夏の定番・鰻を食する日でした。今年は、産地偽装の影響で、惨めで受難の鰻の話題で、ニュースは持ちきりでしたが、異国の地で、「日式鰻」が近くのスーパーで売っていたのです。国産でした。もちろん中国のですが。行ったり来たり、手に取っては置いてを繰り返して、ちょっとした贅沢を許していただいて、思い切って買ったのです。あいにく「山椒」はありませんでしたが、どんぶりに温かなご飯をよそって、お湯で温めた真空パックの鰻を取り出してのせました。まさに「うな丼」、タレの加減も遜色ありませんでした。

 去年の2月に、次男が天津にいた私たちを訪ねて来てくれて、町の日本料理店に連れ出してくれました。そこで食べさせてくれたとき以来の鰻の昧でした。売れない鰻屋に相談を持ちかけられた平賀源内が、『「今日は土用、鰻の日」と言うのぼりを、店頭に出したらどうですか!』と勧めます。それに従ったのが、商売繁盛となり、今日の隆盛を導いたと聞いております。広告のキャッチフレーズとしては大成功だったわけです。あのスーパーには、のぼりなど上げられてなく、冷凍ケースの中で静かに買ってもらうのを待っているだけでしたが。



 実は、今日の贅沢は、それだけではなかったのです。香りでしょうか、臭いでしょうか、それに負けて買ってしまった物があります。「ドリアン(榴蓮リュウ・リエン)」です。『この臭いがたまらない!』と言われています。嫌いの人には、『こんな臭いものがあるか!』と思うのだそうです。その臭さゆえに、シンガポールでは、公共バスやホテルには持ち込みが禁止になっています。ところが好きな人には、『なんと美味しい香りだろうか!』と、意見を2つに大別してしまう臭い・香りなのです。今頃、日本のスーパーでは、輸入品ですから、1つ5000円ほどするでしょうか。今日買ったのは、中身を取り出して小分けのパックされた物でした。値段は32元でしたから、500円ほどになるでしょうか。美味しかった。家内は、ほんの少し食べただけでした。ドリアン大好きな私は、これまで店頭に見つけては横目でにらんで、素通りしていたのですが、今日、その限界を超えて買ってしまいました。久々に舌鼓を打ちつつ満足させてもらいました。

 どうしてでしょうか。今日は、もう1つの贅沢をしてしまいました。鎖国令が解かれたような自由がやって来たからでしょうか。福州の暑さが極め付けだからでしょうか。それとも財布の紐が緩んでしまったからでしょうか。きっと週末の開放感が、「マンゴスチン(山竹シャン・ジュウ)」も買わせたのだと思います。禁欲主義者ではないのですが、長女は、『生活を楽しんでいないよ!』と言います。『もっと快適さや便利さを求めて生活を楽しんだらいいよ!』と言ってくれます。その娘の勧めと、『無駄をしないで生きよう!』との思いとが、いつもせめぎ合うのです。今日は、娘に押し切られた感じがいたします。この「マンゴスチン」は、《果物の女王》と言われるほど美味でして、王様の「ドリアン」と一緒に食べないと片手落ちだったわけです。

 なんだか美味しい一日を過ごしています。それでもセミの鳴き声がやかましいし、小鳥もさえずりと言うのではなく、『暑くてたまらないよ!』と文句を言っているのか、だみ声に聞こえてきます。お腹の満足した私は、生きている素晴らしさを、また味あわせてもらった週末です。夕食後のデザートは、残った「ドリアン」になるだろうと、舌なめずりをしている暑気の中にも食欲を忘れない私であります。

(写真は、http://www.cleonfoods.com/s_durian_nama.htmlHPからです。下の「芋虫」のような写真は、ドリアンから取り出した中身です!)

2008年7月22日火曜日

奥运会(aoyunhui)成功!


 ここ中国では、8月8日から24日まで行「北京オリンピック大会(奥林匹克aolinpike奥运会aoyunhui)」が、いよいよ近づいていております。1000キロ以上も離れた福州にいても、その盛り上がりの様を肌で感じことが出来ますきっとサッカーと卓球の予選会場になっています天津にいましたら、いや増しに盛り上がっている様子に、じかにに触れることが出来たことだろうと思われます。その天津で、1年ほど住んでいたアパートの「紫金公寓」の七階の窓からは、夕日に輝く全天候型のサーッカー会場の銀翼が、目と鼻の先に見ることが出来ました。その1年は、競技場の周辺だけではなく、街中の道路網が整備され、宿舎になる巨大なホテルやアパートが建築中でした。グーグル・アースで映し出されるのは、だいぶ前の航空写真ですから、実際には、驚くほどの変化が今は見られることでしょう。その1年前は、大型トラックが行きかう砂埃の工事中でしたが、もう、すっかり整備されて見違えるほどに綺麗になっているはずです。



 東京でオリンピックが行われたのが、1964年でした。その大会会場になった東京は、見違えるように近代都市化されていく様子を、それ以前の5年間に見せておりました。戦争が終わった焼け跡から、奇跡のように起死回生し、その東京大会は、戦後の復興の驚くべき頂点、いわば敗戦の惨めさへの訣別、新しい日本への再出発だったのではないでしょうか。首都圏と関西圏が、新幹線で結ばれ、都内には高架の高速道路網が張り巡らされ、見る見るうちに別世界が出来上がっていく様子に驚かされたものです。それ以前の新宿や渋谷や池袋は、一歩路地裏に入ると、お世辞にも綺麗な街だとはいいかねました。それが見違えるほどに変わっていったのです。ハードな面での変化は、人の心のうちのソフトさにも大きな感化を及ぼしたのです。もう44年も時がたつのですから、驚かされます。



 そうしますと、この8月8日午後8時に開会式が行われる「北京大会」、2010年に開かれる「上海万博」、2012年でしたか、広東省広州で催される「アジア大会」、こういった国際行事を通して、中国の沿海部が大きく変化していくに違いありません。その変化と共に、内陸部もたちまちのうちに変えられていくに違いありません。さらには、中国の愛するみなさんの心の中に、驚くほどの自信と確信とが帰ってこられ、大きな飛躍と祝福のきっかけとなるに違いありません。

 かつて奈良・平安の時代の日本の青年たちが、遥かに憧れた文明と文化に秀でた中国ですし、つい昨日まで、学問を志すも者たちが、孔子や孟子や老子に学んだのですから、そういった思想と学問を誕生させた国家であり国民の末裔に、心からの激励を遅らせていただきます。確かに難しい時代を幾たびも越えてきて、出遅れた観は否めませんが、中国のみなさんの永い年月に培われた底力をもって、遅れを取り戻され、更なる変化を遂げていかれ、「アジアの輝く星」となっていかれることを心から願うものです。

 スポーツの祭典は、おもに青年たちが、その力を競う大会ですが、明日を担っていく彼らが、国の名誉を背に、正々堂々と競技して、素晴らしい成果を遂げられますように。体育会系の世界で汗と涙を流した青春の日々を思い出しながら、素晴らしくスポーツマン・シップが発揮されることを、心から願っています。そういった競技を、拍手と喝采とをもって応援する私たちも、その熱い真摯な息吹に触れさせていただき、大いに刺激されたいものです。

 開会式と閉会式の間に行われるすべての種目の競技が、勝ち負けだけではなく、平和で和やかな雰囲気があふれ、祝福のうちに楽しくに行なわれ、地球平和と国際友好とのために益するとことを祈念し、中国と中国の国民のみなさんにとって、大きな祝福の機会である、「北京オリンピック大会」のご成功を、衷心より願います。奥運会成功!

(写真は、北京市の北京大会のメインスタジアム「鳥巣」、.真ん中は「天津オリンピックサッカー場」です)


2008年7月17日木曜日

『私は百まで生きるつもりで、今を生きています!』


 福建省の省都・福州の街は東西に流れる「闽江(ミン・ジアング)」によって、南北に二分されています。北部は、この川と山岳部との間に広がった旧市街があり、その中心に往時、時を報せた「鼓楼(グウ・ロウ)」があります。南部は、闽江の流れが二に分かれた中州に位置していて、私たちが住んでいる「仓(倉)山区(ツァンシャン)」があります。かつて、ここにはアメリカのミッションが建てた協和学院」があって、中華人民共和国の建国後その敷地と校舎を使って、福建師範大学が開学しています。このあたりは学園区といえるでしょうか、数多くの学校があって、この地域の一番繁華な地域は「学生街」です。週末にもなりますと、原宿や新宿や渋谷のような人通りがあって、学生たちであふれています。

 昨年7月、その学園区にある福建師範大学海外教育学院の宿舎に移り住んで1年が過ぎました。そこはホテルのツインルームで、厨房がありませんので、浴室と洗面所をかねた一室に、炊飯器や電気調理器を持ち込んで、手狭なところで自炊をしてまいりました。結構使いようで、まあまあの1年を過ごすことができたのです。契約が1年ということで、他の住宅を探していましたら、親しい友人の同僚の持ち家を貸してくださるということで、改装をしていただき、先週末入居することができました。この家は、大学の教員住宅棟の一室で、厨房と浴室と三間の3Kの間取りになっています。一階ですから、小さな庭まで付いております。太陽が入り込み、風も窓から窓へと吹き抜け、緑の木々もあふれるほどにあり、住環境としては静で落ち着いて快適なのが何よりです。

 その庭の片隅に1メートル立方ほどのレンガで囲われた花壇(!?)があります。ゴミなども捨てられてありますから、花壇と呼べるかどうかは疑問ですが。そのゴミの間から、一本の植物が立ち上がって、越した翌日の朝、綺麗な花を咲かせていました。どうも私たちの転居を歓迎してくれた開花に違いありません。何というな名の花かは分かりませんが、清楚で穏やかな感じがして大変慰められたのです。亜熱帯気候のただ中にあって、真紅やまっ黄色をした花々が咲き誇る中で、それは淡いピンクでした。

 昨秋、中華人民共和国の建国記念の晩餐会を、省政府が主催されたとき、招かれて列席させていただきました。そのとき、同じ学校の英文科を卒業され、4年ほど後輩の方と出会いました。話をしていましたら、共通の話題が出てきたこともあって、雰囲気にも似通ったところがあり、『○学の出身ですか?」と聞き合って、互いに『やはり!』と意気投合をしたのです。それ以来、お交わりをさせていただいたのですが、この方は2年間の「日本語教師」の奉仕を終えられ、先週の初めに日本に帰って行かれました。

 その彼が、「置き土産」のように、2度ほど散歩に誘ってくれました。この転居先の周辺です。暮れなずむ灯ともし頃、常々散歩をされて見つけられた公園や伝統ある大学やガジュマルの巨木などを案内してくださったのです。「胡同」という路地裏を通り抜けると、ガジュマロの古木が聳え立っていました。数百年(!?)の長きに亘って、この町を見下ろしてきたのでしょうか、逞しく枝葉と根を張り伸ばし、ヒゲか根のような物を枝から振り下げており、南国情緒を醸し出しておりました。晩年に出会った同窓生が、『私は百まで生きるつもりで、今を生きています!』と言われたことが、私への挑戦となって、『もう1520年は生きたいのです!』と言い続けてきた私に、『百まで生きるぞ!』と考え直させてくれた友人です。宗旨は違うのですが、この町に建てられた「協和学院」と同系の学び舎で過ごした、彼との共通点が、なぜか親密さを感じさせてくれたのです。その古武士然とした痩躯の彼に、『ご苦労様!』とメールをした今日であります。セミの声がにぎやかで、どうも今日も猛暑の一日に間違いなさそうです。

(写真は、百年の歴史を持つ「協和学院」の校舎、今も「海外教育医学院」として使用されています)

2008年7月9日水曜日


 この五月の初めに、弟からメールがありました。『この時期に、よくお袋が菖蒲湯を沸かしてくれたよね!』と言ってきたのです。父の家は、年中行事を守る家庭ではなかったのですが、「端午の節句」だけは例外でした。4月の終わりから5月の初めになると、母のふるさとの山陰・出雲から、祖母の手作りの「粽(ちまき)」が、男の子4人の我が家に決まって送られて来たのです。笹の葉で巻かれ、食べることができるように篠竹がさしてあったと思います。蒸かし器で母が蒸かしてくれたのを、『アチッチ!』と言いながら食べた記憶があります。こんなことを書き始めますと、どこからとなく笹の葉のにおいが家中に満ちていたあの頃の様子が蘇ってくるようです。父が買ってきた「こいのぼり」も、この時期にあげられていたと思います。兄が、われわれ弟たちの背丈を柱に記してくれました。

 ですから「端午の節句」は、「粽」と「菖蒲の風呂」と「こいのぼり」があって、学校が休みだったこともあって、とてもうれしかった記憶があるのです。ところが昨年、天津 で学んでいたときに、老師が、スーパーや商店で売っている中国製の「粽」の起源について話をしてくれました。

 紀元前、楚(そ)の国に、「屈原(くつげん)」という政治家がいました(前340頃~前278頃)。国王の家臣で、正義感と愛国心に富んでいて、王の信任を得、民衆からの人望も篤かったのです。ところは、陰謀によって失脚した屈原は、国を負われる身となります。都落ちをする間に、「汨羅(べきら)」という川(現在の湖南省の省都・長砂の南を流れる川)にやって来たとき、その流れに身を投げて自死してしまったのです。弟を亡くして悲しんだ姉が、お米を入れた竹筒を川に流したのだそうです。その後、「憂国の士」であった彼を慕う楚の人々は、彼の命日(旧暦の5月5日)になると、小舟で川に入り,太鼓を打ち鳴らして、その音で魚をおどかし,「粽」を投げ入れて,「屈原」の死体を魚が食べることのないように願う行なわれるようになったのです。その行事が、奈良時代に、日本にも伝えられます。中国で行われている「ドラゴンレース(龍舟比賽)」も、屈原を慕う民衆の思いから生まれた川の行事として残されているようです。

 子どもたちの成長を願う親たちは、どの国も同じで、はやり病から子どもたちが守られ、無害であるようにとの願いが込められて、この時期に「端午の節句」が守られてきたのです。日本でも、「粽」を子どもたちに供して食べる風習が定着してきたようです。「こいのぼり」や「武者人形」などは、太平の世・江戸時代になってからのことだと言われています。

 ちょっと物悲しい「屈原」のお話ですが、それを知ってか知らないでか、私たちの祖母は毎年、「端午の節句」に、「粽」を送ってくれ、健康で活発に成長することを願ってくれたのですね。「粽」には、薬効はないのかも知れませんが、おばあちゃんの優しい願いや祈りがこめられていたわけです。食べた私たちは、あの単純な伝統菓子と、祖母や両親の願いに育まれれたことになります。子の世代を思う大人たちの願いは、いつの時代も変わらないものがあることになります。

 この5月には、次女の長男が3歳、長男の長男が2歳になりました。大陸のババは、「粽」を作って送ることができないでいますが、彼らの無事と成長を心から願っている「祈りのババ」であります。

2008年7月7日月曜日

被災者のみなさまに


 

 『雅仁、窓を開けろ!』、地震で家が音を立てて揺れると、必ず父が、そう命令しました。関東大震災を経験している父が、一番恐れていたのは地震だったのです。あの父の叫ぶ声が、いまだに思い出されてなりません。

 「天府の国」と言われてきた四川省は、5月12日午後二時半に、大地震に見舞われ、甚大な被害をこうむりました。被災されたみなさんに、このブログの主として、心からのお慰めと励ましを申し上げます。ご家族や親族と離別された悲しみに沈む多くのみなさんの上に、心からの同情とお慰めを申し上げます。お怪我をなさって入院や治療を受けられているみなさんの一日も早い回復を願っております。さらに復興のために労しておられる軍や警察や民間のボランティアのみなさんの安全と健康が支えられますようにと願っております。この困難な事態で、全体的な責任を負われる胡錦涛総主席、国務院の温家宝総理、省政府や県や市の指導者のみなさんが、指導力を発揮されて、すべての必要が満たされ、早期の復興がなされますようにと願っております。また世界中から寄せられています厚意があふれるほどのものであることを知り、心からの感動を覚えております。もう少し若かったら駆けつけたいのですが、気持ちだけは四川に向けております。

 6年ほど前に、人に会いたいと願って四川省の成都を家内と二人で訪ねました。その時、空港に出迎えてくださったのが、地元のツーリスト会社の添乗員と運転手のお二人でした。ツアー旅行を申し込んだつもりはなったのですが、降り立った私たちのために全食事と観光が用意されていたのです。チケットを買ったときに、よく確かめなかったので、思ってもみなかった恩恵をこうむることができました。お会いする約束の日が中日でしたから、ホテルの近所を歩く程度の願いしかも持たなかったのですが、二日目に、杜甫の草堂、劉備玄徳諸葛孔明三国志物語にかかわる「武候祠 」を見学させてもらいしました。

 三日目には、砂ぼこりの山道を延々と車に揺られて着いた、「臥龍」の「パンダ保護センター」の観光をしたのです。子どものパンダを抱かせてもらったのですが、彼はどうしているのでしょうか?そそり立つような渓谷に、この保護区がありました。道々、小さな部落があって、逞しく生きている少数民族の子供たちが嬉々として遊んでいる姿、家の手伝いをしている様子を見受けたのです。その地域の被災の様子の報道を、帰国中の日本で知りました。あの子たちも被害にあったのでしょうか。心配です。そこからの帰り道に、「都江堰(甲斐の武田信玄が、氾濫を繰り返す釜無川に堰を設けたモデル)」に寄りました。ここも被災がひどかったとお聞きしました。そこへの道筋で、ちょうど崖崩れがあって、3~4時間動きが取れなかったのです。『こういった山の崩落は日常的にあるんです!』とガイドさんが言っていましたから、今回の地震の被害の大きさを容易に想像することができるのです。その時、まさかこの地域が、大断層の上にあることは知りませんでした。通行止めの中、近所の子どもたちが、ゆでた卵やお菓子や水を売る声を、車の間でかけていた光景が、目に浮かんできます。

 四日目に、成都市内のホテルで友人ご家族と食事をしながら歓談のひと時を持ちました。友人のお姉さま家族がカナダから、友人のご両親が成都の南にある町から来られ、湖南省からの令夫人のご両親も加わって、その交わりの中に入れてもらったのです。この町で中国語の学びができたらいいな!』と願っての訪問でもありましたが、美味しい四川料理に舌鼓をうって、楽しく時を過ごしたのです。彼らの消息はお聞きしていませんが、震源地からはだいぶ離れタ街に住んでおられるので無事かと思っておりますが。

 聞くところによりますと、500年ほど前(1556113に、東隣の陜西省で華県大地震」があり、85万もの方々が亡くなられたそうです。20世紀になってから、中国ではマグニチュード6以上の地震が約800回発生していると記録されています。また、ここ福建省にも同じほど前に災害の大きな地震があったと聞きました。そういえば小学校の理科で、地球の真ん中にはマグマがあって、今も活動的であることを知らされましたから、いつ、どこでも、そのエネルギーが地表に現れてもおかしくないわけですね。『起こりうることは覚悟しつつ、平素は感謝しながら、喜ばしく生きていこう!』と、改めて思いました。恐れてばかりいたら、せっかくの人生を心配だらけで生きなければならないからです。

 改めて、被災者のみなさんのことを覚え、世界中の多くの方々の激励を背に受けて、明日に希望をつないで、今日を精一杯生きていってくださるようにと、心から祈念しております。

(写真は、チベット族の男性と「ヤク」という中国の牛の一種です)

2008年7月4日金曜日

瑞々しい新緑に慰められて


 

 この611日 の午後、市内観光バス「るーぷる仙台/一日乗車券」を買い求めて、仙台市内の主要な史跡・名跡を観てまわりました。仙台の印象は、街が実にきれいなことで した。『シンガポールの町が世界でもっとも清潔な街だ!』といわれていますが、この仙台が、どこの町より「美しい街」に見えたのは、前の週に終えた手術が 成功裏に終わり、翌週、術後の診察で、《経過良好》との診断を聞いた後だったからだけではありません。季節も天候も良かったこともありますが、こういった街 を作った人物にあるように思えてならなかったのです。

  高校卒業後の進路を考えていたときに、受験候補校にあげた1つが、この仙台にあったのです。受けませんでしたが、その可能性のあったのを思い出だして、数 十年を経て、まさか手術をするためにいくつもの県や街を超えて、ここ仙台に来ることなど、まったく考えもしなかったのです。不思議な方法で、この街で開業 される先生をご紹介いただき、数回にわたって訪ねる、手術後、ほっとして『記念に市内観光をしてみよう!』と願ってバスに飛び乗った次第です。

  戦いすんで日が暮れてでしょうか、砲声も、『やあやあ我こそは・・』の戦陣の口上もやんで、多くの年月が経ていました。東北の雄・伊達政宗が、慶長年間 に、要衝の青葉山に築いたのが、「青葉城(仙台城)」です。この城は、築城以来一度も攻撃を受けることなく、廃藩置県・廃城令の出された明治維新を迎えて おります。関が原の合戦に功績のあった正宗が、家康から六十万石の家督をえて建てたのですが、いつでも天皇と将軍を迎えることができるようにと、特別室を設けていたほどの忠信の武将だったようです。彼は、家康、秀忠、家光の三代の将軍に仕えて、1633年、78歳で召されています。

  それほど、天皇家と将軍家への敬意を表した正宗ですが、残念なことに、歴代の天皇も将軍も誰一人、奥州路に参ることなく、その居室を使うことがなかったの だそうです。この正宗ですが、世評ですと猛将の印象が強いのですが、それは伝説で、こよなく平和を願い、領民に慕われた藩主だったようです。

  城跡の高台から仙台の町を眺めますと、広瀬川が蛇行しているのが見下ろせ、往時はその流れに威容を映していたことでしょう。青葉山も仙台の街も、実に整備 され、青葉若葉に輝いてきれいな町並みを見せていました。訪れる者を暖かく迎え入れ、旅心を慰めるかのようでした。この城下町は、内高だと「百 万石」を、ゆうに超えた外様大名の筆頭格の威容を誇ってことになります。正宗のくわしい伝記は読んだことはないのですが、彼の設けた街に34日を過ごし、病院の食事も街の空気が澄んで美味しかったこともあって、仙台の大フアンにさせられてしまったのです。

  こういった城下町を、正宗は馬の背で巡幸したのでしょうか。人は変わり、時は流れても、自然のたたずまいは彼の時代と変わりありませんから、どこかの辻あたり から馬のくつ音やいななきが聞こえてきそうでした。『市内観光のバスの乗り場は何処ですか?』と尋ねた私に、答えてくださったご老人が、私が乗ったのを確 かめに、バスの脇にまで来てくれました。そして手を振って安心し、きびすを返して去って行かれたのです。この旅人への優しさは、正宗似の仙台人気質なのでしょうか。 その経験こそが、私をして正宗と仙台をさらに好きにさせたに違いありません。

 信州も甲州も福州も、ことのほか新緑がきれいです。でも仙台平野で見た若葉には人の情にも似た深さが宿り、いたわるような瑞々しさに満ちていたのではないでしょうか。そんな仙台で慰められ励まされた私は、かの城下町を「終の棲家」にと願わされた、この五月、六月でありました。


どんな思いで自分の子を眺めるのか


 『なんと悲しい物語だろう!』といえるのが、「菅原伝授手習鑑~寺小屋の段~」ですが、5年ほど前に、南信州大鹿村に三百年余り受け継がれている「大鹿村歌舞伎」で鑑賞させてもらいました。日本の伝統芸能にあまり興味を示さないまま過ごしてきた私でしたが、誘われるまま、初めて観ることができたのです。

  神社の境内での公演が、雨で急遽、小学校の体育館で行われるとのことで、会場の移動に手間がかかったのでしょうか、仕事を済ませて車で駆けつけて、ぎりぎり 間に合ったのです。始まる頃には雨が上がっていました。道真の一子の身代わりで、元家臣の子が犠牲の死を遂げる物語ですが、演技に引き込まれて涙がほほを 伝うほどでした。出雲阿国に始まる歌舞伎が、「川原乞食」と聞いていて、父も母も好まなかったこともあって、敬遠し続けてきていたので す。ところが、次女に誘われ、『断る理由を探せばあるけど、せっかくの娘の誘いだし、時間もどうにか都合をつけられるし、まあ参考のために!』 といって、家内と一緒に出かけたのです。ちょうど次女の夫が、近くの町の高校でJETという団体の英語補教師として勤めていて、どなたかに誘われたのだそうです。それで隣県にいました私に声をかけてくれたわけです。

  東京の「歌舞伎座」で観たのなら、それほどの感動を覚えることがなかったかも知れませんが、歌舞伎ご法度の江戸時代に、幕府に隠れながら山深い村で、こっ そりと 受け継がれてきた、粘り強さが興味を増幅してくれたからでしょうか。中部山岳地帯には、落ち武者たちの集落が点在していたといわれ ていますから、大鹿村も、その例にもれず、きっと平家の末裔たちの部落なのかも知れません。「武士の忠義」が、この演目の主題ですから、農業や 林業などに従事する人たちには、不必要な「義」に違いありません。でも武士の血を受け継ぐ彼らの祖先たちには、子々孫々に受けついてほしかった「武士(も ののふ)の心」だったのでしょう。それで、こういった、「武士物」、「侍物」が好まれて演じ続けられて来たに違いありません。その観劇が、私には「感激」 だったのです。

  家族のつながりよりも、主従の関係が優先されることに、武士の世界の厳しさを感じてならなかったのです。身代わりの首を差し出すように求める寺小屋の師・ 源蔵、そうする様に我が子に促した母、犠牲となって自らの首を潔く差し出した「小太郎」、その首実検をする小太郎の実父・松王丸、いやあ息を呑 むような場面です。人は、どの役割も演じたくないと思うのです。歌舞伎役者としてではなく、現実の世で、父として母として子として、また師としてもです。

  亡くなった父が、『我が家は鎌倉武士の末裔だ!』と言っていましたから、頼朝の部下なら、こういった忠義を避けられなかったかも知れません。昭和の代に生 を 受け、平成の世に生きる自分が、どれほど恵まれているかを知って、なんとなくほっとするのですが。あの日、子役で演じていた中学生たちは、どんな気持ち だったのだろうかと思うこと仕切りです。あの時、私と家内を誘ってくれた娘は、二児の母となり、アメリカの西海岸で生活をしているのですが、子を持った 今、どんな風に思い返しているのだろうか、また、一緒に観て、おひねりを舞台に投げたりした婿殿は、どんな思いで自分の子を眺め、育てて行こうとしている のでしょうか。

 叔父を太平洋の戦地に送り出した祖父母、今世紀の戦争にも、今まさに、そういった経験をしている親ごさんは世界中に数限りないのですが、ただ平和であることを願って、残される日々を、夫として父として爺として生きていきたいと願うのみであります。


 

素晴らしい音信



 ほとんど毎日配信されてきて、楽しく読ませていただいている「ブログ」に、長年、中耳炎で苦しまれた方の体験記事がありました。この3月の終わりのことです。この方が10年ほど前に、仙台のある病院で、「鼓膜再生手術」をお受けになられて、まったく回復されたとのことでした。私もまた、小学校1年のときに、中耳炎にかかって以来、幾たびも耳漏や耳痛で苦しんできました。記事を読みますと、この方とまったく症状が同じだったのです。それでブログの主宰者にお尋ねしましたら、記事を書かれた方のメール・アドレスを知らせてくださいました。それで、早速、メールを送りましたら、丁寧なお返事があって、病院を紹介してくださったのです。即日、この病院にメールで症状や病歴を知らせしましたら、『・・・拝見しないと確約出来ませんが,手術による聴力改善の可能性は高いと思われます・・・帰国の際に、一度、当院を受診して下さい・・・その際に「既に、院長とメールで連絡済み」と係の者にお伝え下さい』と、院長からご返事を頂いたのです。

 中国に留学中でしたし、それなりのお金も必要でしたから、しばらく躊躇していましたが、5月の連休明けの7日に、意を決して日本に単身戻りました。その日のうちに病院に電話し、初診の予約を取り付け、翌日、東京から東北新幹線「はやて」に飛び乗って駆けつけ、受診したのです。『完治の可能性は高いでしょう!』とのことで、3週間後に手術をしてくださるとのことで、入院手続きを済ませました。本来なら23ヶ月待ちの状況でしたが、事情を汲んでくださって、特別なご配慮をしてくださったのです。他の患者さんには、申し訳ないことでしたが。67日に入院し、その日の夕方に、両耳の鼓膜再生の手術を1時間ほどで終えことができました。ご子息の副院長の執刀で、手際よく手術は終了したのです。34日を病室で過ごし、10日 に退院し、東京郊外の次兄宅に帰りました。翌週の水曜日に、術後の検診で仙台に参りましたら、経過良好とのことでした。『先生、今年の夏は泳いでいいで しょうか?しばらく泳いでいませんし、福州の海は実にきれいなのですが!』とお聞きしましたら、『うーん!・・・・ぎりぎりですね!』とおっしゃられたの で、『まあ、今年はあきらめます!』とお答えしましたら、息子先生がニコッとされておいででした。

 診察後、手術の記念に、青葉城址に登ってみました。春の日を浴びてそよ吹く風にきらきらと黄緑に輝き、『実に青葉がきれいで、清清しい!』と感じさせられること仕切りでした。きっと仙台城 主・伊達政宗の眼を楽しませたと同じ新緑に違いありません。人は変わり、時は流れても、自然は往時のままであることを感じさせられて、ほっとさせられた私 の傍らに、正宗公がおられるのではないかと錯覚するほどでした。

 そんなこんなの帰国を終えて、先週の金曜日、福州に戻りました。91歳になった母の誕生会にも出席でき、長男家族の2歳 の孫の誕生にも加えてもらったり、次男と彼のガールフレンドとも会えました。国外にいる娘たちには、メールで手術の前後の様子のやり取りをし、彼女たちの 激励が背後にあったのを、ひしと感じた次第です。今回、ことのほかインターネットの役割の大きさを知らされたのだと思います。「ブログ」も「メール」も、 正しく有益な「好情報」が、目にし耳にした者に「幸情報」となって伝えられたのですから、「福音(素晴らしい音信・グッドニュース)」であり、また私の発 信する情報が、どなたかのためになるのなら、さらに感謝なことになります。

 ネットの功罪の論議が沸騰していますが、今回、私の得た情報は、実に意味があって感謝なものであったわけです。私の愛読書に、「良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ」とあります。「良い知らせ」でネットがあふれ、人々の心に、「平和」がもたらされることをひたすら願って!

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自己紹介

 次男に勧められて始めた「ブログ」ですが、2007年7月から1年間休刊しました。その間、他の「ブログ」を開設したのですが、2008年7月に、名前を変えて再開しました。  父として子どもたちに、爺として孫たちに、また母や兄弟や友人たちにも、何かを語り残したいと願って、続けています。