2008年7月4日金曜日

瑞々しい新緑に慰められて


 

 この611日 の午後、市内観光バス「るーぷる仙台/一日乗車券」を買い求めて、仙台市内の主要な史跡・名跡を観てまわりました。仙台の印象は、街が実にきれいなことで した。『シンガポールの町が世界でもっとも清潔な街だ!』といわれていますが、この仙台が、どこの町より「美しい街」に見えたのは、前の週に終えた手術が 成功裏に終わり、翌週、術後の診察で、《経過良好》との診断を聞いた後だったからだけではありません。季節も天候も良かったこともありますが、こういった街 を作った人物にあるように思えてならなかったのです。

  高校卒業後の進路を考えていたときに、受験候補校にあげた1つが、この仙台にあったのです。受けませんでしたが、その可能性のあったのを思い出だして、数 十年を経て、まさか手術をするためにいくつもの県や街を超えて、ここ仙台に来ることなど、まったく考えもしなかったのです。不思議な方法で、この街で開業 される先生をご紹介いただき、数回にわたって訪ねる、手術後、ほっとして『記念に市内観光をしてみよう!』と願ってバスに飛び乗った次第です。

  戦いすんで日が暮れてでしょうか、砲声も、『やあやあ我こそは・・』の戦陣の口上もやんで、多くの年月が経ていました。東北の雄・伊達政宗が、慶長年間 に、要衝の青葉山に築いたのが、「青葉城(仙台城)」です。この城は、築城以来一度も攻撃を受けることなく、廃藩置県・廃城令の出された明治維新を迎えて おります。関が原の合戦に功績のあった正宗が、家康から六十万石の家督をえて建てたのですが、いつでも天皇と将軍を迎えることができるようにと、特別室を設けていたほどの忠信の武将だったようです。彼は、家康、秀忠、家光の三代の将軍に仕えて、1633年、78歳で召されています。

  それほど、天皇家と将軍家への敬意を表した正宗ですが、残念なことに、歴代の天皇も将軍も誰一人、奥州路に参ることなく、その居室を使うことがなかったの だそうです。この正宗ですが、世評ですと猛将の印象が強いのですが、それは伝説で、こよなく平和を願い、領民に慕われた藩主だったようです。

  城跡の高台から仙台の町を眺めますと、広瀬川が蛇行しているのが見下ろせ、往時はその流れに威容を映していたことでしょう。青葉山も仙台の街も、実に整備 され、青葉若葉に輝いてきれいな町並みを見せていました。訪れる者を暖かく迎え入れ、旅心を慰めるかのようでした。この城下町は、内高だと「百 万石」を、ゆうに超えた外様大名の筆頭格の威容を誇ってことになります。正宗のくわしい伝記は読んだことはないのですが、彼の設けた街に34日を過ごし、病院の食事も街の空気が澄んで美味しかったこともあって、仙台の大フアンにさせられてしまったのです。

  こういった城下町を、正宗は馬の背で巡幸したのでしょうか。人は変わり、時は流れても、自然のたたずまいは彼の時代と変わりありませんから、どこかの辻あたり から馬のくつ音やいななきが聞こえてきそうでした。『市内観光のバスの乗り場は何処ですか?』と尋ねた私に、答えてくださったご老人が、私が乗ったのを確 かめに、バスの脇にまで来てくれました。そして手を振って安心し、きびすを返して去って行かれたのです。この旅人への優しさは、正宗似の仙台人気質なのでしょうか。 その経験こそが、私をして正宗と仙台をさらに好きにさせたに違いありません。

 信州も甲州も福州も、ことのほか新緑がきれいです。でも仙台平野で見た若葉には人の情にも似た深さが宿り、いたわるような瑞々しさに満ちていたのではないでしょうか。そんな仙台で慰められ励まされた私は、かの城下町を「終の棲家」にと願わされた、この五月、六月でありました。


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自己紹介

 次男に勧められて始めた「ブログ」ですが、2007年7月から1年間休刊しました。その間、他の「ブログ」を開設したのですが、2008年7月に、名前を変えて再開しました。  父として子どもたちに、爺として孫たちに、また母や兄弟や友人たちにも、何かを語り残したいと願って、続けています。