2008年7月29日火曜日

方向転換

 高校生の時、よく小説を読みました。言葉に興味があって、難しい言葉や言い回し方を知りたったからです。とくに田宮虎彦の「足摺岬」、尾崎士郎の「人生劇場」、川端康成の「伊豆の踊り子」などは、言葉だけではなく、父の世代(昭和初期)の学生の生き方を知らせてくれたのを思い出します。読み進むうちに、父が青年期を過ごした時代の手がかりをつかむことができ、そういった時代に学んでいた父にダブらせて読むことができたのです。もちろん父は文学青年ではなったのですが、それでも父の書庫の中には文学作品もありました。これらの作品に描かれている時代は、世情が不安で、言い知れない深みに落ち込んでいくかのようだったに違いありません。男同士の友情が破綻し、男女の恋や愛も悶着を起こし、先の読めない混沌とした様子が描かれていて、知らない世界に興味津津だったと思います。

 自分の内側にも、たぎるような性欲が突き上げ、成功的に生きていきたいとの名誉心も噴き出し、物欲にも駆られ始めていたのです。親離れを決め込んで、外の世界に出て行っては、恋愛や友情の難しさに直面していました。時には、頭をかかえ込むこともあったのです。ですから、親との距離が大きくなるにつれて、『生きることって容易じゃあないし、大変なんだ!』と思わされたようです。

 昭和初期の学生の、恋しては愛に破れ、友を得ては訣別し、挫折し堕落して奈落に向かって落ち込んでしまう、そんな小説の中の青春に興味をなくしてしまいました。この田宮も川端も、晩年には自死しています。太宰も芥川も田中英光も、そうでした。早稲田や東大で文学をやって、物書きにでもなっていたら、彼らのような結末を迎えたかも知れませんね。小説家に、自死する人が多いのには、いまさらながら驚かされるのですが。ペンで思い描く架空の世界との差を埋めることが出来ないで、酒や女や薬物に踊らされれたり、また現実に押しつぶされて死への逃避行をたどるのでしょうか。

 それで、高校生活を描いた「草を刈る娘」、「若い人」や「青い山脈」などの石坂洋次郎作品に興味を向けたのです。そのほとんどを、くすくす笑いながら読みました。手の届きそうな太陽がいっぱいの空があって、空気も水も食べ物も人間も、清新で新鮮で闊達で屈託なく、福福満満たる大らかな世界がありました。何か消えかけていた希望の灯を、自分の青春にともし直すことができたかのようでした。でも小説の世界のようには、明るくも楽しくない現実の生活の中で、矢張り悶々として学生生活を送っていたのです。

  父の家の平穏さの中で、明るく楽しく楽観的に生きられていた時代を終えて、覆いの外の世界に向かって、『自立しなければ!』と自らを追い立てていました。 そこに待ち受けているのは、現実の過酷さだったのにです。一日一日、堕落していくような日を重ねていったんだろうと思います。『あ んな大人にはならないぞ!』と決めていたのに、あのおじさんたちのようになっていく自分に気付いて、まるで深い枯れ井戸の底から、わずかに見える青空を仰 いでいるようでした。裕次郎やジェームス・ディーンや高倉健の映画を観ていましたが、飲む酒の量が増え、吸うタバコの本数が多くなり、表通りから、場末の 暗がりをさまよい歩き始めていました。卒業し社会人となってからは、地方都市への出張が多くなり、接待や振舞われる機会が多くなり、昼間の仕事と夜の遊び との一対の生活が、矛盾を感じることなく進んでいました。でも心の空しさ、満たされない気持ちは、飲んで騒いで遊んでも埋められなかったのです。


 そんな頃、鹿児島への出張があって、当時上の兄がいた福岡の久留米に途中下車しました。振り返りますと、この街(実は義母の出身地でもあったのです)が、人生の大きな転換点となったのです。兄の行き方が眼を見張るように変わっていたのに驚き、その驚きが自分の生き方を変え始めようとしていたからです。お参りにではなかったのですが、大宰府の天満宮にも行って見たのですが, 学問の神様と言われる菅原道真によってではなく、ものすごく大きな手が背中を押して、「これが道だ、これを歩め」と言われているようでした。地獄の門の手前で、押し返されたかのような方向転換でした。久留米、何時か、また行ってみた街であります。

(写真は、上は、土佐清水市のHPの「足摺岬」、下は久留米市HPの「筑後川」です)


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自己紹介

 次男に勧められて始めた「ブログ」ですが、2007年7月から1年間休刊しました。その間、他の「ブログ」を開設したのですが、2008年7月に、名前を変えて再開しました。  父として子どもたちに、爺として孫たちに、また母や兄弟や友人たちにも、何かを語り残したいと願って、続けています。