2009年3月31日火曜日

♯ ハッピー・バースデイ・トウ・ユウ ♭


 『・・・お母様は、あと半年くらい・・・・』と、母の主治医が私に告げました。家に帰って、父にその旨を報告をしたのです。父は、『そうか!雅、覚悟しような!』と言いました。もう四十数年も前の日のことになります。これは、婦人科の疾患で、腫瘍がみつかり、その摘出手術をし、『念のために組織検査をしてみましょう!』とのことで、その検査結果を告げるために、父が呼ばれたのですが、『雅、行って聞いて来てくれ!』と言われた私が、出かけて行って、聞いてきたときの話です。父ではなく、二十代前半の青臭い私が来たことに、怪訝な顔をした福島先生が、いわゆる「ガン告知」をされたのでした。聞いたとき後頭部を『ガーン!』と殴られたような感じがしたのを思い出します。

 ところが、半年どころではなく、病癒えた母は、あれから四十年も元気に過ごして、今朝、92歳の誕生日を迎えたのです。『誕生日おめでとうございます!』とカードを郵送し、誕生日を指定した「誕生メール」も送りました。そして今日は、学校から戻ってから、電話で、『お母さんおめでとう!』と伝えて、『♯ ハッピー・バースデイ・トウ・ユウ ♭』と、家内といっしょに歌ったたところです。格言に、

   『あなたの父と母を喜ばせ、あなたを産んだ母を楽しませよ!』

とあります。『寡黙で我慢強い 』と言われる山陰出雲で生まれた母は、まさにそういった気質の女性でした。父と出会って結婚に導かれ、私たち四人の男の子を産んでくれたのです。ガスコンロも炊飯器も洗濯機も水道も無い時代に子育てを始め、病む子を看病し、兄弟げんかを仲裁し、悪戯で呼び出されると謝りに学校や警察に出かけ、はらはらどきどきの連続の年月だったに違いありません。今は、すぐ上の兄の家で、愛され世話されて、元気に毎日を過ごしております。『食欲もあって、元気!』と、兄からたびたび連絡があり、『最近物忘れが・・・』とのメールもありますが、しっかり兄夫婦で面倒を見ていてくれますから、心配しておりません。遠く離れてしまった私は、孝行する機会が無いことを申し訳なく思うのですが、こちらからの思い以上に、病弱だった幼少期の私を忘れられない母にとっては、いままだ愚生、心配の種なのかも知れません。そのことを思い返しますと、「・・・自分の家の者に敬愛を示し、親の恩に報いる習慣をつけさせなさい。 ・・・」と言う勧告が思い起こされてまいります。

 『今のときを楽しく感謝して過ごしてほしい!』、そんな願いを海の向こうの母に、インターネット回線(スカイプ)を使って伝えてみたのです。これって、親孝行になりますよね。




(写真は、《「出雲の阿国」前進座劇場・公演》と、《紀行写真集・山陰》の「出雲・日御碕(ひのみさき)」です)

2009年3月29日日曜日

入笠山(にゅうがさやま)


 国道20号線を甲府から諏訪に向かって車を走らせますと、山梨県との県境を越えて長野県に入り、諏訪郡富士見町をしばらく北上しますと、左手に標高1995メートルの「入笠山(にゅうがさ)」が見えてきます。伊那市と富士見町に跨る山なのです。この山の頂上から、晴天の日の展望は、じつに壮観でした。東西南北、眺望が八方に開けているからです。これまで幾つもの山に登りましたが、この入笠山ほど遮蔽物が無く見晴らしのよい山は、他に類を見ないのではないでしょうか。その光景を、ことばで表現しても、写真で見てもらっても、十分に伝えられません。その頂きに実際に立って見回さないと実感がないのですから、表現のしようがないもどかしさを覚えてしまいます。秋だったのですが、大人と子ども10人ほどのパーティーで登山したのです。天候に恵まれて、それは感動的でした。秩父連邦も北アルプスも木曽の御嶽山も見ることができた、実に贅沢な登山だったのです。

 この山に一度で魅せられた私は、翌年の12月に家内を誘って、その登山計画を実行したのです。その日は晴れていましたが、2日ほど前に私たちの町では雨でした。『まだ雪にはなっていないだろう!』と思って、軽装で登り始めたのです。念のため、家内だけには、雪の滑り止めを携行していました。ところが、あの雨は、ここ入笠山では雪だったのです。登るに連れて、うっすらだった雪が足首を覆うほどになっていきました。『うぬ、だいじょうぶかな?』と思ったのですが、せっかく来た山でしたし、家内に頂上を見せたかったので強行したのです。スキー場の脇を上って行きましたら、不安が的中して、だいぶ積雪がありました。そうしましたら悪いことに、風が吹き始めたのです。雪の表を吹いて渡って来ますから、冷たいのと言ったら凍えそうでした。結局頂上行きをあきらめて、風をふさぐ小屋の影で、震えながら握り飯をぱくついたのです。早々に昼食を済ませて、下山することにしたのです。『林道を下ったほうが楽だろうね!』と、その道をとりましたら、ここも北側の林道には、20センチほどの積雪があって、なんと獣の足跡もあちこちにあるではありませんか。鹿だったら、仕方が無いかなと思いましたが、『熊が出てきたら、くまった(困った)ことになるけど、どうしよう?』という不安が込み上げてきたのです。駄洒落どころではなくなってきたのです。その林道の雪は20センチほどあって、ある箇所はアイスバーンで凍っていたのです。家内は、アイゼンの付いた滑り止めをはかせたのですが、滑り止めの無い私は、何度も何度も滑って転んで腰を打ってしまったのです。泣きっ面に蜂で、『初老の夫婦、遭難!』と言う、新聞の見出しがちらつくほどでした。

 こんな辛い山歩きは初めてでした。やっと駐車場まで降りましたら、もう陽が西に傾き始めていました。命からがらの山行きでしたが、再挑戦の思いはいまだに消えないでおります。いつか帰国したら、この宿題を果たさなければと思う福州の春であります。そこには、山や眺望だけではなく、湿原もユリも鈴蘭も蓮華つつじもあって、旺盛に自然が息づいているのです。

(写真は、《富士彩景画像掲示板》の入笠山から遠く望んだ富士山です)

2009年3月28日土曜日

期待の星


  日本に置いてきてしまい手元には無いのですが、小学校入学記念の一葉の写真が残っています。帽子をかぶり、下穿きの袋を右手に下げ、黒革のランドセルを背負い、紺の純毛の制服を着、編み上げの革靴をはいた、東京の麹町や世田谷あたりの都会の子どもの姿で写っているのです。私が入学したのは、山深い渓谷の高台にあった村立小学校でした。兄たちには用意しなかった一そろいを、日本橋の三越に特別注文して作らせて、送らせた物でした。なぜか父は、私を特別扱いしたのです。もちろん兄たちが小学校に入学したのは終戦後間もなくの国民学校でしたから、物資窮乏の時期で出来なかったこともありましたが。私が入学したのも、経済的には大変な時期であったはずなのです。ところが、入学する直前に、私は肺炎にかかってしまって、町の国立病院に数ヶ月入院してしまい、「入学式」に出ることが出来なかったのです。それは、父にとってはたいそう残念なことだったようです。それで父は、やっと病癒えて退院した私のために、写真屋を山の中に呼んだのでしょうか、用意しておいた一式を着せて、記念写真を撮らせたわけです。村長さん、駐在さん、郵便局長さんでも、これほどの豪勢な格好をさせた息子はいなかったのではないでしょうか。兄たちや弟には、申し訳ないのですが、父の「期待の星」であったことが分かるのです。

 私にも四人の子が与えられたのですが、誰一人、こんなに着飾って入学を祝って上げた子はいませんでした。私の時代とは比べられなく豊かな時代になっていたのにです。三番目の子には、従姉妹のお古のランドセルを使わせてしまったほどでした。特別扱いを受けた私は、我侭に育ってしまい、いまだに尾を引いて苦労をしているのですが、その反面、愛された子には、『父の特愛を受けたのだ!』と言う充足感があって、愛された者特有の質を、自ら感じているのですが、言い訳になるでしょうか。一方、結構雑に育ててしまった四人の子どもたちは、自立心に富んでいて、我慢強い人間になっているように、欲目で感じていのですが。

 そんな父でしたから、これまた一流大学で学ぶように期待したのですが、その期待も裏切ってしまったのです。結局、二流大学に入学した私が、卒業と同時に、ある職場に入学したときに、その職場の所長の家に、何故か父が一緒に挨拶に行ってくれたのです。その方は、早稲田大学の学科長をされていた、その道では名の知れた学者でした。その職場に就職したことを、父が大変に喜んでくれたからです。その挨拶がよかったのでしょうか、この所長が私に目をかけてくれて、出世(!?)コースのレールの上においてくれたのです。ところが、そういったことに頓着のない私は、またもや父を裏切ってしまって、流行らない仕事に転職してしまったのです。それでまたもや、父を裏切ってしまったのです。結婚相手にも、父なりの期待があったのですが、父の意には適わない女性と結婚してしまったのですから、更なる裏切りをしてしまったことになります。結婚式がすんで、二月ほどしたときに、父は入院先の病院で脳溢血を起こして亡くなってしまったのです。

 あれから、37年がたつのですが、もし今の私を見ることが出来るなら、きっと父は良い評価点をつけてくれるのではないでしょうか。素晴らしい妻を得、自慢の四人の子たちがいることも、きっと愛でてくれるに違いありません。名を成し、功を上げることはなかったのですが、父が青年の日に渡って、その血を燃やした中国大陸の一角で、自分の子の一人が今もなお夢を見ながら生きていることを知ったなら、『雅のことじゃあ、仕方ないか!』と認めてくれるに違いありません!また父の話になってしまいましたね。そういえば、この記念写真を撮ったとき、もう一葉、2歳違いの弟と手をつないで撮ったものがあります。彼も、革靴をはき、当時ではめずらしい色模様のセーターを着ているのです。まさに《都市型二兄弟》なのであります。

(写真は、《シオンサイトはてな》の「桜」です) 

2009年3月25日水曜日

『・・北に巡れる多摩の流れ・・』


 『南に仰ぐ富士の高嶺 北に巡れる多摩の流れ 教えの庭の朝な夕な 鏡と見まし山と川を・・・』、これは、わが母校の校歌なのです。校庭からは、毎朝、富士山を見上げることができましたし、町のはずれには多摩川の流れが豊かな水をたたえていました。特に夏場には、この川で水泳をしたものです。まだ学校にはプールがありませんでしたから、水泳はと言えば川泳ぎでした。橋の下に、「ナメ」と呼んでいました粘土質の箇所があって、そこにもぐっては泳ぐ魚を眺め、浮いては一休みするようなことを、しきりに繰り返していました。唇が真っ青になるほどに水遊びをしたでしょうか。もう少し下流に行きますと、すぐ上の兄が、『うなぎをとるんだ!』と言っては出かけて、わなを仕掛けた箇所があったと思います。時間がゆっくりと過ぎて行き、太陽がジリジリと音を立てて照り付けていたように思い出されます。泳ぎの帰りには、決まって、駅前の肉屋さんで、「ボンボン」と呼んで、ゴムの中に入ったアイスキャンデーを買っては、食べるのを楽しみにしていました。

 勉強のことは薄すらとしか思い出さないのですが、遊んだことの思い出は色濃く残っているのは、体一杯で遊びを楽しんだからなのでしょうか。兄にくっついて行くのですが、仕舞いには面倒くさがられて、結局は同級生たちとの遊びに代わっていったでしょうか。大きな川ばかりではなく、小川が縦横に流れていました。コンクリートで護岸されていませんでしたので、葦や水草の間にフナやザリガニや蛙や、蛇でさえも泳いでいました。靴を脱いで流れに入って、魚やザリガ獲りに夢中になっていました。田んぼには、蓮華が春になると一面に咲きだしていました。夏の夜には蛍も飛んでいたでしょうか。多摩丘陵の続きには、その高台に上る間に、林がこんもりと茂っていて、ジャングルごっこをするには十二分の広がりがありました。冬には、兄の作ってくれたそりで滑ったりもしました。また「里山」と呼ばれる藪が、あちこちにあったでしょうか。いろいろな虫がいて、木の実もありました。武蔵野の風情は、あたり一面だったのです。

 やがて高度成長で、田舎町に都市化が進み、都会に通勤する人たちの家が建ち始めていきました。宅地化が進むにしたがって、嬉々として遊んだ自然が後退して行ってしまったのです。もう今では、富士山も見えなくなってしまっているでしょう。多摩川も、鏡のような清流ではなくなっているでしょうか。でも、思い出が消えないでいるのは、感謝なことであります。子どものころの現実が、「思い出」に変わってしまって、二度と帰ってこないのは寂しいことであります。でも、いつか、そんな思い出のそこかしこを、孫たちの手をとって歩ける日を望み見て、今を生きることにしましょう!

(写真は、《多摩川の汽水域》の「多摩川の夕日」です)

2009年3月23日月曜日

父の腰から出たあなた


 『今日は何の日?』、と聞かれるなら、『父の誕生日でした!』と答えたいのです。父は、明治43年(西暦1910年)3月27日に、神奈川県横須賀で生まれています。海軍工廠の技官の家庭でした。この年の7月、「春よ来い」が掲載された、「尋常小学読本唱歌」が発行され、ペコちゃんポコちゃんで有名な洋菓子の「不二家」が東京に開業されています。そうですね、生きていたら、父は99歳の誕生日を迎えたのですが、38年前に召されてしまいました。

 この父の小学校時代の写真が、母の持っていますアルバムの中に残されているのですが、椅子に座る父親(私たちの祖父になりますが)のひざの間にいて、二人の男の子たちと一緒に写ったセピア色の写真です。絣の着物を着て、床の上にはだしでいるのです。実にやんちゃな顔をしていまして、見てすぐに父だと分かるほどです。祖父の顔を見ますと、髭をたくわえて和服姿なのです。『雅は、髭を付けたら俺の親爺にそっくりだ!』と、かねがね言っておりましたから、父に言われるまでも無く、写真の祖父の面影を受け継いでいるのが自分でも分かったほどです。残念なことに、この祖父に抱かれた記憶はまったくないのです。

 『雅ちゃんは、お父さんの腰から出たあなたなのですから!』と何度か母が言っていたことがありました。その意味は、《あなたは、お父さんの良いものを受け継いでいるのですよ!》と言うことに違いありません。旧制の横須賀中学校に入学をし、途中で、東京大田区の私立中学校に転校して、品川の親戚の家から通ったと聞いています。どうも家庭の事情があったようですが。そこから秋田鉱山高等専門学校(現・秋田大学鉱山学部)に進学したのです。ですから父の職歴は、少なくとも、戦争が終わるまで、奉天(現・瀋陽)や京城(現・ソウル)や山形や山梨と、鉱山関係の仕事に従事していたのです。そういえば、父の書庫には、鉱山関係の本が何冊もあったのを覚えています。戦争後は、都会に出て、いくつかの会社と関わって、私たち4人の男の子を育て上げてくれたのです。

 その父は、『俺は何も残さないが、教育だけは受けさせてやる!』と言って、大学に行かせてくれました。《後は自分で生きていけ!》と言う思いを込めてだったようです。それで4人とも、堅実な仕事をえて、家庭を設けることが出来たのです。子煩悩な父でしたから、父に自分の子を抱いて、祝福してもらえなかったかったことが、至極残念でなりません。急逝した父は、まだまだ顔の色艶のよかった61歳でしたから、その頃の父を見て、『親爺って、ふけて見えるよな!』と兄や弟と言い合っていたのに、みんな父の召された年齢を越えてしまって、「弟のような父」を写真の中に眺めて、面痒くてならないのです。そう、もうひとつ残念なことがあります、親孝行が足りなかったことです。福州の隣町の「永泰(yong tai)」には、温泉があると聞いていますが、連れて行って一緒に湯につかって、背中を流してあげることが叶わないのです。しかし方法があります。父に連れ添って、父の子を宿して産んでくれた母に孝行をすることです。おりしも、5月の黄金週間に、弟が母を車椅子に乗せ、リュックに母の着替えを入れて、羽田から飛び立って、母の生まれ故郷を訪問する計画を立てているのです。『最後の親孝行をするんだ!』と言っておりす。一緒に行きたいのですが!

    「あなたの父と母を敬え」

(写真は、明治44年の京急六郷大橋《京浜急行100年の歩み》、川は多摩川です)

2009年3月20日金曜日

『今日は春分の日ですね!』


 『今日は春分の日ですね!』と、学生に言われて、『あっ、そうだったね!』と答えたのですが、すっかり忘れていました。今日は日本ですと旗日で休日だったのですね。愛読していますブログには、『東京湾に近い都立猿江恩賜公園の櫻の蕾は数日で2倍に膨らみ、先端は緑色になった。週末か来週初めには開花するんじゃないか (18日)」とありましたから、また一段と膨らんでいるのではないでしょうか。こちらでも、街路樹の木々に赤やピンクや紫色の花が、いっせいに咲き始めています。日本ですと、徐々に、段々といった感じなのですが、いっぺんに咲き出す様子には、まだ慣れないでおります。真冬だって草が枯れてしまって、木の葉がまったく落ちてしまう冬枯れがなく、いつも通る路沿いには、ハイビスカスの花が咲いていますから、季節感に戸惑いを覚えてしまうのです。

 滝廉太郎が作詞しました「春」には、

春のうららの隅田川 のぼりくだりの船人が
櫂のしづくも花と散る ながめを何にたとふべき

見ずやあけぼの露浴びて われにもの言ふ桜木を
見ずや夕ぐれ手をのべて われさしまねく青柳を

錦おりなす長堤に くるればのぼるおぼろ月
げに一刻も千金の ながめを何にたとふべき

とあります。「うららの春」とは、「麗(うら)らかな」と言うことばなのだと思いますが、長閑(のどか)で、揺蕩(たゆた)うとしている季節感なのでしょうか。うーん、それは四季の移り変わりがはっきりしている日本で、春先に感じることのできる「感覚」なのですが、眠気を誘ういまどきに違いありません。『春を見つけに行ってきます!』と出かけて行った子どもたちが、手に手に、野の草や花を握って、『春を見つけてきたよ!』と勇躍帰って来た日々が思い出されます。「・・・げに一刻も千金の ながめを何にたとふべき」、さて、何にたとえたらいいのか、辺りを見回すのですが、あの繊細な季節の動きを見つけることが、ここ福州でも出来るのでしょうか。国土が広大なので、自然も大きく大らかなのですが、「時に感じて 花にも涙を濺(そそ)・・・<杜甫・春望>」いだ詩人のような目さえあれば、きっと見つけられるのではないでしょうか。

 「見なさい。農夫は、大地の貴重な実りを、秋の雨や春の雨が降るまで、耐え忍んで待っています 」

(写真は、《DISCOVER TOKYO》の「菜の花」と「桜」です)

2009年3月16日月曜日

大の字に畳の上で寝転んでみたい!


 『日本の家は木や草や紙で作られていて、実に粗末なものだ!』と言われてきましたが、本当にそうなのでしょうか。レンガや石を積み上げた家に比べたら、火や洪水に耐える力は弱いに違いがありません。ところが、木や紙がもっています材質の柔らかさは、じつに人にも自然にも優しい細やかさにあふれているのではないでしょうか。そんな繊細さを持っている家屋は、世界のどこにも見当たりませんね。一間六尺(1.8m)の寸法で、家のすべてが規格どおりに作られていて、五尺の人の身丈に、長すぎず足りな過ぎないことに感心させられてしまうのは、私だけではないかも知れません。

 通りと隔てた戸をあけますと、玄関までは石畳が敷かれてありました。玄関は、客人を歓迎する気持ちを表していて、玄関の「三和土(たたき)」に立ちますと、そこは広すぎず狭ますぎず、立って頭を下げ合いながらの挨拶を交わすには、程よい広さなのです。視線を横に向けますと、よく磨かれた廊下があって、ガラス越しに庭が見えます。靴を脱いで上がり、廊下を通って、右手の障子を開けて客間に入りますと、きめ細かな波のような井草表(いぐさおもて)の畳が敷かれてあります。新しい井草表の畳は、気を落ち着かせるに程よい「草の香」を放っていました。八畳ほどの畳の部屋は、縦横に上手に畳が組み合わされてあるのです。部屋と部屋は、襖で仕切られていて、大人数の来客のときには、それを外しますと、十人でも二十人でも容れることの出来る大広間になってしまうのです。襖の上には長押(なげし)があって、その上には双方の部屋が、決して密室ではないことが分かるように、明り取りや換気の用を果たす飾木工の「欄間」がありました。ほどほどに二間を分けてあったのです。

 客間の奥には、横六尺、奥行き三尺ほど(畳一畳分でしょうか)の「床の間」がありました。そこには、毛筆の字と画で書かれた掛け軸があって、磨かれた「黒平水晶」の置物があり、一時は、刀を置くための鹿の角もあったと思います。家を越すたびに、父が大切にしていたものが一つ減り、二つ減って行ってしまったのですが、どこに行ってしまったのでしょうか。物に執着心のなかった父のこと、どなたかに差し上げてしまったのでしょうか。そんな床の間の光景もよみがえって参ります。  

 我たち兄弟は男の子四人でしたから、相撲や喧嘩で、障子も母が張りなおせば破り、襖の芯は折れ、畳は擦り減り破れていました。まあ育ち盛りでしたから仕方が無かったかも知れません。今日日、私のひとつ二つの願いは、そんな部屋の畳の上に、大の字になって寝転がって、天井をじっと眺めてみたいのです。それは贅沢でしょうか。障子の和紙を透き通って射し込む陽の光が部屋全体に広がっている、そんな風に寝転んでいたら、『雅!』、『雅ちゃん!』と呼ぶ父や母の声が聞こえてきそうですね。また、廊下の先の奥の風呂場にある、「檜(ひのき)」造りの風呂桶に、井戸で汲んだ水を張って、薪(まき)で炊いた湯に、「檜」の香りをかぎながら、湯気が立ち上る湯に肩までつかって、「赤とんぼ」でも歌ってみたいものです。『湯加減は、どう?』との母の声も聞こえることでしょうか。

 このような「和風建築の美」というのは、世界に誇ることの出来る日本独特の文化や芸術に違いありません。日本人の心、また美意識を育て上げてくれた極上の文化に違いありません。そんな伝統や文化を再評価し、感謝し、誇りたいのです。あ、忘れていました。もうひとつ「押入れ」がありました。そこには、家族みんなの盛りだくさんの懐かしい思い出が仕舞い込まれているはずなのですが。




(写真は、HP《★和室 1024 x 768》の「和室」です)

2009年3月14日土曜日

霞浦


 「潮騒」は、潮が満ちて、波が寄せて来るときにたてる音のことですが、片瀬江ノ島の西海岸や湯河原の吉浜海岸や九十九里海岸で聞いた、その音が、とても懐かしく思い出されてまいります。この潮騒は、オレゴンのコーストでも、ここ福建省の長楽の海岸でも、日本語の波の音も、英語や中国語の波音も無く、同じ音であることに気付くのです。当然ですよね。

 福建省の北、浙江省(ZheJiangShen)に接したところに、「霞浦(XiaPu)」と言う町があります。最近、この「霞浦」の海岸線を写した数葉の写真を見たのですが、その美しさに魅せられてしまったのです。残念ながら静止画像ですので、潮騒を聴くことができないのですが、「波頭の煌めき」と言うのでしょうか、波頭に夕日や朝日が当たって、まるで音を立てながらキラキラしているように、目に飛び込んでくるのです。こんな美しい海岸線の写真を、これまで見たことが無いからです。とっさに、『行って観てみたい!』と思わされました。そして、この春節にシンガポールに行きましたときに、次男からもらったデジタルカメラがありますので、それを持って行って、日の出から日没まで、月があったら月明かりの下でも、写真を撮ってみたいと思わされてしまったのです。

 去年の春、一台のマイクロバスを借りて、30人ほどの親しい仲間に加えてもらって、福州の隣町・長楽に出かけました。そのとき、海岸まで足を伸ばして、波遊びをしたのです。そこの海岸線は、山が迫っていて、すぐに海岸のような日本のようなものではなく、とてつもなく広がっていて果てが無いといった感じでした。『813路のバスに乗って白湖亭に行き、そこから江田镇行きか下沙村行きのバスに乗ったら行けますよ!』と教えてもらったのですが、まだ行く機会を得ていません。ところが、今度は、「霞浦」の景色に見せられてしまったわけです。写真で見た限りですが、「霞浦」のほうが、さらに広大で変化に富んでいるように思われるのです。




 きっと車があったら、飛び出してしまっていることでしょうね。山奥で35年ほど過ごしておりましたときに、『海が見たい、このまま静岡か新潟まで行ってみたらいい!』と誘惑に駆られることしばしばだったのを思い出すのですが。なんだか、そんな気分の三月の半ばであります。何時行けるでしょうか。

(写真は、福建省寧徳市の「霞浦」です)

2009年3月11日水曜日

「女・弁慶」


 京の五条の大橋で、牛若丸と刃を交えたのが、「弁慶」でした。それを機に、弁慶は生涯、この牛若丸(後の源義経)を主君として仕えるのです。兄頼朝と対立した義経が都落ちをするのに同行します。山伏姿に変装しての旅が有名なのですが。加賀の国・安宅の関を通過するとき、役人(富樫という名)に見咎められるのですが、「勧進帳(かんじんちょう)」を読み上げて、疑われた義経を、『お前が義経に似ているからいけないのだ!』と言いながら、金剛杖で打ち据えます。それをみていた富樫は、その嘘を見破りながらも、彼の主君思いに感動し、あえて騙された振りをするのです。それで、義経一行は無事に関所を越えて奥州(今の岩手県)の平泉の藤原秀衡の世話になります。秀衡が亡くなって、子の泰衡の代になったとき、頼朝を恐れるあまりに泰衡は、衣川で義経を討ってしまうのです。その戦いのとき、弁慶は、薙刀を振るって義経を守るのですが、敵の放つ矢を受けて立ったまま死にます。いわゆる「弁慶の立往生」と言われるくだりです。死んでもなお、主君を守りつづけた弁慶は、「忠臣」の誉れが高いのです。

 これが、子どもの頃に聴いたり、読んだりした話です。史実とは、いささか違うようですが、歌舞伎や能で演じられた内容、伝説でしょうか。この弁慶は、「弁慶の泣き所(ぶつけると弁慶でさえなくような痛さの向こう脛のこと)」とか「内弁慶(外では意気地が無いけど、家の中では弁慶のような強さを表すこと)」と言う諺にもなっている人物です。

 私の孫が、家の中では元気なのですが、見知らぬ人の中にいると人見知りしてしまうのだそうで、『○○ちゃんは内弁慶!』と娘が言っていました。ところが、先日送ってきた動画によりますと、プールに精一杯に水しぶきを上げて飛び込むのです。何度も何度も繰り返してです。女の子なのですが。どう見ても「女・弁慶」に見えるのですが。

(写真は、五条大橋の「牛若丸と弁慶」です)

2009年3月10日火曜日

『その子たちは立ち上がって、彼女を幸いな者と言・・・』


 『なんて愚図なの、まったくお父さんに似て!』と言う出来るお母さんと、そう言われてしまう出来の悪い息子のお話です。『自分に似てくれたらいいのに!』と思ってみても、子どもというのは、父親の良い点と悪い点、母親の長所と短所とを、それぞれ4分の一は受け継いでいるのですから、おっとり構えた、機敏性に欠ける「牛のような子」には、ほとほと嫌気がさして、頭を抱えて悩むお母さんが、意外と多いのではないでしょうか。男だったらお父さんになれるのですが、女に生まれたのですから「お母さん」をしなければならないのですね。

 そういう何人かのお母さんに、これまで会ってきました。頭の回転が速いので、子どもが考える前に、先を読み取って指示を与えてしまうのです。子どもには頼りがいがあるわけです。ところが子どもが幼くて小さなときは、それでもよいのですが、思春期の危機に突入した子どもは、お母さん抜きで行動しようとの《自立心》が芽生えてくるわけです。でも、自立の訓練の時期を得ていませんので、願いと現実のはざ間で迷って困惑し混乱してしまうのです。それで登校拒否や家庭内暴力や非行の路に入っていく事例が多いのでしょう。お母さんのテリトリーから抜け出した息子の別の問題で頭を抱えて、お母さんがやって来られたのです。

 私の母親は、そのようなお母さんのように賢くなかったので、ただほど良い距離から四人を見守り続けていたようです。『いつでも困ったら帰っておいで、あなたのいられる場所を残してあるからね!』と思いながらでしょうか、ただ愛だけを注いでくれたのです。糸の切れた凧のように、虚空を彷徨って苦悶していた青春真っ只中の私を、何かに任せていたのでしょうか、あわてなかったのですね。時期が来て、母港に帰還する船のように、出来の悪い息子は戻ることができたのですから。「彼女は家族の様子をよく見張り、怠惰のパンを食べない・・・」、そんな母に向かって、「その子たちは立ち上がって、彼女を幸いな者と言・・・」うのですが、そう言わなければならないのは、この出来の悪い息子の私であります。

(写真は、《春日部大凧あげ祭り》の「大凧」です)
 
 
     

2009年3月8日日曜日

黒猫と三毛猫との別れ


 「タッカー」と「スティビー」、二年半前まで、我が家で飼っていた猫の名前です。飯田の街角の捨て猫を、次女の主人が拾って飼っていた猫でした。最初の年、オスの黒猫、次の春にメスの三毛猫に出会って、『ニャーン!』と呼びかけられて、ニャンともしがたく抱き上げたのだそうです。そう、やさしいのです。二年の予定で、次女夫婦は、県立高校の英語の補助教師(JETプログラム〈The Japan Exchange and Teaching Programm「語学指導等を行う外国青年招致事業」〉で来日)を始めたのですが、県教育委員会に頼まれて、もう一年を南信濃で、働いていたのです。日米のマネージメントの違い、教頭や教科主任などの在り方、生徒や教科指導の違いなどに悩まされながら、それでも日本方式への理解を深めた三年だったようです。

 生徒たちの訪問、同僚の先生たちとの付き合い、食事に招いたり招かれたりの交流、大鹿村の伝統歌舞伎の鑑賞、地域の人たちとの接触など、多くの異文化体験で忙しく過ごした年月でだったようです。特質すべきは、彼らの長男が飯田市立病院で生まれたことでしょうか。私たちにとっては初孫になりますが。私が大ケガの手術とリハビリを経て、病癒えて、初めての家内ととも旅行をして、熊本に友人を訪ねたときでした、『お父さん、男の子が生まれました!』と次女が、新しい命の誕生の喜びを知らせをくれたのです。その孫の誕生は、ケガで落ち込んでいた私には絶大なる励ましでした。

 その次女夫婦が飼っていた二匹の猫を、帰国する彼らが連れて行けなくて、私たちが引き取ったのです。私は犬好きで、根っからの猫嫌いでした。ところが次女が連れて来ている間に、嫌いな私が猫好きに変心してしまったわけです。次女夫婦や孫が可愛いように、猫たちも可愛くなったのですから、不思議なものですね。

 今度は、私たちが日本を離れて、中国に行くことになってしまったのです。『タッカーとスティービーをどうしよう?』と言う大きな課題に直面したのです。やむなく、愛護センターに連れて行き、実に悲しい別れをしてしまいました。その二年半前の大きな犠牲を思い返していますと、隣家の三毛猫が、私を見ては、『ニャーオ!』と鳴くのです。私たちの今を知ったなら、二匹は赦してくれるに違いありません、きっとそうですよね・・・ねっ!

(写真は、《心葉スケッチblog》の「黒猫」です)

洗濯物


         とぼとぼと犬の歩みや梅雨の入り  木津克司

 『春が来た!』と思って喜んだのですが、束の間の喜びで、『おー寒い!』と昨日は、ついつぶやいてしまいました。寒いときは《覚悟の寒さ》で、寒さを受け入れられるのですが、『わーっ暖かい!』と感じた矢先の《油断の寒さ》は、期待外れで厳しさを感じてしまいます。『洗濯物が乾かないの!』と、家内が窓から空を見上げて言っていました。結局、部屋の中に紐を張って、そこに洗濯物を干して、ストーブをつけて、扇風機を廻して、一室を「乾燥室」にしているこのごろです。

 私のアメリカ人の師は、日本に長く住んで、日本で亡くなり、日本に埋葬された親日家でした。この方と一緒に七年間の交わりをしたのですが、日本家屋に住んでいて、『僕と弟の遊び部屋は、この家よりも大きかったよ!』と言っていたことがありました。アメリカの南部の豊かな家庭で育った彼が、日本での生活の不満を語ったのではないのです。正直で率直な印象でした。その彼が我が家にやって来て、部屋の中に干してある、子どもたちの洗濯物を見上げて、『これってアメリカの家庭では見られない光景・・・貧乏の象徴なんです・・・・』と、つい口を滑らせていました。悪意は無かったのです。日本の住宅事情、4人の子供という家族事情、梅雨といった気候事情、そして当時の経済事情、そういったことを考えますと、我が家としては仕方の無いことでした。

 華南地方の雨季、日本に住んだ経験のある友人たちは、「梅雨」だと言われるのですが。弥生三月の日本は、一雨一雨暖かくなって行くのですが、ここ福州の雨の三月は、冬を思わせる日が続いております。『今月いっぱいは、こんな状況でしょうね!』と友人が言っていました。それでも晴れる日は、夏を感じささてくれますから、それを楽しみに、日本で感じた「梅雨」とは趣の違う、福州の梅雨を感謝しないといけないのでしょうね。この雨が、田畑を豊かに実らせるのですから。

(写真は、HP《トレッカ通信ブログ》の「梅雨空」です)

2009年3月6日金曜日

お茶目な母



 母の面倒を看てくれている兄からの連絡に、『このところ物忘れをするようになった!』とありました。うーん、元気で若かった母の印象が強いので、ちょっと意外な感じがしますが、今月の31日で、92歳になろうとしているのですから、ある面では当然なのかも知れませんね。中学の私の同級生の親が、医者やJRA調教師や社長だったりでした。負けず嫌いの母は、父兄会に来るときには、彼らのお母さんに《ライバル意識》を燃やす、そんな茶目っ気もありました。大人になった私との談笑の中で、そう懐かしく漏らしたことがありました。

 駅前の目抜き通りに「時計屋」がありました。道路に向かって座って仕事をしている店主が、仕事三分の一、外見三分の二ほどだったでしょうか。このおじさんと、歩いている母が視野に入る位置に私がちょうどいたのです。このおじさんは、母に眼を釘付けにして首を廻しながら鼻の下を伸ばしていたのです。見たくて見ていたのではなかったのですが、『へえ、お袋ってそうなんだ!』と新発見したのが中学の日でした。「今市小町」の異名をとった娘時代があったそうですから(母の親友に聞いたのですが)、こういったことも、『さもあろうかな!』でありました。

 市の老人学級への参加を渋る母を、強いて兄夫婦が行かせているのですが、その日の前日には、決まって美容院に行くのだそうです。「女」を忘れないでいる気丈夫な母を知って、安心したり、心配したりであります。生まれて関東大震災の揺れも感じた山陰出雲、新婚時代を過ごした松江や京都、戦前戦中に父に従って住まいを変えた京城(ソウル)・山形・山梨、四人の男の子を育て上げた東京都下の三つの町、今日日、様々に思い返していることでしょうか。

(写真は、今日の「松江市内」です)

2009年3月2日月曜日

『これ(東海道新幹線)こそわれわれが求めている速さだ!』



 12年ほど前になりますが、広東省の省都・広州を観光で訪ねたことがありました。街中に活気が溢れていて、道路が掘り起こされ、ビル工事が街中で進められていました。そして町の中心に、大きなポスターでしょうか、巨大な看板が掲出されていました。それは第五代の総書記をされた、邓小平(Deng Xiao ping)氏の大きなと顔写真だったのです。召されてもなお、中国国民に絶大な人気があることがうかがえ、それに応えた微笑みがこぼれていました。




 1978年10月に、中日友好条約の締結を記念して、中国の指導者としてはじめて日本を訪問されたのが、この邓小平氏でした。彼が始めた「改革開放政策」によって、中国の国力は驚異的に増強しており、その政策に一石を投じたのが、このときの日本訪問だったようです。敗戦国日本が、わずか7年余りで経済水準を戦前の最高水準にまで回復させ、わずか25年で世界第2位の経済大国となった様を見て、邓氏は賞賛を惜しまなかったようです。新幹線で京都訪問をしたときには、その速さに驚嘆されたのです。その訪問について、『私が今回日本に来たのは、日本に教えを請うため・・・科学技術の発展における日本の進んだ経験を持ち帰りたい!』と語られたのです。かつての敵国に学ぼうとされた寛大さや謙遜さには、感謝を覚えさせられてなりません。




 昨年秋、改革開放30周年記念の「京劇公演」が福州の「鳳凰劇場」の舞台で行われていました。『今回の訪日で現代化とは何かがわかった!』と言われた邓氏の現代化政策の現れでもある中国の伝統芸能の鑑賞会にお招きいただいたのです。日本の戦後復興のためにアメリカの後押しがあったように、中国の復興と発展のために、日本が協力できたことを思い返して、初めての京劇に感動を受け、広州の街中で見上げた邓氏の笑顔を思い出していた私に、晩秋の福州の月が微笑んでくれたように感じた宵でした。

(写真は、子ども〈孫?〉と談笑している「邓小平総主席)、HP《新幹線 無料壁紙》 の「東海道新幹線」、鳳凰劇場で昨年末上演された「京劇」の一コマです)

2009年3月1日日曜日

『おんもへでたいと・・・』


 心がウキウキしてきたと思ったら、やはり今日から「弥生」三月なのですね。それでも先週、四川省では大雪だったと聞きました。今時の中央道を東京に向かって走っていますと、冬枯れでまったく葉を落とした梢に、葉の芽でしょうか、花芽でしょうか、膨らんでいるのがわかって、日を追うたびに重量感の増し加わるのが感じられたものです。ここ福州は亜熱帯ですから、完全に木々の葉が落ちませんし、花だって咲いています。冬枯れの実感なく春を迎えることになります。家の前の通りを「進歩路」と言うのですが、大木が路側に植えられていて、風が吹くたびに、その木々の葉が雨の様に舞い落ちていたのは2週間はど前だったでしょうか。一年中、落葉と芽吹きを繰り返しているのです。それもまた春到来の準備なのかも知れません。

 昨日、15人ほどが集まって談笑している間に、『暖かくなったらピクニックに行こう!』と言う話になって、あちらこちらの候補地があげられていました。みなさん学生ですから、『一泊できて泳げるところに行こう!』という話になりました。私たちは、友人の誘いで、一つの計画があるのですが、『重ならないといいんだけど!』と思っているところです。
 窓から空を見上げますと、どんよりと曇っていて、今にも降りそうな素振りが感じられます。それでも「爛漫の春・三月」に、心は浮き立つのかも知れません。何十年となく繰り返して体感してきた感覚と言うのは、一向に衰えることなく、鋭敏になっていくのでしょうか。「農夫は、大地の貴重な実りを、・・・春の雨が降るまで、耐え忍んで待っています 」、農夫でなくとも、やはり春待望は万人の願いなのでしょう!

 『はるよこい はやくこい あるきはじめた みいちゃんが
  あかいはなおのじょじょはいて おんもへでたいと まっている』 

(写真は、HP《ぶっこのぷぷっっ》の「草履・じょじょ」です)

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自己紹介

 次男に勧められて始めた「ブログ」ですが、2007年7月から1年間休刊しました。その間、他の「ブログ」を開設したのですが、2008年7月に、名前を変えて再開しました。  父として子どもたちに、爺として孫たちに、また母や兄弟や友人たちにも、何かを語り残したいと願って、続けています。