2009年3月23日月曜日

父の腰から出たあなた


 『今日は何の日?』、と聞かれるなら、『父の誕生日でした!』と答えたいのです。父は、明治43年(西暦1910年)3月27日に、神奈川県横須賀で生まれています。海軍工廠の技官の家庭でした。この年の7月、「春よ来い」が掲載された、「尋常小学読本唱歌」が発行され、ペコちゃんポコちゃんで有名な洋菓子の「不二家」が東京に開業されています。そうですね、生きていたら、父は99歳の誕生日を迎えたのですが、38年前に召されてしまいました。

 この父の小学校時代の写真が、母の持っていますアルバムの中に残されているのですが、椅子に座る父親(私たちの祖父になりますが)のひざの間にいて、二人の男の子たちと一緒に写ったセピア色の写真です。絣の着物を着て、床の上にはだしでいるのです。実にやんちゃな顔をしていまして、見てすぐに父だと分かるほどです。祖父の顔を見ますと、髭をたくわえて和服姿なのです。『雅は、髭を付けたら俺の親爺にそっくりだ!』と、かねがね言っておりましたから、父に言われるまでも無く、写真の祖父の面影を受け継いでいるのが自分でも分かったほどです。残念なことに、この祖父に抱かれた記憶はまったくないのです。

 『雅ちゃんは、お父さんの腰から出たあなたなのですから!』と何度か母が言っていたことがありました。その意味は、《あなたは、お父さんの良いものを受け継いでいるのですよ!》と言うことに違いありません。旧制の横須賀中学校に入学をし、途中で、東京大田区の私立中学校に転校して、品川の親戚の家から通ったと聞いています。どうも家庭の事情があったようですが。そこから秋田鉱山高等専門学校(現・秋田大学鉱山学部)に進学したのです。ですから父の職歴は、少なくとも、戦争が終わるまで、奉天(現・瀋陽)や京城(現・ソウル)や山形や山梨と、鉱山関係の仕事に従事していたのです。そういえば、父の書庫には、鉱山関係の本が何冊もあったのを覚えています。戦争後は、都会に出て、いくつかの会社と関わって、私たち4人の男の子を育て上げてくれたのです。

 その父は、『俺は何も残さないが、教育だけは受けさせてやる!』と言って、大学に行かせてくれました。《後は自分で生きていけ!》と言う思いを込めてだったようです。それで4人とも、堅実な仕事をえて、家庭を設けることが出来たのです。子煩悩な父でしたから、父に自分の子を抱いて、祝福してもらえなかったかったことが、至極残念でなりません。急逝した父は、まだまだ顔の色艶のよかった61歳でしたから、その頃の父を見て、『親爺って、ふけて見えるよな!』と兄や弟と言い合っていたのに、みんな父の召された年齢を越えてしまって、「弟のような父」を写真の中に眺めて、面痒くてならないのです。そう、もうひとつ残念なことがあります、親孝行が足りなかったことです。福州の隣町の「永泰(yong tai)」には、温泉があると聞いていますが、連れて行って一緒に湯につかって、背中を流してあげることが叶わないのです。しかし方法があります。父に連れ添って、父の子を宿して産んでくれた母に孝行をすることです。おりしも、5月の黄金週間に、弟が母を車椅子に乗せ、リュックに母の着替えを入れて、羽田から飛び立って、母の生まれ故郷を訪問する計画を立てているのです。『最後の親孝行をするんだ!』と言っておりす。一緒に行きたいのですが!

    「あなたの父と母を敬え」

(写真は、明治44年の京急六郷大橋《京浜急行100年の歩み》、川は多摩川です)

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自己紹介

 次男に勧められて始めた「ブログ」ですが、2007年7月から1年間休刊しました。その間、他の「ブログ」を開設したのですが、2008年7月に、名前を変えて再開しました。  父として子どもたちに、爺として孫たちに、また母や兄弟や友人たちにも、何かを語り残したいと願って、続けています。