『・・北に巡れる多摩の流れ・・』
『南に仰ぐ富士の高嶺 北に巡れる多摩の流れ 教えの庭の朝な夕な 鏡と見まし山と川を・・・』、これは、わが母校の校歌なのです。校庭からは、毎朝、富士山を見上げることができましたし、町のはずれには多摩川の流れが豊かな水をたたえていました。特に夏場には、この川で水泳をしたものです。まだ学校にはプールがありませんでしたから、水泳はと言えば川泳ぎでした。橋の下に、「ナメ」と呼んでいました粘土質の箇所があって、そこにもぐっては泳ぐ魚を眺め、浮いては一休みするようなことを、しきりに繰り返していました。唇が真っ青になるほどに水遊びをしたでしょうか。もう少し下流に行きますと、すぐ上の兄が、『うなぎをとるんだ!』と言っては出かけて、わなを仕掛けた箇所があったと思います。時間がゆっくりと過ぎて行き、太陽がジリジリと音を立てて照り付けていたように思い出されます。泳ぎの帰りには、決まって、駅前の肉屋さんで、「ボンボン」と呼んで、ゴムの中に入ったアイスキャンデーを買っては、食べるのを楽しみにしていました。
勉強のことは薄すらとしか思い出さないのですが、遊んだことの思い出は色濃く残っているのは、体一杯で遊びを楽しんだからなのでしょうか。兄にくっついて行くのですが、仕舞いには面倒くさがられて、結局は同級生たちとの遊びに代わっていったでしょうか。大きな川ばかりではなく、小川が縦横に流れていました。コンクリートで護岸されていませんでしたので、葦や水草の間にフナやザリガニや蛙や、蛇でさえも泳いでいました。靴を脱いで流れに入って、魚やザリガ獲りに夢中になっていました。田んぼには、蓮華が春になると一面に咲きだしていました。夏の夜には蛍も飛んでいたでしょうか。多摩丘陵の続きには、その高台に上る間に、林がこんもりと茂っていて、ジャングルごっこをするには十二分の広がりがありました。冬には、兄の作ってくれたそりで滑ったりもしました。また「里山」と呼ばれる藪が、あちこちにあったでしょうか。いろいろな虫がいて、木の実もありました。武蔵野の風情は、あたり一面だったのです。
やがて高度成長で、田舎町に都市化が進み、都会に通勤する人たちの家が建ち始めていきました。宅地化が進むにしたがって、嬉々として遊んだ自然が後退して行ってしまったのです。もう今では、富士山も見えなくなってしまっているでしょう。多摩川も、鏡のような清流ではなくなっているでしょうか。でも、思い出が消えないでいるのは、感謝なことであります。子どものころの現実が、「思い出」に変わってしまって、二度と帰ってこないのは寂しいことであります。でも、いつか、そんな思い出のそこかしこを、孫たちの手をとって歩ける日を望み見て、今を生きることにしましょう!
(写真は、《多摩川の汽水域》の「多摩川の夕日」です)
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