2009年3月11日水曜日

「女・弁慶」


 京の五条の大橋で、牛若丸と刃を交えたのが、「弁慶」でした。それを機に、弁慶は生涯、この牛若丸(後の源義経)を主君として仕えるのです。兄頼朝と対立した義経が都落ちをするのに同行します。山伏姿に変装しての旅が有名なのですが。加賀の国・安宅の関を通過するとき、役人(富樫という名)に見咎められるのですが、「勧進帳(かんじんちょう)」を読み上げて、疑われた義経を、『お前が義経に似ているからいけないのだ!』と言いながら、金剛杖で打ち据えます。それをみていた富樫は、その嘘を見破りながらも、彼の主君思いに感動し、あえて騙された振りをするのです。それで、義経一行は無事に関所を越えて奥州(今の岩手県)の平泉の藤原秀衡の世話になります。秀衡が亡くなって、子の泰衡の代になったとき、頼朝を恐れるあまりに泰衡は、衣川で義経を討ってしまうのです。その戦いのとき、弁慶は、薙刀を振るって義経を守るのですが、敵の放つ矢を受けて立ったまま死にます。いわゆる「弁慶の立往生」と言われるくだりです。死んでもなお、主君を守りつづけた弁慶は、「忠臣」の誉れが高いのです。

 これが、子どもの頃に聴いたり、読んだりした話です。史実とは、いささか違うようですが、歌舞伎や能で演じられた内容、伝説でしょうか。この弁慶は、「弁慶の泣き所(ぶつけると弁慶でさえなくような痛さの向こう脛のこと)」とか「内弁慶(外では意気地が無いけど、家の中では弁慶のような強さを表すこと)」と言う諺にもなっている人物です。

 私の孫が、家の中では元気なのですが、見知らぬ人の中にいると人見知りしてしまうのだそうで、『○○ちゃんは内弁慶!』と娘が言っていました。ところが、先日送ってきた動画によりますと、プールに精一杯に水しぶきを上げて飛び込むのです。何度も何度も繰り返してです。女の子なのですが。どう見ても「女・弁慶」に見えるのですが。

(写真は、五条大橋の「牛若丸と弁慶」です)

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自己紹介

 次男に勧められて始めた「ブログ」ですが、2007年7月から1年間休刊しました。その間、他の「ブログ」を開設したのですが、2008年7月に、名前を変えて再開しました。  父として子どもたちに、爺として孫たちに、また母や兄弟や友人たちにも、何かを語り残したいと願って、続けています。