2008年8月26日火曜日

愚直さの勧め


 「偏屈さ」とか「愚直さ」と言ったことが、時代の動向傾向に逆流するように思われています。こう言った言葉は、明治や大正、さらには昭和一桁世代を匂わせる、かび臭い遺物だとでも思われているのでしょうか。それで、『昔にこだわり過ぎていて、進歩のない証拠だ!』と言って、若者たちに嫌われるのです。確かに、昔は時間の動きが緩やかでした。江戸から京都に旅をしても、自動車も新幹線もなかったのですから、歩くか、裕福な人が籠や馬や舟に乗るかだったわけですから、人の動きものんびり、ゆったりとしていたことになります。時間も人の動きも緩慢なことは、急かされませんので、かえって観察眼は鋭かったのではないでしょうか。

 芭蕉が、「奥の細道」に紀行文を記していますが、歩行者ならではの観察眼が、そこに記されています。実に緻密に景色や心の動きを眺めてて取っています。新潟の上越に行きました時、佐渡に目を向けて、芭蕉の読んだ俳句、『荒海や佐渡によことう天の川』を思い出していました。そんな発想は、何処から来るのだろうかと思うこと仕切りでした。俳聖と呼ばれる人でなければ、表現し得ないに違いありません。別な意味では、時間が、のたりのたりと流れていた時代の産物なのかも知れません。



 これまで、どの道の達人も、滅入る様な、長い下積み時代を過ごさなければなりませんでした。仕事場の片付けだとか、明日の準備だとか、先輩たちの下仕事をしなければならない時代がありました。その積み上げられた、無駄のような時間や作業の間に、培われた何かが、そういった達人たちの高い質を作り上げてきたのです。鰻職人は、『串差し何年!』と言った時代を経て、初めて焼き職人になれるのだと言われてきました。後輩いじめのように取る方がいますが、『たかが鰻、されど鰻!』なのです。その道その道に、練達者や玄人(くろうと)に至る道は遠くて、険しいわけです。 ところが現代は、「促成栽培」のもやしのように、一夜漬けの漬物のように、瞬時のうちに大成してしまう人がいます。松下幸之助や本田宗一郎のように、研鑽と土を這うような努力によって、町の並みの店主から身を起こしたのとは全く違うのです。そういった彼らの「愚直な努力」、「偏屈なこだわり」を、『無駄だ!』と退けてしまうのです。数秒の間に、一人のサラリーマンの一生涯の収入の何百倍もの資金を手に入れてしまうわけです。

 日本の社会を安全に支えてきたのが、『愚直の努力です!』と、以前、畑村洋太郎さんがラジオで言っていました。小学校や中学を出て、生涯かけて、単純な作業をし続けてきた方々の、「愚直の努力」が、事故や災 害や失敗を最小限にとどめて来たのです。そうして来た彼らが職場から去って行く中で、大きな人災事故が発生しているのだそうです。 高学歴と促成で養成された現場が、どうしても伝統的なやり方、愚直の努力を邪魔者扱いしたのです。毎日の洗浄作業や点検が、二日に一度、一週間に一度に減らされてきました。そういった間引き作業は、必ず結果を生むのです。何十年かけて築き上げてきた看板が、一日にして傷つき、汚され、壊されてしまい、消滅してしまうのです。学校に行っていました毎夏、牛乳工場でアルバイトをさせてもらいました。『のどが渇いたら、どの牛乳も飲んでいい。ただビンは割らないで!』と言う真夏の作業でした。その時の栄養補給が、結構頑丈な体を作ってくれたのではないかと感謝しているのですが。その会社名が業界から消えてしまいました。入れてはもらえなかったでしょうけど一時は就職を考えたほどの大企業だったのです。


 

 手間隙のかかる基礎作り、日常のたゆまぬ努力、こういった「愚直さ」は、一度、『不要!』とされたら、もう回復されることは難しいのでしょう。ところが最近聞いた話ですと、日本には聖徳太子の時代に起こされた企業が、同じ社名で、今日でもなお存続していると言うのです。1400年を誇る「金剛組」という寺社建設の企業です。これほど長い歴史を持つ企業が現存すると言うことは、他の国にはまったく見られないことなのだそうです。いわゆる「老舗(しにせ)」と言われる企業です。日本の製品が、世界市場を独占してきた背景がここにあるのではないでしょうか。ちなみに、「愚直」を辞書で調べますと、『正直すぎて気の利かないこと(さま)。馬鹿正直』とありました(大辞林)。さあ残る人生を、『百まで生きたい!』と思いますので、もう40年、馬鹿正直に生きて行くことにしましょう。飛行機に乗るより電車、車に乗るよりは自転車、自転車に乗るよりは歩き、そういったのんびりした生き方をしたら、今まで見えなかったことが見え始めてくるのではないでしょうか。でも時間だけは矢のように過ぎて行ってしまいますが。

(写真は、鰻職人・江口良二さんhttp://kanesue-saga.jp/?page=14、中は、芭蕉の「奥の細道」の旅程図、http://www013.upp.so-net.ne.jp/gauss/basyou1.htm#kosu、下は、江戸時代の「桶職人」です)

 

2008年8月24日日曜日

『過去は変えられないが、未来は私たちの手の中にある』


 辞書で「卑屈」を調べると、『必要以上に自分をいやしめて、他にへつらうこと。おどおどしていていじけていること(大辞林)』とあります。一方、「謙遜」は、『自分の能力・価値を低く評価すること。控え目に振舞うこと(同)』とあります。大東亜戦争後の日本人を評して、『卑屈になってしまった!』と言われる方があります。すっかり反省し、しっかり謝罪したのなら、もう言い訳はしないし、繰り返さないことです。60年以上も、武力によって他国を侵略しなかったのですから、反省と謝罪は本物だと、世界中から評価されております。だったら、過去に拘泥しないで、すっくと頭を上げて、これから二度と再び過ちを犯すことなどないのですから、もっと積極的に、世界平和に貢献し続けていくべきなのです。最も被害を及ぼした隣国に対しては、謝罪をし、戦争後今日まで、経済的財政的援助と言うかたちで補償を積み上げてきております。その補償があって、いくつもの国の今日の経済的繁栄があるのですから。



 もう過去に怯えて、おどおどしなくていいのではないでしょうか。しっかりと詫びたのですから、必要以上に卑しめたり、へつらったりしないでいい時期を迎えているはずです。今、必要とされているのは、勤勉で、飽くことの無い技術革新に精出し、経済大国になった日本は、控え目に振舞うべきです。得た富を、もっと世界のあらゆる面の開発に還元し、環境上の必要のために地球規模の保全に貢献すべきではないでしょうか。儲けさせて頂いたのですから、その相手国に対して、あらゆる必要を丸抱えで覚えていくのは当然なことであります。

 私は父の世代の戦争責任を感じて、お隣の韓国や中国や東南アジア諸国との関わりについて、若い頃から考えてきました。それで、韓国語やインドネシア語を学ぼうとした時があったのです。ところが12年ほど前に、知人に誘われて中国の4都市を訪問する旅行をいたしました。その1つの街に行きました時に、『日本は中国と中国のみなさんに何をすることが出来ますか?』とお聞きしましたら、『お金が欲しいのではありません。よかったら中国に来てください!』と言われたのです。帰国しましてからの十数年,その語られた言葉がこだまのように思いの中に響き続けて参りました。米国人実業家から引き継ぎました事業に従事し、社会的な責任がもあって、それに励んでおりました。でも、六十を期して、第二の人生を始めたいとの願いが、ふつふつと湧き上がってきたのです。それは、退職後の片手間仕事ではなく、双六の上がりのように、自分の「人生の仕上げ」にしようと思い立ったのです。それで、『よし中国に行こう。中国語を学んで、その現地の言葉で、戦争責任をお詫びをしよう!』と決心して、2006年の夏に中国にやって来たのです。やって来まして、何度か、『ごめんなさい!』と過去を詫びる機会がありました。そうしますと一様に、『あの戦争はあなた責任ではありません。あなたが詫びることではありません!なぜならあなたには関係が無いからです!』と言われるのです。と言うことは、《過去のこと》にではなく、《これからの事》に、心の思いを向けるように促されたことになります。『謝罪を言葉ではなく、生きて証ししてみたらどうですか!』と言われた様でもありました。

 軍属として軍需産業の責任を担っていた父、その父の1つの働で爆撃機が製造され、多くの国々を空爆をしているのです。福州の街の隣の海沿いの町には、日本軍の飛行場があって、そこから飛び立った飛行機が、中国の多くの町々に爆弾を投下したのです。『この福州も空爆され、数百人の人命が奪われているのです!』と聞きました。その父の腰から出て、軍から支給される金品によって育てられた自分、と言う負い目を担っていたです。それとて、確かに私の責任ではないのですね。ですから、中国のみなさんから、『そんな過去に拘って生きる必要は無いのでは!』と言われたわけです。自分では謙遜のつもりでしたが、こちらのみなさんには「卑屈」に見えたのかも知れません。過去に怯え過ぎて、本末転倒して来たかも知れません。ノーベル平和賞作家のエリ・ウイーゼルと言う人が、次のように言っています。

 『過去は変えられないが、未来は私たちの手の中にある。無関心ではいけない。無関心が常に加害者を助ける』

とです。『変えられない過去よりも、関わることの出来る未来のことに目を!』と言っているです。



 過去に拘らない中国や韓国の若者の驚くべき活躍に目を見張った、この2週間でした。プロ野球選手で編成した日本の「数十億円集団」よりも、韓国チームのほうが、踏ん張りを見せ、実力以上の力を出し切ったのは、過去をばねにして培った底力だったに違いありません。陸上競技のスタートラインに並んだ国同士が、ゴールに向かってひたむきに走るように、勝つためではなく、次の世代に夢を繋ぐために、友情の絆でしっかりと結びつき、助け合い刺激し合って、明日のアジアを築き上げていって欲しいと思うのです。もう観客席に場所を移された世代の私たちもできることがあるのです。だったら、『平和や友好に貢献していきたい!』と心から願いたいのであります。そのためにも、しっかりと歴史を踏まえる必要も感じさせられております。まだまだ、すべき事と機会、学ぶべきことが多くありますから、残された気力と願いのある間に実行したいものです。オリンピック北京大会の「閉幕式」のテレビ鑑賞に、また誘ってくださった友人の好意に感謝しながら。


2008年8月23日土曜日

若い力に感動されられて

 

 オリンピックの北京大会が、もう明日は「閉幕式」になります。無事に終わりそうですから、胸をなぜ下ろしているところです。大好きになった福州に来て1つだけ残念だったのは、天津にいたら、競技観戦の機会があったかも知れないからなのです。昨年、天津の学校で教えてくれた先生たちが、福州行きに反対した1つの理由は、オリンピックから遠のくことだったのです。でも、北京の熱気は、夜遅くまでテレビ観戦をしているアパートの住民の『中国加油!』の掛け声と、『アッツ・・・ウッツ!』の叫び声で、十二分に感じることが出来ました。国を挙げて、こういった愛する自分たちの国のチームの活躍を熱烈に応援することは、開国以来始めてのことだったに違いありません。夜遅くまで、テレビで応援する隣人たちの祖国愛は、日本チームを応援した私のうちにも宿っているのです。ですが、自分の国が勝っこと、メダルを多く獲得するようにと願うのではありません。感動の足りない現代社会で、心を振るわせてくれる「スポーツマン・シップ」が観たかったのです。だから、どうしても『北京大会が成功裡に終わって欲しい!』と、心から願ったのです。

 全競技に、若い力の躍動が惜しみなく注ぎ出されて、勝つ者もあり、負ける者もある勝負の世界で、素晴らしいドラマを見るような場面がたくさんあったのではないでしょうか。若さっていいですね!あんな時代が自分にもあったことを思い出して、心を踊らせられるような気持ちにされてしまいました。勝てたのに負ける、負けるだろうと予想していたのに勝つ、そう言った番狂わせがあるので、スポーツには醍醐味があるようですね。「圧力(ヤー・リイ)」、精神的なプレッシャーが選手を押しつぶしたり、まったく圧力を感じないで自然体で競技に臨んだり、さまざまなのがいいですね。あの緊張感と弛緩、あの明るさと暗さ、あの笑いと涙、何ともいえないですね。


 

 今回、しっかり観戦したのが、日本と中国との女子サッカー(足球・・ズウ・チュウ)戦でした。日本チームの下向きなプレーに感動しました。正確なパスワークがあり、球への執着の強さがあり、相手のゴールへの執拗な攻めが見られたからです。監督がよかったのかも知れません。聞くところによりますと、佐々木監督は、「綾小路きみまろ」のCDを聞かせて、緊張を解くために苦心をしたのだそうです。勝つための技術指導だけではなく、心の世話や、「和」を大切にしたことになります。『監督と選手とが心を1つにしているな!』と言うのが強烈な印象でした。なぜ女子サッカー贔屓(ひいき)なのかといいますと、昨年、この「なでしこチーム」が、中国と戦って負けたときに、矢のようなブーイングや罵声を浴びたのもかかわらず、『謝謝!ありがとう!中国』の横断幕で、相手チームと観衆とに感謝を言い表したからです。これって出来るようで、なかなか出来ないことですね。アメリカに負けはしたのですが、爽やかな試合振りに、忘れかけていたスポーツの心が蘇させられ、何だか若くされたように感じてしまいました。



 ところで、中国チームに「韓端(ハン・トアン)」と言う番をつけたフォワードがいるのですが、実に素晴らしい選手なのです。日本戦では、ゴールの機会がありませんでしたが、アルゼンチン戦だったでしょうか、ゴールを決めたときに、ユニフォームの下に着ていた、紅いハートを手書きしたTシャツを見せていました。それは四川地震の被災者のみなさんへ捧げる「愛のゴール」だったことを、表明していたのです。ああいった舞台で、そういった激励や愛を表現できることは凄いことですね。大連の出身で、中国チームの看板選手で、ポイントケッターでもあります。



 勝っても負けても、爽やかさが残るプレーに、心が漱がれ、熱くされ、感動させられたのです。50年前の夏、中学生だった私は、バスケットボールの合宿でしごかれていたのを思い出します。あの合宿に先輩が差し入れしてくれて、毎食後に食べた、夏みかんの《酸っぱさ》が口の中から湧き上がってくるように感じられるほどです。実に、『酸っぱい(!?)の多い青春』でした。


(写真は、『謝謝!』の日本女子チーム、下は、中国チームの韓瑞選手です)



2008年8月22日金曜日

幾夏を越えて


 台風接近の海で泳いだことのある方は、よくご存知だと思いますが、寄せてくる波が引いて行く時の強さは想像できないほどの強さなのです。その引き潮が強くて浜に戻ろうとするのですが、足元の砂をさらってしまいます。どんなにしても波の引いて行く力のほうが勝っているのです。湯河原の吉浜海岸で、『もう駄目かな!』と、死を覚悟したことがありました。引くだけではなく波の中に、どんでん返しにひっくり返されたからです。アップアップしていたときに、不思議な波にのせてもらって、スーッと浜に持ってってもらって、九死に一生を得ことがありました。16のでした。怖さ知らずで、遊泳禁止の海に飛び込んだのです。ああいった恐怖を何度か経験して、人間の脆さを知らされてきました。ところで、の寸前で押し戻してくれたあの「波」は何だったのでしょうか。


 

 私の二つ違いの弟が、自分の母校で、長く体育教師をして来ています。もう20年以上前になりますが、生徒と卒業生を引率して、千葉の海岸近くで合宿をしていました。合宿の中休みだったのでしょうか、その彼らを連れて、海岸の波打ち際で遊んでいたところ、折からの台風の影響で、大きな波に3人がさらわれてしまったのです。とっさに彼は海に飛び込んで、一人を連れ戻しました。この様子を見ていた漁師さんたちからは、二重遭難の危険性があるから、どんなに必要や責任を感じても、『二度と再び海に入ってはいけない!』と制止されたのですが、その手を振り切って、ヤットのことで二人目を救出したのです。教師の責任感からの行動だったに違いありません。『もう一人!』と願ったのですが、体力の限界と、猟師たちに羽交い絞めにされて阻止されて、泣き喚きながら海に入ろうとしたのですが、やめざるをえませんでした。結局、もう一人を救出することが出来なかったのです。その晩、彼は広い浜を行ったりきたりして、教え子の安否を気遣ったのですが、徒労でした。翌日、事故のあった浜から、かなり離れた浜に、教え子が亡くなって打ち上げられていたのです。それ以来、この事故の責任を感じたのでしょうか、期するするところあって、ヒゲを生やし始めたのです。いまだに、そのままですが、最近はだいぶ白いものが目立ってきております。




 あの事故の後、毎年夏になると、彼はあの浜に出かけて行っていました。信条上、供養のためではなく、二度と起きて欲しくないとの願いを込めて、思いを新たにし忘れないように訪ねていたのだと思います。今でも続けているのでしょうか。引率教師としては、実につらい断腸の思いの経験だったようです。大学で教える機会も何度もありましたが、彼は頑なに東京都下にある幼稚部から帰国子女コースまである、いわゆる一環校、しかも母校に拘泥してきているのです。実は、あの海難事故ですが、二番目の生徒を救出したとき、疲労困憊の極みにあった彼には、生徒を引いて浜に戻る体力は尽き果てていました。気力だけの行動だったようです。しかし、そんな彼と生徒のために、1つの大きな波が二人を、スーッと岸辺にまで運んでくれたのだそうです。あり得ないことだったのです。海の中には、地上の道路のような潮の流れがあって、「みを」とも呼ばれているそうです。それに入ったら、どんなに巧みな水泳の指導員でも練達した漁師でも、脱出は不可能なのだそうです。そんな危険な海、しかも台風接近の悪条件下で、奇跡的に助けられたのです。死の瀬戸際で、彼と生徒のための、天からの助けだとしか考えられません。そういったことって、あるのですね。その彼が、今は母校の管理職になっています。

 人生には、思いもしなかったことが起こります。その起きたことに適切に対処し、責任ある行動をとることが求められるのです。そう行為する時に、想像を絶した神秘的な援助があることになります。夏は楽しかった思い出も、辛かった思い出も数多くあります。幾夏を越えて、私の弟は、この2008年の行く夏を、どのような思いで見送っているのでしょうか。人生短し!

(写真は、「太平洋の日の出」http://www.greenspace.info/diary/2007/04/post_40.htmlから、下は、アジアの中の「海洋国家」日本です)

追記(8月30日)・・・このブログを読んだ弟から返事がありました。水難事故は、33年前の8月30日だったそうです。今でも千葉県・白子海岸に、毎年出かけているとのことです。今日は、その8月30日、彼にとっては、いまだに忘れられない日のようです。


2008年8月17日日曜日

稲妻と雷鳴の一大絵巻



 都都逸でしょうか、『雷さんは粋な方だよ・・』と言う歌いだしの歌詞を聞いた覚えがあるのですが、日本で聞いた雷鳴、見た雷光、濡れた雷雨は、「粋」に感じることが出来るかも知れません。十数年前になりますが、新潟に参りましたときに、五月でしたが、にわかに空が薄暗くなったかと思うと、『ピッカッツ!』と稲妻が日本海の上に走ったのです。すぐに『ゴロゴロッツ!』と雷鳴が轟いて、夕立になりました。『弁当忘れても、傘忘れるな!』と言うことわざがあるほど、越後地方の海岸線は雨が多いところだと聞きました。関東平野の西にある町で育った私にとっては、日本海側の雷体験は初めてのことで、より男性的で激しいのに驚かされたのです。  ところが、昨年、福建省の福州に参りましてから、二度目の夏を過ごして感じる1つのことは、こちらの「雷」が尋常ではないと言うことです。《轟き渡る》と表現するのが一番よいのではないかと思うのですが、腹の底、腎臓でしょうか、そこに響いてくるような大雷鳴なのです。西から東に、南から北に縦横に鳴り続けて駆け渡るかのようです。まるで音が綱渡りをしているような音響なのです。大きな空全体が大太鼓でもあるかのようなすさまじい音をたてていきます。雷光の稲光も半端ではないのです。雷が、背中にいくつもの太鼓を背負いながら、小さな鼓を打っている光景など、幼稚園の絵本の中のことです。エベレストほどの背丈のある大男が、青海湖かカスピ海ほどの太鼓を、ヒマラヤ杉で連打しているような大音響ではないかと思わされました。

 夕べは眠るのを忘れて、ガラス窓から空を見上げて、雷の大演奏に聞き入り、瞬間にあたり一面を照らし出す装飾のような雷光に見入ってしまいました。あの演出の素晴らしかった「北京オリンピック・開幕式」は、中国の英知の粋を傾けたものでありましたが、昨晩の「雷演奏会」は、太古からの自然の演出でありました。6尺に満たない背の私が、芥子粒ほど、蚤ほどに感じさせられるほどの一時で、天を仰いだまま、平伏せざるをえませんでした。
 




 そんな夜空を見上げながら考えていたのですが、こういった人間では抗しきれない自然の力の前に、数千年の時を過ごしてきた中国のみなさんの「強さ」を感じたのです。ここでは雨の降る量だって半端ではありません。寒さも暑さも、四季の移り変わりの鮮やかな箱庭のような日本の自然の厳しさとは比べられないのではないでしょうか。照れば飢饉、降れば洪水、揺れれば大地震、自然に抗し切れない、人の弱さや限界を知らされて来たのでしょう。蒔いた種を刈り取ることが出来ないで、全部を持って行かれても、『来年は大丈夫だろう!』と、明日に目を向けて、何もない中を地にへばりついて生きてきたのでしょう。『クヨクヨしない大らかさ!』、これがこの2年、ここ中国に来て、中国のみなさんから感じていることであります。収穫期に、兵役にかり出され、畑を戦場にされ、火で焼かれ、収穫物を奪われ、その繰り返しの歴史だったのではないでしょうか。新しい土地に活路を見い出して、一家で一族で移住して来たのでしょう。無くなった物に
ではなく、残された命や物や家族に目を向けて、やり直して生き続けてきたに違いありません。

 

 雷鳴の轟きを聞き、稲光に驚かされ、雨脚の強さの一大絵巻に目を見張りながら、中国のみなさんの「懐の大きさ」、「クヨクヨしない逞しい生き方」、困ったときは互いに助け合い、励まし合う「仲間意識」、そういったものを感じさせられた、昨晩でした。こういった人々のうちに流れている血が、自分のうちにも流れているのだと、改めて感じさせられもしました。

(写真は、「東京・大手町から秋葉原方面に見えた雷光(2008年8月MSNニュース)」、中は、米コロラド・教育サイトhttp://ccc.atmos.colostate.edu/%7Ehail/cool/lightning/pages/lightning7-7-2001.htmから、下は、近所の高層アパート建設現場で炎天下に働くおじさん


2008年8月16日土曜日

お腹ではなく、心が満たされるテーブル


 結婚祝いに頂いた物が、たくさんありました。多くの人たちが、私と家内の新生活を祝福してくださったのです。それらの中で、最後まで残った物が1つありました。28年ほど前の明け方に、当時住んでいたマンションの上階で火災が起きました。娘たちが、よく上がりこんでは、お菓子をもらっては遊んでいた若いご婦人の家が 出火、その事故で彼女が亡くなられたのです。そのもらい火と消火活動の放水とで、階下の我が家のほとんどの物が消失し、水浸しになり捨ててしまいました。爆発の大音響と窓の破裂と火の中から、3人の子どもたちが、奇跡的に守られました。家内のお腹には間もなく生まれようとしていた次男もいたのです。その火と水とをくぐって、残された物の1つが、その「テーブル」でした。それは、まだ十分に使えたのですが、一昨年の夏、こちらに参ります前に、思い出とともに涙ながらに捨ててしまいました。  

 子供が4人いましたし、一時は、その他に3~4人の方が同居していましたから、このテーブルの上に、ベニヤの厚板にニスを塗って加工した物を載せて、それを、みんなで囲んで食事をし、談笑してきたのです。10人は座れました。イスだけは代替わりをしましたが、 テーブルは35年も前の高級品でしたから、実に堅牢だったのです。


 捨てる決断をした時、そのテーブルを囲んだ人たちの顔を思い出したのです。ある時、自殺 しよう決心して、私たちの家の前を通りかかった方が、ふと目を上げると灯がついて、中から歌が聞こえたので、誘われるように玄関をノックされたのです。迎え入れたのは若い女性で、事情を知った家内と私は、一緒に住むことを勧めたのです。それを願った彼女は、私たちとの共同生活で、日に日に元気になっていか れ、市内の愛児園の手伝いをするようになられました。大変に気の効く方で、その園では喜ばれたのです。その後、数年私たちと一緒に生活をしたのです。すっかり元気になられて、愛知の実家に帰って行かれました。彼女も、私の家族とそのテーブルを共に囲んだ一人でした。ある時、非行を犯して鑑別所にいた少年を 引き取りました。彼と彼のお姉さんも、しばらくそのテーブルを囲んだのです。シンナーの常習者で、子どもたちが怖がってしまったので、最後まで面倒をみられないままで終わった方たちでした。離婚を決意して相談に来た方も、お嬢さんのいじめで苦しまれて相談に来られた方も、お金を借り
に来た友人も、このテーブルに着いたと思います。 また私たちを激励に来てくれた、友人や母も兄も弟も、義母も義姉妹も義兄も、そのテーブルについたのを思い出します。  

 35年と言う年月は、実に長いものであります。私たちも、また多くの友人や知人の家に招かれて、彼らの家族と一緒にテーブルを囲ませていただきました。たびたびお招きくださった方が、静岡県下にいました。ご馳走はそれ程ではなかたのですが、彼の家族と私の家族が共に、一つのテーブルを囲んだ時、何ともいえなく暖かかったのを思い出すのです。 彼らの語ることばで心が
いやされたり、振る舞いで励まされたり、勇気付けられたりした、祝福のあふれたテーブルでした。   

 この二月に帰国しました折に、そのアメリカ人実業家のご子息夫妻が、家内と私を招いてくれました。お父さんはすでに召されておりましたが、ご夫人は健在で、彼 と一緒に暮らしておいででした。そのテーブルのたたずまいもまた、お父さんの時代を髣髴とさせるものでした。お子さんたちはそれぞれに家庭を持たれておいでで、次男のテーブルは、簡素なものに代わっていました。そこに彼の夫人と二人のお子さんとお母さまが着き、彼の友人たちも同席していました。そこで動いている心の優しさともてなしとが、お父さんのテーブルと同じだったのです。時は過ぎ、世代は移り、人も変わります。でも、人をよくもてなす心を受け継がれた彼のテーブルも、多くの人が招かれ、心が癒され回復している祝福の場であることを知らされたのです。  




 今、家内と二人で囲む、借り物の小さな折り畳みのテーブルも、多くの友人たちを招き始めています。これに着かれるお一人お一人が、あの優しさに触れた 私たちのように、心が癒され生きていく勇気が与えられるようになって欲しいと心から願う、大稲妻と轟くような雷鳴と大雨の夜の明けた、静かな週末であります。


(写真は、多くの人と囲んだテーブルで、ある正月に家内が、帰ってくる子どもたちのために作った「おせち」がのっています。下は、福州の家で使っています借り物のテーブルです!)

2008年8月15日金曜日

二十一世紀のパンの問題



 『自分のパンは物質的だが、人のパンの問題は、精神的である』と、ロシアの哲学者・ベルジャーエフ(1874~1948)が言いました。白水社から彼の全集が出ていて、読んでみたかった私は、やっと古本屋から入手することが出来ました。じっくりと読んでみたかったのですが、ここ福州までは持ってくることが出来なかったのが残念でなりません。哲学者は、思考が深遠で何を言ってるのか皆目分からない方が多くおいでですが、さほど難解ではなく、平易な表現をするベル ジャエフには興味がつきません。

 ありきたりの「パン」なのですが、自分の空腹を満たして、満腹感をもたらすパンは、ただの「物」にしか 過ぎない。ところが、北朝鮮やアフリカ諸国のように、飢饉の続く国の子どもたちが必要としている食糧のこと、他人のパンの問題に関心を向ける時、物にしか過ぎないパンが、「精神的」になると言うのです。ですから食糧問題は、物質ではなく「心の問題」だと彼は提言したことになります。人が人である証は、他者を顧 みることが出来ることであります。何年か前に、小泉元首相が、越後・長岡藩の窮状を知った三根山藩から、「米百俵」が贈られた美談を引用して話されたことがあります。食べてしまえばそれだけの米を、次世代の子弟の教育のために用いた有名な話です。

 若い頃に、アフリカのキリマンジャロの麓に住む「マサイ族」の故事を聞いたことがあります。お母さんは、自分の子どもに、『パンがあったら、あなたの仲間と分け合って食べなさい!』と、いつも言うのだそうです。そういった共同体での生活のあり方は、驚くべき結束力を強めて行ったのです。ご承知のように、アフリカは「暗黒大陸」と言われてきました。白人社会の労働力として、奴隷として長く売買された忌まわしい歴史があるからです。ただ、このマサイ族は、決して奴隷商人の餌食にならなかったそうです。と 言うのは、仲間との連携の強さが、悪辣な商人の手を上手にかわすことができたからなのだそうです。ただ一切れのパンを、一人で食べても満腹にならないのに、仲間と分け合うことによって、空腹ではなく、仲間意識を満たしたからなのです。まさにマサイ族にとっての「パン」は、精神活動の一つの媒体だったこと になります。食べて厠に行ってしまう食物に、それほどの価値を置いたマサイ族には、『大いに学ばなければならない!』と思わされたものです。としますと、 そう教えたマサイ族のお母さんは、大哲学者であったことになりますね。大学者とは本来は無学であって、自然や人の摂理を熟知した方のことを言うのでしょう。 




  この故事を、何度子どもたちに話したことでしょうか。彼らは、身にしみて覚えているはずです。生きていく上で困難な壁にぶち当たった兄弟のために、その困難や痛みやもがきを、彼独りに負わせないで、自分の痛みや疼きとして受け取って、一緒に取り組んできた兄弟姉妹の絆の強さを、今でも感じるのです。彼ら がこれまで助け合い、支え合ってきたことを思い返して、ただに感謝な思いに満たされます。二十五年ほど前、大きな手術をします時に、家内と四人の子どもに 宛てて、初めての遺書をしたためました。次男がまだ3歳、長男が11歳ほどだったでしょうか。『もしかしてお父さんが召されたら・・・みんなでお母さんを 支えて、助け合って生きていってください!』と言うことを、もう少し具体的、積極的な内容だったと思います。人は、腹を満たすパンだけで生きているのでは なく、心や魂や精神が満たされることを考えて生きて行くようにと造られている、高尚な存在なのですから。これが人なるが所以(ゆえん)であります。さりと て毎日毎日の食物はなおざりに出来ない死活の課題です。その食物を考えるとき、二十一世紀の人類を、自分を含めた「いのちの共同体」と考えて、心配りしていく必要があるように感じてなりません。更なる心の活動が、この地上のあらゆる所でなされますように!

(写真は、”Ben氏の部屋”の「ベルジャーエフ全集」、下は娘の手作りの「バースディー・ケーキ」です)


2008年8月9日土曜日

「和」と「平和」とを目指して


 昨晩、友人が、『一緒にオリンピックの開会式を観ませんか!』と誘ってくれました。テレビを持たない私たちは、『観せてもらえるか、お願いしてみようか?』と思ったまでで言い出せませんでした。そんな私たちの思いが通じたのでしょうか、夕方になって、彼女が電話をくださったのです。それで、二つ返事をしましたら、7時前に車で、家にまで迎えに来てくださったのです。なんと感謝な友情ではないでしょうか。

 彼女の家に着きます、この秋から大学で英語教師として教え始める彼女の若い友人が迎えてくださって、暖かく接待してくださったのです。血液の濃度を薄くするという薬用茶、ニュージーランド製の珈琲、国産クッキー、葡萄とソルダムの果物、マカオからのお土産のチョコレート、このような「もなし付のテレビ観戦」でした。



 そうこうしていましたら、八月八日午後八時に15分ほど前からでしょうか、「開幕式」の放映が始まったのです。唐の時代の長安を「平安京」と呼び、この都が中国史上、最も栄えていたことは周知のことです。その輝きを遥かに凌いだのが、「鳥巣(二アオ・チャオ)」を主会場にした北京の町でした。そこを舞台に、「北京オリンピック大会」の開会式が始まったのです。コンピューターを駆使した映像と光と色彩と大道具・小道具や楽器、おびただしい数のボランティアが、中国四千年の時代絵巻を繰り広げたのです。中華文明の四大発明の「紙」、「羅針盤」、「火薬」、「活版印刷機」を絵巻の中に描き出し、孔子の論語、陳和の大航海、京劇、伝統的な人形劇、楽曲の演奏、踊り、中国と英国の有名な歌手のデュエットや子どもたちの歌唱、55の少数民族(漢族を加えて56部族)から選ばれた子どもたちの合唱、世界中の子どもたちの顔写真、等等、それはそれは眼を見張り奪われるような一大絵巻でした。


 

 中国が大きな変化と躍進を遂げていく序曲のように、素晴らしい3時間ほどの式だったと思います。次の時代の中国を、この悠久の歴史の延長線上に築き上げていくために、とくに子どもたちや青年たちに、自国愛や夢を提供したことは、画期的なことだったと思うのです。「眠れる獅子(清代の中国をそう表現したのです)」と言われ続けてきた中国が、多くのところを通りながら、実に世界に類を見ないような卓越した文化・文明の上に立ち、内蔵している力や可能性を再確認したことでしょう。そのために、みなぎるような若さで演じ、力の限り奉仕し、全国津々浦々で、この絵巻をご覧になられたみなさんの「大きな感動」が伝わって来るようでした。また、中国の偉大さを世界に向けて宣伝したと言うよりも、中国と中国国民が内に宿している能力や内的資源、さらには将来の可能性を、この機会を得て、『世界のみなさんに改めて観て、知っていただきたい!』と願ったに違いないのです。



 あんなに明るく光り輝いた北京は、有史以来、2008年8月8日午後8時になって初めてみることが出来たに違いありません。その明るさが、これからの中国の町々の模型でもあるかのように感じられ、これからの中国が、いや増し増して、『光輝く国家となって行くに違いない!』と確信させられたのです。中国に来た客人(私たちのことです)をもてなそうとして、大きな犠牲を払って下さった朋友愛に心から感謝しました。まるで北京にいるかのような錯覚に陥るほどでした。この大絵巻の鑑賞と友人のもてなしに、身も胃袋も眼も耳も心も傾けて、満たされてしまいました。



 この開幕式を演出したのは、中国映画界の第一人者の劉芸謀(刘艺谟)氏でした。いつでしたか私たちの住んでいた街にかかて観に行った、高倉健主演の「単騎、千里を走る」を製作された監督なのです。とくに「紅いコーリャン」は、高く評価された彼の代表作品です。今回、実に素晴らしいお仕事をされたと思います。その演出を通して、この時代の中国の若いみなさんの思いの中に刻まれたのは、ただ映像や音や色彩だけではなく、「夢」が解き放たれたのだと思うのです。彼らが自信を持って、素晴らしい国を構築していかれることを願って止みません。大競技場「鳥巣」から羽ばたく「平和」の象徴・ハトの映像が映し出され、また活版印刷の演目の中に、「和」がありました。まさに「和」と「平和」を希求していく国が、『空高く飛翔していくのだ!』と確信させられたのです。


 「奥運会」、これが新しい中国の大きな牽引力となることを、切に願うのです。まだまだの日本が、1964年の「東京オリンピック大会」を契機に、大きく変わり、飛躍して行ったのを実感しておりますので、中国の国家と国民のみなさんが、大きな自信と確信と使命感とをもたれて、アジア諸国のさまざまな問題の解決や近代化への牽引車のような役割を果たされることを願い、またこの二週間の大会の無事を祈念しております。中国の入場の折、旗手の姚明の左に見えた少年を覚えておいででしょうか。小旗を振っていました。彼は、四川省の地震災害地で、5人の友人を助けたのだそうです。その援助活動に励まされた委員会が、彼を招聘したのです。「いのち」の重さも、今回の大きな自然災害の後に、発信された「中国国民の思い」に違いありません。

 加油中国!奥運会成功!

(写真は、新華社のHP からです)

2008年8月8日金曜日

北京欢迎你(北京はあなたを歓迎します)


  今夜8時に、開催される、「北京オリンピック」のスローガンは、「ひとつの世界、ひとつの夢」、「新しい中国、新しい北京、 新しいオリンピック」 とのことです。

(左右の写真は、中国期待の星・刘翔選手です!)


 

 中学の国語の時間に、栄枯盛衰、南船北馬、呉越同舟などを習いました。「四字述語」です。広大な中国が戦乱に明け暮れ、中国の長い歴史が、どうであったかを、四字でなんとなく分からせてもらったようでした。政治手腕や戦術に優れた指導者の下で、国が統一されても、すぐに次の勢力が台頭してくる、そういった繰り返しがなされて来たわけです。一人の政治支配は、人の寿命のように短いのだと言うことを、始皇帝の生涯を学んで、思わされたのです。どの指導者も、平和を願ったに違いないのです。でも国の平定と、社会の平和とは共に歩まなかったのです。力の支配は力で、富の支配は富で覆させられました。1つの支配、1つの国、1つ世界を作ろうとしましたが、かなえられませんでした。また若者に「夢」を与え、その夢を暖め育てた若者たちが次の時代を築き上げようとしたのですが、これもはかない夢に終わりました。それは中国だけのことではなく、世界のすべての国家の歴史的事実でもあります。



 今回の「奥運会」が、「ひとつの世界」を実現しようとしています。多民族国家の中国が1つになること、戦乱に明け暮れた世界が1つになることを切望しているのです。この二十一世紀には、ぜひとも実現してほしいことであります。「ひとつの夢」を見ようとしています。その夢を掲げて、それぞれがそれぞれに夢を解き放つようにと、13億のお一人お一人に期待されているのです。その夢に私の夢も、ぜひ添えたいのです。夢の実現を期待して、私の心が弾みます。「新しい中国」が出来始めようとしています。唐の時代の中国の繁栄の様が、二十一世紀の今日、再現されようとしているのです。そのために、十三億ものみなさんが、「ひとつ心」になろうとしているのです。長安にも、洛陽にも見られなかったものが、「北京の都」に、伝統ある文化を残しつつ、実現されてつつあります。建物や施設だけのことではなく、「新しい心」を宿した北京市民が、「新しい北京」を、一人一人の手で築き始めているのです。それは、中国全土のすべての都市の先駆けなのです。素晴らしいことではないでしょうか。そのために「新しいオリンピック」が始まろうとしているのです。



 東京、ソウルについで、アジアで三番目に開催される「北京」が、掲げられた夢や願い通りに行われ、目を見張るような輝かしいものとなり、無事故、無怪我で円滑に推移することを、心から願うものです。選手や大会関係者の上に、特に、この2週間の祝福を、心から願っております。『生きているって、こんなに素晴らしいことなんだね!』と、中国だけではなく、世界中で、感謝出来るように、「大きな平和」への大きな一歩であること願いつつ。


ことば



 上野駅にいると「東北弁」が聞こえ、新宿駅にいると「甲州弁」が聞こえてきました。どちらも出発着駅ですから、帰ろうとしている乗客にとって、乗り込んだ列車は、もう故郷になっているのでしょうか。標準語を話さねばならないという束縛から解かれて、お国言葉を話し出す自由があるにちがいありません。ここ福州の来て1年がたちました。ここには、「福州話(福州語)」と言う方言があります。普通話を学んでいる私たちには、類推することが100%できない方言で、まるで異言を聞いているようです。隣町には、「福清話(フウジンフワ」、南の方に行けば「闽南話(ミングナンフワ)」があるのです。福建省には、その他に数多くの方言があって「福州話」を話す方には、「闽南話」は外国語なのだそうです。それが30近く省の中国全体では、いくつの方言があることになるのでしょうか。

 私たちの友人は、大学の先生をしていますが、「普通話(ブウトングフワ)」で授業をされ、私たちと話すときにも標準語を話されます。もちろん日本語が流暢なのですが。この方が、長楽市という隣町の出身ですから、「福清話」を話すのです。聞いていますと、「普通話」よりも自由があるように感じられるのです。2種類の中国語を話し、英語も日本語も話せるのですから、この友人は相当な言語能力の持ち主だと言うことになります。その上に、博士号を持っておられるのです。上野の駅の「東北弁」は、聞きにくいのですが、じっと耳を済ませていますと少しは分かります。新宿の駅の「甲州弁」は、98%は分かります。ところが、ここでは皆目分からないままで方言を耳にしているのです。

 今住んでいるアパートが、大学の先生と退職された先生たちの住宅になっていますが、外で話をされているのを聞いていますと、普段の会話は、「福州話」ですから、皆目検討がつきません。彼らが、子どもたちと会話をしていますと、その時は標準語なのです。子どもの世代は、方言を使わないような指導がなされていますから、年配者との交わりは普通話が使われているのです。ですから私たちにも、その会話は意味が通じるのです(ある程度ですが)。単一言語の中で60年も過ごしてきた私たちには、まるで異次元の世界の出来事のようです。古来、国全体の意志の疎通はどうして、とって来たのでしょうか。用いる漢字が統一されてからは、文書を読むことによって意思の伝達や命令や布告がなされてきたことになります。それとても学問教育を受けて、読み書きを学んだことのある方だけのことになります。一般の民衆には、隣町の言葉が話せませんし、話す必要もさほど多くなかったのでしょう。かつては人の移動や交流は少なかったからです。



 そのような中で、19582月に「第一期全国人民代表大会」が開かれます。そこで、「ピンイン」と言う漢字の振り仮名の使用が批准されたのです。アルファベット文字による表記です。さらに、中国全国で「普通話(標準語)」による公教育が行われ始めたのです。それは画期的なことでした。「菜市場」と言うマーケットに行きますと、文字の読めない中年の方が、まだおいでです。十分に公教育が普及してない頃の世代のみなさんです。でも今の学生は、普通話で教育を受け、英語も必修ですから、中高生でも、実に流暢に話される方がおられます。でも20代の青年たちでも、多くの方は方言を話されるのです。それででしょうか、天津の語学学校にいたとき、『福建省にいる友人が勧めてくれたので、福州に行きます!』と言った私に、先生たちは異口同音に反対したのです。街中で交わされるの言葉が、方言であることを知っていたからです。『夏は暑いし、冬は「暖機(温水暖房設備)」がないから寒いですよ!』と付け加えました。実にそうでした。それで、こちらに来ましてからも、『いつ天津に帰って来ますか?』と、幾度となく帰ってくることを勧めるのです。彼女たちは天津人で、ほとんど北京話に近い背景にいますから、『標準語圏で学びなさい!』と勧めてくださるのです。

 ピンインのない時代、どこもかしこも方言の中、外国人は、どうされたのかが気になるこのごろです。そういった言語背景だったので、外国語、特に英語が、1つの共通語として求められたのかも知れません。英語が交じり、時々日本語が出てしまい、いくつかの「福州話」も使えるようになって、悪戦苦闘のこのごろです。子どもたちがアメリカに学んだ時、第二外国語をよく学んだものだと感心してしまいます。その国を愛するなら、その国の言語を学ばねばならないわけです。六十の手習いだって、『遅きに失した!』などとは言はないで、まだまだの学びの最中であります。

(写真は、台風一過の福州の青空で、左に大きなスーパーマーケットがあります。下は、街中の様子です)


2008年8月6日水曜日

『政治家の資質は、情熱、責任感、判断力である!』


 政治家になろうと思ったことはありませんでした。でも好きな政治家が一人いました。興味ある人と言ったほうがいいでしょうか。私は良し悪しの判断によってではなく、「闇将軍」と仇名された政治家・田中角栄が、とにかく好きでした。すでに彼の罪は裁かれ、鬼籍の人となっているのですから、人を裁けるほどの義人でない私は、彼に判決を下すことなど出来ません。良くも悪くも、二度と出てこない個性的な器でした。私の母と同世代でしたし、「ちょび髭」が似合っていて、真似をしたかったほどでしたし、『あの不逞ぶてしさがいい!』と、若い頃の私は思ったのです。

 子どもの頃から、浪花節が好きな私は、義理堅さや人情の細やかさを好んできた古い型の人間なのです。町に、旅芸人の一座がやって来て、神社の境内で小屋をかけて演じる芝居を、親の目を盗んでは何度見たことでしょうか。剣劇の鞘当ての音、カンテラの灯火、その灯を点すカーバイトの臭い、役者の塗るおしろいの臭いが、いまだに見えたり聞けたり匂ったりしてくるようです。こういった田舎芝居の主役でも悪役でも、角さんは似合ったのではないでしょうか。主人公に諭されて、涙ながらに罪を悔いてまともに立ち直って生きていくような悪役が、一番のお似合いだったかも知れませんが。


 長男が生まれた年に、54才で総理大臣に就任しました。900日ほどの就任期間だったでしょうか。「日本列島改造論」を著わして低かった教員の給与水準引き上げてくれました。「中日友好」のために、北京に乗り込んで、関係回復に大きく貢献したのです。立ち遅れていても大国・中国の指導者に伍して、卑屈でも驕ってもいませんでした。第一次オイルショックの時期に退任しています彼の何が好きなのかと言いますと、「人を大事にした人」だからです。それが選挙対策や戦術と言ってしまえば、それまでですが、とにかく利用出来ても出来なくても、人に対して優しかった人だったのです。高等小学校を終えて、15で上京した《苦労人の面白さ》こそが、彼の魅力ではないでしょうか。人が訪ねて来ると、玄関に出迎えて、しっかりと見送りをされた人だったようです。この方の紹介で、新潟県下の農業学校の校長をなさった方が、私の職場においででした。実に気さくで腰が低くスポーツと書を愛された方で、ずいぶん面倒を見ていただきました。


 選挙区から出て来た見も知らない老婦人に、声をかけては握手して、『だんなと苦労を共にして来たんだろう、今でも愛されているのかい?』と声をかけられる人だったのです。10数年前に、新潟に行きました時、ガススタンドの主人が、『何と言っても角栄先生が一番ですよ!』と、誇りを持って話されていたので、愛された政治家だったことになります。日本も中国も韓国も、素晴らしい指導者を得て、立ち遅れたアジア全域が、経済も世情も教育も、躍進し好転することを心から願います。



 さて、あの神社の境内の旅役者を思い出すと、「ギリギリ」のところで角さんの顔が二重写しになってしまうのです。マスコミにたたかれていたのを思い出すのですが、あれほどまで、徹底的に追い込まなくてもよかったのではないかと思うのです。そうではなく「逃れの路」を残すのが、武士の情けだと習ったのでしたが。

 この混迷の時代をゆだねられる、「世直し」のできる、夢に燃え、決断力にあふれ、力ある器の輩出を、心から願うのです。公明正大で私利私欲のない清廉潔白な方が、国の将来を憂えて出て来られることを切望するのです。幕末、明治維新を突き動かしたのは、3040代の世代でした。彼らに夢や幻や理想を提供した世代は、一歩も二歩も引いたところで、檜舞台の上の若者たちを見守っていたのです。60代が「若い世代」などと言わないで、肉体的にも精神的にも、ほとばしり出る「四十代の宰相」の誕生を願うのです。年寄りは、しがみ付いて来た席を譲って、高みの見物をされたらいいのです。もちろん事相談がある危急の時には、経験と知恵と英知を持って、助言をされたらいいのではないでしょうか。

 マックス・ヴェーバーは、『政治家の資質は、情熱、責任感、判断力である!』と言いました。そういえば、田中角栄が、自民党の幹事長になったのは、四十代でした。その年齢で「総理大臣」になっていたら、もっと長く政権をとられて、日本の明確な方向付けが出来たのではないかと、彼のフアンの私は思ってしまうのです。若くて夢を解き放つことの出来る指導者が、政界にも財界にも教育界にも出てくること、その夢をまず解き放ってみたいのであります。

(写真は、、総理大臣就任時の田中角栄、下の写真は、周恩来首相との会見のときのものです)

2008年8月5日火曜日

蚊と蟻との攻防



 何十年ぶりでしょうか、蚊帳をつりました。畳の上に布団を敷く日本とは違って、寝台で寝る習慣のある中国では、寝台用の蚊帳があるのです。中国映画などでご覧になったことがあるでしょうか 。知人が一張り下さいました。引越し先に、緑の樹木が多く、花壇や生垣があるのは、その反面で蚊が多いと言うことになります。大家さんの話ですと、『実は、ここは蚊の多いところなんです!』と言っておられましたが仰るとおりで、蚊に好かれる私には脅威でした。越してきました晩、案の定、今までの生涯の中で、一番蚊に悩まされた夜だったのです。子どもたちを連れて海水浴に行ったときに伊豆のキャンプ場に泊まりました。隣がゴミ置き場で、そこでも蚊に一晩中、襲われたことがありましたが、それをしのぐほどの蚊の攻勢でした。ウナを日本から持ち帰っていましたから、一晩中塗り通しでした。こちらの蚊は、日本のようにヤワではないのです。体格がとても大きく、刺すときも、チクリなどではなく、ブスッツと言う感じです。それで耐えられなかった私は、降参の手で蚊帳をとうとう吊ったのです。

 ほとんどの日本の家屋では、今では、窓がアルミサッシで、網戸がついています。ところが私たちの子ども時代には、網戸などありませんでした。蚊がいなかったのではないのです。衛生環境からすると、当時のほうが蚊には居心地がよかったに違いありません。それなのに、刺されて痒かった思い出がまったくないのです。栄養事情がよくなかったのでしょうか、まだ血がアルカリ性だったのでしょうか。それでも夕方になると、母が蚊取り線香を点していたのを覚えています。父の家は、冬場を除いて、窓も戸も玄関も開けっ放しでした。防犯の意識など皆無でした。男が四人、父を入れて五人でしたから、誰も押し入る者はいなかったのです。いえ、それは見当違いで、守られたに違いないのです。まあ当時は、どこの家も空けていましたし、錠を掛けることなどしなかったのです。廊下から家の中に上がっていく、自分の家だけではなく、隣の家でもなのです。そんな時代でした。



 

 夜になると みんなで大きな畳ほどある蚊帳を布団の上で開いて、その角を4人でもって、部屋いっぱいに吊ったものです。兄が蚊帳奉行(!?)だったでしょうか。パタパタと裾をはらって中にパッツと入るわけです。ただ子どもの頃の夏の夜は、暑かったように思い出すのですが。もちろんエアコンも冷風機も扇風機もなかったわけです。それでも日中の暑さに、閉口したことはありませんでした。多摩川で日柄泳ぎ、学校のプールにも入り、駅前の銭湯の初湯にも入ったりしましたし、西瓜もアイスキャンデーも美味しかったのです。じりじり照り付けられても今のように、『死ぬほど暑い!』と思いもしなかったのは、みんながそうだったからでしょうか。

 さて、とびっきりの福州の暑い夏も八月なりました、『体感温度が中国一暑い福州!』と、昨年、聞きましたから、先日帰国された友人からのメールに、『気になるのは8月の暑さです。私も去年は6週間帰国していましたので、体験しておりませんが、40度の世界だそうです。どうかくれぐれもお気をつけになられて、お元気でいてください。』とありました。蚊にさされることと同じように、わが生涯最多の発汗量を、今年は記録更新するに違いありません。帰国された知人がもう一人おいでですが、彼の出身地は旭川なのです。どんなに暑い日があっても、夜は涼しいに違いありません。北国も夏は羨ましい限りですが、『暑い夏には暑いなりに汗をたくさんかくのがいいのだ!』とさせて、ひとしきり我慢の子でいなければならないようです。

 ところが一昨日、起きましたら、左の大腿部にかまれた後が無数にあったのです。今度は蚊ではなく、どうも「蟻」の仕業でした。初めは痒くなかったのですが、じりじりと痒みがますのです。蚊帳は蟻の侵入を阻止できなかったかも知れません。蚊には蚊帳が有効ですが、ほかの虫には役立たずだと言うことが分かったのです。『攻撃は最大の防御!』と運動部で習いましたから、兵法の書でも読んで攻撃の作戦をしなければならないのです。ちょうど、書庫の中には、中国語の「孫子」があります。これに学ぶ必要が、どうもあるようです。先住の虫たちと戦いに明け暮れる、福州の眠られぬ夏の夜であります。

(写真はhttp://kenko-kaya.com/のHPからです)


2008年8月4日月曜日

人間を造る


 東京英学校、札幌農学校、東京大学などで学び、ドイツやアメリカにも留学し、後に東京女子大学の学長、女子経済専門学校(現・新渡戸文化学園・東京文化)の校長などを歴任した、元国際連盟事務次長・新渡戸稲造が、「教育の目的」と言う書物を著わしています。

 この書の中で、新渡戸は当時のアメリカの教育について、ドイツやフランスなどと比較しながら、次のように紹介しています。『・・・・アメリカは何の爲に大いに普通教育を盛んにして居るかと云ふと、すなわち良民をこしらへることが其目的である、法 を遵奉する民を造るのである。大工左官をさせたならばドイツ人に負けるかも知れぬ。大根を作り、薯を作らしたならば、アイルランドの百姓に及ばぬかも知れぬが、先 づ家の組織或は公益と云ふことを知り、大統領を選ぶ時きにも、村長を選ぶ時にも、必ず不正不潔な行爲をしてはならぬ、家の爲、一地方の爲だと云ふ大き な考を以て、投票する樣な民を養成したいと云ふのである。彼の料理屋で御馳走になつた御禮に投票するのとは、少し違ふやうだ ・・・』とです。

 新渡戸が言った大工左官の国・ドイツは、今日では世界の冠たる工業国に、酪農業の国・アイルランドも堅実な国家を形作っています。かえってアメリカは、低所得者層向けの住宅融資の問題が原因して経済的な困難な時期を迎え、以前のような大国ぶりにかげりを見せています。でも、教育と言った面からするなら、どこの国も見習うべきものを、新渡戸の時代のアメリカは確立していたことは事実であります。


 

 さて彼は、「教育の目的」には、次の5つがあるとします。『・・・即ち教育の目的とは、第一職業、第二道樂、第三裝飾、第四眞理研究、第五人格修養の五目に岐れるのであるが、之を煎じ詰めて云はゞ、教育とは人間の製造である』、そして、その「人間の製造法」は、3つの大別できると言うのです。その1つは、「左甚五郎式」です。『・・・甚五郎が美人の木像を刻んで、其の懷中に鏡を入れて置いたら、其の美人が動き出したの で、甚五郎は大に悦び、我が魂が此の木像に這入つたのだと、尚も其の美人を踊らして自ら樂しんだと云ふことは、芝居や踊にある。之は自分の娯樂の爲に人間 を造るのである 』、2つは、イギリスのシエレーと云ふ婦人の著はした、「フラン ケンスタイン」と云ふ小説にある話 からで「フランケンスタイン(式」です。『・・・或醫學生が墓場へ行つて、骨や肉を拾ひ集め、又た解剖室から血液を取り來り、此等を組 合せて一個の人間を造つた。併しそれでは只だ死骸同然で動かない。それに電氣を仕掛けたら動き出した。固より腦膸も入れたのであるから、人間としての思想 がある。こちらから談話を仕掛けると、哲學の話でも學術の話でもする。されど只だ一つ困つたことには、電氣で働くものに過ぎぬので、人間に最も大切なる情 愛と云ふものがない、所謂人情が無い。それが爲に其の人間は甚だしく之が欠乏を感じ、『お前が私を拵へたのは宜い、併し是ほどの巧妙な腦膸を與へ、是ほど 完全なる身體を造つたにも拘はらず、何故肝腎の人情を入れて呉れなかつた』と云つて、大いに怨言を放ち、其の醫學生に憑り付くと云ふ隨分ゾツトする小説で ある。此の寓意小説は只だ理窟ばかりを詰込んで、少しも人間の柔かい所の無い、温い情の無い、少しも人格の養成などをし無い所の教育法を責めるものであ る。かのカーライルは、『學者は論理學を刻み出す器械だ』と罵つたが、實に其通りである。たゞ論理ばかりを吹込んで、人間として最も重んずる所の、温い情 と、高き人格とを養成しなかつたならば、如何にも論理學を刻み出す器械に相違ない。さう云ふ教育法を施すと、教育された人が成長の後に、何故おれ見たやう な者を造つたかと、教師に向つて小言を云ひ、先生を先生とも思はぬやうになり、延いては社會を敵視するに至る。故にかゝる教育法は、即ち先生を敵と思へと 教ふるに等しいものである 」、3つは、ゲーテの著はしたフアウスト」から「ファウスト(式)」です。『・・・此戯曲の中に、フアウストなる大學者が老年に及び、人生の趣味を悉く味つた所で、一つ己れの理想とする人 間を造つて見たいと思ひ、終に『ホムンキルス』と云ふ一個の小さい人間を造つた話がある。其の人間は徳利の中に這入つて居るので、其の徳利の中から之を取 出して見ると、種々の事を演説したり、議論したりする。而してフアウストは自分で深く味ひ來つて、人間に最も必要なるものと認めたる温き情愛をも、其の 『ホムンキルス』の胸の中に吹込んだのである。そこで其の『ホムンキルス』は能く人情を解し、遖れ人間の龜鑑とすべき言行をするので、之を見る人毎に讚歎 して措かず、又た之を造つたるフアウストも、自分よりも遙かに高尚な人間が出來たことを非常に感じ、且つ悦んだと云ふことである。之は出藍の譽ある者が出 來たので、即ち教育家其人よりも立派な者が作られたことの寓説である 』と言うのです。


 

 新渡戸は、その最後のところで、日本教育は、いったいどうなのかを述べています。『・・・今日我國に於て、育英の任に當る教育家は、果して如何なる人間を造らんとして居るか。予は教育の目的を五目に分けたけれども、人間を造る大體の方法とし ては、今云ふた三種の内の孰れかを取らねばならぬ。彼等は第一の左甚五郎の如く、たゞ唯々諾々として己れを造つた人間に弄ばれ、其人の娯樂の爲に動くやう な人間を造るのであらうか。或は第二の『フランケンスタイン』の如く、たゞ理窟ばかりを知つた、利己主義の我利々々亡者で、親爺の手にも、先生の手にも合 はぬやうなものを造り、却つて自分が其者より恨まれる如き人間を養成するのであらうか。將た又た第三のフアウストの如く、自分よりも一層優れて、且つ高尚 なる人物を造り、世人よりも尊敬を拂はれ、又た之を造つた人自身が敬服するやうな人間を造るのであらうか。此の三者中孰れを選ぶべきかは、敢て討究を要す まい。而して此等の點に深く思慮を錬つたならば、教育の目的、學問の目的はどれまで進んで行くべきか、我々は其目的を何所まで進ませねばならぬかと云ふこ とも自から明瞭になるであらうと思ふ』とまとめているのです。

 いったい、今日の教育は、どのような人を造ろうとしているのでしょうか。戦後教育がさまざまに論じられていますし、「教育基本法」も改定され、それに伴って、「学習指導要領」も帰れれて着ています。「ゆとり教育」を始めたら、学習能力が諸外国に比べて格段に下がってしまう結果が出て、また改められようとしています。「絶対の価値」を持たないことが、定まらない原因に違いありません。私の愛読書に、「あなたは高価で尊い」と記してあります。「高価」とは、ダイヤモンドよりも金よりも価値があり、地球よりも重い存在だと言うのです。また「尊い」とは、大統領よりも総理大臣よりもオリンピック実行委員長よりも、「名誉ある存在」だと言う意味なのです。学習障害児で、病欠が多く、短気だった私のような者が、名のない「私の先生方」の励ましによって、高校の教師までさせていただいたのです。だめな点にだけではなく、かすかな輝きを見つけ出して下さって、伸ばしてくれた彼らの地道な教育に、心から感謝したいのです。最後に1つのお話を。『子は鎹(かすがい)』と言う言葉を聞いて、『子はカスがいい!」と信じ込んでしまったお母さんがいました。大統領にもなれないし、ダイヤモンドのように耀いてもいない、そんなカスのようなわが子の価値を認めて、このお母さんは地道に忍耐し、信じて立派に育て上げたのです。これって、最高の教育ですよね。

(写真は、旧・五千円札の肖像、新渡戸稲造、夫人と共に写した写真)


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自己紹介

 次男に勧められて始めた「ブログ」ですが、2007年7月から1年間休刊しました。その間、他の「ブログ」を開設したのですが、2008年7月に、名前を変えて再開しました。  父として子どもたちに、爺として孫たちに、また母や兄弟や友人たちにも、何かを語り残したいと願って、続けています。