2008年8月8日金曜日

ことば



 上野駅にいると「東北弁」が聞こえ、新宿駅にいると「甲州弁」が聞こえてきました。どちらも出発着駅ですから、帰ろうとしている乗客にとって、乗り込んだ列車は、もう故郷になっているのでしょうか。標準語を話さねばならないという束縛から解かれて、お国言葉を話し出す自由があるにちがいありません。ここ福州の来て1年がたちました。ここには、「福州話(福州語)」と言う方言があります。普通話を学んでいる私たちには、類推することが100%できない方言で、まるで異言を聞いているようです。隣町には、「福清話(フウジンフワ」、南の方に行けば「闽南話(ミングナンフワ)」があるのです。福建省には、その他に数多くの方言があって「福州話」を話す方には、「闽南話」は外国語なのだそうです。それが30近く省の中国全体では、いくつの方言があることになるのでしょうか。

 私たちの友人は、大学の先生をしていますが、「普通話(ブウトングフワ)」で授業をされ、私たちと話すときにも標準語を話されます。もちろん日本語が流暢なのですが。この方が、長楽市という隣町の出身ですから、「福清話」を話すのです。聞いていますと、「普通話」よりも自由があるように感じられるのです。2種類の中国語を話し、英語も日本語も話せるのですから、この友人は相当な言語能力の持ち主だと言うことになります。その上に、博士号を持っておられるのです。上野の駅の「東北弁」は、聞きにくいのですが、じっと耳を済ませていますと少しは分かります。新宿の駅の「甲州弁」は、98%は分かります。ところが、ここでは皆目分からないままで方言を耳にしているのです。

 今住んでいるアパートが、大学の先生と退職された先生たちの住宅になっていますが、外で話をされているのを聞いていますと、普段の会話は、「福州話」ですから、皆目検討がつきません。彼らが、子どもたちと会話をしていますと、その時は標準語なのです。子どもの世代は、方言を使わないような指導がなされていますから、年配者との交わりは普通話が使われているのです。ですから私たちにも、その会話は意味が通じるのです(ある程度ですが)。単一言語の中で60年も過ごしてきた私たちには、まるで異次元の世界の出来事のようです。古来、国全体の意志の疎通はどうして、とって来たのでしょうか。用いる漢字が統一されてからは、文書を読むことによって意思の伝達や命令や布告がなされてきたことになります。それとても学問教育を受けて、読み書きを学んだことのある方だけのことになります。一般の民衆には、隣町の言葉が話せませんし、話す必要もさほど多くなかったのでしょう。かつては人の移動や交流は少なかったからです。



 そのような中で、19582月に「第一期全国人民代表大会」が開かれます。そこで、「ピンイン」と言う漢字の振り仮名の使用が批准されたのです。アルファベット文字による表記です。さらに、中国全国で「普通話(標準語)」による公教育が行われ始めたのです。それは画期的なことでした。「菜市場」と言うマーケットに行きますと、文字の読めない中年の方が、まだおいでです。十分に公教育が普及してない頃の世代のみなさんです。でも今の学生は、普通話で教育を受け、英語も必修ですから、中高生でも、実に流暢に話される方がおられます。でも20代の青年たちでも、多くの方は方言を話されるのです。それででしょうか、天津の語学学校にいたとき、『福建省にいる友人が勧めてくれたので、福州に行きます!』と言った私に、先生たちは異口同音に反対したのです。街中で交わされるの言葉が、方言であることを知っていたからです。『夏は暑いし、冬は「暖機(温水暖房設備)」がないから寒いですよ!』と付け加えました。実にそうでした。それで、こちらに来ましてからも、『いつ天津に帰って来ますか?』と、幾度となく帰ってくることを勧めるのです。彼女たちは天津人で、ほとんど北京話に近い背景にいますから、『標準語圏で学びなさい!』と勧めてくださるのです。

 ピンインのない時代、どこもかしこも方言の中、外国人は、どうされたのかが気になるこのごろです。そういった言語背景だったので、外国語、特に英語が、1つの共通語として求められたのかも知れません。英語が交じり、時々日本語が出てしまい、いくつかの「福州話」も使えるようになって、悪戦苦闘のこのごろです。子どもたちがアメリカに学んだ時、第二外国語をよく学んだものだと感心してしまいます。その国を愛するなら、その国の言語を学ばねばならないわけです。六十の手習いだって、『遅きに失した!』などとは言はないで、まだまだの学びの最中であります。

(写真は、台風一過の福州の青空で、左に大きなスーパーマーケットがあります。下は、街中の様子です)


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自己紹介

 次男に勧められて始めた「ブログ」ですが、2007年7月から1年間休刊しました。その間、他の「ブログ」を開設したのですが、2008年7月に、名前を変えて再開しました。  父として子どもたちに、爺として孫たちに、また母や兄弟や友人たちにも、何かを語り残したいと願って、続けています。