2008年8月6日水曜日

『政治家の資質は、情熱、責任感、判断力である!』


 政治家になろうと思ったことはありませんでした。でも好きな政治家が一人いました。興味ある人と言ったほうがいいでしょうか。私は良し悪しの判断によってではなく、「闇将軍」と仇名された政治家・田中角栄が、とにかく好きでした。すでに彼の罪は裁かれ、鬼籍の人となっているのですから、人を裁けるほどの義人でない私は、彼に判決を下すことなど出来ません。良くも悪くも、二度と出てこない個性的な器でした。私の母と同世代でしたし、「ちょび髭」が似合っていて、真似をしたかったほどでしたし、『あの不逞ぶてしさがいい!』と、若い頃の私は思ったのです。

 子どもの頃から、浪花節が好きな私は、義理堅さや人情の細やかさを好んできた古い型の人間なのです。町に、旅芸人の一座がやって来て、神社の境内で小屋をかけて演じる芝居を、親の目を盗んでは何度見たことでしょうか。剣劇の鞘当ての音、カンテラの灯火、その灯を点すカーバイトの臭い、役者の塗るおしろいの臭いが、いまだに見えたり聞けたり匂ったりしてくるようです。こういった田舎芝居の主役でも悪役でも、角さんは似合ったのではないでしょうか。主人公に諭されて、涙ながらに罪を悔いてまともに立ち直って生きていくような悪役が、一番のお似合いだったかも知れませんが。


 長男が生まれた年に、54才で総理大臣に就任しました。900日ほどの就任期間だったでしょうか。「日本列島改造論」を著わして低かった教員の給与水準引き上げてくれました。「中日友好」のために、北京に乗り込んで、関係回復に大きく貢献したのです。立ち遅れていても大国・中国の指導者に伍して、卑屈でも驕ってもいませんでした。第一次オイルショックの時期に退任しています彼の何が好きなのかと言いますと、「人を大事にした人」だからです。それが選挙対策や戦術と言ってしまえば、それまでですが、とにかく利用出来ても出来なくても、人に対して優しかった人だったのです。高等小学校を終えて、15で上京した《苦労人の面白さ》こそが、彼の魅力ではないでしょうか。人が訪ねて来ると、玄関に出迎えて、しっかりと見送りをされた人だったようです。この方の紹介で、新潟県下の農業学校の校長をなさった方が、私の職場においででした。実に気さくで腰が低くスポーツと書を愛された方で、ずいぶん面倒を見ていただきました。


 選挙区から出て来た見も知らない老婦人に、声をかけては握手して、『だんなと苦労を共にして来たんだろう、今でも愛されているのかい?』と声をかけられる人だったのです。10数年前に、新潟に行きました時、ガススタンドの主人が、『何と言っても角栄先生が一番ですよ!』と、誇りを持って話されていたので、愛された政治家だったことになります。日本も中国も韓国も、素晴らしい指導者を得て、立ち遅れたアジア全域が、経済も世情も教育も、躍進し好転することを心から願います。



 さて、あの神社の境内の旅役者を思い出すと、「ギリギリ」のところで角さんの顔が二重写しになってしまうのです。マスコミにたたかれていたのを思い出すのですが、あれほどまで、徹底的に追い込まなくてもよかったのではないかと思うのです。そうではなく「逃れの路」を残すのが、武士の情けだと習ったのでしたが。

 この混迷の時代をゆだねられる、「世直し」のできる、夢に燃え、決断力にあふれ、力ある器の輩出を、心から願うのです。公明正大で私利私欲のない清廉潔白な方が、国の将来を憂えて出て来られることを切望するのです。幕末、明治維新を突き動かしたのは、3040代の世代でした。彼らに夢や幻や理想を提供した世代は、一歩も二歩も引いたところで、檜舞台の上の若者たちを見守っていたのです。60代が「若い世代」などと言わないで、肉体的にも精神的にも、ほとばしり出る「四十代の宰相」の誕生を願うのです。年寄りは、しがみ付いて来た席を譲って、高みの見物をされたらいいのです。もちろん事相談がある危急の時には、経験と知恵と英知を持って、助言をされたらいいのではないでしょうか。

 マックス・ヴェーバーは、『政治家の資質は、情熱、責任感、判断力である!』と言いました。そういえば、田中角栄が、自民党の幹事長になったのは、四十代でした。その年齢で「総理大臣」になっていたら、もっと長く政権をとられて、日本の明確な方向付けが出来たのではないかと、彼のフアンの私は思ってしまうのです。若くて夢を解き放つことの出来る指導者が、政界にも財界にも教育界にも出てくること、その夢をまず解き放ってみたいのであります。

(写真は、、総理大臣就任時の田中角栄、下の写真は、周恩来首相との会見のときのものです)

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自己紹介

 次男に勧められて始めた「ブログ」ですが、2007年7月から1年間休刊しました。その間、他の「ブログ」を開設したのですが、2008年7月に、名前を変えて再開しました。  父として子どもたちに、爺として孫たちに、また母や兄弟や友人たちにも、何かを語り残したいと願って、続けています。