『政治家の資質は、情熱、責任感、判断力である!』
政治家になろうと思ったことはありませんでした。でも好きな政治家が一人いました。興味ある人と言ったほうがいいでしょうか。私は良し悪しの判断によってではなく、「闇将軍」と仇名された政治家・田中角栄が、とにかく好きでした。すでに彼の罪は裁かれ、鬼籍の人となっているのですから、人を裁けるほどの義人でない私は、彼に判決を下すことなど出来ません。良くも悪くも、二度と出てこない個性的な器でした。私の母と同世代でしたし、「ちょび髭」が似合っていて、真似をしたかったほどでしたし、『あの不逞ぶてしさがいい!』と、若い頃の私は思ったのです。
子どもの頃から、浪花節が好きな私は、義理堅さや人情の細やかさを好んできた古い型の人間なのです。町に、旅芸人の一座がやって来て、神社の境内で小屋をかけて演じる芝居を、親の目を盗んでは何度見たことでしょうか。剣劇の鞘当ての音、カンテラの灯火、その灯を点すカーバイトの臭い、役者の塗るおしろいの臭いが、いまだに見えたり聞けたり匂ったりしてくるようです。こういった田舎芝居の主役でも悪役でも、角さんは似合ったのではないでしょうか。主人公に諭されて、涙ながらに罪を悔いて、まともに立ち直って生きていくような悪役が、一番のお似合いだったかも知れませんが。
長男が生まれた年に、54才で総理大臣に就任しました。900日ほどの就任期間だったでしょうか。「日本列島改造論」を著わして、低かった教員の給与水準を引き上げてくれました。「中日友好」のために、北京に乗り込んで、関係回復に大きく貢献したのです。立ち遅れていても大国・中国の指導者に伍して、卑屈でも驕ってもいませんでした。第一次オイルショックの時期に退任しています。彼の何が好きなのかと言いますと、「人を大事にした人」だからです。それが選挙対策や戦術と言ってしまえば、それまでですが、とにかく利用出来ても出来なくても、人に対して優しかった人だったのです。高等小学校を終えて、15で上京した《苦労人の面白さ》こそが、彼の魅力ではないでしょうか。人が訪ねて来ると、玄関に出迎えて、しっかりと見送りをされた人だったようです。この方の紹介で、新潟県下の農業学校の校長をなさった方が、私の職場においででした。実に気さくで腰が低くスポーツと書を愛された方で、ずいぶん面倒を見ていただきました。
選挙区から出て来た見も知らない老婦人に、声をかけては握手して、『だんなと苦労を共にして来たんだろう、今でも愛されているのかい?』と声をかけられる人だったのです。10数年前に、新潟に行きました時、ガススタンドの主人が、『何と言っても角栄先生が一番ですよ!』と、誇りを持って話されていたので、愛された政治家だったことになります。日本も中国も韓国も、素晴らしい指導者を得て、立ち遅れたアジア全域が、経済も世情も教育も、躍進し好転することを心から願います。
さて、あの神社の境内の旅役者を思い出すと、「ギリギリ」のところで角さんの顔が二重写しになってしまうのです。マスコミにたたかれていたのを思い出すのですが、あれほどまで、徹底的に追い込まなくてもよかったのではないかと思うのです。そうではなく「逃れの路」を残すのが、武士の情けだと習ったのでしたが。
この混迷の時代をゆだねられる、「世直し」のできる、夢に燃え、決断力にあふれ、力ある器の輩出を、心から願うのです。公明正大で私利私欲のない清廉潔白な方が、国の将来を憂えて出て来られることを切望するのです。幕末、明治維新を突き動かしたのは、30代40代の世代でした。彼らに夢や幻や理想を提供した世代は、一歩も二歩も引いたところで、檜舞台の上の若者たちを見守っていたのです。60代が「若い世代」などと言わないで、肉体的にも精神的にも、ほとばしり出る「四十代の宰相」の誕生を願うのです。年寄りは、しがみ付いて来た席を譲って、高みの見物をされたらいいのです。もちろん事相談がある危急の時には、経験と知恵と英知を持って、助言をされたらいいのではないでしょうか。
マックス・ヴェーバーは、『政治家の資質は、情熱、責任感、判断力である!』と言いました。そういえば、田中角栄が、自民党の幹事長になったのは、四十代でした。その年齢で「総理大臣」になっていたら、もっと長く政権をとられて、日本の明確な方向付けが出来たのではないかと、彼のフアンの私は思ってしまうのです。若くて夢を解き放つことの出来る指導者が、政界にも財界にも教育界にも出てくること、その夢をまず解き放ってみたいのであります。
(写真は、、総理大臣就任時の田中角栄、下の写真は、周恩来首相との会見のときのものです)
0 件のコメント:
コメントを投稿