2008年8月22日金曜日

幾夏を越えて


 台風接近の海で泳いだことのある方は、よくご存知だと思いますが、寄せてくる波が引いて行く時の強さは想像できないほどの強さなのです。その引き潮が強くて浜に戻ろうとするのですが、足元の砂をさらってしまいます。どんなにしても波の引いて行く力のほうが勝っているのです。湯河原の吉浜海岸で、『もう駄目かな!』と、死を覚悟したことがありました。引くだけではなく波の中に、どんでん返しにひっくり返されたからです。アップアップしていたときに、不思議な波にのせてもらって、スーッと浜に持ってってもらって、九死に一生を得ことがありました。16のでした。怖さ知らずで、遊泳禁止の海に飛び込んだのです。ああいった恐怖を何度か経験して、人間の脆さを知らされてきました。ところで、の寸前で押し戻してくれたあの「波」は何だったのでしょうか。


 

 私の二つ違いの弟が、自分の母校で、長く体育教師をして来ています。もう20年以上前になりますが、生徒と卒業生を引率して、千葉の海岸近くで合宿をしていました。合宿の中休みだったのでしょうか、その彼らを連れて、海岸の波打ち際で遊んでいたところ、折からの台風の影響で、大きな波に3人がさらわれてしまったのです。とっさに彼は海に飛び込んで、一人を連れ戻しました。この様子を見ていた漁師さんたちからは、二重遭難の危険性があるから、どんなに必要や責任を感じても、『二度と再び海に入ってはいけない!』と制止されたのですが、その手を振り切って、ヤットのことで二人目を救出したのです。教師の責任感からの行動だったに違いありません。『もう一人!』と願ったのですが、体力の限界と、猟師たちに羽交い絞めにされて阻止されて、泣き喚きながら海に入ろうとしたのですが、やめざるをえませんでした。結局、もう一人を救出することが出来なかったのです。その晩、彼は広い浜を行ったりきたりして、教え子の安否を気遣ったのですが、徒労でした。翌日、事故のあった浜から、かなり離れた浜に、教え子が亡くなって打ち上げられていたのです。それ以来、この事故の責任を感じたのでしょうか、期するするところあって、ヒゲを生やし始めたのです。いまだに、そのままですが、最近はだいぶ白いものが目立ってきております。




 あの事故の後、毎年夏になると、彼はあの浜に出かけて行っていました。信条上、供養のためではなく、二度と起きて欲しくないとの願いを込めて、思いを新たにし忘れないように訪ねていたのだと思います。今でも続けているのでしょうか。引率教師としては、実につらい断腸の思いの経験だったようです。大学で教える機会も何度もありましたが、彼は頑なに東京都下にある幼稚部から帰国子女コースまである、いわゆる一環校、しかも母校に拘泥してきているのです。実は、あの海難事故ですが、二番目の生徒を救出したとき、疲労困憊の極みにあった彼には、生徒を引いて浜に戻る体力は尽き果てていました。気力だけの行動だったようです。しかし、そんな彼と生徒のために、1つの大きな波が二人を、スーッと岸辺にまで運んでくれたのだそうです。あり得ないことだったのです。海の中には、地上の道路のような潮の流れがあって、「みを」とも呼ばれているそうです。それに入ったら、どんなに巧みな水泳の指導員でも練達した漁師でも、脱出は不可能なのだそうです。そんな危険な海、しかも台風接近の悪条件下で、奇跡的に助けられたのです。死の瀬戸際で、彼と生徒のための、天からの助けだとしか考えられません。そういったことって、あるのですね。その彼が、今は母校の管理職になっています。

 人生には、思いもしなかったことが起こります。その起きたことに適切に対処し、責任ある行動をとることが求められるのです。そう行為する時に、想像を絶した神秘的な援助があることになります。夏は楽しかった思い出も、辛かった思い出も数多くあります。幾夏を越えて、私の弟は、この2008年の行く夏を、どのような思いで見送っているのでしょうか。人生短し!

(写真は、「太平洋の日の出」http://www.greenspace.info/diary/2007/04/post_40.htmlから、下は、アジアの中の「海洋国家」日本です)

追記(8月30日)・・・このブログを読んだ弟から返事がありました。水難事故は、33年前の8月30日だったそうです。今でも千葉県・白子海岸に、毎年出かけているとのことです。今日は、その8月30日、彼にとっては、いまだに忘れられない日のようです。


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自己紹介

 次男に勧められて始めた「ブログ」ですが、2007年7月から1年間休刊しました。その間、他の「ブログ」を開設したのですが、2008年7月に、名前を変えて再開しました。  父として子どもたちに、爺として孫たちに、また母や兄弟や友人たちにも、何かを語り残したいと願って、続けています。