2008年8月4日月曜日

人間を造る


 東京英学校、札幌農学校、東京大学などで学び、ドイツやアメリカにも留学し、後に東京女子大学の学長、女子経済専門学校(現・新渡戸文化学園・東京文化)の校長などを歴任した、元国際連盟事務次長・新渡戸稲造が、「教育の目的」と言う書物を著わしています。

 この書の中で、新渡戸は当時のアメリカの教育について、ドイツやフランスなどと比較しながら、次のように紹介しています。『・・・・アメリカは何の爲に大いに普通教育を盛んにして居るかと云ふと、すなわち良民をこしらへることが其目的である、法 を遵奉する民を造るのである。大工左官をさせたならばドイツ人に負けるかも知れぬ。大根を作り、薯を作らしたならば、アイルランドの百姓に及ばぬかも知れぬが、先 づ家の組織或は公益と云ふことを知り、大統領を選ぶ時きにも、村長を選ぶ時にも、必ず不正不潔な行爲をしてはならぬ、家の爲、一地方の爲だと云ふ大き な考を以て、投票する樣な民を養成したいと云ふのである。彼の料理屋で御馳走になつた御禮に投票するのとは、少し違ふやうだ ・・・』とです。

 新渡戸が言った大工左官の国・ドイツは、今日では世界の冠たる工業国に、酪農業の国・アイルランドも堅実な国家を形作っています。かえってアメリカは、低所得者層向けの住宅融資の問題が原因して経済的な困難な時期を迎え、以前のような大国ぶりにかげりを見せています。でも、教育と言った面からするなら、どこの国も見習うべきものを、新渡戸の時代のアメリカは確立していたことは事実であります。


 

 さて彼は、「教育の目的」には、次の5つがあるとします。『・・・即ち教育の目的とは、第一職業、第二道樂、第三裝飾、第四眞理研究、第五人格修養の五目に岐れるのであるが、之を煎じ詰めて云はゞ、教育とは人間の製造である』、そして、その「人間の製造法」は、3つの大別できると言うのです。その1つは、「左甚五郎式」です。『・・・甚五郎が美人の木像を刻んで、其の懷中に鏡を入れて置いたら、其の美人が動き出したの で、甚五郎は大に悦び、我が魂が此の木像に這入つたのだと、尚も其の美人を踊らして自ら樂しんだと云ふことは、芝居や踊にある。之は自分の娯樂の爲に人間 を造るのである 』、2つは、イギリスのシエレーと云ふ婦人の著はした、「フラン ケンスタイン」と云ふ小説にある話 からで「フランケンスタイン(式」です。『・・・或醫學生が墓場へ行つて、骨や肉を拾ひ集め、又た解剖室から血液を取り來り、此等を組 合せて一個の人間を造つた。併しそれでは只だ死骸同然で動かない。それに電氣を仕掛けたら動き出した。固より腦膸も入れたのであるから、人間としての思想 がある。こちらから談話を仕掛けると、哲學の話でも學術の話でもする。されど只だ一つ困つたことには、電氣で働くものに過ぎぬので、人間に最も大切なる情 愛と云ふものがない、所謂人情が無い。それが爲に其の人間は甚だしく之が欠乏を感じ、『お前が私を拵へたのは宜い、併し是ほどの巧妙な腦膸を與へ、是ほど 完全なる身體を造つたにも拘はらず、何故肝腎の人情を入れて呉れなかつた』と云つて、大いに怨言を放ち、其の醫學生に憑り付くと云ふ隨分ゾツトする小説で ある。此の寓意小説は只だ理窟ばかりを詰込んで、少しも人間の柔かい所の無い、温い情の無い、少しも人格の養成などをし無い所の教育法を責めるものであ る。かのカーライルは、『學者は論理學を刻み出す器械だ』と罵つたが、實に其通りである。たゞ論理ばかりを吹込んで、人間として最も重んずる所の、温い情 と、高き人格とを養成しなかつたならば、如何にも論理學を刻み出す器械に相違ない。さう云ふ教育法を施すと、教育された人が成長の後に、何故おれ見たやう な者を造つたかと、教師に向つて小言を云ひ、先生を先生とも思はぬやうになり、延いては社會を敵視するに至る。故にかゝる教育法は、即ち先生を敵と思へと 教ふるに等しいものである 」、3つは、ゲーテの著はしたフアウスト」から「ファウスト(式)」です。『・・・此戯曲の中に、フアウストなる大學者が老年に及び、人生の趣味を悉く味つた所で、一つ己れの理想とする人 間を造つて見たいと思ひ、終に『ホムンキルス』と云ふ一個の小さい人間を造つた話がある。其の人間は徳利の中に這入つて居るので、其の徳利の中から之を取 出して見ると、種々の事を演説したり、議論したりする。而してフアウストは自分で深く味ひ來つて、人間に最も必要なるものと認めたる温き情愛をも、其の 『ホムンキルス』の胸の中に吹込んだのである。そこで其の『ホムンキルス』は能く人情を解し、遖れ人間の龜鑑とすべき言行をするので、之を見る人毎に讚歎 して措かず、又た之を造つたるフアウストも、自分よりも遙かに高尚な人間が出來たことを非常に感じ、且つ悦んだと云ふことである。之は出藍の譽ある者が出 來たので、即ち教育家其人よりも立派な者が作られたことの寓説である 』と言うのです。


 

 新渡戸は、その最後のところで、日本教育は、いったいどうなのかを述べています。『・・・今日我國に於て、育英の任に當る教育家は、果して如何なる人間を造らんとして居るか。予は教育の目的を五目に分けたけれども、人間を造る大體の方法とし ては、今云ふた三種の内の孰れかを取らねばならぬ。彼等は第一の左甚五郎の如く、たゞ唯々諾々として己れを造つた人間に弄ばれ、其人の娯樂の爲に動くやう な人間を造るのであらうか。或は第二の『フランケンスタイン』の如く、たゞ理窟ばかりを知つた、利己主義の我利々々亡者で、親爺の手にも、先生の手にも合 はぬやうなものを造り、却つて自分が其者より恨まれる如き人間を養成するのであらうか。將た又た第三のフアウストの如く、自分よりも一層優れて、且つ高尚 なる人物を造り、世人よりも尊敬を拂はれ、又た之を造つた人自身が敬服するやうな人間を造るのであらうか。此の三者中孰れを選ぶべきかは、敢て討究を要す まい。而して此等の點に深く思慮を錬つたならば、教育の目的、學問の目的はどれまで進んで行くべきか、我々は其目的を何所まで進ませねばならぬかと云ふこ とも自から明瞭になるであらうと思ふ』とまとめているのです。

 いったい、今日の教育は、どのような人を造ろうとしているのでしょうか。戦後教育がさまざまに論じられていますし、「教育基本法」も改定され、それに伴って、「学習指導要領」も帰れれて着ています。「ゆとり教育」を始めたら、学習能力が諸外国に比べて格段に下がってしまう結果が出て、また改められようとしています。「絶対の価値」を持たないことが、定まらない原因に違いありません。私の愛読書に、「あなたは高価で尊い」と記してあります。「高価」とは、ダイヤモンドよりも金よりも価値があり、地球よりも重い存在だと言うのです。また「尊い」とは、大統領よりも総理大臣よりもオリンピック実行委員長よりも、「名誉ある存在」だと言う意味なのです。学習障害児で、病欠が多く、短気だった私のような者が、名のない「私の先生方」の励ましによって、高校の教師までさせていただいたのです。だめな点にだけではなく、かすかな輝きを見つけ出して下さって、伸ばしてくれた彼らの地道な教育に、心から感謝したいのです。最後に1つのお話を。『子は鎹(かすがい)』と言う言葉を聞いて、『子はカスがいい!」と信じ込んでしまったお母さんがいました。大統領にもなれないし、ダイヤモンドのように耀いてもいない、そんなカスのようなわが子の価値を認めて、このお母さんは地道に忍耐し、信じて立派に育て上げたのです。これって、最高の教育ですよね。

(写真は、旧・五千円札の肖像、新渡戸稲造、夫人と共に写した写真)


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自己紹介

 次男に勧められて始めた「ブログ」ですが、2007年7月から1年間休刊しました。その間、他の「ブログ」を開設したのですが、2008年7月に、名前を変えて再開しました。  父として子どもたちに、爺として孫たちに、また母や兄弟や友人たちにも、何かを語り残したいと願って、続けています。