2008年12月31日水曜日

『人間(じんかん)到るところ青山あり!』



 長野県と山梨県の県境に、「中部国立公園」に指定されている南アルプスがあります。これを山梨県芦安の「夜叉神峠」から眺めますと、実に綺麗な山並みが目の前に広がっているのです。何時でしたか、友人たちと温泉につかりながら、旧交を温めておりましたときに、『景色の綺麗なところがあるんだけど!』との私の提案で、この峠に登ったことがありました。意外と急峻で、革靴で登り始めた友人が、途中であきらめようとしましたら、『もう少しですよ。峠に上がったら景色が素晴らしいから、続けてください!』と登山帰りの方に勧められて、励まし合いながら登ったのです。やはり、あの方の言れたように、友人は、息を飲むような景観を、しばし時を忘れたように眺めていました。この南アルプスは、小学校の社会科で学習したときは、「明石山脈」と呼ばれていたのですが、何時からか、ヨーロッパ・アルプスに倣って、カタカナ読みの山になってしまったようです。この明石山脈の北の端にある「甲斐駒」が、ひときわ高くそびえていて、私たち家族は、この山の頂を遠望しながら、35年の歳月を過ごしたのです。




 この南アルプスの西側に、「駒ヶ根」いう町があります。そこは、最も気に入った街なのです。34、662人(19年統計)ほどの街ですが、空気が綺麗ですし、食べ物も美味しいし、人情もきめ細やかで、もう何年も前から、「終の棲家」にしたい思いに駆られているのです。杉本市長が、市のホームページで、『駒ヶ根市は、長野県南部・伊那谷のほぼ中央にあり、西に中央アルプス、東に南アルプスの雄姿を望む「ふたつのアルプスが映えるまち」です。世界に誇れる中央アルプスロープウエーと駒ヶ根高原、早太郎温泉、青年海外協力隊訓練所、長野県看護大学などがあり、多くの人々が訪れるまちです。自然豊かな信州駒ヶ根へ一度お越しください』と紹介しておいでです。果たして、この街に住むことが出来るでしょうか。




 金峰山の奥深い渓谷で生まれてから、ここ福州の今の家に至るまで、19回も引越しをしてきました。決して飽きっぽいからではないと思っているのですが、《寄留者然》として、これまで生きてきたことになります。それぞれの村や街に思い出がこめられていますが、さて20回目の引越し先は、いったい、どこになるのでしょうか。この先、「駒ヶ根」への引越しは実現できるのでしょうか。何度も死線を越えて来た私ですが、もしかしたら、足腰が弱くなってしまって、4人の子どもたちの誰かのところで世話になるのではないかなと、弱気に思ってしまうこともあるのですが。それでも、まだまだ健康が支えられていて、車を運転しなくなって歩き専門になりましたから、急ぐときには小走りすることも出来ますし、食事は美味しく食べられますし、テニスだってしてみたいし、したいこともまだまだあります。秋田の農村で生まれた知人が、ご自分の生涯を振り返って記した記事を、先日読みました。真冬でも隙間風の吹き込む東北の寒い農家に生まれ育って、仕事の一線から退いた今は、大都会のアルミサッシの窓で密閉された暖房完備のマンションに住んでいる、その違いを、回顧されていたのです。




 下の息子が、『俺が面倒見るから、俺の所に帰って来て!』と、2年ほど前に言ってくれたのですが、そんな安全牌を握りながら、双六上がりが出来るかも知れません。私たちの結婚式の直後に召された父にも、まだまだしたかったことがあったに違いないのですが、残る家族へのことばも記さないままでした。昨日のこと、一緒にバスケットボールを、中学でした友人のノリヤスのことを思い出していました。彼も悪戯小僧で、気の合った仲間だったのですが、20年ほど前になるでしょうか、病気を得て不帰の人となってしまいました。『友は逝き、父も逝く。ただわれ残る。残れる日(とき)に何をなさむ!』、『時間過了非常快!』、でも『人間到処有青山(故郷ばかりが墳墓の地ではない、人間の活動のできる所はどこにでもあるの意。大望を達するために故郷を出て大いに活動すべきことをいう『広辞苑』)!』ですよね。地球は広いし、どこででも死に逝くことができそうです、天なる故郷に還る日までは。さあ来年も、《万年青年!》を掲げ、感謝の思いをもって、父と友の分も生きることにしましょうか。切望の大晦日であります!




(写真は、「甲斐駒ー夕景5月9日・リゾート?都市生活 in 甲府そうだ、甲府に行こう。」、「夜叉神峠から見た南アルプス」、「MSN・相模湖」、「グーグル/八郎潟」、「駒ヶ根近辺の特産の林檎」です)

2008年12月29日月曜日

『♯・・・もういくつ寝ると・・・♭』



 『もういくつ寝るとお正月、お正月には・・・』と、この時期に歌った記憶があります。今のように時の移ろいが早くなく、めまぐるしい社会の変化もなく、牛歩のように世間が動いていた時代だったのかも知れません。都内に通勤していた父が、暮れから正月にかけて、一日中家にいて、暮の掃除や正月の準備に余念なかったのが、強く印象に残っています。「父親不在」が物理的だけではなく、精神的に言われるようになって久しいのですが、明治生まれの父は、海軍の軍人の祖父に躾られたのでしょうか、律儀な古い日本人を持って生きていたのが感じられて、やはり「大黒柱」的存在だったのです。そんな父が、一日中そばにいてくれるのは、男の子の自分として、とてもうれしかったのを思い出すのです。




 正月用の餅を、我が家でついたことはなかったのですが、父は近所の米屋さんに餅つきを頼んでいました。餅が届くと、ちょうどよい硬さになるまで待ってから、父はおもむろに、竹製の物差しを当てて、実に正確に同じ形に切り分けていました。それは几帳面な父の一面だったのです。何時からだったでしょうか、この餅切りが私の当番になりました。檜で作られた餅箱の中に入れるためには、父がしていたようにしなければなりませんでしたが、父の真似はとうとう出来ませんでした。『雅、いくつ食う?徹は?謙次は?萬は・・・・?』と聞いては、元旦の朝に、七輪の網の上で父の焼いてくれた餅を、母が鶏肉と小松菜の醤油仕立ての関東風に味付けた汁で煮た、さっぱりした「お雑煮」を作ってくれました。




 それから、『凧(たこ)上げて、独楽(独楽)を廻し・・・・』たりしたのです。今日日、積雪が少なくなってきている多摩地区ですが、私たちの子どものころは、よく降りよく積もったのです。雪が降り始めると兄たちが、みかん箱と竹で橇(そり)を作って、坂道に出しては滑らせてくれました。駅のそばに「大正寺山」と呼ばれていた多摩丘陵の一角がありましたが、そこには滑降するのに格好なポイントがあって、そこでも滑ったのです。テレビもなくゲームもなく、お金もない時代でしたが、「創意」と「工夫」はふんだんにあったのではないでしょうか。そういえば、闽江の川辺で凧あげがされていたのを見たことがあります。正月ではなかったのですが。でも、竹で作った、尻っぽをつけた《大和凧》の風情は、日本そのものであり、幼いころのものでありました。




 さて、ここ中国で三度目の暮れを過ごしているのですが、夕べも一昨日の晩も、何と「蚊」が飛んでいました。そして一昨日は私が、夕べは家内が刺されてしまったのです。信じられないことであります。年の瀬、師走も押し迫ったこの時期の蚊の襲来には驚かされてしまいました。もう1つの驚きは、「金木犀」の花がまだ咲いているのです。盛りのころの様な香りはないのですが、花に鼻を寄せますと、ほのかな香りがしてくるではありません。亜熱帯気候は、幼い日の暮情緒とはかなりの違いがあるようです。




 先週、街中の日本企業マンのご夫人の家で、「餅つき会」があって、家内が出かけて行きました。電気餅つき機でついたものを持ち帰って来ました。九州・日田の出身だそうで、関東のように四角に切ったものではなく、丸型の餅でした。醤油をつけて食べましたら、既製の真空パック物とは違って、舌触りが子どもの頃に父の切ってくれた餅にそっくりでした。それを口にしながら目をつむると、幼い日の父のいた光景が浮かび、匂いが漂ってくるように漢字られたのです。昨日も、若い友人の母君と、彼の元軍人のおじいさんおばあさんにお招きを頂き、沢山のご馳走で歓待されました。「全家福(チュエン・ジャア・フウ)」と言う中国湖北地方の料理(沢山の祝福の食材の入ったスープ風の料理)もご馳走になり、胃で受け止めた「福」、「幸福」が我が家に訪れるように思わされたのです。そのご好意に、私たちの心と人生にも、平安や繁栄がやって来て、その平安や幸せが、あふれ出て友人たちや近隣を、いっぱいに満たすことを願わされました。そんな満ち足りて静かな大陸の暮を、つつがなく過ごさせていただいております。感謝の一年でした。

(写真は、「酒井三良『雪に埋もれつつ正月はゆく』」、「焼き餅/写真素材シアター」、「春日部市の凧揚げ大会」、「金木犀」、「『全家福』の飾り物」です)

2008年12月26日金曜日

遠い国からの良い消息



 中学生のころからでしたが、「北京放送」を携帯ラジオで聞くことがよくありました。海を隔てた中国大陸から届く電波に、異国情緒を感じていたからです。布団にもぐりこんで、ラジオを耳に当てて聞くのですが、懐かしい思い出の1つです。実は、昨晩も、ラジオのチャンネルを探していましたら、「国際放送局」からの日本語放送を見つけたのです。1044KHでした。聞いていまして、その放送内容に大きな変化があるのが、分かったのです。語学の講座から、音楽や時の話題が盛り込まれていて、放送スタッフも何人もの方が入れ替わりで担当しているのです。実に日本語の上手な方たちでした。放送の雰囲気が、『前よりも明るいな!』と感じられたのです。




 そんな放送を興味深く聞いて寝たのですが、今朝のネットでのニュースに、『中国メディア“好意的”な日本報道目立つ!(MSN)』と言うタイトルで、記事が配信されていました。その内容ですが、『・・・12月5日発行の共産党中央宣伝部の機関誌「半月談」は「1978年にトウ小平氏は日本から何を学んだのか」と題する記事を掲載した。同年10月 の訪日で新幹線に初めて乗り、松下電器産業や新日本製鉄などを見学した邓小平氏が日本の発展ぶりに大きな刺激を受けたことを詳しく紹介、「この経験は後 の中国の近代化構想の中で大いに参考となったに違いない」と論評した。』、また、『23日付の中国紙「中国青年報」は「日本がなければ、改革・ 開放は大きく異なっていた」とするコラムの中で「1979年以来、日本は中国の最大の援助国となり、総額2000億元(約2兆6000億円)以上を提供 し、中国が受け取った援助額全体の67%を占める」と紹介、「2002年までに日本は1万2000人の専門家を中国に派遣し、農村開発などの分野で大きな 役割を果たした」と指摘した。北京紙「新京報」なども最近、同様の内容の記事を掲載している。』とありました。




 これまでの日中関係の明るい部分が強調されていることは、こちらに住む者として実にうれしいことであります。よく街中を歩いていて、日本人だと分かると、『メシ、メシ!』と言うのです。聞き覚えがあるのですが、『メシって、中国語に違いないし、何の意味だろう?』と思っていたのです。ところが、中国のテレビで放映されている《戦争物》に登場する日本兵が、よくこのことばを語りながら、家の中に入ってくる場面を見たときに、中国のみなさんにとっての一番馴染み深いのことばが、この『メシ、メシ!』だと言うことが分かったのです。つまり、こちらのみなさんの日本語で最も有名なことばなわけで、『飯、飯!』と言っていたことになります。あるとき、そう語ってきた人に、隣の人がたしなめていたことがありました。聞くことには慣れましたが、聞いて気持ちのよい日本語でないことは事実です。つまり、戦争中の日本兵に、食料を求めて自分の家に侵入された経験があることを、如実に示しているからです。聞くのは嫌な気分がしますが、かつての日本人のイメージがよくなかったことを知らされて、複雑な思いがするのです。それで、『悪いイメージを変えていく務めが、ここで生きる私たちにはあるのでは!』と、強く思わされるのですが。




 邓小平氏が始めて日本訪問をされてから30年が経ったことになります。そのときの日本の印象が、改革開放のために大きな動機付けになったのですが、30年の経過を節目に、よりよい関係が回復されていくことは、日本にも、ここ中国にも実によいことに違いありません。この31日の「大晦日」には、友人が招いていてくださって、「紅白歌合戦」を一緒に観ることになっています。日本に9年間も留学した経験のある彼女にとっては、最も日本らしいテレビ番組、《現代日本文化の象徴》に、私たちを誘いたかったに違いありません。番組への興味は、そんなに強くありませんが、彼女の好意と友情に、ぜひとも応答したいのです。

 私の愛読書の中に、「遠い国からの良い消息は、疲れた人への冷たい水のようだ 」とあります。北京からのラジオ放送が、私にとって、そうであったように、北京に起こることが東京に配信され、そのニュースがネットに載せられ、それを読むことは、まさに疲れと渇きと逡巡を癒す《飲料》に違いありません!決して《冷や水》ではないのですから。

(写真は、「一杯の水」・http://aknet.ashita-sanuki.jp/、この12月21日に北京で開催された「中日青少年友好交流年・閉幕式」、「邓小平氏」、「中日青少年友好交流年・閉幕式」です)

2008年12月25日木曜日

福州今昔






 先日、福州(「榕・ロング」は福州の別称)の街の「老照片(古写真)」を、ネット上に見つけました。100年ほど前のもののようです。その写真と、現在の街の様子を比べてみますと、大きな違いを見せているのが分かるのです。街の中を闽江(ミンジャン)が流れていますから、かつては海運が発達していて、多くの「船(写真には《山東船》と記されてありますが、《ジャンク・戎克》呼ばれていた船のことでしょうか?)」が行きかう映像が残されているのです。




 護岸工事が出来る以前ですし、高層住宅もなかったのですから、めぐりにある山を見渡せることも大きな違いです。どこでも山並みの自然の様子は変わっていませんので、位置感覚を確かめることが出来るわけです。もちろん今でも船の航行はあるのですが、鉄道や自動車のない時代には、船が、人や物の運搬のために用いられていたわけですから、比べようがありません。昔、香港の港の様子を写した写真を見たことがありますが、それとそっくりな船の航行が、ここでも見られたわけです。その船の数も、相当なものだったのではないでしょうか。




 私たちの家の近くから、60番のバスに乗りますと、「台江歩行街」と言うところに行くことができます。ここは、かつて水揚げされた物資が集積された「問屋街」だったそうで、その名残でしょうか、今でも多くの問屋さんが、ひしめき合っていて、多くの商売人の出入りで街がにぎわっているのです。近隣の町から商人たちがやって来て、ここで商取引がなされていたのでしょう。『ここで買い物をすると、何でもありますし、物価も安いんですよ!』と友人が教えてくれました。何時でしたか、『台江に吉野屋が出来ましたよ!』と言われて、ある夕方、家内と歩いて橋を渡って行ったことがありました。調理も味も似ていましたが、やはり本場の味とはちょっと違っていたのは仕方のないことですが、結構懐かしく箸を進めることが出来ました。





 中国のどこでも同じなのですが、「改革開放政策」がとられてから、この30年ほどの変化は、驚くほどのものがあるようです。私が初めて中国に来て、北京、呼和浩特(フフホト)、上海、広州を訪ねた12年前と比べてみても、かなり大きな違いがあるのが分かります。ですから、この30年の隔たりは、実に大きな変化をもたらせたことになるわけです。古写真を眺めて気づく、もう一つのことは、街に緑が乏しいことです。ところが現在の街の様子を眺めますと、そこかしこに樹木が茂っていて、幹線道路沿いには、綺麗な花の咲く木が植えられていて、目を楽しませていてくれるのです。この福建省は、中国で一番緑の面積の占める率の高い省で、とくに林業に力を投入しているのだそうです。このことは一昨年の夏に天津から越して来まして、気づかされた違いでした。とくに「カジュマル(榕树)」は街路樹として植えられていて、真夏の強い日差しをさえぎってくれるのです。森林公園には、樹齢千年のカジュマルがありましたし、私たちの家から、もう少し高台に行ったところにある華南女子大学の近くにも、巨木のカジュマルがあるのです。また街の中をバスなどに乗って移動しますと、小高い丘のような山が、街中に幾つかありますから、それも気に入っている1つのことであります。そういうことで緑の多さは、空気も綺麗だと言うことになりますが、昨今、自動車が日増しに多くなっているので、残念なことに空気汚染の環境問題が取り上げられているようです。


 
 
 20番のバスが、川を渡るところに、「中洲島」と呼ばれている中州があります。多分、一番最初に掛けられた橋で、「大橋」と呼ばれていますが、これは日本の企業がかけたのだと、聞いています。今は、何代目かに架け替えられたものに代っていますが、古写真と比べてみますと雲泥の差を見せていて、静かな時の流れだったでしょうか、または騒乱の時の移ろいだったのでしょうか、時の推移を感じさせられること仕切りであります。




(写真は、上から、私たちの住んでいる倉山区にあった「協和学院・現在の福建師範大学の前身でアメリカ系のミッションスクール」、「旧市内の南門付近』、「闽江に浮かぶ山東船」、「昔の中洲島・中州の中央部にあるのが教会」、「今の中洲島」、「以前の福州大橋」、「今の福州大橋」です)
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2008年12月24日水曜日

『私にとって友情とは・・・』



 中日国交回復が、政府間でなされる以前から、民間では、すでに1956年3月に、「中日文化交流会(現在では、中日経済文化交流会に名称変更)」が発足して、交流が始められていたのです。学問や文化芸能などは、過去の経緯を忘れたかのように垣根が取り払われてしまいました。私たちの国の文化が、中国文化の多大な感化を受けて成り立った歴史的な背景がありますから、どんな深刻な問題が溝のように横たわっても、容易に橋渡しが出来たのでしょうか。さらには、中国の文化人の鷹揚で寛大な心が、このことを実現させたに違いありません。

 中国の文豪でノーベル文学賞候補にも推挙されたことのある、巴金氏が、日本の親しい友人に語ったことばが次のように残されています。『私にとって友情とは、私の命にともる1つのともし火である。このともし火から離れては、私の存在は鮮やかな輝きを失い、私の命は、何の実も結ばないだろう(「人民網」日本語版2006年4月27日号)』と語られています。戦後間もなく、両国の文化人の間では、互いに影響し合いながら創作意欲を高め合っていたのだそうです。もう一人の著名な女流作家、謝氷心氏は、1946年11月に、東京大学に招かれて講演をされ、「中国新文学」を外国籍・教授として講義する機会ももうけられています。日本の文学者たちとの親交もきわめて深いものがあったそうです。長楽市の彼女の記念館に行きましたときに、多くの日本の文人と一緒に撮られた数葉の写真が展示されてありました。





 1960年代には、日本映画は「任侠物」が流行っていまして、高倉健の主演映画が上映される映画館は、若者たちであふれていました。友人が彼のフアンで、『一緒に観に行こう!』と誘われては行ったのです。1976年に、彼が主演した「君よ、憤怒の河を渉れ」が上映されたのですが、その新しい路線の映画は人気を呼びませんでした。私も結婚して上の三人の子供が生まれていましたから、彼の映画を観ることもなかったのです。ところが、「改革開放政策」をとった中国で、1978年に一般公開されたところ、『数億の若者が見ただろう!』と言われるほどの《社会現象》を巻き起こし、大人気を博したのです。これが、新中国で初めての外国映画の上映だったそうです。ヒロインの中野良子は、日本のどの女優よりも、中国で知られるところとなり、その人気は今にまでも及ぶのだそうです。スクリーンから流れる音楽、映し出される東京の都会の光景、若者たちのファッション、どれをとっても、中国のみなさんの眼を捉えてやまなかったのです。天津の語学学校で教えてくれた先生たちが、ご両親の青春時代に観た映画の印象を、熱く語っていたのが思い出されます。高倉健よりも、「杜丘冬人」の主人公の名前のほうを覚えていたほどでした。




 それほど、中国と日本、日本と中国の関係は密なのです。隋や唐の時代に、中国大陸を訪ねた日本から遣わされた若者たちも、目を見張るようにして「長安の都」に感動しながら眺めたのではないでしょうか。現代の中国の若者たちは、日本の音楽やアニメや映画やファッションに、強烈な興味を示しています。この世代間で、素晴らしい明日が築かれてくのではないでしょうか。そう期待してやまない、大陸の師走であります。

2008年12月23日火曜日

冬を迎えた被災地に思いを向けて



 今年、最も衝撃的なニュースは、四川省で発生しました、「四川大地震」だったのではないでしょうか。北京で開催された「オリンピック」が、華々しく成功裡に行われましたが、その3ヶ月前に起こった出来事を忘れることができません。ちょうど、私は帰国中に、次兄の家でこのニュースを見たのです。鼓膜再生の手術のために、仙台に行きまして、手術の日まで待機している間に起こり、私の驚きは尋常ではありませんでした。中国で暮らし始めた私にとって、この国で起こる出来事は、実にわが身に起こった出来事のように感じておりましたので、驚きと悲しみで胸がいっぱいにされてしまったのです。この被災地の近くに、二度行ったことがありましたから、ことの他衝撃的でした。日本の中部地方の山間の谷の何倍も、規模の大きい渓谷の未舗装の路を車で走って、連れて行ってもらったことがあったからです。テレビに映った「汶川県」の看板に見覚えがあったのです。初期の報道ですと、被害者が数十人ほどでしたが、日を追うにしたがって、被害が甚大であることが判明してきたのです。私たちが訪ねたときに、山の土砂の崩落で、道路がふさがって、数時間も交通止めになったことがありましたから、何となく被害の状況を想像することが出来たのです。あの道筋で、物を売っていた子どもたちの中にも、きっと被害者がいたのではないでしょうか。武田信玄が、釜無川の氾濫を防ぐ河川工事をしたのですが、そのモデルとなった、「都江堰」も訪ねましたが、ここも大きな被害があったようです。

300キロメートルにも及ぶ断層上に、地震が発生したことが分かり、断層沿いの村や町が壊滅的な被害を受けたのでした。その被害も、ついには6万9197人、行方不明者も2万人ほどだそうで、被災者の数は、累計で4616万0865人だったと報告されています。 世界中から、救援金や物資が送られ、日本からも多くの援助の手が差し伸べられて、災害救助と復興に寄与できたことは感謝なことでした。なお、今でも生活支援のために、日本からも技術指導者が被災地で働いておられるようです。また四川省からは、地震の専門家のみなさんが、関西圏を訪ねて、復興のための意見交換がされているとのことです。
 


                                       
 私たちの国で、1995年1月17日 に発生しました、「阪神淡路大震災」は、まだ私たちの記憶に残っておりますが、長女の友人の弟さんが被災されて、亡くなった知らせを受けて、共に悲しんだことがあったのですが。地震直後に、学校で学んでいて、ちょうど帰国中だった長男も、中学生だった次男も、被災者の給食活動のために、学校を休んで駆けつけ たこともありました。度重なる天災の知らせを聞いて、『どうにかならないだろうか?』と思わされるのですが、地震予知のための研究も進んでいるようですね。これとて大変に難しいのでしょうか。大きな災害の被害を経験してきている地球は、なすすべがないように感じ、自然の猛威の前には、人間の営みが瞬時にして崩壊してしまうさまに、無力さを感じてならないのです。

 冬になって、四川の被災地は寒い地域ですから、仮設住宅に住んでいらっしゃるみなさんの暖房は完備しているのでしょうか。食べ物や衣服は十分なのでしょうか。仕事の機会もあるのでしょうか。きっと多くのみなさんが、故郷を離れて、中国のそこかしこで新しい生活の基盤を作り始めていることと思いますが、世界恐慌による景気低迷で、仕事の機会もはなはだ少なくなっていると聞いています。こちらの友人たちが、義捐金を持参したり、奉仕に出かけたりしておられますが、間もなくやって来る「春節」を喜びを持って迎えられますように、心から願っております。子どもたちの心のケアーがなされ、恐怖の記憶が薄らぎ、心の傷が癒されて、明日に向かって生きていきますように。四川を含めた地球の上に、人々の間に、「平和」が訪れることを切に願う「聖誕節」であります。

(写真は、地震後に生まれた「あかちゃん」、日本から派遣された「救援隊」です)

2008年12月19日金曜日

長寿麺と誕生ケーキ、そして赤飯


 医療水準が高いこと、これが原因してでしょうか、私たち日本人の平均余命は、女性で世界一位、男性で第二位だと報告されています(2005年簡易生命表・女85.49才、男78.53才・・・男女差6.96才)。1920年には男42才、女43才、平均寿命が50才を越えるのは、第二次世界大戦の後からなのだそうです。1960年の男の平均寿命が63でした。ほぼ50年前のことになりますが。1880年 (明治13年)には男36才、女38才でした。そういえば、私の母は91才、義母は97才ですから、他人事ではないようです。母は、自動車事故で両足に重傷を負ったのですが、傷口の初期処置が悪かったことで切断という危機を通りながら、九死に一生を得て、いまだに気に散歩ができますし、40代後半で卵巣癌にかかって、『半年の命です!』と、医者にいわれながらも、健康を回復して、今なお元気に生活しております。また、終戦後の食糧難の時代に、肋膜で闘病した病歴のある義母は、寝たきりになりましたが、内臓は健康そのものなのです。


 

 どこの国でも女性のほうが長生きなのです。どうしてなのか、よく考えて見ますと、男性は乾ききった《陶器》のようにカチカチして生きるからではないでしょうか。肩や肘や、さらに意地を張って頑張るから、緊張感が張り詰めてプツンとはじけてしまうのに違いありません。ところが女性は、水気を含んだ《粘土》のように、柔軟に生きられるのではないでしょうか。肩など張らないし、いやな男性には肘鉄を食らわせますし、意地っぱりの男性をはぐらかして水のように逆らわないで流れるように生きているからではないでしょうか。私の父は、61で召されました。小田急線の電車が急ブレーキをかけて、乗っていた父は、それに身を任せたらよかったのですが、それに抵抗したのでしょうか、くも膜下出血で倒れてたのです。自宅で療養していたときに、よせばいいのに、近所の小火(ぼや)を消しに出て、それで再入院してしまったのです。それでも治療効果があって、無事退院する喜びの朝に、今度は脳溢血を起こして、不帰の人となってしまったのです。父らしく、誰にも迷惑をかけませんでしたが、やはり意地っ張りの一生だったようです。男の子4人を育て上げてくれたことは、感謝の表わしようがありません。私たちの4人の子どもたちも、孫たちも、父の手に抱いて欲しかったのですが、叶いませんでした



 さて私は、父よりも長生きをして、この17日に、また誕生日を迎えました。中国のみなさんは、誕生日の朝に、「長寿麺」を食べて、長寿を願うのだそうです。私の誕生日を知った、近所の「牛肉米粉店」のご主人と奥様が、早起きをして、私のために、その「長寿麺」を作ってくださって、招待してくれたのです。実に美味しい麺でした。その時、若い友人が、「バースデイ・ケーキ」を1時間もバスに乗って、駆けつけて届けてくれたのです。涙が流れるほど嬉しく感動してしまいました。こんな友人たちが与えられて、私と家内は中国・福州の生活を満喫させていただいているのです。



 みなさんには迷惑かとも思うのですが、父や母や恩師、兄弟や友人たちに、そして新しい中国の友人たちから、こんな大きな愛を受けて来たのですから、どうも長生きしそうで仕方ありません。何度も死線をさまよいながらここまで生かされて来たので、もう少し欲張って、人と共同体の役に立つことを願って生きていきたいと心から願うのです。長生きをする理由は、「長寿麺」を食べたことも、その大きなわけです。家内は、その朝、私たちが35年ほど過ごした地方の慣習に倣って、「赤飯」を炊いてくれ、それを店主と、いつもコピーをしてくれる、この店の隣りの「コピー屋」の夫妻に差し上げたのです。湘南・葉山の知己が、『百まで生きるつもりで生きているのです!』と言われ、その決断に伝染された私も、そう再び願った実に素敵な朝でした。

(写真は、「長寿麺」・亜細亜美食探求から、森林公園に咲いていた「12月の亜熱帯の花」、「誕生ケーキ」・さわたにさんの風景から、「赤飯」・http://hitorigoto.chesuto.jp/です)


2008年12月18日木曜日

拳とペン


 とても恥ずかしいのですが、子どもの頃から喧嘩早くて、23くらいまではよくしてしまいました。その1つのきっかけは、『泣いて帰ってきたら家に入れない!』と、子どもの頃に、父に言われたからなのかも知れません。『喧嘩をして来い!』と、暴力を私に強いたのでは決してないのです。父は、《めそめそした男の子》には育って欲しくなかったのに違いありません。泣き言もいえないし、泣き顔も見せられないのですから、上級生に殴られても、涙を拭いて、ぐっと悔しさで唇を噛んで帰らなければならなかったのです。家の前に、4人姉妹の中のたった一人の男の子で、「まこっちゃん」という一級上の男の子がいました。これが女の中の男にしては、実に喧嘩っ早くて悪戯小僧だったのです。仲がよくてよく遊んだのですが、時には喧嘩になって殴られることも、取っ組み合いをすることもあったわけです。小学校の1年違いの体力差は大きかったのですから、こちらがいつも劣勢で、組し敷かれてしまうのです。ところが、こちらは泥をつかんで顔めがけて放り付けて、その難を逃れるわけです。男兄弟4人の三男坊ですから、磨かれるのでしょうか鍛えられるのでしょうか、喧嘩上手に育ち上がったのだと思うのです。学校は病欠だらけで、ひ弱かったのですが、その反面特技は「喧嘩」だったのですからお笑いです。家に入れてもらいたいし、夕ごはんも食べたいのですから、喧嘩して負けて泣いて帰ってくるわけには行かなかった、「生理的理由」があって、腕を磨いたのです。



 同じ暴力でも、「ことば」の暴力も、「ペン」の暴力もありますね。言論の自由な社会ですから、何を言っても書いても言いかというと、矢面に立たされた被害者がいるのですから、そういうわけにはいかないのです。『爺の七光り!』、『苦労知らず!』、『漢字能力が足りない!』と揶揄して、麻生首相を攻撃しています。正直に物言いをすると、『失言だ!』といいます。首相は生来、そういった弁を気にしないタイプなのだそうです。が、かりにも自分たちの国で、合法的に選ばれた首相を尊敬することが出来ないで、《馬鹿扱い》して、こき下ろすことに終始するマスメティアのカメラやマイクロフォンやペンは、拳の暴力よりも醜いのではないでしょうか。それは《天に唾を吐くこと》に違いありません。終には己に帰するのです。そんな国はどこにもないのです。

 『これからの時代が必要とする指導者は、豪腕で手腕を披瀝する者よりも、弱さを正直に見せる者の方が好ましい!』という方があります。『敬意を示せないで、批判ばかりの諸氏よ、お前やってみろ!』といいたいのです。そういう輩には、鍛え上げた拳で喝を入れたい・・・・おっと、いけません、暴力は邪道ですから。出来もしないのに、批判だけするのは子供の喧嘩ではないでしょうか。そんな喧嘩には巻き込まれたくないものです。平成の代になって総理大臣の量産がなされて来たのですが、麻生さんには、じっくりと腰をすえてやって頂たいのです。そして私たち国民は、どこにいても温かく見守っていきたいのです。なぜかといいますと、彼は私の兄と同じ年の生まれで、喧嘩の相手の世代なのですから、ただそれだけの理由で。


 

 日本がよい国の姿を取り戻して欲しいのです。自信喪失の国なんていただけません。自信過剰で傲慢になるのはもっと酷いことですが。媚びたり釈明したり卑下するだけでは国は成り立ちません。この時代の若者が、国際社会を自信と誇りとを持って、心ある脚で闊歩できることを願うのです。過去の過ちは過ち、罪は罪として認めたからには、頭(こうべ)をあげて、明日に向かって進んで行き、アジアの国のリーダーとして、隣国と平和で友好な関係を持ち続けていく努力を重ねるべきではないでしょうか。中国が、環境衛生の分野でも、モデルとして日本を見ていてくれることを知るときに、関係回復のもう一歩が取れたことを知るのです。さて、あの悪戯小僧のまこっちゃんは、どうしているのでしょうか?そんな思いの十二月の福州であります。

(写真は、「子供の喧嘩・http://blog.livedoor.jp/moritoku1962/」、「ペンを握る手」、「日本」です)

2008年12月16日火曜日

『レッテルなんか張るな!』


 今は、「発達障害」とか「多動性」とか「注意欠陥」とか言って、子どもを観察して判断したり診断する時代なのですね。何でも《ある枠》の中に入れ込もうとする傾向があるのでしょうか。小学校の「通信簿」の「行動と生活の記録」欄に、どの学年、どの学期、どの担任も決まって、『落ち着きがありません。授業中に立ち歩いています。』と書いてありました。よっぽどだったのですね。家に帰って親に見せたのですが、怒られたり注意されたことはありませんでした。『いつか直るだろう!』、『何でもいいから、生きててくれたらそれでいいんだ!』とでも、楽観視してくれたに違いありません。そんな両親に感謝を、いまさらながら覚えるのですが。


 

 それで、『おっちょこちょい!』と、よく言われました。漢字で、「注意欠陥」、「多動性」と書かれるより、平仮名で「おっちょこちょい」と書かれるのでは、どうも雲泥の差があるのではないでしょうか。漢字の冷たさと、平仮名の暖かさとの差、メスを手にする医者と母親の優しさの差です。よく廊下に立たされ、たまに校長室にも立たされた過去のある私は、立たされながら、反省の色を見せませんでした。次のいたずらを考えていたのです。一緒に立たされた長島君は、今どうしているでしょうか。「オランダ屋敷」の住民だったのですが。当時、『♭・・・・オランダ屋敷に雨が降る・・・♯』という歌がはやっていて、雨漏りのするおんぼろ長屋に住んでいて、カサがなくて雨降りには学校に来ませんでした。『ガンジー!』と仇名されていましたが。一緒に立っていた水野君は、どうしてるでしょうか。立っていたら、途中で家に帰ってしまったので、カバンを届けたことがありました。旧国鉄の官舎に住んでいて、近所でしたが。みんな、「おっちょこちょい」でした。


 

 今でしたら、三人ともローマ字で「ADHD」と呼ばれたり、記入されるのでしょうか。チンプンカンプンですが。日本語に訳しますと、「注意欠陥・多動性障害 」になるそうです。つまり「欠陥人間」で、目障りの「障」と、害毒の「害」の「障害」です。昔、秋の運動化に「障害物競走」というのがありました。人気のある、声援を大いに誘う競技でしたが。あのころは、「障害」の「害」の字は、「碍」と書かれていたと思います。「障碍」は、「害毒」ではなく、「邪魔物」、「さえぎる物」という意味なのです。「碍」の漢字を、「害」に変えた時点で、大きな人間観・児童観・障碍者観のマイナス変化があったことになります。邪魔になったり、世の中の流れをさえぎることはあっても、「害する」ことはなかったのです。我ら三人は、いい子たちの邪魔にはなっていたのは事実です。でも結構、クラスはわれわれの存在で変化があって、楽しかったのではないでしょうか。馬鹿なことを平気でしていたからです。もちろん推薦はできませんが。


 

 最近は、「児童精神科」があって、「児童精神科医」がいるのですね。違う両親に今日日、育てられていたら、そこに連れて行かれて、薬を飲まされて、痛い注射をされるのでしょうか。発明王のエジソンも幕末の志士の坂本竜馬も、われわれの仲間だという人もいます。彼らも注射!?

 「好意」と「情愛」と「助成」を必要としている彼らに、いえ過去の私たち三人とエジソンと竜馬に、『レッテルなんか張るな!』と、再び大声で叫びたい、年の瀬であります!

(写真は、「ADHDの子どものイラスト・

Help With Autism

」、「木造校舎(廃校)の廊下・

Digital Artworks TeeART Blog.

」、「番傘(蛇の目)・http://www.kyotodays.jp/pc/images/ks2_header_menu_logo01.png」、「ADHDの本」です)

2008年12月15日月曜日

「五人組」


 小学校のころから、社会科、とくに歴史が好きだった私は、同じ学級のK君と競い合いながら、その興味を増し加えていったのです。彼は、月刊誌「〇年生」の購読者で、その雑誌の付録の社会科学習の「アンチョコ(参考書)」を持っていたのです。私の父は、購読を許してくれなかったので、その彼のアンチョコのおかげで、彼に一歩遅れをとっていたのです。そんなことがありながら、「過去」にあった出来事には、興味津々だったことを思い出します。

 その学びの中で、江戸時代にあった「五人組制」を学んでいたときに、『やな制度だな!』としきりに思ったのです。なぜかと言いますと、必ず学級の中に、「陰口」をきくのがいたから、悪戯者の私にとっては目の敵だったのです。担任の解説によると、お互いが監視し合うためのいわば「江戸版・治安維持法」だったのです。どうもこれは、江戸幕府が独自に考えた監視制度ではなく、秀吉の側近の考え出したものであったのです。下級武士の「五人組」、庶民の「五人組」によって、不満分子を取り締まるためでした。不満を申し出たり、不都合の改善要求を表現できない制度は、警察制度であって、私の警官嫌いが始まったのです。最近の、防衛省の高級将校の発言が槍玉に挙げられていたようですが、よい不満は「改善」に導かれるのですから、聞く耳を持ちたいものだと思うのですが。のっけから封じ込めるのはいただけません。


 さて「五人組」には、互いに助け合う意味も込められていたのですが、相互に監視し合い、違反が起こった時には「連帯責任」を負わなければならなかったので、この制度の弊害は、人の心の思いを萎縮させ、人の目を狐のように鋭くさせ、猜疑心を養って、人間不信を培ってしまったことになるのです。中学のときに、バスケットボール部に入っていたのですが、誰かの落ち度で、集団でビンタの制裁を受けたことがありました。『なんでだ!』と、納得がいかなかったのです。個人の非が集団の非となるのは、小学生の私にも、中学生の私にも承服しがたかったのです。まさに、これは「五人組」の名残ではなかったかと思わされてなりませんでした。「狭量の心の日本人」は、私が一番嫌悪することであります。『重箱の隅を突っつく!』、『針小棒大!』、『寄らば大樹の陰!』、『若い者は黙っておれ!』、大嫌いなことばであります。昨今、「失言問題」が、繰り返しマスコミに取り上げられているのですが、ことばで失敗し続けてきた私は、失言を糾弾することなどできえません。唇に手綱をかけられる人は皆無なのですし、おのれの弱さを覚えるなら、人の非を挙げ連ねることなどでできないはずなのですが、一向に止みません。マス・メディアが失言しないことなどありえません。論より証拠は、新聞の片隅などにみられる「お詫び広告」、「謝罪広告」ですが。



 この「五人組」ですが、もっとさかのぼりますと、「大化の改新」の後、天知天皇が制定した「律令制」の下にあった「五保の制」に行き着くのです。さらに、この「律令制」は、中国の唐代(618~907)の防犯と税金の徴収のための制度でありましたから、発端は中国ということになってしまいますが。以前、『とんとんとんからりんと隣組・・・』という歌があって、向こう三軒両隣を「隣組」といって、回覧板(役所の情報連絡の手段)を廻したり、防犯や保健衛生や奉仕の活動がなされた町の末端組織でした。これも「五人組」の名残でした。助け合うよりも、互いが目を光らせて監視しあう結果、今日の日本人が、『人の顔色を見る!』箱庭のような心を持って、上っ面な交わりしか出来なくなってしまったのではないでしょうか。昔、日本人は大らかだったのですから、これからの日本人も、よき昔に回帰して、大らかな、太陽がぎらぎらと光を放って、カビの生えるようなジメジメした陰影を消し去ってしまう、そんな寛大な心を持つ者たちの国となって欲しいものです。

(写真は、「ビッグ・スカイ・ステイツ/モンタナ州の大空・フリー素材Hoshino」、「五人組・御仕置帳」、「昔の隣組のオニギリの炊き出し風景」です)

2008年12月14日日曜日

『そうだんべえ!』と『ほうずら!』


 少年期を過ごした日野は、多摩川が架橋される以前には、「渡し」があって、「江戸五街道」の一つ、「甲州街道」の宿場町だったのです。父の家は、「旧甲州街道」際にあったのですが、中央自動車道建設のために、立ち退かされた経緯があります。江戸時代に「宿本陣」のあった佐藤邸は、同級生でした。あのころは、『そうだんベえ(そうでしょう)!』と言う、《べいべいことば》を話していたのを思い出します。この甲州街道は、江戸の日本橋から内藤新宿をへて信州・下諏訪の間に、「三十八宿」が定められていて、下諏訪宿からは、「中仙道(日本橋から京都三条大橋に至る69次)」に合流しました。この街道が設けられた経緯は、初期には、商業街道ではなく、一朝事あるときに、江戸城の将軍が、警護の部隊と共に、その災禍から免れて、「甲府(幕府の直轄領でした)」まで逃れる「将軍の避難路」であったのですが、結局は、参勤交代や通商の機能を果したのです。ところが、現在の20号線を車で走ってみても分かるのですが、高尾から相模湖に抜ける間に、「大垂峠(おだるみとうげ)」があって、オートバイの転倒事故の多発するS字カーブの坂道です。かつての甲州街道は、「小仏峠」を経たのですが、急峻さは想像にかたくありません。もう一つは、「笹子峠」があります。旧道を通ったことがありますが、峠路は急で難所だったのです。


 

 その天領・甲府で私も、下の3人の子どもも生まれました。私は、27から60過ぎまで、ここを生活と仕事の本拠地として家内と子どもたちと過ごしたのです。甲府勤番の旗本や御家人たちは、贅沢好みで、粋やさびなどの「江戸情緒」を好みましたから、「小江戸」が色濃く残った町だったのではないでしょうか。出来や素行のあまり芳しくない旗本や御家人の勤務地であったようで、それが、あの松平定信の「寛政の改革」の1つでもあったと伝えられています。甲府で生まれ、東京から甲府に移ったのは、私が不良だったからではなかったと思うのですが・・・・・そんな言い訳をすると怪しまれますね。果物が美味しく、人情も篤く、空気も水も綺麗でしたし、冬の寒さはピッリと身を引き締めさせられましたし、盆地の底に熱気が沈みこむ夏は、忍耐力を養い育てましたから、子育てには格好な土地だったのではないでしょうか、『ほんとけえ(本当ですか?)』、『ほうずら!(そうだろう)』。


 

 この甲州街道と中山道のほかに、「江戸五街道」には、「東海道(日本橋から品川を通り京都三条大橋に至る53次)」、「奥州街道(日本橋から千住を通り陸奥白川に至る27次)」、「日光街道(日本橋から日光坊中に至る21次・千住から宇都宮までは奥州街道と重複)」がありました。どの街道も、旧道は消えてしまっているのでしょうか。日野に住んでいたときに、旧道が中央線を横切る所に、踏切があって、Hさんというおじさんが《踏切番(国鉄職員)》をされていて、父と弟と懇意でした。踏み切りのすぐのところまで旧国鉄・中央線の日野駅のプラットホームがありましたので、父は改札を通らずに、踏切からホームに上がっていたのを思い出します。このHさんは、八王子・千人町に住んでいて、江戸時代の甲州街道の治安と警備に当たっていた「八王子千人同心(旧・武田家・信玄の部下たちを八王子に移住させて、街道警護に当たらせたのは家康だったのです)」の末裔だったのです。



 同じ街道守でも、甲州街道ではなく、鉄路の旧国鉄の汽車・電車の通行を見守り、歩行者の安全に従事していたのですから、千人同心の子孫としては、同じ道を歩んでいたことになります。踏み切りの遮断機の上げ下げを、父と弟のおかげで、手伝わさせてもらったのが楽しかったかったのを思い出します。

(写真は、「小学校時代の日野駅前・日野検討会」、「甲府盆地・http://grand-touring-japan.travel.coocan.jp/touring/2007tour/december/fuji1224/index.htm」、「八王子千人同心・組頭の家・くにちゃん2@撮影散歩 」、「踏切・http://pds.exblog.jp/pds/1/200710/19/66/c0082066_6395350.jpg」です)

「武家諸法度」


 『少年老い易く学成りがたし。一寸の光陰軽んずべからず。未だ覚めず池塘春草の夢、楷前の梧葉既に秋声。』と詠んだのは、宋代の政治家であり、儒教の教えを集大成し、「朱子学」を提唱した朱熹(1130~1200)でした。彼はお父さんの任地の福建省(在の三明市)出生まれています。ところが近年、この日本で有名な詩は、彼の作ではないといわれてきています。朱熹の作品・散文集の中にはなく、日本のいくつもの書物の中に散見され、作者不明だったり、表題なしのままに引用されているようです。どうしてこの詩が有名なのかといいますと、明治期の漢文教科書に、『人生は短いんだ。だから時間を大切にして、しっかりお国のために勉強に打ち込め!』という願いを込めて、先生たちが好んで、教えた詩だったのです。中学の国語の時間に、僧侶のS先生は、ずいぶんと熱を込めて、この漢詩を教えてくれたのを思い出します。きっと、立派になってもらいたいと私たちを鼓舞したのでしょう。


 

 ここ福建省にも、いくつか「世界遺産」があるのですが、江西省と浙江省と接する近くに、「武夷山(ウ・イ・サン)」と言う山があり、私たちに住んでいる福州を流れる闽江や揚子江に注ぐ支流の源流の分水嶺であります。烏龍茶の名産地で、一日の気温の日較差が大きいことから、茶葉の生産に立地条件がよく、極上の茶葉を生産しているのです。「岩茶」と呼ばれる茶葉は、高値知らずの取引がなされていて、最高級の折り紙がつけられているそうです。

 この近くに、朱熹の学校「武夷精舎」があって、立身出世や明日の中国を担おうとする多くの学生たちが、彼を慕って中国中からやって来たそうです。ここで学んだ学生たちは、「科挙」、さしずめ日本の国家公務員の上級試験、エリート試験といえるでしょうか、その試験の難関を突破して、じつに多くの合格者を出したようです。そこで、朱熹は儒教の教えをもとに「朱子学」を集大成したのです。この「朱子学」の思想は、以後七百年に渡って中国のみならず、朝鮮日本に大きな影響 を与えることになります。


 

 徳川家康は、江戸に幕府を置いて国を治めるに当たって、武力支配に代わって、新しい政治支配理念の導入を思いつきます。支配を強固にして、長く存続すようにと願ってでした。そこで、23歳の儒学者の「林羅山(1583~1657)」を召します。彼を厚遇して学問所を開かせるのですが、それが後の「昌平 (しょうへいこう/昌平坂学問所・・・東京大学の前身)」になり、江戸幕府の「官学」の府となるのです。羅山は、朱子学を学んだ藤原惺窩の弟子で、1635年には、日本史で習った「武家所法度」を起草しています。これは、武芸や学問をたしなむこと、大名は参勤交代を毎年すること、だれと結婚することができ、どのような色彩の服を着るか、などの武士の生活上の規則集でした。朱熹に端を発する教えは、日本社会に多大な影響を与えたことになりますね。来夏には、訪ねてみたいと思っております。

※ 「武家御法度」は、6回ほど改定されています。林羅山の起草は、「寛永令」です。大型船(五百石以上)の造船禁止がなされています。遠洋航海が事実上できなくなったわけです。「鎖国令(都合5度発令)」とも関わりがあるわけです。

(写真は、「武夷山」、「朱熹と朱熹に扮した学生)、「林羅山・岐阜市下呂」です)

2008年12月11日木曜日

京劇


 『京(ジング・ジイ)闽剧(ミン・ジイ/福州の地方劇)のチケットがあるのですが、ご覧になりませんか!』といわれて、『それでは、水曜日の晩に、「鳳凰劇場」で開催される、「京劇」を観させていただけますか!』ということで、一昨日、チケットを知人が我が家に二枚届けてくださいました。夕方7時半からの開演ということで、早めに到着しましたので、劇場の近くの食堂で、牛肉麺を食べて、劇場入りをしました。まだ3~4人しか見えていませんでしたが、開演近くには8割がたの観客が入場されて始まりました。北京の劇団が福州公演を行ったのです。

 この京劇は、清代に始まって、ほぼ二百年の歴史を持つ、いわば「中国オペラ」とも言われるものですが、起源につきましてはいくつかの説があるようです。といっても、はるか昔から、どこの国でも、人は歌ったり踊ったりしてきているのですから、各地方に伝わっている伝統芸能が、脚光を浴びて首都で演じられ、そこから全国展開していったに違いありません。地方の娯楽で始まった民間の劇が、市民に愛され、皇族や貴族にも愛好されていったのでしょうか。低迷し、消え去ろうとしていた時期を越えて、1980年の初期から息を吹き返してきたのだそうです。ですから、今回、家内とともに感激した「京劇」は、「祈念(中国語で表わす記念)改革開放30周年・福建省優秀劇節目展演」という行事の一環として、この12月、ここを会場に、さまざまな劇や雑技やコンサートが連夜催されているのです。



 この京劇には、多くの演目があるのですが、昨晩の「京劇折子戯専場(京据折子戏专场)」には舞台装置gたほとんどありませんで、実に簡素でした。目や手や脚の動き、声の抑揚などで表現する芸と技を見せることに専心しているのでしょうか。日本の歌舞伎にある「見得を切る」仕草があり、ある演目には、「隈取り」もあるようです。きっと歌舞伎に影響を与えているのでしょうし、相互に感化し合っているのかなとも思ったりしました。

 五年ほど前になりますが、四川省の成都に行きましたときに、案内していただいて「川劇」、四川省に伝わる地方劇を見せていただいたことがありますが、どちらも独特に中国文化を堪能させてくれました。今回観劇しながら、南信州で観た、「大鹿歌舞伎」を思い出していました。禁制の中、奥深い山村の唯一の娯楽芸能であった村歌舞伎を伝承してきた、「強かさ(したたかさ)」を感じさせられたのですが、きっと中国の地方劇もそんな、強かさを持ったものではないのだろうかと思わされたのです。


 

 芝居が跳ね、外に出ましたら、師走の月が輝いておりましたが、日本の年末とは大分趣が違っていて、まだ秋の気配が感じられました。中日両国の文化芸能の間には、まったく垣根がないのですから、心と心、過去と今、大陸と島国の間に、確固たる友好の橋が掛けられることを願わせれた、感謝な年の瀬の宵でありました。

(写真は、「京劇・風巻&バリ島移住できるかな計画2から」、歌舞伎役者「中村吉右衛門」、南信州の「大鹿歌舞伎」です)

2008年12月7日日曜日

流行語大賞の今昔


 年末恒例になったものの一つに、「新語・流行語大賞」の発表があります。今年は、『グ~!』と『アラフォー』だったそうですね。ことばの流行する世の中の動きに身を置いていませんので、実感がないのですが、『今年は、カタカナ語が流行ったんだ!』と思ったのです。私は、四人兄弟の三男坊で、上に二人の兄と一人の弟がいます。すぐ上の兄(中国語では次兄を《二哥ergeアル・ガ》といいます)が生まれたのが、昭和1681日でした。西暦ですと、1941年のことになります。この年、「森の水車」、「たきび」、「里の秋」といった叙情的な歌詞の歌が発表され、下村胡人の「次郎物語」が発刊されているのです。実は、この年の128日に、太平洋戦争が開戦されています。この年には、流行語大賞はありませんでしたが、もしあったら、その日、午前7時に放送した臨時ニュース、『 帝国陸海軍は今8日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」(大本営陸海軍部発表) 』が選ばれたのではないでしょうか。



 ホノルルで仕事をしていました長男を訪ねた時に、オアフ島の北側にあるノースショアに連れて行ってもらったことがありました。そこはサーフィンの世界的なメッカで、『何時か、機会があったら行ってみたい!』と思っていたからです。波乗りに憑かれたサーファーたちが、驚くほどの落差のある大波に乗っていました。それを見て、もう若くなかった私は、圧倒されてしり込みしてしまいました。多分、30代だったら、危険を顧みないで一緒に打ち興じていただろうと思います。そこからカネオヘに行き、そこからホノルルに抜ける高速道路に入りました。うっそうとした南国の山間部の森林の中を、ジェット・コースターのコースように走っているのです。東京から名古屋に抜ける中央自動車道が中部山岳地帯を走っているのですが、恵那山トンネルに入っていく道筋と、トンネルを出て蛇行して下って行く中央道を思い起こさせるような、とても似た景観を見せていました。

 実は、この高速道路のカネオヘからのコースが、昭和16年12月8日、日米開戦の発端となった、アメリカ海軍の太平洋艦隊の基地・真珠湾を攻撃したときの侵入コースの一つでした。山間部をぬって侵入して攻撃したのです。その道を通り抜けながら、その話を息子から聞いていて、まるで、『淵田美津雄隊長の駆る攻撃機に乗っていたら、こんな感覚だったのだろうか?』と、感じさせられたのです。山腹に橋げたで支えられた高速道路の高さは、そう錯覚させるに十分でした。もちろん攻撃のためではなく、息子の家に戻るためでしたが。奇襲攻撃を仕掛けるために、綿密に調べ上げたのでしょうか。


 

 その高速道路を降りて、しばらく行きますと「アリゾナ記念館」がありました。それまで何度もホノルル訪問の機会があったのですが、そのたびに見学を避けていた私は、そのとき、意を決して、息子と一緒に入館してみたのです。ボートに乗って記念館の上に上がったときに、なぜか、涙が流れて仕方がありませんでした。その記念館は、轟沈され海中に沈んた戦艦・アリゾナの上にあったからのです。不思議な感情が湧き上がったようです。どんな理由があっても、戦争は避けたいものです。来春には92歳になる母と97歳になる義母がいて、4人の子がいて、4人の孫があますから、悲劇しか生み出さない戦争は是が非でも回避したいものです。

 アメリカ軍も日本軍も、軍務に着いた戦士たちは、祖国への愛、祖国に住む家族への愛にあって軍務についていたのですが、残念なことに多くの惜しい命を失ったことになります。毎年、この月になると、そんなことを思い起こさせられるのです。やはり平和がいいですね。


(写真は、映画化された「次郎物語」、ハワイの「オアフ島」、ホノルルの「アリゾナ記念館」、「里の秋・http://blogs.yahoo.co.jp/hassy205tcc/50348728.html」です)

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自己紹介

 次男に勧められて始めた「ブログ」ですが、2007年7月から1年間休刊しました。その間、他の「ブログ」を開設したのですが、2008年7月に、名前を変えて再開しました。  父として子どもたちに、爺として孫たちに、また母や兄弟や友人たちにも、何かを語り残したいと願って、続けています。