2008年12月24日水曜日

『私にとって友情とは・・・』



 中日国交回復が、政府間でなされる以前から、民間では、すでに1956年3月に、「中日文化交流会(現在では、中日経済文化交流会に名称変更)」が発足して、交流が始められていたのです。学問や文化芸能などは、過去の経緯を忘れたかのように垣根が取り払われてしまいました。私たちの国の文化が、中国文化の多大な感化を受けて成り立った歴史的な背景がありますから、どんな深刻な問題が溝のように横たわっても、容易に橋渡しが出来たのでしょうか。さらには、中国の文化人の鷹揚で寛大な心が、このことを実現させたに違いありません。

 中国の文豪でノーベル文学賞候補にも推挙されたことのある、巴金氏が、日本の親しい友人に語ったことばが次のように残されています。『私にとって友情とは、私の命にともる1つのともし火である。このともし火から離れては、私の存在は鮮やかな輝きを失い、私の命は、何の実も結ばないだろう(「人民網」日本語版2006年4月27日号)』と語られています。戦後間もなく、両国の文化人の間では、互いに影響し合いながら創作意欲を高め合っていたのだそうです。もう一人の著名な女流作家、謝氷心氏は、1946年11月に、東京大学に招かれて講演をされ、「中国新文学」を外国籍・教授として講義する機会ももうけられています。日本の文学者たちとの親交もきわめて深いものがあったそうです。長楽市の彼女の記念館に行きましたときに、多くの日本の文人と一緒に撮られた数葉の写真が展示されてありました。





 1960年代には、日本映画は「任侠物」が流行っていまして、高倉健の主演映画が上映される映画館は、若者たちであふれていました。友人が彼のフアンで、『一緒に観に行こう!』と誘われては行ったのです。1976年に、彼が主演した「君よ、憤怒の河を渉れ」が上映されたのですが、その新しい路線の映画は人気を呼びませんでした。私も結婚して上の三人の子供が生まれていましたから、彼の映画を観ることもなかったのです。ところが、「改革開放政策」をとった中国で、1978年に一般公開されたところ、『数億の若者が見ただろう!』と言われるほどの《社会現象》を巻き起こし、大人気を博したのです。これが、新中国で初めての外国映画の上映だったそうです。ヒロインの中野良子は、日本のどの女優よりも、中国で知られるところとなり、その人気は今にまでも及ぶのだそうです。スクリーンから流れる音楽、映し出される東京の都会の光景、若者たちのファッション、どれをとっても、中国のみなさんの眼を捉えてやまなかったのです。天津の語学学校で教えてくれた先生たちが、ご両親の青春時代に観た映画の印象を、熱く語っていたのが思い出されます。高倉健よりも、「杜丘冬人」の主人公の名前のほうを覚えていたほどでした。




 それほど、中国と日本、日本と中国の関係は密なのです。隋や唐の時代に、中国大陸を訪ねた日本から遣わされた若者たちも、目を見張るようにして「長安の都」に感動しながら眺めたのではないでしょうか。現代の中国の若者たちは、日本の音楽やアニメや映画やファッションに、強烈な興味を示しています。この世代間で、素晴らしい明日が築かれてくのではないでしょうか。そう期待してやまない、大陸の師走であります。

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自己紹介

 次男に勧められて始めた「ブログ」ですが、2007年7月から1年間休刊しました。その間、他の「ブログ」を開設したのですが、2008年7月に、名前を変えて再開しました。  父として子どもたちに、爺として孫たちに、また母や兄弟や友人たちにも、何かを語り残したいと願って、続けています。