2008年12月5日金曜日

中日の友好の軌跡


 長年の懸案であった日本と中国の「国交回復」がなされたのが、1972年9月29日、北京でのことでした。長男が生まれた年だったのです。時の中国総務院の周恩来首相と、田中角栄首相との間で、「日中共同声明文書」が交わされ、しっかりと友好関係が回復したのです。その6年後の1978年8月12日に、東京で、「日中友好平和条約」が締結されました。その条約の内容は、あの共同声明の内容が基盤なっていて、「主権・領土の相互尊重、相互不可侵、相互内政不干渉」が盛り込まれております。中国側は、戦時下の多大な被害に対する賠償金の請求を放棄したのです。それは懐の深い決断であり、過去にこだわらな中国の皆さんの寛大さには感謝の念を覚えてなりません。その代わりに、日本側からは経済援助(ODA、Official Development Assistance =政府開発援助)をすることで決着し、その援助が、今日の中国の経済的な大発展をもたらした大きな原因の1つであったことも忘れてはならないことでしょうか



 私たちの国も、かつてこのODAを受けた国であり、その経済援助によって、終戦後の焼土と傷心の中から立ち上がることが出来たのです。1946年から1951年の間に、アメリカの「占領地域救済政府資金」 (GARIOA) と「占領地域経済復興資金」 (EROA) から、何と50億ドルのODAが援助されたのです。今の金額に換算するなら、驚くほどの金額になるのではないでしょうか。そのほかにもカナダ、メキシコ、ブジル、アルゼンチン、チリなどからも、多くの生活物資や食料などが援助されたようです。私たちの国が世界に誇った東海道新幹線、東名高速道路、黒部ダム(第四ダム)など建設が出来たのも、このような経済援助があったことを忘れてはなりません(世界銀行からの多国間援助有償資金・・1990年に完全に返済しています)


 

 ですから、今度は日本の番だったわけです。愛する中国と中国のみなさんのために、そういった協力を果たすことが出来たのは感謝でことではないでしょうか。それもこれも、私たちが、アメリカやカナダや中南米諸国に覚える感謝あってこそのことであります。こういった相互の助け合いがあった事実の上に立って、中国と日本の友好関係はさらに築き上げられていくに違いありません。

 そうしますと、日本と中国との関係は、基本的には回復されていることになります。ただ問題は、相互の感情的な問題が残っていることになるのでしょうか。私たちが中国に来ましてから、日本人であるという理由で、石を投げられるとか、辛い目に会うということは、この2年半ほどの間に一度もありませんでした。ただ経済大国・日本人と言うことで、少し高く物を買わされることが何度かあったようですが。私たちも、更なる関係回復の一翼を担いたいと願いつつ、中国の空の下で生活することが出来て感謝しているところです。あんなに近かったかつての両国の関係が、昔日のように回復されるようにと、心から願う師走12月であります。

(写真は、天津の周恩来記念館で撮った「鄧小平氏と周恩来首相」、夢の東海道新幹線0系、遣唐使船/長門造船資料館、です)


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自己紹介

 次男に勧められて始めた「ブログ」ですが、2007年7月から1年間休刊しました。その間、他の「ブログ」を開設したのですが、2008年7月に、名前を変えて再開しました。  父として子どもたちに、爺として孫たちに、また母や兄弟や友人たちにも、何かを語り残したいと願って、続けています。