2008年12月14日日曜日

『そうだんべえ!』と『ほうずら!』


 少年期を過ごした日野は、多摩川が架橋される以前には、「渡し」があって、「江戸五街道」の一つ、「甲州街道」の宿場町だったのです。父の家は、「旧甲州街道」際にあったのですが、中央自動車道建設のために、立ち退かされた経緯があります。江戸時代に「宿本陣」のあった佐藤邸は、同級生でした。あのころは、『そうだんベえ(そうでしょう)!』と言う、《べいべいことば》を話していたのを思い出します。この甲州街道は、江戸の日本橋から内藤新宿をへて信州・下諏訪の間に、「三十八宿」が定められていて、下諏訪宿からは、「中仙道(日本橋から京都三条大橋に至る69次)」に合流しました。この街道が設けられた経緯は、初期には、商業街道ではなく、一朝事あるときに、江戸城の将軍が、警護の部隊と共に、その災禍から免れて、「甲府(幕府の直轄領でした)」まで逃れる「将軍の避難路」であったのですが、結局は、参勤交代や通商の機能を果したのです。ところが、現在の20号線を車で走ってみても分かるのですが、高尾から相模湖に抜ける間に、「大垂峠(おだるみとうげ)」があって、オートバイの転倒事故の多発するS字カーブの坂道です。かつての甲州街道は、「小仏峠」を経たのですが、急峻さは想像にかたくありません。もう一つは、「笹子峠」があります。旧道を通ったことがありますが、峠路は急で難所だったのです。


 

 その天領・甲府で私も、下の3人の子どもも生まれました。私は、27から60過ぎまで、ここを生活と仕事の本拠地として家内と子どもたちと過ごしたのです。甲府勤番の旗本や御家人たちは、贅沢好みで、粋やさびなどの「江戸情緒」を好みましたから、「小江戸」が色濃く残った町だったのではないでしょうか。出来や素行のあまり芳しくない旗本や御家人の勤務地であったようで、それが、あの松平定信の「寛政の改革」の1つでもあったと伝えられています。甲府で生まれ、東京から甲府に移ったのは、私が不良だったからではなかったと思うのですが・・・・・そんな言い訳をすると怪しまれますね。果物が美味しく、人情も篤く、空気も水も綺麗でしたし、冬の寒さはピッリと身を引き締めさせられましたし、盆地の底に熱気が沈みこむ夏は、忍耐力を養い育てましたから、子育てには格好な土地だったのではないでしょうか、『ほんとけえ(本当ですか?)』、『ほうずら!(そうだろう)』。


 

 この甲州街道と中山道のほかに、「江戸五街道」には、「東海道(日本橋から品川を通り京都三条大橋に至る53次)」、「奥州街道(日本橋から千住を通り陸奥白川に至る27次)」、「日光街道(日本橋から日光坊中に至る21次・千住から宇都宮までは奥州街道と重複)」がありました。どの街道も、旧道は消えてしまっているのでしょうか。日野に住んでいたときに、旧道が中央線を横切る所に、踏切があって、Hさんというおじさんが《踏切番(国鉄職員)》をされていて、父と弟と懇意でした。踏み切りのすぐのところまで旧国鉄・中央線の日野駅のプラットホームがありましたので、父は改札を通らずに、踏切からホームに上がっていたのを思い出します。このHさんは、八王子・千人町に住んでいて、江戸時代の甲州街道の治安と警備に当たっていた「八王子千人同心(旧・武田家・信玄の部下たちを八王子に移住させて、街道警護に当たらせたのは家康だったのです)」の末裔だったのです。



 同じ街道守でも、甲州街道ではなく、鉄路の旧国鉄の汽車・電車の通行を見守り、歩行者の安全に従事していたのですから、千人同心の子孫としては、同じ道を歩んでいたことになります。踏み切りの遮断機の上げ下げを、父と弟のおかげで、手伝わさせてもらったのが楽しかったかったのを思い出します。

(写真は、「小学校時代の日野駅前・日野検討会」、「甲府盆地・http://grand-touring-japan.travel.coocan.jp/touring/2007tour/december/fuji1224/index.htm」、「八王子千人同心・組頭の家・くにちゃん2@撮影散歩 」、「踏切・http://pds.exblog.jp/pds/1/200710/19/66/c0082066_6395350.jpg」です)

0 件のコメント:

Powered By Blogger

自己紹介

 次男に勧められて始めた「ブログ」ですが、2007年7月から1年間休刊しました。その間、他の「ブログ」を開設したのですが、2008年7月に、名前を変えて再開しました。  父として子どもたちに、爺として孫たちに、また母や兄弟や友人たちにも、何かを語り残したいと願って、続けています。