2008年12月19日金曜日

長寿麺と誕生ケーキ、そして赤飯


 医療水準が高いこと、これが原因してでしょうか、私たち日本人の平均余命は、女性で世界一位、男性で第二位だと報告されています(2005年簡易生命表・女85.49才、男78.53才・・・男女差6.96才)。1920年には男42才、女43才、平均寿命が50才を越えるのは、第二次世界大戦の後からなのだそうです。1960年の男の平均寿命が63でした。ほぼ50年前のことになりますが。1880年 (明治13年)には男36才、女38才でした。そういえば、私の母は91才、義母は97才ですから、他人事ではないようです。母は、自動車事故で両足に重傷を負ったのですが、傷口の初期処置が悪かったことで切断という危機を通りながら、九死に一生を得て、いまだに気に散歩ができますし、40代後半で卵巣癌にかかって、『半年の命です!』と、医者にいわれながらも、健康を回復して、今なお元気に生活しております。また、終戦後の食糧難の時代に、肋膜で闘病した病歴のある義母は、寝たきりになりましたが、内臓は健康そのものなのです。


 

 どこの国でも女性のほうが長生きなのです。どうしてなのか、よく考えて見ますと、男性は乾ききった《陶器》のようにカチカチして生きるからではないでしょうか。肩や肘や、さらに意地を張って頑張るから、緊張感が張り詰めてプツンとはじけてしまうのに違いありません。ところが女性は、水気を含んだ《粘土》のように、柔軟に生きられるのではないでしょうか。肩など張らないし、いやな男性には肘鉄を食らわせますし、意地っぱりの男性をはぐらかして水のように逆らわないで流れるように生きているからではないでしょうか。私の父は、61で召されました。小田急線の電車が急ブレーキをかけて、乗っていた父は、それに身を任せたらよかったのですが、それに抵抗したのでしょうか、くも膜下出血で倒れてたのです。自宅で療養していたときに、よせばいいのに、近所の小火(ぼや)を消しに出て、それで再入院してしまったのです。それでも治療効果があって、無事退院する喜びの朝に、今度は脳溢血を起こして、不帰の人となってしまったのです。父らしく、誰にも迷惑をかけませんでしたが、やはり意地っ張りの一生だったようです。男の子4人を育て上げてくれたことは、感謝の表わしようがありません。私たちの4人の子どもたちも、孫たちも、父の手に抱いて欲しかったのですが、叶いませんでした



 さて私は、父よりも長生きをして、この17日に、また誕生日を迎えました。中国のみなさんは、誕生日の朝に、「長寿麺」を食べて、長寿を願うのだそうです。私の誕生日を知った、近所の「牛肉米粉店」のご主人と奥様が、早起きをして、私のために、その「長寿麺」を作ってくださって、招待してくれたのです。実に美味しい麺でした。その時、若い友人が、「バースデイ・ケーキ」を1時間もバスに乗って、駆けつけて届けてくれたのです。涙が流れるほど嬉しく感動してしまいました。こんな友人たちが与えられて、私と家内は中国・福州の生活を満喫させていただいているのです。



 みなさんには迷惑かとも思うのですが、父や母や恩師、兄弟や友人たちに、そして新しい中国の友人たちから、こんな大きな愛を受けて来たのですから、どうも長生きしそうで仕方ありません。何度も死線をさまよいながらここまで生かされて来たので、もう少し欲張って、人と共同体の役に立つことを願って生きていきたいと心から願うのです。長生きをする理由は、「長寿麺」を食べたことも、その大きなわけです。家内は、その朝、私たちが35年ほど過ごした地方の慣習に倣って、「赤飯」を炊いてくれ、それを店主と、いつもコピーをしてくれる、この店の隣りの「コピー屋」の夫妻に差し上げたのです。湘南・葉山の知己が、『百まで生きるつもりで生きているのです!』と言われ、その決断に伝染された私も、そう再び願った実に素敵な朝でした。

(写真は、「長寿麺」・亜細亜美食探求から、森林公園に咲いていた「12月の亜熱帯の花」、「誕生ケーキ」・さわたにさんの風景から、「赤飯」・http://hitorigoto.chesuto.jp/です)


0 件のコメント:

Powered By Blogger

自己紹介

 次男に勧められて始めた「ブログ」ですが、2007年7月から1年間休刊しました。その間、他の「ブログ」を開設したのですが、2008年7月に、名前を変えて再開しました。  父として子どもたちに、爺として孫たちに、また母や兄弟や友人たちにも、何かを語り残したいと願って、続けています。