「五人組」
小学校のころから、社会科、とくに歴史が好きだった私は、同じ学級のK君と競い合いながら、その興味を増し加えていったのです。彼は、月刊誌「〇年生」の購読者で、その雑誌の付録の社会科学習の「アンチョコ(参考書)」を持っていたのです。私の父は、購読を許してくれなかったので、その彼のアンチョコのおかげで、彼に一歩遅れをとっていたのです。そんなことがありながら、「過去」にあった出来事には、興味津々だったことを思い出します。
その学びの中で、江戸時代にあった「五人組制」を学んでいたときに、『やな制度だな!』としきりに思ったのです。なぜかと言いますと、必ず学級の中に、「陰口」をきくのがいたから、悪戯者の私にとっては目の敵だったのです。担任の解説によると、お互いが監視し合うためのいわば「江戸版・治安維持法」だったのです。どうもこれは、江戸幕府が独自に考えた監視制度ではなく、秀吉の側近の考え出したものであったのです。下級武士の「五人組」、庶民の「五人組」によって、不満分子を取り締まるためでした。不満を申し出たり、不都合の改善要求を表現できない制度は、警察制度であって、私の警官嫌いが始まったのです。最近の、防衛省の高級将校の発言が槍玉に挙げられていたようですが、よい不満は「改善」に導かれるのですから、聞く耳を持ちたいものだと思うのですが。のっけから封じ込めるのはいただけません。
さて「五人組」には、互いに助け合う意味も込められていたのですが、相互に監視し合い、違反が起こった時には「連帯責任」を負わなければならなかったので、この制度の弊害は、人の心の思いを萎縮させ、人の目を狐のように鋭くさせ、猜疑心を養って、人間不信を培ってしまったことになるのです。中学のときに、バスケットボール部に入っていたのですが、誰かの落ち度で、集団でビンタの制裁を受けたことがありました。『なんでだ!』と、納得がいかなかったのです。個人の非が集団の非となるのは、小学生の私にも、中学生の私にも承服しがたかったのです。まさに、これは「五人組」の名残ではなかったかと思わされてなりませんでした。「狭量の心の日本人」は、私が一番嫌悪することであります。『重箱の隅を突っつく!』、『針小棒大!』、『寄らば大樹の陰!』、『若い者は黙っておれ!』、大嫌いなことばであります。昨今、「失言問題」が、繰り返しマスコミに取り上げられているのですが、ことばで失敗し続けてきた私は、失言を糾弾することなどできえません。唇に手綱をかけられる人は皆無なのですし、おのれの弱さを覚えるなら、人の非を挙げ連ねることなどでできないはずなのですが、一向に止みません。マス・メディアが失言しないことなどありえません。論より証拠は、新聞の片隅などにみられる「お詫び広告」、「謝罪広告」ですが。
この「五人組」ですが、もっとさかのぼりますと、「大化の改新」の後、天知天皇が制定した「律令制」の下にあった「五保の制」に行き着くのです。さらに、この「律令制」は、中国の唐代(618~907)の防犯と税金の徴収のための制度でありましたから、発端は中国ということになってしまいますが。以前、『とんとんとんからりんと隣組・・・』という歌があって、向こう三軒両隣を「隣組」といって、回覧板(役所の情報連絡の手段)を廻したり、防犯や保健衛生や奉仕の活動がなされた町の末端組織でした。これも「五人組」の名残でした。助け合うよりも、互いが目を光らせて監視しあう結果、今日の日本人が、『人の顔色を見る!』箱庭のような心を持って、上っ面な交わりしか出来なくなってしまったのではないでしょうか。昔、日本人は大らかだったのですから、これからの日本人も、よき昔に回帰して、大らかな、太陽がぎらぎらと光を放って、カビの生えるようなジメジメした陰影を消し去ってしまう、そんな寛大な心を持つ者たちの国となって欲しいものです。
(写真は、「ビッグ・スカイ・ステイツ/モンタナ州の大空・フリー素材Hoshino」、「五人組・御仕置帳」、「昔の隣組のオニギリの炊き出し風景」です)
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