2007年5月31日木曜日

大海原を越えて


 玄界灘を越えて来るものがあります。昔は「遣唐使船」や「遣隋使船」ですが、この船は、大和朝廷からの親書を、献上品に添えて携えて来たのです。もしかしたら、いえきっと長安の都に学ぶ留学生たちへの家族からの手紙や、お母さんや愛妻や子からの日常用品などもあったに違いありません。

 「北国の春」と言う歌の歌詞の中に、都会に出た息子に、ふるさとの母親から送られた小包の一節がありますが、私たちにも、友人や弟や義妹や子どもたちから「小包」が、時々送られてきます。その中身を見て、一人一人の気持ちと思いとが、手にとるように、よく分かります。特に、4人の子供たちの贈り物の中身を見ると、4人四様の思いが込められていて実に興味深いものがあります。既婚者は既婚者のように、独身者は独身者のように、男の子は男の子のように、女の子は女の子のようにしてです。また、一人一人の性格が豊かに現わされているのには驚かされるのです。

 そういえば、留学中の子どもたちに、お金を振り込んだ記憶はあるのですが、あまり小包を送った覚えが無いのです。とくに、ポートランドの近くに、納豆でもやきんぴらごぼうでも、ほとんどの日本食材や製品を売る「宇和島屋」という店がありましたから、いつでも行く事ができて、日本よりも安く買えると思ったので、そんな理由から、小包の高い郵送料を考えてしまって、送らなったのだと思うのです。今、逆の立場になってみて、送られてくる小包が、こんなに心をときめかせて嬉しい物だと言う事が分かりましたので、『もっと送って上げればよかった!』と思うことしきりです。いえ、こう言って、みなさんに小包の催促をしているのではないのでご心配なさらないでください。

 昨年の9月に、天津の「伊勢丹」が、新装開店しました。この地下に食料品売り場がありまして、刺身とかこんにゃくとか納豆とか、ほとんどの物の品揃えがしてあります。ただ、とても高いのです。先日、どうしても招いた友人に、豚カツを揚げようとして、ソースを買ってきたのですが、1瓶51元でした。日本円に換算すると800円ほどになるでしょうか。日本で売っている物の5倍はするでしょうか。学校の食堂で、うどんを食べると3元もしませんから、驚きの値段です。でも、『美味しいです!』と喜んで食べてくれたので、値段には代えられないと思った次第です。

 私は、25の時に、天来の「贈り物(小包)」を受け取りました。まだ無くならないで、心の中で暖められております。思い出だけで残されているのではない、この「贈り物」を、ぜひ、中国の朋友のみなさんにも分けて上げたい思いで一杯なのであります。
(写真は、「玄界灘」、HP「acoustic touring」からです) 
 

冷たい水のような消息


 海を渡って行くのが、渡り鳥や黄砂ですが、海を渡ってくるものもあります。「うわさ」です。私の父の日記帳には、「遠い国からの良い消息は、疲れた人への冷たい水のようだ。」とあります。愛する家族や懐かしく親しかった友の「良い消息」を聞くと、喜びが心を満たしてくれます。『娘が生まれました!』、『孫ができました!』とか言ってきてくださると、どんなに喜びで満たされているだろうかと思って、こちらも喜ぶことが出来ます。それらが励みや鼓舞となるのは感謝なことです。それはまるで、灼熱の太陽の下で渇いた旅人が、オアシスのこんこんと湧き出る泉に口をして、渇きが癒されるかのようです。

 また、「その人は悪い知らせを恐れず、○に信頼して、その心は揺るがない。」と、父の日記帳にあります。これは「悲しい知らせ」や「辛いニュース」のことでもあるのでしょうか。ご自分や姪御さんが、『病気になりました!』と、心を開いて知らせてくださるのです。その日記帳の中に、「河の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は、諸国の民をいやした」とあります。病と対峙して、全く平常心で生活をしていることを知って、その強さにかえって励まされます。祝福を願うばかりです。『愛する母を亡くしました!』と言う知らせもあります。心からの同情を覚えるのみです。

 悲喜こもごも、私たちの人生には、願うことも願わないことも起こりえます。何が起こっても、すべてを知られるお方の許しの中に起こるのです。良い知らせを聞いたら共に喜び、悲しい知らせを聞いたら共に嘆き、涙を流し、慰めたり励ましたりさせていただきたいのです。

 また、聞くべきでない「うわさ」を耳にしたら、耳をふさいだらいいのです。そう噂する方の心を思って、分かってあげたらいいのです。耳が2つあるのは、聞いた耳の反対側から、放り出したらいいように造られているに違いありません。

 ある人が故郷の荒廃を耳にしました。「美の極み」と言われた故郷の現実に涙した彼は、切々として故郷に思いを馳せたのです。それは城壁や建物が崩れ落ちただけではなく、人々の心の荒廃の酷さを知らされたのです。彼には分かっていました。それで彼は「故郷の罪」を自らの罪として告白して、「赦し」を懇願したのです。

 「故郷は遠くにありて思うもの」と室生犀星が詠みましたが、21世紀の私は、海を隔てた故郷の知らせを、インターネットのニュースやメールで知らされています。その荒廃は驚愕の至りです。社会が病んでいるというよりは、人の心が病んでしまっているのでしょうか。癒され治るのでしょうか。

 故郷や愛する家族や友や友人や知人の「喜び」と「悲しみ」の知らせに耳して、私はただ、切に恩恵を願うのみであります。故郷の初夏の空を思い出しながら。

2007年5月28日月曜日

『日本よ、男よ、松岡よ!』


 日本では、山本勘助や竹中半兵衛、中国では諸葛孔明、このような人たちは、忠実に仕えた、いわば「名参謀」として名を成した人たちです。《次席(ナンバー2》に甘んじて、彼らはその時代を駆け抜けて生き、その生来の力量を発揮して、主君に仕えたわけです。

 こういった超級的な秀逸な人材を参謀、内閣の一員、「メンター(物心両面にわたる支援者)」として持つことが出来たのですから、信玄や秀吉や蜀の国は、どれほど力強かった事でしょうか。イスラエル民族の中に、そう言った序列に入れることの出来る名脇役がいました。彼の進言を聞いた者が、こう言ったと記録されています。『当時、彼の進言する助言は、人が神のことばを伺って得ることばのようであった。彼の助言はみな、王にも王の息子にもそのように思われた。』ほどだったのです。

 中央政府で活躍する彼こそは、郷土の誇りだったに違いありません。ところが彼は郷里に帰って、家を整理して、あっけなく自死してしまったのです。その理由は、「自分の(進言した)はかりごとが行なわれないのを見て」だったとあります。神童の誉れ高く幼少期を過ごし、大人になっても、遺憾なく能力を発揮した誇り高い彼の名誉心が、いまだかつて味わったことが無い拒絶によって傷つけられてしまったのです。窮地に立たされた時に、彼にも「メンター」が必要だったのです。完全無欠の人間などいないからです。人の強さは、弱さの裏返しなのですから、脆弱で、ひ弱な欠陥部分を、人は誰もが併せ持つているのです。

 彼は、神のことばのような助言を与える事が出来ても、自分の人生上の問題に対して、助言してくれ、叱責してくれる《友》を持たなかったことが原因だったのでしょう。そう言った友が故郷にいなかったと言うのは致命的なことでした。もしかすると人の助言など聞くことの出来る謙りが無かったからなのでしょうか。正直に自分の弱さを隠さずに認め、恥を晒してでも、人は生きなければなりません。

 『男よ、恥を友として、生き恥をかきながら、生き抜いて、何時かきっと、その恥を漱げ!』、これこそ、限りある人の生きるべき道なのです。生きていたら、何時か、恥な経験を逆手にとって、起死回生、誉れを得ることだって出来る道がいありません。

 『死に急ぐな!』と言いたいのです。『日本よ、男よ、松岡よ、なぜ、生きる義務を放棄し、死んでしまったのだ。生き恥をかいてでも、どうして、しぶとく生きなかったのだ!勘助や半兵衛や孔明がいなくとも、お前の最善の友、「メンター」である妻や息子や娘に、なぜ心を明かさなかったのだ!死んだって恥を漱げないのに、生きて恥を漱ぐべきだったのに!』
(写真は、2006年秋に撮影した天津郊外の農村の「男性」です)

2007年5月26日土曜日

出藍の誉れ


 春の風に、木々の葉が表になったり裏返ったり、薄い緑と濃い緑が交互して踊っています。文房具屋さんでは、春になると、緑の絵の具の需要が増えていき、売れ筋の絵の具の緑色が徐々に濃差を増して行くのだそうです。私と20才違いで、誕生日を同じくする、私を励まして優しい声とまなざしを向け続けてくれたアメリカ人の方が、『緑は、天に向かってほめたたえる賛歌の色なのです!』と言われたことがあります。

 そういえば、風が揺らす緑の葉は、天に向かって、ザワザワでしょうか、サワサワでしょうか、歌を歌っているように聴こえるかのようです。また、風に揺れる様々な緑色の葉は、まるで天に向かって、両手を挙げて感謝しているように見えてなりません。

 家を出て、住居棟郡の中を抜けると、紫金山路につながる西園道の並木道に出ます。冬の間、枯れていた木々に芽が出たと思ったら、瞬く間に葉を出して、葉が幾重にも重なるほどの勢いを増して大きくなっていっていくのが分かります。
 
 中学の国語の時間に、お寺の坊さんで一級上の学級担任の先生が、「出藍の誉れ」と言うことばを教えてくれました。中国の戦国時代末の思想家(紀元前四世紀末)、趙に生まれ、斉の襄王に仕えた荀子が、「青は藍より出でて、藍よりもなお青し(『青出于蓝而胜于蓝』)」と言ったことばです。藍色の染料から、青い布が染め出されるのですが、その白布を染めた青は、元の藍よりもさらに青く鮮やかなのだそうです。
 
 そう教えてくれたS先生が、ちょうど相撲の番付に書くような、また寄席にある噺家の名を書くような、曲がりくねった字を書いていた私に、『剛、こんな字を書いてると出世しないぞ!』と言って注意してくれたのです。ひねくれた性格が直らないと同時進行に、字のひねくれも直らないで、今日になってしまいました。この先生の予言のことば(?)のように、出世もしませんでしたが。

 私に7年間生きる道を説いて教えてくれた師も、アフリカに行く途中に、時々訪ねて来ては、『何をするかではなく、どういった心の態度で生きるかが大切なのだ!』と、諭すように教えてくれたくれたちょっと斜視な方も、すでに召されてしまいました。彼らの藍色は、黄色がかった青い私よりも、数段青いままで召されて逝くきました。日本に来なければ、大リーグの野球選手になっていたり、大実業家になっていたのでしょうか、彼らも出世しないで人生の幕を下ろしたのです。私も彼らを超える「出藍」などありえませんので、彼らに倣って残りを生きて行きたいと願っているところです。
 
 実った稲穂の黄金色の黄色ならいいのですが、まだ未熟で黄色い私に、彼らの鮮明な「青」を加えると、「緑」が出来上がるに違いありません。彼らの教えを反芻しながら、初夏の風に揺れる木々の葉のように、天に向かって手を上げて生きて行きたいと願う、38度の酷暑の日の夕べであります。
(写真は、「緑の地球ネットワーク(GEN)」が緑化運動を推し進める中国・山西省のもの) 

「万里の長城」


 現代の科学技術の進歩は、宇宙衛星に搭載したカメラが、地表を鮮明に撮影した映像を、宇宙空間から送ってくることが出来るようになっています。「Google Earth」というサイトがインターネットにあります。時々、子どもたちの生活圏の辺りを眺めては、『元気に暮らしているのかな!』と感謝することが出来ますし、生まれた村や、住んだことのある町や村を見ては、思い出に浸ることもあります。

 間宮林蔵が12年の才月をかけて徒歩で日本中を歩いて、「日本全図」を作成したのですが、その絵図が、どれだけ正確であったかを、この衛星写真が立証してくれたわけです。聞くところによりますと、自動車のナンバー・プレートでさえも読み取ることも出来るほどの精密さを持っていると言われていますから、親爺の財布からくすねたお金を、埋めたあの場所さえも見つけ出されてしまうことになります。うかうかしてはいられない時代になったものです。

 平和のために利用されるなら素晴らしいのですが、軍事目的のために使われたり、犯罪のために用いられますと、個人の秘匿権を侵されることにもなりかねないわけで、これまた、うかうかしてはいられないことになります。

 10年ほど前に中国を訪ねました時に、一日観光がありまして、北京の「万里の長城」に行ったことがあります。衛星が映し出す世界遺産の1つであります。険しい階段を上って、兵士たちが歩いた長城の上を、私も歩いてみたのですが、息切れがするほどでした。そこを歩みながら、現代の土木建築家が、正当な賃金を払って作ったとしたら、どれほどの人件費を負担しなければならないだろうかと思ったりしてみたのですが。1時間1000円の日給として、1日8時間、人数と日数を計算し日数をかけてみますと、天文学的な数字の人件費になるのに驚かされたのです。資産家のビル・ゲイツでさえも無理で、あの始皇帝にしか出来なかった事業だったことになります。

 さて私は、自分の「心の城壁」のことを、このところ考えさせられるのです。目や耳に、はしごをかかけては、「魂の敵」が隙を狙って入り込んできますし、また様々にして負った傷が心にあって、そこを足がかりにして、様々な誘惑者が、心の城壁をよじ登ってくるのです。石や鉄で、高くて堅固な城壁を築き上げたり、兵隊を雇って寝ずの番をしてもらっても、優秀な弾頭ミサイルを買い入れてもだめです。
 
 必要なのは、「高い志」や「高尚な心」、罪や汚れを憎む「決意」が、心の防備のためにはどうしても必要に違いないのです。そのためには、過去の心の傷が修復されることです。治った傷跡が、足がかりにならないように、無くなる必要があります。

 私の親爺の日記帳に、「求你叫我转眼不看虚假,又叫我在你的道中生活。」とありました。「むなしいものを見ないように私の目をそらせ、あなたの道に私を生かしてください。」、そう自分で決断し、願い求めること、これこそが心の防衛の秘訣に違いありません。
(写真は、中国政府刊行の「えはがき」です)

2007年5月23日水曜日

悪戯小僧の襟首


 小学校の担任に、襟をつかまれて、教室の外に出された事が、何度もありました。いたずらの度が過ぎたからです。廊下や校長室に立たされて、人の目に晒されると言うのはいやなものでした。それが、たび重なるに連れ、恥ずかしさはどこかに飛んで消えてしまい、立たされながら、次のいたずらを考えていました。してはいけない事を繰り返すと言うのは、それが習慣化されて、罪意識が薄れて無感覚になるからなのでしょう。

 ある方がこう言いました。『私は、自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっている・・・本当にみじめな人間です。』とです。実に私の体験談を言い当てているようです。それで、この方に共感してやまないのです。彼は、石川五右衛門やアル・カポネのような極悪犯罪者ではなく、自分の心の思いや動機でさえも、内省して正しく生きようとしていた人でしたが。

 あるとき、愛媛県のある町に一人の方を訪ねました。母と同じ年に生まれた方で、彼の書かれた本を読んで、大変感動した私は、上の二人の子を連れて表敬訪問したのです。泊めていただいて、夜更けまでお話をさせていただきました。この方が、『私は、この年になっても、女性を犯そうとしてやまない思いに駆られるのです!』と言われたのです。彼は、血気盛んな30代や40代ではなく、70に近い方でした。実に柔和で、弱い人たちのお世話をされ、病人を良く見舞っておられたのです。そんな彼が、人には見えない心の内を、若い私に語ってくれたのです。

 それを聞いた時に、1つの話を思い出しました。退職間近かな校長先生が、ある店で万引きをして、警察に捕まりました。教え子からは尊敬され、退職金ももらえ、恩給もつくのに、なんて事をしたのでしょうか、一瞬にして、すべてが水泡に帰してしまったのです。そこには1つの伏線が潜んでいました。彼女は若いときに、たびたび万引きをしたことがありました。でも一度も捕まりませんでした。そうこうしている間に、教員試験に合格して、教師になるのです。社会的な責任のある間は、問題なく生きることができました。ところが、退職と言う人生の節目に差し掛かって、心が乱れたのでしょうか、昔の習慣化していた盗癖、《処置されていなかった罪性》が露呈されてしまったのです。

 こういった話を聞きまして、自分の心の中を覗き込んで、『ワー、処置されていない数々の過ちが山のようにあるな!』と思わされるのです。旧国鉄にも、6年も学んだ中高にも、京王帝都にも小田急電鉄にも、返さなければならない負債があるのを思い出すのです。『生きている間に、何とかしないと!』、そう思うこの頃です。あの担任のように、襟首をつかんで、罪や思いや過去から、連れ出して欲しいのですが、もうおいでになりません。今度は、自分で自分の襟をつかんで、意思して『出よ!』と言わなければならないのでしょうか。


2007年5月21日月曜日

「おまけ」を生きる


 今日日の子どもは、何に夢中になっているのでしょうか。何時でしたか、我が家の子どもたちが小学生の頃に、「たまごごっち」というのが大流行していましたが。私の小学校時代には、「こうばい」とか「カバヤ」と言う菓子会社があって、小遣いを貰うと駄菓子屋に跳んで行って、この箱入りのキャラメルを買うのが常でした。ざらざらした砂っぽい食感がして、お世辞にも美味しいとは言えませんでした。今もあるのでしょうか。

 その箱の中に、「小鶴」、「山下」、「千葉」、「川上」と言った野球選手の名の書かれたカードが入っていたのです。それが欲しくて買い集めていました。そのカードを、机のような平たい板の上において、掌の平出ひっくり返したり、遠くに飛ばしたりして、カードの取りっこする遊びに夢中になっていたのです。塾もゲーム機も無かった時代だったからでしょうか。それが「おまけ」だったのです。

 私の親爺が召されてもう35年余りにもなります。その親爺の召された年齢を、去年越えてしまったのですが、親爺が自分の弟のような気がして、妙にくすぐったいような感覚に襲われるのですが、実に不思議なものです。可愛がられたり、拳骨を貰ったり、こっぴどく怒られたので、どう見ても逆転はしないのですが、それでも、『親爺を追い越したんだ!』と言うのは事実なのです。早死にするような気がし、『親爺ほど生きればいい!』と思っていましたが、しぶといのでしょうか、準備が出来ていないのでしょうか、またはすべき仕事が残されているのでしょうか、まだ生き続けています。

 肺炎に罹ったり、あわや落雷に打たれそうなったり、台風の最中に多摩川で泳いで流されそうになり、台風襲来の湯河原で遊泳禁止の中を海に入って引き潮にさらわれそうになり、喧嘩して丸太で殴られ、交通事故にあい、大手術を受けたり、何度も死に損なって、今日まで生きて来ました。まさに、「こうばい」とか「カバヤ」のカードのような、「おまけ」を生きているように感じがしてならないのです。

 それなのに、この頃は、『もう10年か15年生きてみたい!』といった欲が出てきているのです。でも、長く生きれば、生きるだけ罪が増しますので、召されたい気持ちとの間で、心の思いが左右に揺れている、これが正直な気持ちであります。 

 先日、日本人の寿命の推移を記した公文書を読んだのですが、1880年(明治13年)には男36歳、女38歳でした。1920年には男42歳、女43歳となり、寿命が50歳を越えるのは、第二次世界大戦の後からなのだそうです。ところが、アフリカなどでは、わが国の明治や大正期の寿命(平均余命)ほどなのだそうです。それには社会的・衛生学的な理由があるのでしょうか。

 人の寿命は、いのちの付与者の掌の中にあります。しっかりと生きて、後悔しない人生でありたいものです。『おまけだけど、総仕上げをしなければ!』と思うからなのでしょうか。

2007年5月15日火曜日

「改憲」に反対する!


 『無礼者。そこになおれ!』と言って、武士が人を切ることが当然とされた時代がありました。ある時、島津斉彬の参勤交代の大名行列が、横浜と神奈川の間にあった小さな村を通りかかりました。その行列に無礼を働いたと言って島津藩士が、イギリス商人の4人の一行に向かって、有無を言わさないで抜刀して切りかかり、殺傷してしまったのです。殺されたリチャードソンは、立派な青年だったそうです。それは、大きな国際問題となりました。日本史で学んだ、あの「生麦事件」のことです。

 中学の歴史の時間に、私の担任が、「日本人の特質」を語ってくれたことがあります。『日本人は、兵隊になるのに一番ふさわしい民族です。自分が死ぬことを恐れないこと、野蛮な心を宿していること、上司の命令への服従心に長けてること。それで、世界のどの民族よりも、兵隊に向いているのです!』とです。きっとご自分の軍隊経験から、正しい歴史観にたたれて語られたのです。これからの国を支えて行くであろう、私たち中学生に、戒めを与えて、教えたかったのでしょう。

 教えられたからではなく、私自身が、そうだと思ったことがあります。ケンカが好きで、殴られても立ち向かうことができ、血が流れても恐れず、相手が大きくても闘争心を燃え立たせ、死を恐れない野蛮性が自分の中にあることが分かるのです。そのような私が、この40年ほど、ケンカをしないで生きてくる事が出来ました。なぜかと言いますと、『剣を取る者はみな剣で滅びます。』との戒めを聞いて、身を律して守ってきたから、いえ、そう言った怒りを爆発させないで耐える力を付与された、と言うべきでしょうか。

 日本は、明治以降、国として何度も戦争をしてきました。富国強兵政策の下にでした。ところが敗戦以来、この60数年の間、私たちは、剣を取ることなく、他の国を侵略することなく、自国と他国の平和を守って、生きて来たのです。これこそ奇跡ではないでしょうか。

 この奇跡に大きく貢献したのが、「平和憲法」だったのです。『二度と戦争はしない!』との戒めを、辛い失敗体験を通して、身にしみて諭されたから出来上がったものなのです。私は、憲兵や特高警察に会ったことがありません。彼らが何をしていたかは知っています。また、私の職場に、陸軍中野学校出の上司がいました。暗い過去を背負っているように見え、それを忘れたくてでしょうか大酒飲みで、心の奥をのぞきき込むような鋭い眼光をしていました。怖かった!

 私は懸念しています。とても心配です。大変危惧しています。この「平和憲法」が改憲されたら、また、あの時代がよみがえるからです。『ノー!』と言えない時代がやって来て、国家権力を守護者としてではなく、強権発動者・支配者として見ることになる、きっと、そうなるからです。

 中国や韓国のみなさんは、『またやるだろう!』と思うに違いありません。孫たちを、戦場に侵略者として駆り立て、泣く親やジジババを作って行くことでしょう。『阿部さん、あなたの孫を戦場に、しかも最前線に征かせて戦わせますか?』

2007年5月6日日曜日

菖蒲湯


 昨日、「子どもの日」に残念だったことがひとつあります。それは「菖蒲(しょうぶ)湯」に入ることが出来なかったことです。親爺が生きていた頃、我が家では、季節に合わせて、「柚子湯」とか、「菖蒲(しょうぶ)湯」などが沸かされ、季節感を味あわせてもらえたのです。日本のような気候の国では、入浴が習慣的に行われ、隣近所でもらい湯に行ったり、来たり、大きな家のおきな風呂に招待されると言った風習が残っていました。町には、「銭湯」が何軒もあって、家に内風呂あるのですが、わざわざ近所の遊び仲間と申し合わせて出掛けて行っては入ったものでした。

 いつも行く銭湯に、同級生の女の子がお父さんと一緒に入ってきて、目を見合わせて、お互いに何とはなしに自然に下の方に目をやって、恥ずかしかったことを思い出します。男ばかりの兄弟の中で育ったので、珍しかったのですが、恥ずかしいのが先でした。もう彼女も、何人もの孫に囲まれたおばあちゃんをしているのでしょう。

 束ねた菖蒲が、お湯の中に浮いていました。この葉が、刀に似ているのと、語呂合わせが、「勝負」や「尚武」であることから、「鯉幟」を五月の青空に上げて、子どもの無事と成長とを願うのと同じように、「勝負に勝てる子どの成長」を、入浴を通して願ったようです。親爺も母も、私たちにそれを願い、銭湯の叔父さんも、贔屓の子に、そう願ったからなのでしょうね。情緒があり、風情が豊かだった時代が、とても懐かしく感じられます。

 お風呂と言えば、母の育った家の本家が、出雲市郊外にありました。その家に行った時に、いわゆる「五右衛門風呂」に入らせてもらったのです。すのこが浮いていて、その上にのって沈むのですが、上手にのれないで苦労したのを思い出します。もうああいった手間のかかる風呂は無くなってしまったのでしょうか。また層雲峡の大きなホテルに、修学旅行で泊まった時に、生まれて初めて、プールの様な大きな風呂に入りました。16の時でした。ところが、そこに同世代の女子高生の一群が入っ来たではありませんか。なんと混浴だったのです。男女交際のうるさかった学校としては、実に粋なホテル選定をしてくれたものでした。

 賢きお方は、男と女とに「人」を創造されたのですね。小学生の私にも、高校生の私にも、その創造の神秘への理解は足りませんでしたが、お互いが、かけがいの無い被造物であることだけは事実なのです。このお方を畏れるなら、健全な異性観に立つことが出来るのです。

 それでも今日日の子どもたちが、「菖蒲湯」によってだけではなく、堅実で健全な心を宿した人とならんことを願って。

2007年5月5日土曜日

「子どもの日」

 
 今日は、「子どもの日」、昔の「端午の節句」です。出雲の祖母から「ちまき」が、毎年この時期に送られてきました。母がふかしてくれた時、笹の葉のにおいが家中に立ち込め、食べた時、母の故郷を感じました。孫たちの成長を願って励ましてくれる祖母が、遠くにいてくれることを意識させられたのです。

 私の父の日記帳には、「子どもたちは・・賜物・・報酬」と書き残されてあります。ところが、今朝の「毎日新聞」の余禄欄に、次のようにありました。
 『・・だが、昔の話ではない、今この地球上にはそんな親の保護から引き離され、実際の戦場で戦わされている子供がいる▲新たに子供向けビジュアル版の出た「世界を見る目が変わる50の事実」(草思社)は「世界の紛争地帯で戦う子ども兵は30万人」と見積もっている。33カ国の政府軍とゲリラで子供が兵士として使われ、戦闘はもちろん、地雷原を歩かされたり、自爆兵として訓練されたりしているのだ▲6年の戦闘経験をもつ15歳の兵士は自分が犯した残虐行為を思い出しては夜眠れないと訴え、「一番つらいのは将来を考える時」と語る。子供兵士の数だけ地上から希望が消えていく。それを呼び戻すのは世界中の大人の責任だ。』とです。

 この記事を読んでいた時、窓の下から子どもはしゃぐ黄色い声が聞こえてきました。一人っ子たちの無邪気な呼び声です。ところが、世界の現実は、全く違った子どもたちの姿を伝えているのです。耐えられないほどの悲しい思いがこみ上げてきます。大人の始めた紛争や戦争に、多くの子どもたちが駆り出されて、異常体験を積み上げているのです。何時かテレビの映像の中に、大人の目をした子どもを見たときに、心が震えたことがあります。

 貧困、飢餓、紛争は、子どもたちから夢や意欲や家庭を奪ってしまっています。大人の異常な欲望が、幼い性を商品化しています。いつでしたか、ある授業で、『北上川の蛇行した岸辺に、いくつもの地蔵があるのです。そこは貧困のゆえに、育てることが出来ずに、間引きされた幼い命が打ち上げられている箇所なのです。』と言う話を聞きました。

 自分は、戦火や欠乏の中を潜り抜けて、父母の愛を受けて生き延び、高等教育を受けられたのですが、同じ世代に、陽の目を見ることなく処分されてしまったいのちのあることを知って、改めて生きる意味、生かされている目的を深く考えさせられたのです。

 子どもたちが、屈託無く、胸を膨らませて明日に夢をつないで、天真爛漫に生きて行くことの出来る世界であることを、切に願うこの日であります。命の付与者からの「賜物」であり、「報酬」としての尊い命なのですから。

硬軟両面の均衡


 「隠れ・・・・」と言うことばがあるのですが、一時、私は身を潜めて、「隠れジャイアンツ・フアン」をしていました。なぜかと言いますと、巨人軍の選手獲得が、あまりにも金にものを言わせたものであったからなのです。そして、どこのチームでも、三番や四番を打てるバッターを並べ上げるに至っては、もう辟易とさせられました。 『巨人は金ではない。野球愛にあふれたチームなんだ!』と信じていたからです。

 ところが、私の眠っていた獅子を起こしたのは、好きだった藤田さんの告別式で読まれた1つの弔辞を知った時でした。『四番、バッター川上!』とアナウンスがあると、怒涛のような拍手が聞こえたのが、川上哲治元一塁手でした。苦楽を分け合った球友を送る、その川上さんのことばの中に、藤田さんが真の野球人で、妻子を愛する家庭の人で、ユニホームを着ても脱いでも「紳士」であったことを、『ありがとう!』の思いを込めて明かされたのです。改めて、そのことを思い出させられて、意気に感じた私は、「巨人軍フアン」であることを公言しようと決心したのです。

 阪神タイガースが、関西人の血を沸かすのはよく理解できます。でもジャイアンツ・フアンの血を沸かすのは、全く違うのです。沢村やスタルヒンや千葉や内藤や与那嶺や川上や藤田や長嶋に、連綿と引き継がれている、「巨人軍魂」なのではないでしょうか。それが何であったかをまとめ上げててくれたのが、川上元監督の藤田元投手への弔辞だったのではないでしょうか。

 テレビの試合中継が終わると、携帯ラジオに耳をつけて、試合の成り行きに一喜一憂していた親爺の寝姿を思い出すのです。それほどまでに惹きつけさせていたものが、何であったかも、改めて分かったことになります。

 あるとき、ニューヨークの学校から講師が来られて、研修会がもたれました。その謹厳実直そうな講師が、講義の合間にこう言いました。『英字新聞を読みたいので、買ってきて欲しいのですが!』とです。何か重大な事件がアメリカで起こったのかと思っていましたら、贔屓の「ヤンキース」の試合結果を知りたかったのです。彼の講義内容とヤンキースと、どの様な脈略があるかを考えたのですが、ありました。そう言った自由と言うのでしょうか、趣味の分野で開かれた心が、興味ある話を紡ぎ出すのだということが分かったのです。
 『硬軟両面の均衡が人には必要だ!』これが、彼の講義で学んだ、もう1つのことでした。
 あの中国の温家宝総理が野球好きだと知って、彼と握手したくなりました!
 (写真は、「XINHUA 新華社」によります)

2007年5月4日金曜日

野球小僧への惜別のことば


  2006年2月9日死去した藤田元司元巨人軍監督への弔辞

           ▽川上哲治・元読売巨人軍監督の弔辞

 藤田君……。「今までよく頑張ってくれたね。きみは自分のことは忘れて、いつも人のことばかりに気をつかって、本当に大変だったね。ごくろうさん。いまはもう楽になったことだろう。ありがとう。長いあいだ、本当にありがとう」  

 きみが亡くなった翌日の朝、用賀の自宅をたずねると、きみは応接間に眠るように静かに横になっていた。訃報をきいてから、気持ちが乱れてどうしようもなかったが、きみにこう話しかけたら、心が少し静まった。 

 去年の十一月二日、正力賞の選考会で会ったとき、杖をついていたので、「大丈夫か」と声をかけると、「大丈夫ですよ。おやじさんこそ気をつけてくださいよ」と逆に気づかってくれた。何年か前から透析をする体になって、入院することも何度かあったが、この日は会議のあとの食事もちゃんととっていたのですっかり安心していた。翌月に入院していたことは知らなかった。まさか、あの日が最後の日になるとは……。思いもしなかった。  

 このショックは、今日になってもまだおさまらない。この何十年のあいだ、公私にわたり、一緒に過ごしてきた、あまりにも多くの思い出が、次から次と甦ってきて尽きることがない。 

 選手のころ、水原監督から「藤田頼む」と言われたら、肩が少々重くても、また、完投した翌日でも、チームの勝利のために、「行きましょう」ときみは黙って投げ続けた。投手生命を縮めてしまったが、愚痴ひとつ聞いたことはなかった。 

 V9時代、すぐにピッチャーを代えたがる僕に、コーチのきみは「まだ大丈夫です」と投手をかばい、僕のズボンのベルトを握り締めて、マウンドへ行かせなかった。鬼のような顔つきのきみを忘れられない。 また、宮田投手の個性を活かすため、リリーフにつかい「八時半の男」に仕上げて、プロ野球でのリリーフ専門投手の基礎を築いた。それもきみの功績だ。  

 そして長嶋くんの後を受けて、大逆風のなかで監督になると、みごと日本一となって巨人軍の大ピンチを救ってくれた。戦力もどん底、火中の栗を拾う損な役回りはきみにしかできないことだった。さらに王監督の後のチームのピンチのときも、再建をひきうけた。長嶋監督のときと同じで、人気監督のあとは、誰が見ても腰のひける損な役割だった。だが、このときも、「友達がちょっと疲れたので、その代わりを務めるだけです」と逆に王くんを気づかう爽やかなコメントをしていた。  

 きみには以前から心臓の持病があった。このころは腎臓も悪くなっていて、医者から「今度監督をやったら命を縮めますよ」と言われている、と聞いていた。「でもね、おやじさん、あのおじいさんの務台さんから、『藤田くん頼む。きみしかいないんだ』と言われたら、断れませんでした」ときみは笑って言っていた。 自分を捨て、務台光雄会長の心にこたえた。愛する巨人軍へ笑って命を差し出す男気。この男は、いつでも死ねる、勇気のある本物の日本男子だ、と改めて感じたことを覚えている。  
 
 話は変わるけど、みんなで仲良く、よく遊んだよね。釣りにゴルフ。釣りでは武宮くんや、牧野くん、グラウンドキーパーの務台さんたちと……。釣りは君が先輩で、糸の結び方やリールの扱い方まで、何も知らない僕に親切に教えてくれたね。いつだったか、伊豆のみこもと島で、石鯛を二十数匹釣って、船宿で褒められたことがあったよね。あのときは、楽しかったなあ……。 

 ゴルフでは僕のほうが先輩で、牧野くんや僕と回ると、きみはいつもカモだった。飛ぶのは無茶苦茶に飛ぶが、ときどきOBも打ってくれるので、可愛かった。しかしきみはいつも淡々として、「どうせ遊びのゴルフ。みんなと楽しく過ごせればよし」とする持ち前のおおらかさで、誰からも愛され慕われていたね。  
 
 しかし、そういうきみは、いまはもういないのだ。どんなに辛く悲しくとも、その現実を受け入れるしかない。  

 いつだったか、きみが大好きだ、という言葉を聞いたことがある。「あたりまえのことを、あたりまえにすれば、あたりまえのことが、あたりまえにできる」 慶応高校野球部長、故、長尾先生から教わった、ときみは言っていた。若いころから、球界の紳士、と呼ばれていた、いかにもきみらしい人生観だった。いつかそれを褒めたら、「いやいや、学生のころは喧嘩っ早くて、不良だったんですよ」と言っていたのを思い出す。「紳士たれ」という言葉こそ、かつて正力松太郎さんが巨人軍の指針として示された言葉だ。紳士とはやせ我慢ができて、人に手柄を譲れること。そして誰にでも愛情をもって接することができること。きみはその全部を持っていた。  

 言うまでもないが、きみは優しい夫で良き父親。あたたかく素晴らしい家庭を築いていた。本当にきみは情にあつく優しい人だった。しかしそれだけではなかった、と僕は思う。きみほど厳しさに徹底した男は少ない。 愛情とは、ただ仲良く、甘く優しくすることではない。厳しく相手と向き合ったうえで、人を活かすことだ。どんな人間にもその人なりに素晴らしい持ち味がある。失敗を受け入れ、弱さを認めてチャンスを与え、力を引き出してやる。それがきみが命を削ってまでも、後輩たちに伝えたかったことだ、と僕は思っている。  

 そういうきみだから、運にも恵まれた。ドラフトで、原くんを引き当てた。教え、育てて、いまやきみの立派な後継者となって、今年の巨人軍を率いてくれている。心配はいらない。かならず大きな花を咲かせてくれるに違いない。  

 いろいろ言ってきたが、今頃は先に行った仲良しの牧野くんと再会しているかもしれないな。約束を破って、僕より先にいってしまったが、もうすぐ僕もいくだろう。そうしたら、そちらでまた楽しくやりましょう。  

 今日は辛くて寂しい。悲しいけれど、涙を見せずにきみを送ることにする。どんなに辛いときでも、笑顔を忘れなかったきみへの、それが一番の供養だと思うからだ。 

 ありがとう。ありがとう。本当にありがとう……。
 
 藤田くん、さようなら。               平成十八年二月十五日川上哲治


○ 藤田元司氏(1931年8月7日 - 2006年2月9日)は、愛媛県新居浜市で生まれる。慶応大学出身。昭和32年,26歳で巨人に入団し,その年17勝をあげて新人王を獲得。33,34年には2年連続でセ・リーグ最優秀選手に選ばれた。8年間投手として活躍し,リーグ優勝5回,日本一2回に貢献。また,昭和56年からは計7年間巨人の監督を務め,リーグ優勝4回,日本一2回。
○ 写真上は、藤田元司投手の投球フォーム(スポーツ報知より)、写真下は、監督時代の物(ジャイアンツ所蔵)

一切れの乾いたパン


 「一切れの乾いたパンがあって愛し合うのは、ご馳走と争いの満ちた家に勝る」と、私の父の日記帳に記されてあります。これは、私の家庭建設のための指針のことばでもありました。 

 私の父も母も、恵まれた家庭環境の中で育ちませんでした。「時代の子」だったのでしょうか。かつて私たちの国には、「足入れ婚」と言う風習があったのですが、いわば「試験結婚」と言ったらよいかも知れません。嫁ぎ先で、舅や姑や祖父母と一緒に生活をしてみて、彼らのテストに合格しなければ認めてもらえない、封建的な家中心の考えがあったのでしょう。それで、『家の格に合わない!』と言う理由で、父を残して生母が出されてしまいます。その家に、正妻が迎えられるのですが、その方に男の子が生まれます。父は嫡男ではなく「庶子」で、母違いの弟が家督相続権を継ぐことになるわけです。 

 疎んぜられた父と、喜ばれ期待され叔父との関係の構図が、旧海軍の軍港を見下ろす、海軍一家にはあったのです。旧制の県立中学校に入学するのですが、途中で、親戚のいる東京の私立校に転校してしまいます。何か難しい問題があったのでしょう、十代の前半にあった父は、親元を離れることになったわけです。旧制の中学校に進学させてもらったのですから、経済的には恵まれていたのでしょう。 

 ところが、父の弁によりますと、『俺の弁当は、弟や妹たちとは桁違いだった。おかずがほとんど入っていなかった!』と、結婚してから、私の母に愚痴を言ったことがあるのだそうです。それだけ母に心を開いていたからでしょうか。叔父は、南方で戦死し、名門家庭の期待に沿うことが出来なかったのです。   

 愚痴を聞かされた母も、婚外子として生まれ、生後間もなく養女に出されてしまいます。養父母には愛されて育つのですが、自分の生まれを母に告げる者がいて、まさに思春期の只中で、それを知るのです。18になった時、生母の嫁ぎ先の奈良に会いに行くのですが、『帰って欲しいの!』と言われて、泣く泣く帰ったのだそうです。負けず嫌いの母が、それでもチラッと見せる《かげり》の理由が、この辺にあるのだと分かったのです。 

 そんな両親に、男の子が4人与えられたのです。家庭の暖かさを知らない両親でしたが、実によく、私たちを育て上げてくれたのです。今日日、養育責任放棄の親のことが話題になりますが、私の父と母は、自分が受けないものを与えてくれたのです。父は会社帰りに、ケーキやあんみつセットやソフトクリームやカツサンドを、東京から持ち帰ってくれたのです。あの味こそが、非行の抑止力だったのではないかと思うのです。『父に愛されているのだ!』と言う、何ともいえない確信が、胃袋で感知できたからでした。母は料理が上手でした。ハンバーグなど、まだ流行らない時期に、わざわざ挽いてもらった牛肉で手作りを、よく造ってくれたのです。母は胃袋だけに訴えたのではなく、4人のために、叫びながら育ててくれたのです。 

 父は、自分の継母の葬儀に私を連れて行きました。『○○さんは、料理が上手だった。よく西洋料理を作って食べさせてくれたんだ!』と継母を自慢していました。だから弁当の件は、少年期の父のひがみだったかも知れませんね。そう言って赦したのは、父が召される数週間前だったのです。 

 もう1つ、小説のような物語があるのです。母の生母が亡くなった時、その枕の下から、一葉の写真が出てきたのだそうです。小・中・高・大の4人の息子の記念にと、父が街の写真屋で撮ってくれたものでした。どのように祖母の手に入ったのか分かりませんが、出しては眺め、出しては眺めたのでしょうか。自分が産んだ子たちを、孫と認知してくれたことを知った母は、どんなにか慰められたことでしょうか。すごい! 

 私と家内は、三男と三女で、それなりに育てられて、「わが道を行く」を生きて来て、4人の子の親をさせていただき、孫も抱くことが出来ました。彼らが富まなくても、持たなくてもいいから、「一切れの乾いたパン」を食べて、穏やかに、愛し赦し合いながら生きて行って欲しいと願う、初夏の陽気の五月であります。

2007年5月3日木曜日

力道山


 力道山と言う名のプロレスラーがいました。相撲上がりの彼が、たちまち日本の大人気者になったのです。それは、大男の白人系外国人選手との対戦で、見事に勝ってしまうからです。戦争に負けて、敗戦国の惨めな戦後を生きてきたには、溜飲の下がる思いだったのです。テレビの放映が始まって間もない頃の話なのですから、テレビ普及の大貢献者だった事になります。街の銭湯の帰りに、燃料屋の庭先のござの上に座って見せて貰った覚えがあります。もともと「弱い者いじめ」を嫌う気風が日本人の心の中にあったのではないでしょうか、小男が大男を倒すとか、「弱い者いじめ」に天罰を下すと言う物語を、日本人は好んできたのですから、力道山を拍手喝さいで応援したわけです。   

 当時、柔道界に無敵の常勝選手がいました。熊本出身の木村正彦で、日本選手権で4連覇の猛者でした。柔道をやめた彼はハワイに渡って、プロレス選手として活躍していたのです。この木村と力道山とが、リングの上で対決して、「プロレス日本一」を決めようとの話が持ち上がり、雌雄を決する試合が行われることになったのです。1954年の事でした。どうも二人の間では、引き分けや交互に勝ち負けをして、興業を長引かせて行こうとの密約があったようです。ところが、禁じ手を使った木村に怒った力道山が、張り手を使って散々な流血試合になって、『勝負あった!』で終わります。結局、木村は故郷に帰り、力道山がプロレスの興業を続けて行ったというのが、通説のようです。

 そう言った経緯から、プロレスとか大相撲と言った、お金のかかった職業人同士の勝負には、「八百長」がつき物で、我々は、これを「ショウ(見世物)」として見ていたのです。もちろん強い選手が出てきて、チャンピオンになったり、横綱を張ったりしていたのですが、所詮は「興業」でした。相撲では、八番勝ちますと給金を直すと言って、現状維持か、数段の番付の昇格が約束されるので、八番勝った者と、八番勝ちたい相撲取りとの間には、裏取引が暗黙のうちにある、これも定説でした。

 それなのに、大相撲を「国技」だと言うのには、合点が行かないないのですが。楽しみの少なかった戦後の時期には、全国民が大変興奮して観ていましたが、いまや人気にかげりが見え、斜陽化してしまっているようです。外国人選手が幅をきかせるいる相撲界は、衰退の一途をたどっているようですが、使命は十分に果たしてきたのではないでしょうか。

 それにしても琴ヶ浜の内掛けは小気味がよかったし、栃錦の盛り上がった両肩の筋肉には驚かされたものです。「朝、何がし」とか言う相撲取りなどが及びもつかないほどの相撲に、欣喜雀躍した、少年の日の懐かしい思い出が鮮明であります。ああ言った、少年の心を奮い立たせるようなスポーツがなくなってしまったのか、スポーツが多様化してきたのか、今日日のスポーツ界が、今ひとつ盛り上がらないのは、お金が絡んで、純粋さが失せてしまうからなのでしょうか。

 私の父の日記帳の中には、「お金」が罠であることについて触れた箇所があるのですが。                                 

2007年5月2日水曜日

阿倍仲麻呂


 唐の時代、留学する道が開かれた阿部仲麻呂は、717年、第8次の遣唐使の遣唐船に乗って大陸に渡り、長安の都に到着しました。大和の国に生まれた19歳の秀才でした。
 
 文明開化の明治のご時世に、ロンドンに留学した青年たち以上の機会だったのではないでしょうか。彼は長安で、当時の高等教育を受け、日本人でありながら「科挙(任官試験)」に合格するのです。6代目皇帝・玄宗の寵愛と信任を得ます。高位高官の機会を得て、彼は大抜擢をされるのです。当時の唐には、世界中から留学生がやって来て学んでいたのですが、外国人に対して、そう言った機会が開かれていたと言うことに驚かされるのです。大変、開かれた国であったことになります。

 
長安の都で36年を過ごした彼は、帰国が許されて、753年の冬に、長安を出て江蘇省鹿苑から帰国の途に着いたのです。ところが嵐にあって、船は安南(現在のベトナム)に漂着してしまいます。多くの人が殺されてしまう中を生き延びた彼は、奇跡的に755年6月に長安に戻ったのです。その後も多くの官職を歴任したのですが、ついに73歳で、故国の土を踏むことなく、望郷の念を抱きながら、長安で客死してしまうのです。

 先日、来日され国会で演説をされた温家宝総理は、演説の冒頭、『友情と協力のために貴国に来ました!』と言って、日中戦略的互恵関係の構築の重要性をアピールされました。彼は、奈良時代の遣隋使・阿倍仲麻呂や鑑真和上を取り上げて、『両国の友好往来は時間の長さ、規模の大きさと影響の深さは、世界文明発展の歴史に類をみません』と言われたのです。

 この中国は、文字も、米も農機具も、着る物も機織機も、何も持たなかったわが国に、それらを教え伝えてくれた恩義ある国なのです。その恩恵を忘れて、軍靴で踏みにじり、多くの命を奪った国を、赦して受け容れるために「友好の手」を伸べてくださったわけです。その懐の深さに驚かされるのです。彼は、わが国との間に、これから将来に向かって、回復され構築されて行く友好関係の深さや長さを強調されたわけです。

 仲麻呂は二十歳前に留学したのですが、私と家内は60を過ぎて、ここ天津に参りました。老いを生きるためではなく、人生の総仕上げのために、この地に生きて、温総理の差し伸べた手に、私の小さな手を添えて、中日の和解と友好の構築のために過ごしたいと願うのであります。

 昨晩、天津の五月の月が、実に綺麗でした。「天の原」を見上げて、目を東に向けたのです。しばらく我が故郷のことどもに思い巡らせていました。健在な母や兄弟や子や孫や友を思い、健やかで平安であるようにと願うことのできた春の宵であります。
(写真は、天津の友誼路の道端の初春の緑です)

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自己紹介

 次男に勧められて始めた「ブログ」ですが、2007年7月から1年間休刊しました。その間、他の「ブログ」を開設したのですが、2008年7月に、名前を変えて再開しました。  父として子どもたちに、爺として孫たちに、また母や兄弟や友人たちにも、何かを語り残したいと願って、続けています。