2007年5月2日水曜日

阿倍仲麻呂


 唐の時代、留学する道が開かれた阿部仲麻呂は、717年、第8次の遣唐使の遣唐船に乗って大陸に渡り、長安の都に到着しました。大和の国に生まれた19歳の秀才でした。
 
 文明開化の明治のご時世に、ロンドンに留学した青年たち以上の機会だったのではないでしょうか。彼は長安で、当時の高等教育を受け、日本人でありながら「科挙(任官試験)」に合格するのです。6代目皇帝・玄宗の寵愛と信任を得ます。高位高官の機会を得て、彼は大抜擢をされるのです。当時の唐には、世界中から留学生がやって来て学んでいたのですが、外国人に対して、そう言った機会が開かれていたと言うことに驚かされるのです。大変、開かれた国であったことになります。

 
長安の都で36年を過ごした彼は、帰国が許されて、753年の冬に、長安を出て江蘇省鹿苑から帰国の途に着いたのです。ところが嵐にあって、船は安南(現在のベトナム)に漂着してしまいます。多くの人が殺されてしまう中を生き延びた彼は、奇跡的に755年6月に長安に戻ったのです。その後も多くの官職を歴任したのですが、ついに73歳で、故国の土を踏むことなく、望郷の念を抱きながら、長安で客死してしまうのです。

 先日、来日され国会で演説をされた温家宝総理は、演説の冒頭、『友情と協力のために貴国に来ました!』と言って、日中戦略的互恵関係の構築の重要性をアピールされました。彼は、奈良時代の遣隋使・阿倍仲麻呂や鑑真和上を取り上げて、『両国の友好往来は時間の長さ、規模の大きさと影響の深さは、世界文明発展の歴史に類をみません』と言われたのです。

 この中国は、文字も、米も農機具も、着る物も機織機も、何も持たなかったわが国に、それらを教え伝えてくれた恩義ある国なのです。その恩恵を忘れて、軍靴で踏みにじり、多くの命を奪った国を、赦して受け容れるために「友好の手」を伸べてくださったわけです。その懐の深さに驚かされるのです。彼は、わが国との間に、これから将来に向かって、回復され構築されて行く友好関係の深さや長さを強調されたわけです。

 仲麻呂は二十歳前に留学したのですが、私と家内は60を過ぎて、ここ天津に参りました。老いを生きるためではなく、人生の総仕上げのために、この地に生きて、温総理の差し伸べた手に、私の小さな手を添えて、中日の和解と友好の構築のために過ごしたいと願うのであります。

 昨晩、天津の五月の月が、実に綺麗でした。「天の原」を見上げて、目を東に向けたのです。しばらく我が故郷のことどもに思い巡らせていました。健在な母や兄弟や子や孫や友を思い、健やかで平安であるようにと願うことのできた春の宵であります。
(写真は、天津の友誼路の道端の初春の緑です)

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自己紹介

 次男に勧められて始めた「ブログ」ですが、2007年7月から1年間休刊しました。その間、他の「ブログ」を開設したのですが、2008年7月に、名前を変えて再開しました。  父として子どもたちに、爺として孫たちに、また母や兄弟や友人たちにも、何かを語り残したいと願って、続けています。