2007年4月29日日曜日

南十字星に憧れて


 『一度南十字星を見たい!』と、幼い日から、南半球の世界に、私は憧れていました。それで、『船に乗るなら何時か行ける!』と思って、船乗りになろうと本気で考えたのです。あの戦争中には、今のように、コンピューターや携帯電話がありませんでしたから、軍関係の仕事に携わっていた父は、仕事の極秘事項を受け取り、また報告する必要があったのでしょうか、「打電機(モールス信号を送るための機器)」が父の机の上に、チョコンと置かれてありました。戦争に負けて、無用の長物となってしまった物でしたが、何か思い入れがあったのでしょう。それに興味津々の私は、目をまん丸にして、船乗り(船には、当時、無線技師が通信士として乗船していました)になる「夢」を見ながら、日柄、それをおもちゃにして遊んでいたのです。

 北半球の小さな島に生まれて、しかも辺地の山の中で育ったのですから、県庁所在地の町だって知らない、北半球の99.99パーセントは皆目分からなかったのにです。でも、赤道のむこうにある「未知の世界」への関心は、子どもの「浪漫(ロマン)」とでも言えるでしょう。ところが、だれもが憧れるのかと言うと、そうでもないようで、私のように短絡的な早とちりの子どもは、簡単に動機付けられてしまい、思いを外に向けてしまうのです。

 いつでしたか、『知らない街を歩いてみたい・・どこか遠くへ行きたい・・』と言う歌詞の歌が流行っていた事がありますが、その歌詞こそ私の心境そのものでした。そう言った夢を17の私は、蒸し返したのです。「日本アルゼンチン協会」に手紙を書いて、移民の可能性について聞き、案内書を送ってもらったのです。その案内書には、アンデス山脈のふもとの町メンドサが紹介されていて、今まで見たことのない綺麗な女性の写真が目に飛び込んできたのです。鼻の低い日本人の女性しか知らなかった私(私も低いのですが)に、「クレオパトラ」のように妙齢なその女性が、『おいで、おいで!』をしていたのです。『行かなけれが男がすたる!』、そう思った私は、『どうしてもアルゼンチンに行くぞ!』と強く決心をしたのです。単純なんです。ところがハシカのように、その写真への恋に冷めてしまった私は、こじんまりした学校に進路を、簡単に選び変えてしまったのです。

 ところが、今から10年前ほど前に、ブエノスアイレスに行く機会が与えられたのです。その飛行場に降り立った瞬間、それは実に感動的でした。青年期に叶えられなかった夢が実現したのですから。『俺って、ここ移民していたら、何をしているのだろうか?』と思いました。まるでタイムスリップしたように、17歳の頃の思いがよみがえってきたのです。ところが、この国はヨーロッパからの移民社会で、白人世界で、日本から移民した人たちの、ほとんどが洗濯屋か花屋をして生活をしてきたという事を聞いたのです。南十字星や女性に憧れて来たって、「ガウチョ(カウボーイのこと)」になるくらいで、何も具体的な願いを持っていなかったわけです。

 そこで過ごした1週間ほどの間に、夜空を何度も見上げたのですが、南十字星を見付けることはできませんでした。また街の中をきょろきょろしたのですが、メンドサのあの女性にはお目にかかることが出来ませんでした。ハシカのような恋だったのですから当然でしょうね。

 しかし昨年の9月に、日本をたたんで、ここ中国に来ることが出来ました。妻と共にです。「恋」をしたからではなく、『来い!』との声を聞いたからであります。

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自己紹介

 次男に勧められて始めた「ブログ」ですが、2007年7月から1年間休刊しました。その間、他の「ブログ」を開設したのですが、2008年7月に、名前を変えて再開しました。  父として子どもたちに、爺として孫たちに、また母や兄弟や友人たちにも、何かを語り残したいと願って、続けています。