2007年4月17日火曜日

神秘の世界の中の「性」



 ある作家が、猥雑な本を著した時、『ぼくは、医者の頃に、死を見すぎたせいか、虚無感があって、死んだら終わり、魂や来世なんか無い。確実にうせると考えている。だから、今を懸命に生きないと損、今を精一杯生きなさいという意味で、・・・かりそめ(この世にあるものはすべて消える)・・・とつけた』と言いました。このような虚無感に満たされ、「損得」で人の一生を計ろうとする人は、医者を続けなくてよかったと思うのです。医者を辞めて後、こんな「死生観」や「人間観」を持つ彼が、物書きに専念して、たびたび、世の中を騒がせる本を出版し、映画化されていることに、私は危惧を感じてならないのです。

 以前、情痴小説を書き続けた作家がいました。芥川賞候補にも上ったことがあったのですが、その願いを頓挫させてしまったのです。『どうして、こう言った小説を書かれるのですか?』と問われた時に、『金のためです!』と、彼は平然として答えました。魂を売ってしまった物書きに、人を雀躍とさせ、生きて行く勇気を与える物を書くことは到底できないのです。
              
 山田風太郎が、『実に人間は、母の血潮の中に最初の叫びを上げるのである。』と言いました。彼が医学生であったとき、出産に立ち会ったときの驚きを、そう言葉にしたのです。「いのちへの畏敬」が、この言葉に満ちています。すべての人が、例外なく、そのようにして誕生するのです。これは、いのちの付与者の賢い知恵によったのですから、「聖」とすべきであります。ただ、そこを「神秘の世界」とするか、「淫靡な世界」とするか、どのように用いるかは、各自が問われていることなのです。

 ある国では、『年間150万もの命が、堕胎によって闇に葬られています!』と聞きました。実数は如何ほどなのでしょうか。どこの国も、生命軽視で満ち、性への愚弄が進んでいます。「生」の中にある「性」は、母の血の中にある、神秘で畏敬にあふれた荘厳さの只中にこそ、「基調」があるのです。残念ながら、多くの青年たちが踏み違った歩みの中で、自らの命をたち、宿したいのちを葬っているのです。あの悪名高いポンペイもソドムも、性の頽廃の末に滅びてしまったのです。

 すべての自由が与えられている現在、「性」が玩ばれている風潮の中で、「生」と「性」とが、どれほど厳粛な事かを、この時代を生きる青年たちには、ぜひとも知って欲しいと願う初春であります。
(絵画は加藤水城作「早春の前穂高」)

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自己紹介

 次男に勧められて始めた「ブログ」ですが、2007年7月から1年間休刊しました。その間、他の「ブログ」を開設したのですが、2008年7月に、名前を変えて再開しました。  父として子どもたちに、爺として孫たちに、また母や兄弟や友人たちにも、何かを語り残したいと願って、続けています。