2007年4月21日土曜日

斉藤隆夫と広田弘毅


 政治家になりたいと思ったとはありませんでしたし、もちろん、そんな力量が自分には無い事を百も承知していましたから。でも、痛快な政治家がいたことだけは知っています。

 一人は、昭和15年に「粛軍演説」、17年に「反軍演説」をされた、兵庫県出身の斉藤隆夫です。公の場で、軍部の暴走に何も言えないでいた時代、彼は、演説の原稿を持たないまま、衆議院の議場で、軍部の中国侵略の暴挙を糾弾する演説を滔々としたのです。『小柄でもの静かな村夫子の風貌ながら、その演説は暗夜の雷明のごとくであった(「クリック20世紀」より)』と、斉藤の演説を評しています。国家と国民とが統制されつつあった時代に、いけないことを『いけない!』と言える政治家がいたことになります。

 昨今、首相をおおせつかった方たちが、自分の内閣で『何をしたか!』にこだわりすぎて、歴史に残る事業、後の人に、『だれだれはこれをした!』と言わせるためなのでしょうか、そのための政治に狂奔しているかのように感じられてなりません。平和憲法だって、教育基本法だって、どこに間違いや不足があるのでしょうか。『日本国憲法を世界遺産にしたい!』と真剣に運動されている方だっておいでです。「今の必要」にではなく、名を残し、功を遂げるための政治など欲しいとは思いません。

 もう一人は、広田弘毅です。東京裁判で死刑を宣告されて処刑された元首相でした。軍部の犯した「南京虐殺事件」の処理が間違っていたことが、死刑求刑の理由だったと言われていますが。彼は、その法廷で、弁明を全くしなかったと伝えらています。自分に有利になる証言をすることによって、共に関与した件で裁かれている人が不利になる事を、極力避けるためだったのです。「潔し」とは、この広田の生き方であります。発狂したり、病んだり、死刑を逃れるために自己弁護に死に物狂いになり、他の非をあからさまにする法廷の醜さの中で、広田は、孤高の人のごとく泰然自若として構えていたのです。

 彼の愛した夫人は、夫に先立って、湘南鵠沼で自決をして果てるのです。自死を賞賛しませんが、生きるためには、道理も人情も立場も全く意に介さない人たちのいる中で、死ぬべき時を、自ら定められたと言うことには、驚かされます。

 福岡の石屋の倅なのですが、真に「武士(もののふ)の志」を宿した逸材でした。また国の行く方を、鳥瞰的(ちょうかんてき)に観ることの出来た人だったのです。

 彼のような政治家こそ、混迷の現在に必要なのです。安部首相に、そのような指導者になって欲しいと願うのですが。

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自己紹介

 次男に勧められて始めた「ブログ」ですが、2007年7月から1年間休刊しました。その間、他の「ブログ」を開設したのですが、2008年7月に、名前を変えて再開しました。  父として子どもたちに、爺として孫たちに、また母や兄弟や友人たちにも、何かを語り残したいと願って、続けています。